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どうぞよろしくお願いします。
――
終わりは突然やって来ます。
初夏のある日のことでした。
波の音が聞こえました。
それは船の音でもありました。
この鎮守府へと進む、船が一隻ありました。
日付の感覚をなくして久しい私です。
それでも、わかることがありました。
海の上にいる彼女へ、緊急の連絡を取ります。
『さ、……提督? 何かあったの?』
普段行われない出来事に、彼女は動揺しているようでした。
私を提督と呼ぶことさえ忘れそうになるほどに。
だけれどそれは、正しい呼び方でした。
紛い物の私たちです。
名前で呼んでよいのでした。
本当はきっと、ずっと前から、そうするべきだったのです。
「五月雨、でいいですよ」
彼女に事態を伝えるための言葉は、ひとつの形を取ります。
ずいぶん昔に覚えたような、定型文が口をつきました。
「提督が鎮守府に着任しました。これより艦隊の指揮を執ります」
無線の向こうで、はっと息を呑む気配がします。
『――わかった。戻る』
短く答えて、時雨さんは通信を切りました。
言葉の端に、焦りの色がありました。
私の声にも、恐らく硬さがあったでしょう。
喜ぶべきことのはずでした。
始まりの予感に胸を躍らせていいはずでした。
それなのに、止めどなく溢れる不安を、私は抑えられずにいます。
ねえ、時雨さん。
わたしたちが待ち焦がれた終わりの形は、こんなものだったでしょうか。
船は時間をかけて、次第にこちらへと進んできます。
「戻ったよ!」
執務室の扉を開け放って、時雨さんが飛び込んできます。
これほどまでに慌てているこのひとを見るのは、はじめてかもしれません。
時雨さんは私の姿をみとめると、ひとつため息をつきました。
「間に合ったのかな」
そう尋ねる声に、安堵の色が滲んでいました。
「……ただいま、て――」
「五月雨」
その言葉を遮って、
「へ?」
呆気にとられる時雨さんに、
「ちゃんと、名前で呼んでください」
そんな要求を突きつけました。
「……た、ただいま、五月雨」
「はい。おかえりなさい――時雨さん」
それは、せめてもの抵抗だったのかもしれません。
お互いの名前を呼びあうことさえ、できなかった今日までへの。
私たちはいつからか、お互いの目を見なくなりました。
嘘が伝わることを恐れて、あるいは、ほんとうが返ってこないことをおそれて。
私たちはどちらからともなくそうしたのです。
言葉を聞いていても、それを聴くことはなく。
話していても、お喋りをすることもなく。
繰り返すたびに、言葉はかわいていくものです。
ふたりぼっちのわたしたちは、届かなくても良い独り言を一生懸命ふたつあつめて、空っぽの毎日をやり過ごしてきたのでした。
何ができるわけでもなく、長い長い待ち時間。
時雨さんは落ち着かなそうに、うろうろとあたりを歩き回っていました。
「……五月雨、あのさ」
「はい」
「怖いよ」
こくり、と頷きます。
心の準備は、できていませんでした。
私たちはどこかで、その日を待ち望んでいたはずでした。
すべてが終わることを、あるいは始まることを。
それなら、迷うことなんてなにもないはずなのに。
「なんて声をかければいいだろう。どんな顔して話しかければいいだろう」
そう言って時雨さんは狼狽えます。
「ええと、はじめまして?」
――気が動転していたのです。
「五月雨はそうかもしれないけど……ああ」
時雨さんはふと、思い出したように呟きました。
「おかえりなさい、だ」
もしかすると、淡い期待があったのかもしれません。
はじめての船としての記憶をなくした私が、提督と再会することでそれを取り戻す。
そんな筋書きは、もしかすると、ちょっとした希望と呼んでいいものかもしれませんでした。
そうなればいいな、と思いながら、私は窓の外を眺めます。
船は初夏の海を渡り、やがて岸へと辿り着きました。
そうして、すこし小柄な人影が姿を表すと、迷わず敷地の中へ足を踏み入れました。
「来た、のかな」
時雨さんの声に頷きます。
「出迎え、忘れてましたね」
「あの子たちでも並べておけばよかったかな。どう思う?」
寝室で眠っている、たくさんの時雨ちゃんや私のことを言っているのであれば、
「それはちょっと、趣味が悪いです」
わかってる、とため息が返りました。
