横須賀第二鎮守府によって駆逐棲姫が倒されてから半日程で、ビアク島攻略作戦は収束した。
重軽傷者は多数出たものの、死者はほんの僅か。作戦としては間違いなく大成功と言える結果になった。
「――やれやれ。これでようやく安眠できる」
堅物で知られる作戦本部長・三浦剛臣が漏らした呟きに、三笠の司令室の張り詰めた空気が和らいだ。
大成功に終わったと言えど、楽な戦いではなかった。
前回のAL/MI作戦で痛手を受けたことで、動員できる戦力に制限がかかった。
組織体系もガラッと変わったので、各拠点の連携についても不安があった。
加えて、深海棲艦の戦略的・戦術的行動が発達してきているという懸念事項もあった。
そうした諸々の懸案事項を乗り越えての作戦成功である。
司令塔として本作戦にもっとも深く関わってきた司令室の面々が気を緩めたのも、無理はなかった。
「お疲れ様でした、司令官」
「ありがとう、吹雪。これも皆の力があったからだ」
秘書艦である吹雪に礼を告げ、剛臣は自らの頬を両手で叩いた。
「さて、戦後処理も気合いを入れていかねばな」
「辛く厳しいのは戦いの真っ最中。ただ、難しいのはその前後だからな」
剛臣の言葉に応じたのは情報部長の毛利仁兵衛である。
彼は戦いの間もどこか余裕を感じさせる態度を崩さなかったが、その目は常に険しかった。その険しさは、今も解かれていない。
「準備を怠れば勝てる相手にも負ける。勝って驕れば次の戦いへの禍となる。深海対策庁にとって最初の作戦、これをどうまとめるかで、今後の舵取りが上手くいくかどうかが変わる」
「ああ。お偉方は景気の良い発表を望んでいるんだろうが、危ない橋を渡る場面が何度もあったことは正確に述べておかねばな」
「そういう部分をきちんと汲み取ってくれると良いんだがね。カエサルは言っていた。『多くの人は見たいと欲する現実しか見ない』と」
AL/MI作戦で被害を出した関係上、現在日本は周辺諸国からの風当たりがきつい状態にある。
それを和らげるため、今回の作戦成功を殊更に過大に喧伝するのではないか、という懸念があった。
確かに作戦は成功した。しかしギリギリの成功だ。今回の成果で調子に乗ったら、今度はAL/MI作戦のときの比ではないくらいの損害が出かねない。
「大臣は判断力に優れた方だ。愚かな選択はされないだろう」
「そうだといいがな。僕は本質的なところで、お前ほど上を信用することができない」
「そういう見方も大事だと思う。俺には少々難しい」
剛臣は自嘲気味にこぼした。
……こいつは、こういう奴さ。
仁兵衛は腹立たしげに鼻を鳴らす。
剛臣は優秀な指揮官だった。戦術面だけでなく戦略面においても確かな視野を持っている。
ただ、上からの命令に忠実であることを求められる環境に長くいたからか、組織の枠の中で物事を考えようとするところがある。上の判断が最初にあって、そこから自分の考えを動かすのだ。
だから、どこかで上が無体なことをしない、という希望的観測を持っている。
そういう自分の欠点を把握していながら、直すのを諦めている節があった。
「三浦。お前、一年くらい職務を離れて諸国を回りながら見聞を広めてきたらどうだ」
「そんなことができる立場ではないだろう。俺も、お前も」
剛臣の言葉に、仁兵衛は押し黙った。
深海対策庁に現状余裕はない。中心となって動く作戦本部の人員は、特に代え難い人材ばかりである。
剛臣にしろ仁兵衛にしろ、今戦線を離れるようなことはできない。
「なら、吹雪君。君はどうだ。各地を巡り、多くを学び、政界にでも進出してみないか」
「わ、私ですか?」
「君は横須賀の代表的艦娘として、一般にも名を知られるようになってきている。僕の見たところ頭の回転もなかなか早いし、洞察力も悪くない。前線で戦う以外の道を模索してみるのもありではないかな」
