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――
はじまりの思い出は、海の中でした。
ぼうっと目を開けば、柔らかな朝の光が、揺れる海面を通り抜け、私のそばまで届いていました。
光のほうへ。
手をかざし、水を掻くと、体はふわりと軽くなりました。
私は浮上してゆきます。
まっすぐに、明るいほうを目指して。
朝でした。
朝という感覚を、私は持っていました。
きらきらと光る水面に立って、私は辺りを見渡します。
自分の名前はわかっていました。
自分がどのような存在であるのかも。
行かなくては。
私は行かなくては。
鎮守府へ。
さいしょの一隻として。
――提督を、迎えなくては。
その使命感は、おそらく本物だったでしょう。
私がこの世に生を受けた、その時に感じたものごと。
本当はもっと昔に刷り込まれたはずの、それは役割でした。
水平線の向こうには陸地が、そして大きな建物が見えました。
あそこだ、と確信します。
滑るように海の上を進みながら、よし、とひとつ頷きました。
がんばろう。
頼りない秘書艦かもしれないけど。
それでも、少しずつでもいい。
提督を助けられるようになろう――と。
辿り着いた鎮守府は静かでした。
門には鍵がかかっておらず、おそるおそる力を加えると、あっさりと中に入ることができました。
きい、と音をたててしまったので、少し待ってみましたが、誰が出迎えるわけでもなく。
顔も知らない提督を探して、私は鎮守府のなかを歩き回ることにしました。
誰もいない廊下を歩きます。
そうして目についた扉を、そっとノックします。
返事はないようでした。
ゆっくりと扉を開くと、朝の光が部屋のなかに差し込んでいました。
そこは通信室のようでした。
机の上には、何枚かのメモ紙が重なって置かれています。
一枚手にとってみると、そこに書かれた番号に、私は覚えがありました。
――緊急連絡先。
受話器には、使われた形跡がありました。
なにかが起きている。
そんな、ざわりとした予感。
部屋を出て、再び廊下を歩きます。
寮への通路を通り過ぎ、誰もいないお風呂場を、食堂を、休憩室を見て回って。
ここじゃない、きっとここでもない。
そんな直感めいたものを頼りに、鎮守府の長い廊下を歩きます。
海の見える窓を左手に、角で右へ曲がって、次に右手に見える扉。
ああ。
ここだ。
確信めいたものがありました。
そっとノックします。
『……入って』
声に従って、扉を開きます。
朝の風が奥の窓から吹き抜けて、長い黒髪がさらさらと揺れました。
大きな執務机の前、茶色いフローリングの床に、白い帽子を被った女のかたが座っています。
きっとこのひとが、提督なのだ、と思いました。
目が合います。大きく見開かれた黒い瞳。
驚き。喜び。安堵。不安。
いろんな感情がない交ぜになったような表情で、そのひとは立ち上がります。
帽子は、なんだか少し不似合いなように見えました。
目元まで深く隠しすぎているのは、きっとサイズが大きすぎるから。
じっと見られていることに、そこで気付きました。
そう、そうでした
挨拶をしなければ。
ぺこりと頭を下げて、そのまま言葉を口にします。
はじめまして。
あの、五月雨っていいます。
おそばに置いてくださいね。
おそるおそる顔をあげて――私は、その時の表情を忘れられません。
そのひとから、数秒、すべての表情がなくなりました。
突然異国の言葉を聴いたような、あるいは、とびきり悪い夢から覚めたときのような。
――は、は、と少しだけ言葉を漏らして。
頭を振って、私を見ずに言いました。
ようこそ。ようこそ、鎮守府へ。
声はか細く、震えていました。
ぼくはここで提督をやっているんだ。
きみにあえて嬉しいよ。
言葉は空っぽでした。
誰にも届かず地面に落ちては、かんかんからからと音をたてる、空き缶のような響きでした。
これから――
そこで言葉に詰まって、そのひとははじめて私に向き直ります。
一瞬だけぶつかった視線は、そのひとが項垂れることで、ふたたび外れました。
意を決したはずの目元が、少しずつ力を失っていったのでした。
そのひとは、必死になにかを抑えようとしているように見えました。
