カリファがスッとハンカチーフを差し出せばきょとんと濡れた瞳のまま、ハンカチとカリファを交互に見遣る。
「これで涙を拭いてちょうだいな」
「え? ――あ、私、泣いてる」
「ンマー、気付かなかったのか」
目元を借りたハンカチで押さえる昴は苦笑しながら、感動すると涙腺が直ぐ緩んじゃうんですよ、と答える。そこへ査定帰りのカクが現れた。
「なんじゃ、昴。いじめられたんか?」
「いえいえいえ。私が勝手に泣いただけです。カリファさん、洗ってお返ししますね」
「いいわよ、そんな」
そう言って極自然に彼女の手からハンカチを取り去り自分のポケットの中へ仕舞えば、あっ、と不満の声が昴から漏れる。
「洗って返」
「ホラ、みんな見てるわ。挨拶してあげなさい」
その言葉に示されてる方向を見れば、確かに何人かが自分の事を見ていたので、控えめに手を振った。
「おーおー。女子に対する気迫が凄まじいのう。あんなに手を大振りにしおって」
「お世話になります、昴と申します」
査定帰りのカクと別れた後、借りていた部屋に戻り、服装を外着に着替えて、愛用の鞄に必要な物を入れて準備をし直した昴は、カリファに連れられて食堂に来ていた。
「よろしくなー、嬢ちゃん。俺は食堂長のジーヌ」
「僕は副長のスーです。よろしくどうぞ」
一見、使う一人称が逆ではないかと思う容姿の二人だった。カリファは、自分自身の仕事がある為、昴をジーヌとスーに任せて出て行く。
まずは彼らに食堂と調理場の中を案内された。
「これがガレーラの食堂。まあ人数が人数だからねぇ、広いでしょ」
「そうですね! 舞台が三つ入っちゃいそうです!」
「舞台?」
「あ、私、踊るのが大好きなんで、よく舞台に立つんですよ」
「踊り子さんなんだ? 嬢ちゃん」
「んー、恐らく……想像している踊り子とは違う気がしますが」
ジーヌが言っている踊り子は、昴の世界で言う「お立ち台」に上がる女性を指していそうだ。
バックヤードの案内も終わったところで、テーブルの一角に座り、話し合いを始める。定食メニューや、週替わりのメニュー、特別メニューのリストを見せてもらい、昴は筆記用具で、どうしたら効率良く希望メニューを聞いて回れるか思案した。
「一日のメニューは、六品なんですよね?」
「ああ、そうだ」
そう答えをもらった昴は、紙にサラサラと何かを書いていき、その様子をジーヌとスーは見物する。数分もしないうちに表が出来上がっていた。
「ところで、カメラってあります?」
「……倉庫にあった気がする」
「カメラだなんて、何に使うの?」
「ここの部分にメニューの完成品の写真を載せて、その下に金額を書いといて、そして、更にその下の欄に皆さんに正の字を書いてもらうんです」
「セイノジってなんだ」
「数を数える時使うじゃないですか」
「ん? どれを?」
昴はうっかり自分の世界の概念をそのまま言ってしまい、彼らを混乱させた。はっと気付き、正の字の説明をすると二人は昴の事を、賢い!と絶賛する。
「いやいやいや、私が編み出したのではなく」
「なるほどなあ! 一発で判る」
「チェックとかマルとかより見易いね」
「(聞ーてなーいしー……)ま、まあ、それは置いといてですね。メニューを字で見るより、写真で見た方が一瞬でわかるかなあと思って。なので、カメラを使いたいんですよー」
倉庫を見てくる、とスーが立ち上がった。ジーヌは探しに行く彼の背中に、ついでに飲み物、と頼む。
「写真かー」
「ええ。こんな感じのレイアウトで、写真の場所は上から透明のビニールでも被せて雨が降っても濡れないようにしまして。で、こうやって袋状にビニールを貼る事で入れ替え出来るようになるんで、いちいちこの表を作り直さなくても、写真とメニューだけストック作れば」
「面倒臭くねぇって訳だ」
「でーす。――……あ」
「ん?」
「カチカチ……。あーん! アレがあれば正の字より楽だったのにー!」
でもあったとしてもメニュー分は持つの大変か……、と昴ワールドに旅立つ。因みに、カチカチとは、交通調査で使う数取器の事である。試行錯誤して工夫を考える昴を、ジーヌは少々驚きながら見ていたが、温かい笑顔だった。
「ジーヌさん」