「おいおい。うちの初期艦に変なことを吹き込まないでくれ」
剛臣は苦笑したが、仁兵衛の表情は真剣だった。
「僕は至って真面目だぜ。人と艦娘はこれまで以上にいろいろな形で協力していかないといけない。深海棲艦は明らかに学習している。戦略的行動、戦術的行動を明確に取るようになってきた。今回だって最後のアレは……本当に際どいところだっただろう」
仁兵衛が言っているのは、ビアク島の敵本隊と交戦中、北東方面から現れた敵の増援部隊だった。
こちらの偵察部隊を入念に潰しながら現れた増援部隊は、初めて見る空母クラスの深海棲艦に率いられていた。
空母棲姫をも凌駕する制空能力を保持するその個体は、戦術面においても優秀だった。
増援を予期していた作戦本部はビアク島攻略部隊を二手に分け、増援部隊の迎撃にあたらせた。
十分な戦力を投入したが、戦線は荒れた。後一歩で迎撃部隊が突破されるところだったのだ。
一部の艦の命懸けに攻勢によって新型の深海棲艦は撃破され、どうにか迎撃には成功したが――首の皮一枚繋がった勝利だった。
「上の言うことに従ってただ戦ってるだけじゃ、いずれジリ貧になる。深海棲艦の進化を理解している者が上に立たないと、戦場を知らない者が後方から口を出しているような状況を変えないと、どうにもならなくなる」
「だから政治にも介入しろというのか。軍人が政治の口を出すのは、それは、いかん」
「軍人として口を出せとは一言も言ってない。何人かの艦娘には、ここを離れて政治家になってもらいたい。深海棲艦と直接干戈を交える艦娘――彼女たちが政局を動かすファクターになる。そういう体制が必要になる」
軍事組織内だけで人と艦娘が協力しても意味はない。
様々な場面で人と艦娘の協力体制を整える必要がある――仁兵衛が言っているのはそういうことだった。
「……私は、司令官の元を離れるということは、考えたことがありませんでした」
吹雪が戸惑いながらも口を開く。
「ですが、皆のためにできることがあるなら……いろんな可能性を探ってみたいと、そう思います」
周囲が沈黙に包まれる。
この場にいる全員が、剛臣の反応を窺っていた。
「……将来的にはそういうことも必要になるかもしれない。だが、まだ艦娘は一般の人から十分に理解を得られているとは言い難い。艦娘の人権をどのようにするかということさえ、半ば宙に浮いたままになっている有様だ」
「艦娘が戦場以外で活躍するための土台作りは、僕らの仕事だ。それは、僕らでやるべきだ」
「そうだな。……ああ。やらねばなるまい」
やや心苦しそうに剛臣は頷く。
命を張って国民を守る。それだけを考えて生きてきたような男である。
こういう話は自分の領分ではないという思いがあって、どこか竦んでしまうようだった。
「毛利は凄いな。いろいろと先のことまで見越している」
「お前だって見えてはいたはずだ、三浦。僕はただ、AL/MI作戦のように上の判断ミスで犠牲が出るのは二度とゴメンだと、そう思っているだけだ」
戦力をAL/MI方面に集中させ過ぎている。もし急襲されればひとたまりもない。
そういう声は、あの作戦が始まる前から出ていた。しかし、上はその意見を一蹴して作戦を強行した。
結果、少なくない犠牲が出た。
「深海棲艦が進化するというなら、僕らも進化しなければならないのさ。そのためには、あらゆる可能性を模索すべきだ」
清潔感のある部屋。開かれた窓の外からは、鳥の鳴き声と波の音が聞こえてくる。
ソロモン諸島から借り受けた母艦の医務室。そこでは、重軽傷を負った者たちが横になっていた。
清霜も、そのうちの一人である。