からだの芯から込み上げてくるなにものか。
それが暴れださないよう、無理に押さえつけているように。
これから。
その次にはふつう、よろしくだとか、頑張ろうだとか、仲良くしようだとか、そういった前向きな言葉が続くものです。
だけれどそのひとは、そのどれもが口に出せないようでした。
これから、これから、これから――
喘ぐように、何度か繰り返しては、そのたび私を見つめ、目を瞑り……やがてそのひとは天を仰ぎました。
そうして、ぽつりと言葉が投げ捨てられます。
――これからぼくは提督をやめる。
何をいってるんだろうこのひとは。
呆気にとられているあいだに、帽子をぽいと投げ捨てて、机に溜まった書類を片手でばさりと払い落とし、そうしてにこりと笑顔になります。
笑顔でした。なにもかもを投げ捨てて、そのひとは笑顔でした。
それ以外の表情を忘れたのだと思います。
ああ、溢れる。
私はそう感じて、だけどどう止めるものかもわからずに、そのひとに腕を掴まれました。
――ぼくは提督をやめるよ。ねえ、やめる、提督なんてやめる。やめちゃおう。そうだろう、きみ、そうじゃないか。やってられない。ううん。違う、間違えたね。やってちゃいけない。ぼくは提督なんてやっちゃいけなかったんだ。ぼくはダメだった、ダメだからほら、きみは、きみは、ここにいるきみは、はじめまして、嬉しい。ぼくはあえて、きみにあえて、はじめまして、嬉しいよ。あえたんだ。きみにあえたんだ。また会えた。
よかったじゃないか。
はじめまして、そうはじめまして、これから――
ぴたりと言葉を止めて、そのひとは震えはじめました。
ああ。あ、あああ。
呻き声。
あああ。あ、うあ、あああ。
身体を。声を震わせて。
ごめんなさい、ぼくが、ぼくのせいできみは。
ぽろぽろと大粒の涙をこぼして、そのひとはしゃくりあげるように言葉を続けます。
ごめん、ごめんなさい、許して、ううん、許さないで、ぼくを許さないでくれ。詰ってくれ。呪ってくれ。恨んでくれ。こんなことをした僕を、決して許さないでくれ。
じゃなければ、そう、同じことを、してくれていい。ぼくが、してしまった、みたいに。間違ってしまったみたいに。君を傷つけてしまったみたいに。
そうだね、そうだ。
……それがいい。
ぽつり、ぽつりと、ひとことひとことをこぼすたびに、言葉は小さく、細くなってゆきます。
いっぱいに入ったコップを傾けたあとの、残り水のように。
そのひとは、弱々しく微笑みました。
はじめまして。
ようこそ鎮守府へ。
ぼくは、提督じゃないよ。
だからさ、きみ、ぼくを。
ぼくを、ぼくを、――ぼくを殺してくれないかな。
同じ調子で、そのひとは言うのです。
殺してくれないか、って。
そのとき、私は気づいてしまいました。
首に、桃色の輪がかけられていることに。
私はそれを知っていました。
どこからか訪れた理解。
おそらくそれは、秘書艦としての知識だったはずです。
保護印と呼ばれるその首輪は、識別票のようなものです。
私たちを見分けるための。
大事な艦娘を見分けるための。
――この人は艦娘なんだ。
じわりと、理解が及んで。
続いてやってきた問いは、ある種当然のものだったかもしれません。
では、提督はどこにいるのでしょう?
答えは目の前にありました。
このひとの頭には帽子が、提督の権限の象徴が被せられていました。
理由はわかりません。
だけれど、その様子にはただならぬものがありました。
艦娘が提督になることなど、あるのでしょうか?
私がうまく考えられないでいる間にも、そのひとは言葉を続けます。
きみに殺されるんだったらそれが一番いいんだ。
ぼくはダメだ。殺してくれ、ぼくがやってしまったようにきみはぼくを殺してくれ。
償いなんかじゃないよ。
きみにただ殺されたいだけだ。
ただのわがままだ、罰されたいだけだなにもかも忘れてしまいたいだけなんだ。
きみ、ぼくを殺してくれ。
その手に持っている連装砲で、ぼくを撃ち抜いてくれ。
さあ、早く、さあ。
その目には、少しずつ理性の光が戻ってきていました。
言葉は少しずつ、穏やかなものになっていました。
それはあまりにも恐ろしいことでした――錯乱してではなく、理性を伴って、殺してくれと言っているのです。
なんと答えればよかったのでしょう?
