アイスバーグから充てられた部屋で、昴はキャリーケースから一冊の本と、高さがあるペンケースを取り出した。それは、友人らからバースデープレゼントとして貰った品だ。日中の仕事も終え、夕食も取り、シャワーも浴びてすっきりとした状態で、それらを手にデスクへと向かう。
「ふぅー。おつかれさまでしたっと」
全体のページの真ん中より少し前半に、しおりを挟んであるのでぱたんと開けば、文字の無いまっさらな紙面が現れた。紙面は、ほとんど白に近い薄茶色で、色づきにムラがある。余談だが、昴は、プレゼントをされて初めてこの紙面を見たとき、思わず「Once Upon a Time」と定番の句を口走っていた。
しかしこれは、先に述べた通りなにも印字されていないので、小説や参考書の類の本ではない。
「日記帳」なのだ。
人間の顔よりやや大きく、昴がお気に入りの小説のひとつ『
次に、ペンケースを開く。中には、琥珀色の持ち手をした万年筆が一本。印鑑の端にある朱肉と同じ位置に鎮座していた小さな小瓶は、開封はされているが中のインクが漏れないようにしっかり蓋をされている。鉄製品が溢れる現代と違い、デスクが木製のアンティーク調なのも相俟って、本・万年筆・デスクだけを見ればまるで映画のセットのようだった。
「……はあ。すてき……」
昴から恍惚な溜息が堪らず漏れる。プレゼントされてから書ける日は日記を書いていたので、この本に万年筆で日記を書く行為は初めてではない。しかし、自分が世界を越えている事と、現地の雰囲気に呑まれた結果だ。
緩む頬もそのままにイスに腰を掛け、横に真っ直ぐ書けるようグリッド線が印刷されている専用の下敷きを敷いて、ウォーターセブンへ来た当日から振り返って思い出を綴っていく。
「ぶたいが、おわって」
記す文章を口に出しながら万年筆を走らせる。
例の「お気に入りの本」は実写映画化もされており、その劇中、登場人物が本を書くのだが、それがとても魅力的で印象的だったので真似をしていたら、癖づいていた。劇中では、記したい事柄を読み上げると、どこからともなくアルファベットが文字通り飛んできて紙面に貼りつき、文章になっていく。さすがに彼女はそんな芸当はできないが、気分だけはその登場人物だ。
「にほんに、かえる、はずだったけど」
*
舞台が終わって日本に帰るはずだったけど、ふしぎなことが私に起こった。とうてい信じられない、夢のような体験。世界を渡る。自分の国だけじゃなくて海外で活動するときとかに使う言葉だけど、本当にまったく違う世界に来ちゃった! 最初はもちろんパニックになったよ。吹雪いてたのに真夏日和になってて。
私が今いるのは、ウォーターセブンという造船所。造船所というか、島。世界のほとんどが海で、アメリカ・ロシア・チャイナのように大陸続きじゃない。佐渡島みたいな小さな島が散らばってる世界だって教えてもらったの。車やバイク、電車がいらないくらい小さな島。そもそも車両が存在してないみたい。あ、電車っていうか列車はあるね。海の上を走ってる。
そういうこととか色々教えてくれたのはアイスバーグさん。造船所の社長さんで、この島の統治者。バスケ選手みたいに背が高くて、なんとなく、ハリウッドスターに似てる。俳優さんの名前も、出てる映画の名前もド忘れしちゃったけど、ラスベガスが舞台だったのは覚えてる。カジノね。ギャンブル。帰ったらもう一回観たいな。
アイスバーグさんの会社の社宅を借りて、社員にもなって、食堂を手伝ってます! 注文取り。中高ってパン注弁注係だったからすごく懐かしいなって思ってる。
会社のことね。新規で船を造ることと、修理。周りが海に囲まれてるから交通手段は船だけなんだって。横浜の造船所跡くらいしか見たことないけど、ほんとにもう大きくて! 三階建てのアパートとかも目じゃないくらい! そんな大きい船をクレーンとか機械を使わないで手作業で大工さん達が組み立ててるの。アイスバーグさんによると、ほとんどの海賊は木製の船で、海軍は鉄製の船を使うらしく、私はまだ海賊船の修理だけしか見れてない。軍艦も見てみたいな。
そう! 海賊! 映画そのままの海賊がいるの! 遠目から見るなら、映画のエキストラを見てるようでいいんだけど、できればもう近寄りたくないね。近付いて毎回あんなことされたら恐怖症が悪化しちゃう。恋したいもん。あんな事ってなんだ? って? 連れ去られそうになったの。でも帰る前までには、Yo-hoって歌う楽しい海賊と会ってみたい。酒を飲み干せー!