既に艤装は分離させて、緊急修復を行っている。
しかし、艤装が直っても清霜はなかなか回復しなかった。
普通の人間よりは早いが、艦娘としては明らかに遅い。
艦娘に関する記録の中には、手足が吹っ飛んでも艤装修理後に元に戻った、というものすらある。
艤装を依代に提督の霊力で受肉した艦娘は、人間とは異なる理を持っている。
清霜の傷は確かに深いものだったが――本来なら、とっくに直っているはずの傷だった。
「……清霜」
病室で横たわる清霜の手を握り締めて、康奈は何度目かの呼びかけを行った。
三笠の司令室で戦後の報告会が行われている時間だったが、康奈は欠席した。
今、こんな状態の清霜の元を離れる気になれなかったのである。
代理として大淀を向かわせたので、特に支障はない筈だった。
「提督。そろそろお休みになった方が……」
「ありがとう。でも私は大丈夫。二人も、きちんと休んでおきなさい」
気遣うように声をかけてきた春雨と早霜を休ませながら、康奈は今回の戦いを反芻していた。
もっと上手く立ち回ることができたのではないか。
経験の浅い清霜たちを起用したのがそもそものミスではないのか。
自分の指揮はどうだったか。どこでどういう判断をしていれば、より良い成果を出せたのか。
康奈の表情は次第に暗くなっていく。
考えれば考えるほど、自分の行動が駄目なものだったと思えてしまうのだ。
ただ、自分を責めるような思いとは別に、あれはなんだったのか、という疑念が脳裏から離れなかった。
駆逐棲姫を前にしたときの、清霜の異常な動き。他の皆にも聞いてみたが、誰もが困惑するばかりで答えを持っていなかった。
「失礼します」
どれくらい物思いに耽っていたか分からなくなった頃、扉をノックして看護師が入ってきた。
見たところ康奈と同じくらいの背格好の女性だった。大分若そうだが、どことなく大人びているようにも見える。
「貴方は……?」
「作戦本部の方から来ました。そちらの大淀さんから、清霜さんの容体を聞きまして。念のため診させていただけますか?」
「……はい。分かりました」
何か妙なざわつきを感じながら、康奈は頷いた。
……思考を中断させられたからかもしれない。
看護師は脈拍を測ったり聴診器を当てたりしていたが、不意にポケットから小さな機器を取り出して清霜の腕に押し当てた。
何かの医療器具か。そう思って、康奈は何気なく看護師の表情を見る。
ぞくりと、康奈の全身が寒気に震えた。
見る者の背筋を寒からしめるような――ひどく冷たい目をしていた。
「……どうかされましたか?」
看護師はぴくりとも動かず、静かに尋ねた。
その首元には、康奈が武骨なナイフを突きつけている。
意識してしたことではない。この女は危険だという本能が起こさせた行動である。
康奈はすぐに我に返ったが、ナイフは引っ込めなかった。
急にナイフを突きつけられても汗一つかかない。そんな看護師が、常人な筈はなかった。
「その機械を清霜から離して」
「別段、危険なものではありません」
「いいから、離せって言ってるのよ」
殺気をちらつかせ始めた康奈を前にして、看護師は短い溜息をついた。
「――調査にあった通り、激情家だな」
看護師の口調が一変した。
聞く者を威圧するような、冷たい声音である。
「身体能力は高い。艦娘には及ばんが、成人男性数人程度ならあしらえる、といったところか」
「……早く離せ!」
淡々と自分のことを分析する相手に恐怖を覚えたのか、康奈は更に一歩踏み込もうとした。
しかし、その踏み込もうとした僅かな隙に、看護師は突き付けられたナイフを下から弾き飛ばした。
康奈が天井に突き刺さるナイフを目にしたのと同時に、看護師はどこからか拳銃を取り出して康奈に突き付けた。