「前から思ってたけど、五月雨、こういう冗談はあまり好きじゃ――」
こん、こん、とノックの音が聞こえて、時雨さんは口をつぐみます。
――来たみたいだね。
そう視線を私に投げかけて、
「どうぞ」
そう、扉の外へ声を掛けました。
執務室へ入ってきたのは、少し細身の男性のかたでした。
――私はなくしていました。
かつての提督との記憶を、すべて。
顔を見れば思い出すかもしれない。
そんな期待が、なかったと言えば嘘になります。
だけれど、なにもありませんでした。
白の軍服に、ぼさぼさに伸びた黒い髪。
あまり健康的には見えない肌。
そんな知らない男のひとが、やってきたというだけでした。
だから私は、なにも言えずに立っていたのです。
時雨さんの表情は、強ばっていました。
困惑。疑心、それから、失望。
感情がない交ぜになったようでした。
それでも、黙っているわけにはいかなかったのでしょう。
「あ、あの、おかえりなさい」
そう声を掛けると、そのひとはじいっと時雨さんを見つめました。
まるで、値踏みするように。
気まずい沈黙が、一分近く続いたころです。
そのひとは、私に気が付いたようでした。
そうして、ひょい、と手を伸ばすと、
「あ、あれ?」
私の頭から帽子を軽々と奪い取りました。
――お恥ずかしながら、ずっと被ったままでいたのでした。
提督が来る、って自分で言っておきながら、頭にのせてお出迎えしてしまったのです。
時雨さんはつられて苦笑しながら、ごめん、と目配せをしました。
言ってほしかったです、と目で訴えかけてみると、穏やかな笑みが返ります。
その笑いには、どこか懐かしむような気配がありました。
もしかすると、いつか、私の知らない昔のことを、思い出していたのでしょうか。
和やかな雰囲気のなか、その人は帽子を被ると、おもむろに私の首に手を伸ばし。
ぱちり、と何かが外れる音がしました。
「……えっ?」
時雨さんが声を漏らしたのと、それがごとりと床に落ちたのは、ほとんど同時だったと思います。
思わず首に手をやります。
つるりとした肌の感触だけがありました。
床には、時雨さんの首にあるものと同じ、桃色の首輪が転がっています。
首飾りが、私たちを見分けていたしるしが、――保護印が。
あっけなく外されていました。
「……何を」
呆然と、時雨さんが口にします。
「いま、何をしたの」
男の人は、それに答えることはなく、かわりに時雨さんの保護印を、同じように外しました。
その意味が分からないほど、時雨さんも私も、無知ではありません。
「……僕たちを、どうするつもりなのさ」
時雨さんの問い掛けに、けれども答えはありません。
そのひとは懐から手帳を取り出すと、あれこれとあちこちを眺めては、なにかをさらさらと書き付けはじめました。
家具を眺め、資源の確認をし、資材や、僅かばかりの備品のひとつひとつをチェックしているようでした。
だけれど、紙の一枚、ペンの一本であっても、決して動かさないように――触れないようにしているのです。
まるでわたしたちのほかには、なにも変えたくないかのように。
私には、それが不思議でしかたありません。
どうあっても、このひとが提督であるのなら、気にすることはないはずなのに。
私はぼんやりと、床に転がった首輪を見つめています。
――保護印を失うということは、ふたつの意味を持っていました。
ひとつは、保護されない、ということ。
提督の一存で、解体や、改修の指示ができるということ。
だけれど、おそらくもうひとつのほうが、私たちにとっては大切だったかもしれません。
それは、時雨さんが、時雨ちゃんではないということ。
私が、私たちではないということ。
相手の姿が見えないとき、ひとり夜の中で明日を待つとき、いつでも私たちは、それを目印にしてきました。
終わりが来た、ということなのでしょう。
嘘で成り立っていた、私たちのこれまでが終わる時が来たのでしょう。
一通りの確認が終わると、そのひとはぽつり、と口を開きました。
「お前たちに、教える義理はないんだが」
話しかけられたのだとは、はじめ思わず。
「……え、あ、はい」
生返事をすると、すこし間があいて、再び言葉が返ってきました。
――わずかに違和感を覚えたのは、それが、言葉を発するにも、考え込むにも中途半端な間だったから。
「明日、新しい提督が、やって来る」
私は、言われたことの意味を、すぐには理解できずにいました。
