聞きなれぬ水の音と、賑わう雑踏音が脳を刺激して浮上した意識に、昴はゆっくりと目を開けた。もそりと起き上がり目に入った部屋に、自分がどうなったのか一気に記憶が甦り、あー、と声を漏らす。
「別世界に来たんだっけ……。でも、本当は夢でどこか空港近くのホテルとか……」
ベッドから降りて窓際に寄り、カーテンを開けると、朝陽が差し込み既に動き出している街の姿が映った。其処は、ヴェネツィアの様な水上都市。窓を開ければ、潮の香りがする。
「……そもそも冬じゃないところからして違うのよね」
遠くの街並みを眺めていたが、視線を下ろしてみると数人が、この建物へ歩いて来るのが見えた。何気無しに彼らを見ていると、視線を感じたらしい一人が上を向き、自分の存在に気付き、
「もう大丈夫なのか?」
と、尋ねてきた。
その声に周りの男性らも釣られて見上げてきて、ギクリと身構えたが、声を掛けてきた人物がサングラスを掛けた見覚えのある風格だったので、聞こえるように声を張って昴は答える。
「はい、もう平気です! 昨日はご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
豪快に笑いながら、元気で何よりだ、と彼は返事をし、同僚であろう男性らと建物内へと入っていった。
「……はぁ。こうやって距離があるなら怖くないんだけどなー。あ、そういえばカリファさんが十時に迎えに来るとか言ってたっけ」
部屋に掛かっている時計を見れば八時半。別世界でも会社が始まるのは九時なのだろうか、と自分が居た世界との共通点を見つけ少し心が軽くなる。
洗面所でさっぱりと顔を洗い、ジャージに着替えて、ショルダーバッグからiPhoneを取り出した。イヤホンを装着し、ミュージックプレイヤー機能を選んで再生アイコンに触れると、いつも柔軟体操の時に聴いているクラシックが流れ、昴は一瞬にしてバレエの世界に入る。
昴は努力が大好きである。もちろん、肉体的に苦しい努力も存在する。上品で軽やかなクラシックというイメージの反面、トゥーシューズ(ポワントとも呼ぶ)を履くバレリーナ達の足先は、見れば、その痛々しさに思わず顔をしかめてしまう悲惨な事になっているのだ。
そのような状態でも、自分を磨き、目標の「
「ん~~」
寝起きの身体に負担が掛からぬようゆっくり息を吐いて筋を伸ばしていき、何回も聴いている曲なのでメロディーラインを口ずさんだ。
柔軟を始めて十五分ほど経ったとき――。
大きい音量で聴いていた訳ではなかったが集中していた為、ドアがノックされている事に昴は気付かず柔軟を続ける。百八十度に開脚し、上半身を前へ倒して床にぺたりとくっつけていると遠慮がちにドアが開き、一人の青年が部屋の中を覗いた。
「しつれ―― うお!?」
その声に昴は顔をあげれば、鼻の長い青年と目が合う。驚き、口ずさんでいたメロディーは途切れた。昴が、ピノキオ……、と呟きつつ上半身を起こせば、そのピノキオが、おまえが昴か? と尋ねてきたので、慌ててヘッドフォンを首にぶら下げるようにずらしながら、プレイヤーの停止アイコンを押して、そうです、と答える。
「……柔らかいのう」
「え? ――あ、ああ、すみませんこんな格好でっ」
すくっと立つその姿に、綺麗な動きじゃ、とピノキオが思っているのも知らず昴は、おはようございます、と一礼した。
「(……その鼻は、特殊メイク……か、な?)」
「おはようさん。アイスバーグさんがお呼びでの。行こうか」
「う、え、これではちょっと……すぐ着替えます!」
「ん? なんじゃ? 問題でもあるんか」
「社長とお会いするのにジャージは失礼じゃないですか」
「あーそんなん気にせんって」
笑って青年は言うが、生粋の日本人の昴には抵抗感がとてもとてもあった。渋っていたが彼から早く来いと手招きされてしまい仕方なく部屋を出る。