「艦娘相手でなければ勝てると思ったか。覚えておくと良い。自分だけが特別だと思わないことだ」
「……っ」
康奈は動くに動けない。
そんな彼女に銃口を向けながら、看護師は例の機器で何かを計測したようだった。
表示された計測結果を見て小さく頷くと、機器と拳銃を両方納める。
「今のはなに」
「この清霜のルーツを確認するための機器だ。別に害はない」
「ルーツ……?」
康奈の疑問に、看護師は機器の計測結果をもう一度確認しながら答えた。
「――この娘のルーツは人間だ。艦娘に作り替えられた人間だよ、この娘は」
「どうだった、清霜の様子は」
食堂で食事をする春雨と早霜のところに、磯風がやって来た。
先程まで母艦の警護任務についていたが、時津風と交代で休憩に入ったところである。
「変わらないわ。回復すると良いんだけど……」
「心配だね」
物憂げな表情を浮かべる二人の正面に座り、磯風も食事をとり始めた。
「……早霜。前から聞きたかったのだが、清霜はどのように着任したのだ?」
「え、どう……って?」
「私たちはAL/MI作戦の後に着任した。だが当時はいろいろと混乱があったから、それぞれがどういう形で着任したのかが今一つ分からなかった。……清霜は少し妙なところがあるから、出自と何か関係があるのかと思ってな」
艦娘がこの世の現れるためには、提督としての資質を持つ者が、依代となる艤装を通じて軍艦の御魂と契約を結ぶ必要がある。御魂と契約するためには、その艦艇に対応した艤装が必要だった。
艤装は人工的に――妖精という超常的な存在の力を借りてだが――建造することができる。ただ、ゼロからは作り出せないタイプの艤装もある。
そういう艤装を用意するための方法は大きく分けて二つある。
一つは、元になった艦艇に縁のあるものを素材として艤装を作る方法。
こちらは成功率が低い上に、縁あるものを用意するのが大変なので、数を揃えられないという欠点がある。
磯風や春雨は、この方法で艤装を用意し、康奈と契約した。
もう一つは、深海棲艦の残した艤装を浄化して艤装にする方法である。
深海棲艦の艤装は妖精の力を借りて浄化すると、艦娘用の艤装として使えるようになる。
ただ、どの艦艇に対応した艤装なのかは浄化してみるまで分からない。
そのため、目当ての艦艇の艦娘と契約できる可能性は非常に低い。
「私は、早霜と清霜は深海棲艦の艤装がベースになっていると思っていた。だが、清霜に関しては少し違和感もあった。どういう形で艤装を用意するにしても、提督と艦娘の契約形態はすべて同じだ。特に差異はない。……だが、あいつの場合私たちとは明らかに違うところがある。怪我の治りにしろ、さっきの戦いようにしろ、通常の艦娘とは明らかに違う。契約形態そのものが、何か違っているのではないか」
磯風の疑問に、早霜は困ったような表情を浮かべた。
「……ごめんなさい。実のところ、私もそこまで詳しくは知らないの。清霜はAL海域攻略中に拾ったって龍驤さんが言ってたけど、清霜自身、そのときのことは覚えてないみたいで。私は、MI海域にいた深海棲艦の艤装がベースらしいけど……」
「そうか。……いや、すまん。不躾な質問だった」
頭を下げる磯風に、早霜は「いいの」と言って笑った。
「清霜の出自がどういうものであれ……艦娘としての今のあの子は、私の大事な妹だから。それで私は、満足してる」
早霜の言葉に、磯風と春雨は揃って穏やかな笑みを浮かべた。
看護師の宣告に、康奈の脳裏は真っ白になった。
上田の娘の話を――艦娘を作り出そうという計画の話を思い出す。
人を艦娘に作り替える、艦娘人造計画。
記憶こそ残っていないが、他ならぬ康奈自身、その計画の被験者だった。