映画といえば、カクさんって社員さんも、映画の俳優さんみたいなんだ。似てるって意味じゃなくて、特殊メイクされた俳優さん。エルフとかゾンビとか。どの辺が特殊メイクっぽいかっていうと、ピノキオの鼻をしてるの。ウソだと思うでしょ? ピノキオだけに。ほんとうなんだよ! みょーんって長くてしかくいの。歓迎会のときに思わず「鼻は感覚あるんですか?」って聞いちゃったんだけど、あるよって言ってた。鷲鼻のひとはアメリカ生活で見てきたけど、カクさんの鼻は日常生活で困っちゃうくらいピノキオ。
カリファさんっていう女性の社長秘書も、ハリウッド女優さんみたいプロポーションがすごいし、タイルストンさんなんてシュワちゃん以上! 身長も筋肉もすごい。食堂長のジーヌさんだって、それこそイギリスの王子様みたい。副長のスーさんはアウトローな感じだけど、よく言う キケンな香りがする男はモテる みたいな。性格は見た目と正反対だから混乱する。本当は頭ごっつんってして、中身が入れ代わってるんじゃないかな?
それから! いちばん書きたいこと! 舞台で踊れることになった! 別の世界に来ちゃったからそんな機会はないと思ってた。練習だけでしか踊れないって思ってた。運も実力の内って言うよね。運があったみたいで、アイスバーグさんツテで、本番舞台ができることになったの! 本当に、本当に、嬉しい。不安はもちろんある。先生の指導がないこと。鏡張りの部屋で練習できるかどうかわからないこと。練習場は、ひとつ隣の島のサンファルドってとこになるって。三日後、カリファさんと一緒に海列車に乗ってサンファルドへ向かいます。そこで、舞台関係者の方々と打ち合わせになるから、その時に、鏡があるかどうか確かめる。あとは、ビデオでどうにか自分の姿を確認する。
ソーラーバッテリー対応のビデオを買っておいてよかったよー! スマホもね。コンセント充電だったら今頃充電切れで困ってたかも。あ、重いけど、電子機器は持ち歩いておこう。この世界に来たのも突然だったから、帰るのも突然な気がするもん。ポワントは絶対持ち歩く。無くせない。最悪、スマホもカメラもビデオも、この世界に置いてっても現実で買い直せばいいけど、ポワントだけは買い直せない。ベストコンディションのこの相棒は絶対に、無くせない。
それで、世界を渡るって件はアイスバーグさんが調べてくれてる。今までに別の世界の人が紛れたことがあるかどうか。現代だったら真剣に取り合ってくれないことだけど、この世界じゃふしぎなことは当たり前みたいで、本気で調べてくれてる。これって神隠しになるのかな? 帰れるか不安だけど、アイスバーグさんを信じて、私は私で、アリスになった気分でこの世界を楽しむことにする!
*
「アリスになった、きぶんで、……このせかいを、たのしむことに、する――と」
万年筆を置いて、両腕を高く上げて伸びをする。
「んんーー」
腕を下ろすと、瞼を閉じてこれからに思いを馳せた。いったいどんな事が待ち受けているのか。
ジュルナルとは。
これは仏語単語の、日記、です。