「ん?」
「想像しやすい文章で料理を紹介するのと、写真で紹介するの、どっちがいいですか」
「ん!? 写真で表を作るんじゃなかったのか?」
そう言われると昴はしゅんとした表情で、料理を全部撮るとなると作ってもらった分がもったいない、と言う。
「どういう意味だ」
「いい案だと思ったのですが、撮る為に全部のメニューを作らなきゃいけないんですよ?六品……。もしかしたら頼まれないメニューもあるかもしれません」
「余っちまうって心配してんのか?」
「ええ……」
「安心しな。毎回、全種類出てっから」
「ですが……、見本として作った料理をお出しする訳には」
「んーな細けぇ事気にするヤツぁいねーって」
大丈夫大丈夫、とジーヌは笑う。と、そこへスーがカメラとトレーを持って帰って来た。
「お待たせ。あったよ。それと飲み物ね」
「ありがとうございます! わっ、古い! え、これってポラロイドですか?」
「う、うん。そうだよ」
本物初めて見た!とおおはしゃぎをする彼女に、気押されながらも彼はカメラを渡す。
ジーヌの前にコーヒー、昴の前にオレンジジュースを置くと、スーはカメラを探しに行く前に座っていた席に腰を下ろした。
「へぇ、意外と重いんだー。これ、フィルムは入ってます?」
「ううん、傷むから入れてない。フィルムはこっち。設立祭の時に余ったのが二個あったよ」
渡された箱に書かれている枚数を確認すれば、20枚入りと書いてあった。昴の中に欲求が芽生えた。撮りたい、と。
「(あー……でも駄目。我慢するのよ、昴! 会社のものなんだから! 横領になっちゃう)」
首を左右に振って気持ちを切り替える。どうしたのかと問われてしまったが、なんでもないと笑顔でかわした。
おおまかなレイアウトは決定されたので、次に、日頃の流れを教えてもらい、それをメモすると一度食堂を後にする。
鞄の中から日焼け止めクリームを取り出し、顔や首に塗った。自分の居た世界は冬だったのに、何故日焼け止めクリームを持っているのか。
実は、舞台のライトからも紫外線は放出されているので、太陽の下ではないからといって油断は出来ないのだ。ライト焼けをしてしまっては、バレリーナにとって致命傷。そういう訳で、たとえ冬でも日焼け止めクリームは何個か常備している。
「よし」
ガレーラはとにかく広い。駆けずり回る様が容易に想像できる。いったいどういう流れがベストなのか全く予想がつかない為、まだ十時だが、一番ドックの船大工達から聞こうと、其処へ向かった。
海軍や大所帯の海賊の船の修理を担うだけあって、一番ドックが食堂から最も近い。近い理由としては、何かあった時に直ぐ駆けつけられるからだという。
「ええと……一番ドックから順に、半分ずつ一時間休憩で、次のドックとは三十分のずれがあって、で、また一番ドックの半分から……と」
「おっ、新しい子」
「あ、おはようございます! ―――あの、今って少しだけお時間いただけませんか?」
水筒を片手に一息ついていたひとりの船大工が声を掛けて来たので、食堂の利用状況調査の為に協力を請う昴。彼は快く承諾をしてくれた。昼休憩はいつもどんな感じなのか、どのメニューが人気なのか、などを聞いていく。
ひとつひとつをメモしていれば、ふと視線を感じで顔を上げると船大工と目が合った。
「す、すみません、書くのが遅くて! お仕事に戻らないとですよね!」
「ああまあね。でも、なんだかお嬢ちゃん……昴ちゃんだっけ? 珍しいなって思ってさ」
「え?」
「だって、そこまでの黒髪黒目見たことないから。ルッチ職長も黒髪黒目だけど、なーんか違うんだよね」
そりゃあ堀の深い外人さんですもん、とは胸の内で呟き、
「私、田舎者ですから」
と言えば、彼は、そういう意味じゃないんだけどな、と苦笑した。
「じゃあ、俺は仕事に戻るよ」
「ご協力ありがとうございました!」
彼の背中をしばし見送り、そのまま視線を造船中のエリアに向ける。
「………」
雑踏、木槌、指示出し、全ての音に包まれながら、己の体より遥かに巨大な船を作る男達を恍惚と見つめた。
料理長(キュイジーヌ)と副料理長(スーシェフ)、人名っぽい響きなのでそのまま名前に使用。