先代は康奈の事情をある程度知っているようだったが、その話題に触れるのを露骨に避けていた。
人が人を作り替える。それを、忌避すべき話だと思っていたのだろう。
だから、康奈はそれが何か良くないことだと理解していた。ただ、実感は伴わなかった。
しかし、こうして目の前にいる清霜が――康奈にとっての家族の一人が、そうやって作り替えられたものだと聞かされると、胸の内からふつふつと沸き立つものがあった。
清霜は、誰かの手によって歪められてここに来た。その結果、こうして酷い傷を負っている。
本当は、どこかで平穏な日々を過ごしていたのかもしれない。
温かい家庭の中で、幸せな日常を過ごしていたのかもしれない。
だが、彼女は今戦火の中に放り込まれて、深い傷を負っている。
……そんなの、理不尽じゃない。
だからこそ、それが事実だと容易に認めたくないという思いが働いた。
「なんで、そんなことが分かるの」
「これは霊力計測値だ。霊力で受肉している艦娘と人間ベースの艦娘では内包している霊力の量が全然違う。それで判別がつく」
看護師は機器のディスプレイを康奈に見せた。
中心部に標準と記載されたラインがある。そして、現在表示されている計測結果はその遥か下だった。
「人間ベースの方は受肉に霊力を割く必要がないから、少なくて済む。この娘の傷の治りが遅いのも、それが理由だ。外付けされた艦娘としての力で自己治癒能力は強化されているが、元々は普通の肉体だ。治る速さには限度がある。霊力で受肉している艦娘は多くの霊力を必要とするが、生身ではない分、無茶な傷でもあっさり治る」
機器の数値が変動する。
標準のラインを一気に越えて、上限いっぱいまで上昇する。
やがて画面が点滅し、大きくエラーを表す文字が表示された。
「貴様の方は測定不能か。天然ものだとすれば恐ろしい限りだが、先程の身体能力と併せて考えると、貴様も艦娘人造計画の被験者だったのだろう? であれば、実験の過程で無理矢理引き上げられたタイプだろうな。これだけ高いと常時オーバーフローを引き起こすから、艦娘としては使い物にならんだろうが」
「オーバーフロー?」
「人間ベースの艦娘は、元になった人間のキャパシティを超える霊力を扱うことができない。超えるような霊力を無理矢理注ぎ込まれると、霊力が溢れ出てオーバーフローを引き起こす。貴様も見ただろう、この娘が暴走する様を」
先の駆逐棲姫戦を思い出す。
常識では考えられないような清霜の動き。
正気を失い獣のように敵へ躍りかかる様は、暴走としか言いようがなかった。
「オーバーフローはしばしば想定外の事象を引き起こす。使いようはあるが不安定でリスクが大きい。まともな奴は使うのを避けるバグ技と言える」
「……貴方は、艦娘人造計画の関係者?」
ゆっくりと、清霜と看護師の間に割って入るように移動する。
もしこの看護師が艦娘人造計画の関係者なら、清霜を奪おうとしている可能性があった。
それは、康奈にとって看過できる話ではない。ルーツがなんであれ、今の清霜は康奈にとって身内の一人だからだ。
看護師は束ねていた髪を下ろした。長い黒髪が広がる様は、どこか薄暗い森の情景を思わせる。
内心を見透かすかのような眼差しで、彼女はじっと康奈のことを見据えた。
「安心しろ。私は神通の報告を受けて、貴様とその清霜のことが気になっただけだ。貴様たちをどうこうするつもりはない」
「神通? それって……」
この作戦において、康奈の印象に残っている神通は一人しかいない。
紺色のスカーフを身に着け、駆逐棲姫をいとも容易く屠った艦娘。
「私は横須賀第二鎮守府の提督、長尾智美。――艦娘人造計画の元・被験者だから、関係者と言えば関係者だ」