私はなにも答えられず、彼女も話し疲れたのか、それきり言葉を発することなく。
そうして、長い沈黙が部屋を包んでいました。
朝日に照らされた隈だらけの眼。
一晩中起きていたのでしょう。
この人の身の上には、なにかどうしようもなく、とてつもなく、悲しいことがあったのでしょう。
死ぬしかないと思うほどに。見ず知らずの私に、それを求めるほどに。
だけれど、殺せるわけはありませんでした。
私は嫌なのでした。
この人が死んでしまうのが、たまらなく嫌なのでした。
出会ったばかりのはずなのに、私のなにかがぶんぶんと首を振っているのです。
だめです。そんなのだめです、と。
止めなければ。
なにを言えるだろうか、と考えます。
結局のところ、ありきたりの言葉しかないのです。それ以上のなにも私は言えないのです。
私とこのひととの間には、何事もまだ始まっていないのだから。
それでもやるしかないのであれば、やらなければこの人を説得できないのであれば。
よし、とひとつ頷きました。
「だめです」
そう言葉を発したとたんに、気持ちがはっきりしたように思いました。
「死んじゃ、だめです」
私は彼女を抱き締めました。
小さな肩がびくりと震え、ふたつの瞳が私を見上げます。
その身体の温もりを感じたとき、視界がじわりとぼやけました。
――帰ってきた。
私はここに帰ってこれた。
理由もわからないまま、そんな想いに駆られます。
行き場の定められた湧き水が噴き上がるように。
冬の通り雨のように――どうしてかさえわからないまま、私は泣きます。
伝えたいことがありました。
伝えなければいけないことがありました。
ごめんなさい。
あなたが望むものを与えられなくて。
あなたをひとりぼっちにしてしまって。
だけど、これからは。
言葉は自然に口をつきました。
「私がいます。あなたの側に。いつでも、いつまでも、ずっとここにいますから」
そこから先は言葉にならず、ただただ温もりを抱き締め続けて。
暖かなまどろみに、どうか、どうかと祈りながら。
気がつけば、安らかな寝息をたてて、その人は眠っていました。
――我に返ってみれば、そこには投げ捨てられた帽子と、散らばった書類があるだけの、静かな朝の執務室です。
拾い上げた帽子を握りしめて、私は迷います。
提督を騙ることは、重罪でした。
偽って、艦隊の指揮を執ること。
それは、艦娘の生殺与奪を行える権限を持つ、ということです。
だからこそ、定められた人のみが、その権限を付与されている、はずでした。
――通報するべきでしょうか。
番号は頭に入っていました。
秘書艦として、学んだことでした。
どこで学んだのかさえ、私は覚えていなかったのですが。
眠るこのひとを起こさないよう、そっと執務室を離れ、通信室へ向かいます。
緊急用に使える番号は、三つほど記憶に残っていました。
メモに残されていた番号を回してみます。
何度か試してみますが、それは繋がりません。
いいえ、どれも、これも同じでした。
知っている限りの番号をダイヤルしてみますが、受話器からはなにも聞こえません。
辿ってみても、電話線は生きていました。
受話器に耳を当ててみれば、ざあ、という音が聞こえます。
この電話は、どこかへ確実につながっているはずなのに。
なのに、どこからも応答はないのです。
いったいなにかが起きたのか。
それとも――なにも起きなかったのか。
ひとつ確かなことは、今、この瞬間には、外部からの助けは期待できそうにないということでした。
私は電話をあきらめて、執務室へ戻ることにします。
振り払われず、机の上で難を逃れた書類には、たくさんの出撃の記録が残されていました。
そこには私の名前もあります。
どれも同じ筆跡です。一番上にあるものは、まだ新しい、おそらくは昨日ぶんのもので。
ふたつ並んだ名前。私と同じ名前の子の『帰還』の欄には、チェックが入っていませんでした。
そっと自分の首に手をやると、そこには首輪がありました。
鏡に姿を映せば、それは間違いなく、このひととお揃いの、保護印なのです。
――はじめての船のつもりでした。
自分の名前はわかっていました。
自分の艦種も、魚雷の撃ちかたも、それから、どの鎮守府に所属するのかも。
ただひとつ――自分がはじめての船である、という確信の出所だけが、わからずにいたのです。
彼女の名前は、図鑑で知りました。
二人しか描かれていない図鑑。
白露型の二番艦。
「時雨さん」
口に出してみると、なんだか懐かしい気持ちになります。
私の持ち合わせている記憶は、遠い昔、一緒に海を進んだ日々のことで。
当然、物言わぬ鉄の塊だった私には、開く口などあるはずもなく。
だとすれば、名前を呼ぶことを懐かしく思うこの気持ちは、どこから来たものだったのでしょう。
いえ。
きっと答えはわかっていました。
