突如、大きな音がする。突如、目の前に現れる。恐怖耐性がなければ、特殊メイク等を施した細工で仕掛けられるより、ホラーハウスのその定番が、いちばん肝が冷えるのだ。
「今の、なに?!」
得たいの知れないものを撒けるように途中曲がったりして、ある程度走ってから背後を確認すると、今度は白ではなく街並みが広がった。昴は安堵の溜息を吐いて、早くカリファと合流しようと、宿舎へ小走りで向かう。わざとでたらめの道を逃げていたので、少し遠回りになり、恐怖も加わって道程がいやに長く感じた。とにかく足を動かしてあの場から離れていると、
「すばるう」
誰かが昴の名前を呼び、彼女は再び身を強張らせる。まだ人が出歩く夜の時間帯なのだが、あいにく彼女が通っている道には、誰一人いない。
「すばるってばあ」
声が近くなっている。昴の恐怖耐性は、高くない。邦画『夜、子供たちと教師一人が、妖怪のはびこる校舎に閉じ込められる』映画が限度である。『自分の電話番号から、電話が掛かってくる』映画はもう、予告編の三十秒でさえお手上げ。
それ程度の耐性値なので、手が震え、心臓は痛いほど速くなる。こうなったら、まだいるであろうジーヌとスーに助けてもらおうと、目的地を会社に変え、駆け出した。
「待ってー! すばるー! おれだよー!」
「だめじゃんか、ベポ。余計逃げてったぜ」
「シャチがいけないんだ!」
ベポ。その名前に速度を緩めて、後ろを振り返った。追い掛けてくるのは、オレンジのつなぎを着たクマと、白のつなぎを着たキャスケット帽が印象的な男性。朝に出くわした彼だ。
「すばるー! シャチが脅かしてごめんな。あとで殴っとくから」
「脅かす前に、こいつが勝手に逃げてったんだよ」
「いっしょだよ! ばか!」
彼らは速度を緩めて昴へ近づきながら、そう言い合った。どうやらあの白は、背後から「わっ!」と驚かそうとしたシャチのつなぎの色だったらしい。昴は胸元に手を当てて、溜息を吐いた。
「オレがいるって、よく分かったなあ」
「マキロンのにおいがしましたので」
「――なんだって?」
「……。おほん。薬品のにおいがしましたので」
「すげぇ! ベポ並みに鼻効くのか」
「いえ、単に、あなたの鼻が薬品に慣れてて、無臭に思ってるのかと。それにしても……やめてくださいよ」
「あっはははは、わりぃわりぃ。やっぱいい足、持ってんな」
「それも、やめてください!」
「なんでだよ! 褒めてるんじゃん!」
「じ、人身売買なら、私は使いどころありませんから……!」
「おれたち、民間人にそんな事しない」
野生の本能か、昴の恐怖心を感じ取ってベポは彼女との距離を、ある一定開けて立ち止まる。それ以上近寄ろうとするシャチの首根っこを掴んで阻止するので、パーソナリティスペースを確保してくれていることが分かる。残念ながら、彼女が彼の気遣いに気が付けるほど冷静ではないのだが。
「私になんの用でしょうか」
「話したいって言ってたから、おれも話したくて来た」
「オレは、知ってる料理のレシピ、教えてほしくって。あと、お前、可愛いし、お近づ」
「遠慮します! さようなら! ベポくんは明日の日中にでも! お疲れ様でした!」
会釈をして、その場を離れた。目的地は、会社の食堂から変更はない。
「つれねえなァ」
「はい?!」
彼女の中で、人生最高の全速力であるのに、隣を、シャチがまるでジョギングをしているかのように軽々と並走していた。
「Leave me alone ! ――あっ」
水路の存在を忘れて横へ逃げてしまい、二歩目が宙を掻く。「このままでは、大事な荷物が濡れてしまう!」と、鞄を通路へ投げようとした瞬間、急な横への重力を受けた。その衝撃は、シャチが驚異的な反射神経及び身体能力で、通路の縁を足場にして真横へ跳び、空中で彼女を回収して反対側へと降り立った為に起きたこと。