堂々とした口ぶりで名乗ると、智美はやや皮肉めいた笑みを浮かべながら付け足した。
「つまるところ貴様の同類だ。ショートランド泊地提督、北条康奈」
目の前には鏡が一つ。
そこに映し出されている自分の姿を見て、清霜は違和感を覚えた。
ここがどこなのかは分からない。
自分が何をしていたのかも覚えていない。
一つ確かなのは、目の前の自分の姿をしたものは、自分であって自分ではない何かだということだ。
「貴方は誰?」
「私は清霜。駆逐艦・清霜だよ」
「それは、私だよ」
鏡の中の清霜は頭を振る。
「駆逐艦・清霜は私だよ。貴方は違う。……貴方は誰?」
逆に聞き返されて、清霜は言葉に詰まった。
はっきりと『お前は清霜ではない』と言われると、それを否定できない。
自分が誰なのか、よく分からなくなる。
「貴方は私。私は貴方。私たちは二人揃って、初めて駆逐艦の艦娘・清霜になる」
「……艦娘・清霜……」
「艦娘としての私は、私と貴方でできている。私はかつて存在した駆逐艦・清霜の御魂――そこから分かれた分霊。それなら貴方は? 私と一緒に艦娘・清霜を作っている貴方は誰?」
「わ、分からないよ」
自らの顔に触れてみる。
しかし――そこには何もなかった。
あるべき頬も、唇も、鼻も、何もない。
のっぺらぼう。顔のない少女。鏡の前に立っているのは、そんな子どもだった。
鏡の中の清霜が悲しそうな表情を浮かべる。
「貴方は忘れてしまったんだね。……ごめんね、意地悪なことを聞いちゃったかもしれない」
「……」
「いつか、思い出したら教えてくれるかな」
「思い出せるのかな」
「多分、思い出せるよ」
鏡の中の少女が笑う。
悪意も根拠もない、子どもらしい笑みだ。
「さっき、貴方の声が聞こえた気がしたんだ。何かを為し遂げたいって、そういう強い意志のこもった声が。私には私の後悔がある。艦娘としてやり直したい夢がある。でも、私たちは二人で一つだから、貴方の夢があるならそれも一緒に叶えたい。そう思ってるんだ」
「――夢。私の、夢……」
「うん。……嗚呼、もう時間みたい」
周囲に靄がかかっていく。
鏡が、そこに映る少女の姿が薄らいでいく。
「ま、待って。私は……」
「大丈夫。私たちはいつも一緒だから。それに、司令官や皆もいる。貴方が誰であっても、貴方は一人じゃない。そのことは、忘れないで欲しいな」
鏡に向かって手を伸ばす。
そこで、顔なしの少女の意識は途絶えた。
もぞもぞと動く気配がした。ベッドの中の清霜が身動ぎしている。
康奈と相対していた智美は、身体の力を抜いた。
「病人のいるところで騒ぐべきではなかったな」
「……そっちが妙なことをするのが悪いのでは?」
「貴様がどういう立場にいるのか分からなかったのでな。できればこちらの正体を隠したまま確認だけしたかったのだ」
智美は康奈を睥睨すると、少しばかり落胆した様子で息を吐いた。
「貴様は艦娘人造計画について、ほとんど何も知らないようだな。いや、覚えていないのか。……記憶障害は計画の初期段階でよく起きていたという。それならば仕方のないことではあるが」
「その口振りだと、貴方は覚えている、と?」
「そうだな。幸か不幸か、すべて覚えている」
そう口にしたとき、智美の双眸に暗い炎が宿った。
単なる怒りではない。もっと深い怨嗟の念である。
「すべて忘れているというのは些か期待外れではあるが、大本営の犬というわけでもなさそうだ。艦娘一人守るために、大本営関係者と思われる相手へ切りかかるくらいだからな」
「……何が言いたいの?」
痛いところを突かれて、康奈は苛立ちを込めながら問いを投げる。
「私には夢がある。この戦いのきっかけとなった深海棲艦どもを駆逐すること。そして、艦娘人造計画に携わった連中への復讐だ。……それを果たすため、私はもっと上に行かなければならない」