「本当に平気かなぁ……」
「可愛い格好じゃから平気じゃよ」
「っ! き、聞こえてましたか今の」
「でっかい独り言じゃ」
「うにゃあーっ。すみません」
「別に謝らんでも。おお、わしの名前言っとらんかったのう! わしゃカクじゃ」
「『カク』さん……。私は昴です」
彼の名を確認する様に復唱した後、既に彼は彼女の名前を知っているが、礼儀として昴も名を告げた。宜しくの、とカクがにっこり微笑めば昴もにっこり微笑んで、はい! と返事をする。そしてその流れが途絶えないようにカクが話題を振ってくる。
「して、昴は何故あんなに柔らかいんじゃ?」
「私、バレリーナなんです」
「ほー! 初めて見るわい」
「え、このせ……ここではあまりメジャーではないんですか?」
「ダンスといえばサン・ファルドじゃが、バレエじゃのうてカーニバルじゃしの」
その単語に昴の瞳が輝く。
「カーニバル! まあ素敵! いつ開催されるんですの? ああ行ってみたい」
胸の前でお祈りをするように手を組み、うっとりと目を細める彼女を、丸い目を更に丸くしてカクは見遣り、今の時期はほぼ毎日やっとるよ、と教えてやれば突然くるりと回って立ち止まってしまった。
「毎日……?! 陽気なルンバのリズムに身も心も躍りだしそう! カーニバルが……毎日……」
「昴?」
「行ってみたいわ……」
「……のう昴、わしが居ること忘れとらんか?」
宙を見上げ恍惚とする昴の顔の前に手をかざし、左右にヒラヒラと振って気を自分の方へ向かせるカクの行動にハッと視線を彼に戻し、
「す、すみません!」
と頭を下げる。
「そんなに好きか」
「私からバレエを取ったら何も残りません」
「面白さが残るじゃろ。 ――アイスバーグさん、連れて来たぞ」
「ンマー。思ったより遅かったな」
カクに面白いと言われ反論しようとした昴だったが、彼が大きな扉を開けて中に入ってしまい、更には聞き覚えのある声が耳に入ったので口を閉ざした。途中で小躍りしてのう、と言いながらカクは彼女に手招きをし、中へ入るように促す。
「その言い方だと、私が単なる馬鹿な子に思われるじゃないですか、スケさん!」
「誰じゃい、スケさんって」
「勢いで間違えましたよ、カクさん!」
「はっはっは、知らん間に仲良くなってんな」
愉快そうに声を上げて笑うアイスバーグに昴は、お早う御座居ます、とレヴェランスをした。
「早起きだな、昴。色々疲れたろうから十時に迎えを寄越す予定だったんだが、起きてると聞いてな」
「どうやら私、神経が図太いみたいです」
「みたいだ! さて、後ろを向いてくれ」
クエスチョンマークを浮かべながら、アイスバーグに言われた通り彼に背を向ければ、途端に恐怖が心を支配する。
朝一に見かけた男性陣が、ずらりと立っていたのだった。昴はひとつの事に集中すると周りが見えなくなってしまう節がある。それは長所でもあり短所でもあった。ヒ……と息を呑み、表情が無くなるその昴の様子は、アイスバーグからは当然見えず、
「昨日、話したのを憶えてるか? こいつらがその職長達だ」
と誇らしく昴に説明してきた。いまだ恐怖に表情を硬くしていたが小さく深呼吸をして、初めまして、とペコリと頭を下げてからぐるりと彼ら見渡す。
「……あ」
そうすると見覚えのある人物を見つけて思わず声が出てしまい、どうした、と聞いてくるアイスバーグに言葉を濁した。それでもチラリと申し訳無さそうな表情で様子を窺う視線の先には、シルクハットと白い鳩が目印の、
「なんじゃ、ルッチを知っとるのか?」
昨日の失神事件の原因が立っている。
「……」
「あー、えと、……その、……昨日は申し訳ありませんでした!」
無言の彼に昴は素早く頭を下げて謝罪した。勿論その行動にその部屋にいた殆どの人間が疑問を抱く。事情を知っているのは当事者の二人と、あと、ルルだけ。