私の身に何が起こったのか。
それからこのまま、時雨さんが目を覚ましたとして、それがどのような結果を生むのか。
帽子の役割も、わかっていました。
それが罪であることも、それが嘘であることも――
だけれど、これしか答えはないのだとも、わかっていました。
本当の提督を、私は知りません。
だから、希望にすがることはせず。
このひとと生きていくために。
このひとを死なせないために。
私にできることをする、と決めたのでした。
時雨さんが身じろぎして、さみだれ、と言葉をこぼします。
そう呼ばれるのは、もしかすると、これが最後なのかもしれません。
私はあわてて帽子を被り、そうして椅子に座ります。
寝ぼけまなこの彼女に何も言わせないよう、口を開きました。
「おはようございます、時雨さん」
時雨さんはその言葉と、私の姿で事態を察したようでした。
言葉に詰まって、噛み締めるように。
「おはよう、提督」
答えた言葉のどこにも、本当のことがないのだとしても。
それが、すべてのはじまりです。
あの日確かに見たはずの出撃票は、翌日にはなくなっていました。
存在すら忘れていたそれをふたたび見つけたのは、しばらく経ってからのことです。
たった一枚のその紙は、すっかり古くなっていました。
未帰還の出撃票。
時雨さんが捨てられなかったもの。
私は、いっさいを残さないように、処分したのだと思っていました。
時雨さんはいつでも、未使用の一束ぶんの出撃票をどこからか見付けてきてくれましたから。
だけれど、紙だって有限なのです。
それがどこからやって来たものなのかは、私はよくわかっていました。
いつのまにか机の上から消えた、使用済みの出撃票。
なくなったもののかわりに、新しいものが増えて。
だから差し引きゼロなのだと、そんな嘘を暴かないように、そっと忘れたふりをしました。
それからの日々は、きっと嘘で満ちていました。
何事もなかったかのように。
お互いがなにもなかったと装っては、軋むたびに役割を変え、忘れたふりをごまかして、そうして何度も何度も、はじめましてを言い合って。
使われていない寮のなかで、自分の名前を呼ばれるまで、ただただ眠り続ける子たち。
鎮守府に溢れていく私たちを眺め、毎日ご飯を作り、やがて疲れては時雨さんにすべてを任せ、海に出たきり帰ってこない子たちをただただ見送り続けて。
そのたび、時雨さんは私に過去を語りました。
そうせずにはいられないのだというふうに。
なにひとつ偽ることなく、時雨さんはそのとき信じたほんとうについて語ってくれました。
たくさんの夕焼けを見ました。
たくさんの料理を作りました。
たくさんの私に会いました。
たくさんの時雨ちゃんと話しました。
たくさんの打ち明け話と、嘘と、嘘のなかのほんとうを、聴いて、伝えて、見なかったことにしました。
何度か一人の夜があって、何度か一人の朝があって、そうして何度かのおしまいとはじまりがありました。
おやすみなさい。
また明日。
いってきます。
はじめまして。
そのたびに、なにもかもなかったことになって。
何度でも私たちは、また新しく出会いなおして。
積み重なっては古びて錆びて、そのたび新しいふりをした、私たちの毎日。
――ほんとうは。
本当はなにもかも嘘なんです。
沈むわけがないのです。
だって、時雨さん。
私一人の艦隊は、つまりあなたが沈んだふりをするときと、同じ編成じゃないですか。
わかっているはずです。
いつだって、私一人になるまで、あなたは選び続けるのですから。
わたしは、忘れたふりをして。
あなたは、忘れたふりまで忘れたみたいで。
無垢を装って、完璧に演じてみせて、そうしていつかきっと訪れる終わりのときを待っている。
世界の終わりを。あるいは始まりを。
そのどちらも、やって来ることがないのだと心の底ではわかっていながら。
それでも何度でも、何度でも――やり直しつづけている。
だけれど、時雨さん。
あなたは気付いていないんでしょう。
あなたが次々と、自分で拾ってきた子を処分している間に、私が何を考えているのか。
最後に一人残った私が、どうして起きてこないのかを。
――わたしは、あなたにだったら、殺されたってかまわない。
それであなたが救われるのなら、それでこの孤独が埋め合わせできるなら。
だけれど、私が私である限り、時雨さんが時雨さんである限り、それは起こり得ないことでした。
だから今日も、電子の海でふたりきり。
昔の夢から目覚めれば、毎朝五時に繰り返す、同じ一日が始まろうとしています。
自分の選択を、後悔はしていません。
来るべきときが来たのなら、しかるべき罪を償うことになるのでしょう。
それでもたったひとつ、希望が私たちに残っているとすれば。
――それはおそらく、提督という形をしているはずでした。