「どうぞ、ご堪能ください!」
薄暗い劇場内に、美しく照らされた舞台上。マスカレードを着けた男性の司会者が、大振りな仕種で、パフォーマンスの幕開けを宣言した。昴の出番はまだ先のため、控え室で僅かに届くそれを耳にする。
新市長就任の日、つまり本番日である。船大工らの友好的な協力により、たいへん素晴らしい稽古場を得て、万全な練習が積めてこの日に挑めた。しかし、予期していた悲しみがひとつ、予期していなかった悲しみがひとつ、胸のしこりとして残り、今日を迎えてしまっていた。
まず、予期していたひとつ――時を少し遡り、稽古場ができた翌日のこと。
ウォーターセブンの天気が崩れることは、中々無い。その日も、絵の具の青のみで塗ったような青空、橙を通り越して真っ白な太陽、遠くに綿菓子のような雲が少し浮かんでいるほどの晴天だった。出航には、おあつらえ向きである。だが、ひとたび帆を風に任せば水平線を越した辺りから、突如とした
「とうとうお別れね、私達……」
「いつまでもちんたらいるわけには、いかねえからな」
「ぐす……」
「――……っち、泣くな」
「ここに、住めばいいじゃない……、ううっ」
仲睦まじい恋人が別れを惜しんでいる、ということではなく、片や昴、片やシュライヤ。シュライヤが仕事を請け負っている商船の修理が完了したので、出航を迎えようとしている。彼には、船大工としての基礎知識が元々あるので、ガレーラカンパニーに就職することは難題ではないだろう。『この世界へ来て初めての友達』という昴個人の勝手な思いから、復讐の道を進むより船大工としてここにいてほしい、と引き止めている。そんな彼女自身も、いつ現代へ戻るかも分からないのだから、本当に身勝手な引き止めだ。
今のところ昴は、両親も両祖父母も健在で不幸に見舞われたこともなく、友人等との唐突な死別もない。今や、電話、メール、インターネットで、長年直接会わない者とも簡単に連絡がとれて、今生の別れを経験したことがないので、ここまでの寂しさは初めての経験だった。
「じゃあな」
他の護衛が船上から、シュライヤが搭乗するのを待っている。それに気付いた彼は、あっさりとした挨拶で身を翻し船へと駆けて行った。
「あっ……。元気でね! 私を忘れないでね……!」
彼は彼女のその言葉に振り返りもせず片腕を上げるのみで、乗船した。船もすぐに動きだし、ドックをゆっくり離れていく。彼が中に入ったのなら、もう甲板には出てこないだろうが、それでも昴は商船を見送った。
次に、予期していなかったひとつ――おとといのリハーサルの日のこと。
アイスバーグがウォーターセブン市長として及びガレーラカンパニー取締役としてサン・ファルド新市長へ、並びに個人として昴へのスタンド花を届けにきた時である。大きなスタンド花――現代のスタンド花に似ている――を運送したのは、カクとルッチとパウリーで、驚くことにひとり一つを軽々と運んできた。
「昴」
「まあ! アイスバーグさん! カリファさんも。どうしたんですか?」
舞台上でフロアレッスンをしていた昴に、アイスバーグが声をかけると、彼女は嬉しそうに舞台ギリギリまで近寄る。
「花を届けにな。ンマー、明後日か。楽しみだ」
「はいっ、私もです。機会をくれたアイスバーグさんや、支えてくれたカリファさんのおかげです。それに、船大工の皆さんから、レッスン場までいただけて」
「その内、お前だけの舞台があること、期待しているぞ」
「ソ、ソロリサイタル!?」
昴が両頬に手を添えて、きゃあと色めき立っていたその時、悲しみの言葉は落とされた。
「ハ……ハレンチだぞ! 昴! なんて格好してやがるんだ! お、お、お前だけは違うと思ってたぞ! 今すぐ服を着ろ!」
花を劇場のエントランスに置き終わった三人が、ホールへと入ってきてアイスバーグらと合流した際、女性の肌の露出や服装に神経質なパウリーが昴を見て放った
「バスクード君にも見てもらいたかったし、パウリーさんにも見てもらいたかったなあ。美しさを最大限に出す格好だって知ってもらいたかった……」
長々と溜め息を吐くと、背後から声を掛けられた。パ・ド・ドゥのパートナーでもあり、ダンサー仲間ということもあって、くだけた口調で言葉を交わすようになったイェレだ。
「様子を見に来たんだけど、緊張はしてなさそうだ」
「いい緊張はしてるわ」
「慣れているね。でも、落ち込んでる。職長さんのアレ?」
あの場には他のダンサーももちろん居たため、ほぼ周知の騒ぎとなっていた。
「うん……。私も、ついカッとなってガーッて言っちゃったけど、もっと冷静に説明できなかったものかしらって反省中」
電伝虫を使いアイスバーグ経由で、鑑賞しに来てほしい、と伝えたが、はたして来るだろうか? イェレは、そう不安がる昴の頭をぽんぽんと優しく叩いて、慰める。
「なるようになるさ」
昴は知らない。あのあと、ウォーターセブンへ帰る海列車の中で、パウリーが四人から非難の雨あられだったことを。
サン・ファルドのダンサーの演目が三つ終わり、昴のバレエまであと二つとなった。控え室から移動して、舞台袖で待機する。側にいるのに音響が少しくぐもって聴こえたり、舞台裏で小道具や衣裳・メイクの変更で待機するスタッフ、振り付けで入れ替わり立ち替わりするダンサーら、緊張走るこの場が、昴はとても好きでずっと浸っていたいと思う空間だ。
「サヤタ、おつかれ! 素敵だったわ!」
「ありがッと、ハイターッチ!」
「ターッチ!」
「昴も頑張ッれ」
「うん!」
ダンサーとのこうした触れ合いも、堪らない。改めて、バレエが人生唯一だと実感した昴の、この世界でのデビューは、もう次になっていた。
ほぼ類を見ないダンスだということで、開幕宣言の司会者が前振りをしてくれる。
「わたくしが出て参りまして、もう終わりかと思いましたかね? ええ、ええ、普段ならわたくしの二回目の登場は、締めくくりを意味いたしますからね。いやいやいや、短い! 次は、スペシャルゲストなのですよ! 我々サン・ファルドの民は、こよなく踊りを愛しています。踊りに目がありませぬ。市長、貴方様は我が劇団に所属していた現役時代、何年も舞台に立ち、時として
ここで司会者は、
「クラシックバレリーナ!」
薄ピンクを基調としたクラシック・チュチュで登場する昴は、迎えられた手に自分の手を添えて、観客へ
「今まで触れたことのないこの姿、そして纏う空気! 胸が高鳴りますでしょう。皆様から、もう前振りはいい、彼女の舞いを見せろ、という声が聞こえてきます。んはははは! そうでしょうとも。――では、バレリーナ」
彼は昴の手の甲に口付けを落とすと、舞台袖へはけていき、昴は音もなく滑らかにスタート位置へ移動する。ただそれだけなのに、客席のところどころから、恍惚としたため息が聞こえた。