智美は、康奈に向けて静かに手を差し出した。
その手に拳銃は握られていない。ただ、手を差し出しただけだ。
「――私に手を貸せ、北条康奈。私たちの人生を狂わせたものに、復讐を果たす」
清霜が目を覚ますと、そこには康奈がいた。
他に人の気配はない。病室内はいたって静かだった。
「……しれい、かん?」
「起きたのね、清霜」
清霜は身体を起こそうとするが、激しい痛みに襲われて、上手く起き上がることができない。
そんな清霜をそっと抑えながら、康奈は優しい表情を浮かべた。
「無事で良かった。皆、心配していたのよ。もうあまり無茶はしないで」
「……司令官。私は、誰なのかな」
不意に、清霜はそんな疑問を口にした。
なぜそんなことを言ったのか、清霜自身にもよく分からなかった。
ただ、妙に心細かった。自分が本当の自分ではないような気がして、世界に一人ぼっちなのではないか、という不安に駆られた。
康奈は少し驚いたようだったが、清霜の手をしっかりと握り締めて応えた。
「清霜は清霜よ。うちの、ショートランドの清霜。私にとっては家族同然の子。今は、その答えで満足できない?」
「……ううん。ありがとう、司令官」
礼を述べる清霜の目から、細い涙が流れ落ちる。
清霜自身はそれに気づいていないようだった。
「でも、今じゃなくていいから……私は私が誰なのか、知りたいな。ううん。知らなきゃダメな気がする」
「――そっか。それなら、私も一緒に探してあげる」
康奈はいたずらっぽく笑って、人差し指を自身の口元にあてた。
「ここだけの話、私も自分が何なのかよく分かってないの。……だから、一緒に探しましょう」
「司令官も?」
「ええ。でも他の皆には内緒よ。心配かけたくないから」
「……うん。分かった」
指切りを交わして、二人は笑い合う。
そこに、会議終わりの大淀がやって来た。
意識が戻った清霜に驚いて、康奈への挨拶もそこそこに、他の皆に知らせると言って駆け出していく。
そんな大淀の姿を見て、ようやく二人は戦いが終わったことを実感したのだった。
太平洋の片隅にある無人の島。
そこに小さな洞窟があった。長い年月の中で自然と作られたその場所に、影が二つ。
人によく似た形をしているが、いずれも異形である。
『ビアク島は結局人間どもの手に落ちたようだ』
どこかと交信していた片方の影が、忌々しげに告げた。
その姿は、人間が戦艦棲姫と名付けた深海棲艦に酷似している。ただ、戦艦棲姫より更に一回り大きな艤装を背にしている。
『別にいいじゃないか。あそこは戦略上さほど重要な場所ではないし』
もう片方の影は小柄だった。
ただ、身に纏う気配は相対する大きな影以上に禍々しい。
『救援に向かった彼女は?』
『消息を絶った。もしかするとやられたのかもしれん』
『どうかな。彼女は気まぐれだし、戦に飽いていた気配もあったからねえ。これ幸いと雲隠れしたのかもしれない』
『……否定はできんが』
大柄な影が苛立たしげに息を吐く。
『しかし、この短期間に持ち直すか。人間は個としては脆弱だが、組織としては強靭だな。我らとは正反対だ』
『けど、組織を強靭たらしめているのは極一部の人間だ。そこさえ排除できればどうにかなる』
『なぜそう言い切れる?』
『私の目は、この二つだけじゃない。そういうことだよ』
真っ赤な双眸をギラリと光らせながら、小柄な影はクスクスと笑った。
『ならば優秀な目を持つ貴様に問おうか。……狙うべきは、どこだ?』
『……そうだねえ』
人間の拠点の配置を思い描き、やがて結論を出す。
『私なら――』
ビアク島攻略――渾作戦は終わった。
しかし、各々は既に次を見据えて動きつつあった――。