それは一瞬のことで、昴は、何が起きたのか把握できず、いつのまにか水路を挟んだ向こう側の通路に、ベポがひとりでオロオロしている、という認識程度だ。
「細い! 軽すぎ! でも、ジャストフィット」
「え……?」
「ぎゅううー! あー、いい匂い。うはは、いいな、このカンジ。このまま行こうぜ! お前ん家、どこ?」
「わっ、わっ、ま……待って」
緩い圧迫感と、一瞬の僅かな浮遊感により、硬直状態から漸く思考回路が働いて、どういう状況、どういう状態になっているのかを整理し始める。水路に落ちると思ったがなぜか落ちず、反対側の通路に居り、今はシャチに横抱き、いわゆる、お姫様だっこをされている、と昴はなんとか認識した。
「おっ、おろして、下ろして!」
「詫びに、運んでやるから」
「おねがい、お願い……おろして……」
シャチは、昴が照れて拒否をしているだと思っていたが、抱き上げている身体の強張り方が、羞恥心からではないと察し、その場へそっと下ろす。重い音を響かせて、跳んできたベポが合流した。
「そんなんだから、メスにモテないんだあ」
「うぐ……」
「ん、わっ!」
昴は、シャチが背中を支えていた手を離した途端に、崩れ落ちた。当然、気遣ってきたベポは目くじらを立てる。その眼力に、シャチは慌てて無罪を主張した。
「なんもしてない! なんもしてない!」
「す、すみません、なんでか力が入らなくて」
「ほら! オレは、なんもしてない!」
「シャチがあんなことしなきゃ、こうならなかったよ。すばるはオスが怖いんだって言ったのに」
二人が口論している傍ら、昴は立とうと試みていたが、どうにも自分のからだが言うことを聞かない。嗚呼、と声を漏らした。
「腰が抜けるって、こんな感じなのね」
他人事のように呟いたあと、少し休めばきっと歩ける、と二人と別れようとしたが、海賊の自分らが言うのも可笑しい話だが人拐いの恰好の餌食だ、と、結局ベポに運んでもらい食堂へと戻ってきた。するとそこには、待ち合わせ時刻になっても現れない昴を心配したカリファがおり、食堂スタッフらと話していた。
「カリファさあん……!」
昴は、女性が居るということで、緊張の糸がぷっつり切れ、はらはらと涙を流していく。それを見たカリファのとある糸もぷっつり切れ、昴の所在が判って安堵したのも束の間、怒りの靴音を食堂に響かせながら、彼女らの方へ歩き出した。
「そこの、帽子を被っている貴方」
カリファの硬い声に気圧されて、指名されたシャチは背筋を伸ばして軍人のような返事をし、
「扉を両側開けなさい」
という指示には迅速に対応して、次の指示を待つ。その間もカリファは、ランウェイを歩くかのように進む。昴は泣きながらも、何事かと、ベポに抱えられたままその奇妙な光景を傍観した。残っている食堂スタッフも、彼女がこれからどのような行動を取るのか、予想がついているので余計な口出しをせず、火の粉を被らぬよう息を潜めて傍観に徹している。
「もっと全開にしなさい」
「はい! これで、どうでしょうか!」
「いいわ。中央にお立ちなさい」
「はい!」
刹那、顔色を真っ青にして立っていたはずのシャチの姿が消えて、代わりに、カリファが片足を前へと高く上げて、そこに居た。当の本人は足を下げて何もなかったように、ベポに昴を渡せと告げている。
「クマの貴方、扉を閉めて出ていきなさい」
何故か、横抱きのまま昴をカリファへと渡して、ベポは機敏な動きで丁寧に扉を閉めて出て行った。
「ふう……。怖かったでしょう、昴。レストランの予約はキャンセルにして、今夜は私の家にいらっしゃい。泊まればいいわ」
「あ……あ……、そ、その前に、お、下ろしてほしいです……!」
「あら、構わないのよ」
「いえ、その、……お胸がっ……当たってますう!」