「よかったな、雪乃。
公式の場でも月乃ちゃんと仲良く出来て」
誰も聞いていない会場の片隅で影山はひとり呟き、優しい笑みを零していた。
「さて、仕込みは上々。あとは結果を待つばかり」
ニヤリと笑うスーツ姿のその顔はまさしく裏で暗躍する悪役がごとく、仲良くしている姉妹達にギャラリーが目を奪われている間に仕込むところもまさしく悪役のそれである。
「すまんな、河内君。
これから君はハゲてアフロになって、そしてまた・・・ ハゲるんだ」
いっそにこやかですらあるその声を聞く者は誰もいない。否、聞く者がいたとしても意味がわかるわけがなかった。
「本当にわずかではあるが、勝利の芽は残っている。
あとは君が、それに気づくだけさ」
わずか過ぎて本来気づくはずもなく、よほどの奇跡か、それこそ東和馬のようなひらめきを持った人間でなければ対処しようもないこと。
そして『残っている』と言いながらも、影山も彼が気づかないことを願っている。その証拠に彼の懐にはワッフル型が収まっていた。
そして時間は過ぎ、会場では原作通りのことが起こり、河内の生地は固まらずに冠のパンを食べた黒柳がホモ疑惑を受け、デーブが立った。
「あぁ、予定通りだ」
静かに会場を眺めていた影山も満足げに頷き、河内の銀行口座に治療費を振り込むように指示を飛ばした。
「雹? こんなところに居たのね」
「あぁ、お疲れ。雪乃。
月乃ちゃんとは楽しく出来たようで何よりだよ」
先ほどのまでの悪役顔はどこへやら、優しく恋人を迎え入れる影山に雪乃もまた笑う。
「大丈夫かしら、河内君」
「大丈夫さ、パンタジアは福利厚生がしっかりしているからな。
それに彼は職人だ、敗北を糧に大きく成長するだろう」
「だといいのだけど」
「心配することはないさ。
月乃ちゃんも、松代さんもついてる」
恋人の心配を払拭させるために妹である月乃や、信頼をおいて月乃を任せた職人の名を出せば、雪乃の顔に少し明るさが戻った。
「さぁ、試合はまだ続いてる。
君のタルトでも食べながら、もう少し見ていようじゃないか」
「本当にあなたはタルトが好きね」
「タルトが好きなんじゃなくて、君のタルトが好きなんだよ」
「・・・馬鹿」
可愛らしい恋人に影山は表情を緩ませつつ、用意してくれたタルトを口に運ぶ。
「あぁ、今日も美味いな」
「影山さん、ちょっといいですか」
「あぁ、冠君。そろそろ来ると思ったよ。
悪いね、雪乃。少し彼と話があるから、待っていてほしい」
そういって冠と二人で人気のない非常通路へと向かえば、影山は冠から言葉を待った。
「影山さん、お願いがあります」
「なんだい?」
「次の勝負、一切手を出さないでほしいんです」
冠は影山が何をしたかを理解し、そのうえで次の試合である東和馬との試合において手出しをしないように望んだ。影山はそれに気を悪くする様子もなく頷き、了承の意を示した。
「かまわないが・・・ 繰り返すようだが、君の腕を疑っているわけではないよ。
・・・あぁそうだ、冠君。
この後、私と一緒に会場に降りてもらってもかまわないかい?」
「え? 何をするんです? 影山さん」
「いやなに、久しぶりにパンを作ってみようかと思ってね。
河内君のあの生地を使って」
「あんなべっちゃべちゃな生地で、ですか?」
「あぁ」
影山はニヤリと笑って、冠と共に会場の片隅へと降りる。
「あれ、影山さん?」
会場は既に次の試合である諏訪原VS東との対戦ですっかり盛り上がりを見せ、影山と冠が何かをしていることに気づいたのは会場内でもごく数名であった。
月乃が気づいたことを察知した影山もすぐに試合の方を示し、自分達に向けられた意識を逸らした。
「さて、このべちゃべちゃな生地を再利用しようか」
そういって影山は懐からワッフル型を取り出し、生地を流し込む。そして、待つこと数分、両面ともに焼き上げたそれを見て影山は満足げに笑った。
「ワッフルですよね・・・?」
「あぁ、ワッフルだ。
生地さえあれば子どもでも焼けるようなシンプルなものだがね」
「確かにこれなら生地がべちゃべちゃであっても平気だし、焼くことによって固まります。
けど、それで何かが変わるわけでは・・・」
「これ以上の工夫は職人の腕の見せ所だろうね。
俺はとりあえず食べれるようになればいいから、これでいい」
焼き上げた数枚を抱えて影山は立ち去り、他の余ったワッフルをテーブルに並べた。出来立てのワッフルは確かに美味しそうで、先ほどまでのべちゃべちゃな生地がそのまま置かれているよりも見栄えがよかった。
「まさかあの人、生地の処分をしに来ただけじゃ・・・
それなら全部持って行ってくれればいいのに」
言いながらも冠は焼き上げられたワッフルを口にし、目を開く。
「これは・・・!」
エンドプロアテーゼによってグルテンが分解された生地は確かに天ぷら粉のようにべちゃべちゃとなるが、イーストが加わっているパン生地は発酵が進む。そして、ワッフルのように焼き上げることでパンケーキのような柔らかさと、天ぷらのようなカリカリ感を併せ持つ生地 ―― パンワッフル ―― となる。
「影山さん・・・ あなたはどこまで・・・」
「底が見えねぇ奴だな、相変わらず」
「松代さん・・・」
そこにはパンワッフルをほおばる松代の姿があり、その隣には月乃が並んでワッフルを口に運んでいた。
「まったくあの野郎、これやってりゃ勝てたのに」
「美味しいですね、これ」
松代の言う通り、もし河内がこれに気づけていたのなら勝敗は彼に上がっていただろう。
「ん? あれ?
影山さん、さっき・・・」
彼がワッフル型をどこから出したかを思い出し、冠は凍り付く。
だがその瞬間、脳裏に彼の冷たい笑みが浮かび、口に出すことはなかった。
「まぁいい、あいつのこったから何か考えでもあったんだろ」
「ですね、雹お義兄様ですもの。
河内さんにはお見舞いに、このワッフルを持って行ってあげましょうか」
「傷口に塩を塗り込んでやるな、月乃。
何より・・・」
松代の言葉の真っ最中に、何かが凄い勢いでこちらへと向かってきた。
「ここに旨そうなワッフルがあることはわかっている!!
この香りの元凶であるワッフルを、私に寄越せぇ!!!」
どこかの祟り神か、強盗犯のような勢いで迫ってきた黒柳に対し、松代はこれ見よがしに満足げなゲップを吐いた。
「あぁ、うまかったなぁ」
「このアフロがぁ!!!」
旧師弟コンビによる漫才が勃発した。
なお、河内は一人病院のベッドでうなされ、漫才を終えた店長に熱い抱擁を交わすこととなる。