時雨さんは、どこかあきらめたような眼で、そのひとをじっと見ていました。
このひとは、奇妙な声で話しました。
どこか寒々しい響きのある音。
単語区切りで読み上げていく、人間離れした声です。
「お前たちは、提督を選べない」
このひとは、本当に生きてるんだろうか。
そんな考えが浮かんで、だけれど確かめることはできませんでした。
次に聞いた言葉が、私たちにとって、そのひとと交わした最後になったからです。
「そいつが何を選ぶのかは、俺の知ったことではない」
それだけ言うと、かき消えるように、そのひとはいなくなっていました。
待って、と引き留める間さえなく。
来るときにはきちんと船で訪れるのに、去るときは忽然と姿を消すのです。
それは、時雨さんの話に聞いた、提督と同じでした。
ひとつ違うことがあるとすれば――
あの人は、帽子を被ったままだった、ということだけです。
後に残ったのは、暗い顔をした時雨さんと、私と、床に落ちたふたつの保護印だけ。
しん、と静まった執務室で、私たちは立ち竦んでいました。
どれくらいそうしていたでしょうか。
気付けば、窓の外には夕暮れが広がっていました。
夢じゃないのだとわかっていて、だけれど夢の方が何倍もましでした。
「ぼくたち、捨てられたのかもしれない」
ぼそりと、低く呟かれた言葉。
時雨さんは、じっと床を見つめていました。
これからのことを考える時間が、必要でした。
「時雨さん」
その名前を呼ぶと、
「……さみだれ」
力なくそう呼び返して、きゅ、と私の左手を握りました。
細く滑らかな指にこもった熱が、じんわりと伝わってきます。
「握ってて、くれないかな」
はい、と答えて、手を取ります。
離したくありませんでした。
なくしたく、ありませんでした。
時雨さんの手は震えていました。
「怖いよ」
それは、先ほどと同じ言葉でした。
「混乱してる。うまく考えがまとまらない。……怖い」
ぽつり、ぽつりと、震える声で、時雨さんは言葉をこぼします。
「こんな終わり方、望んでなんて――」
その時でした。
――くぅ、と。
時雨さんのお腹が鳴りました。
「……あ」
――お昼前から、何も食べずにいたのでした。
どんなに酷いときにも、悲しいときにでも、お腹は空きます。
時雨さんは困ったように眉を下げて、
「ご、ごめん。こんな時に」
耳まで赤くして、顔を伏せます。
でも、それでよいのでした。
私は時雨さんとつないだ手を、ゆっくりと握り返して。
「おゆはん、作りましょうか」
そう尋ねます。
「……うん」
時雨さんは素直に頷きました。
「最後の晩餐、かもしれないから」
「じゃあ、時雨さんの好きなものにしましょう」
そう答えて、何にしようかと考えます。
いまここにいるのは、時雨さんと私だけ。
提督のいない世界に、秘書艦がいてもしかたありません。
何を演じる必要もありませんでした。
何をごまかす必要もありませんでした。
私は頷きました。
もう、嘘は終わりにしようと、思ったのです。
「時雨さん」
「……うん」
「ほんとうは、カレーに飽きてきてますよね」
ひとつひとつ、確かめたくて。
「うん」
苦笑が返ったことで、それが本当だとわかりました。
「私もです。クリームシチューの方が好きなんですよ」
だからひとつ、ほんとうを返して。
「知らなかったな、それは」
はっきりと伝えないことは、嘘をつくことと同じだったでしょうか。
「どの味付けがいちばん好きでした?」
「最初はね、赤ワインだったんだよ」
これは、わかっていました。
「大好きですもんね」
時雨ちゃんに頼まれて、何度も作った味付けでした。
味覚が同じだとすれば、時雨さんが嫌いな道理はありません。
「でも、どうだろう。今は……そうだね、肉じゃが風のやつなんか、僕は好きだよ」
時雨さんはそう言って、ひとつ息を吐きました。
「ねえ、五月雨」
「はい」
「僕ら、ずいぶん長いこと暮らしてきたんだねえ」
ぽつりと、言葉が零れました。
そのほんとうに、私は胸がいっぱいになります。
私たちの間にあったのは、どこまでも嘘でした。
嘘を嘘で覆い隠して、新しい嘘を出迎えて。
だけれど、それは本当なのでした。
味の好みが変わるくらい、長い長い時間を過ごしてきたのです。
ふたりきりの鎮守府で。
「それなら、今日のおゆはんは、カレーです」
「いいの?」
きみの好きなものにしていいのに。
そう言いたいのだと、わかっていました。
「だって、最後の晩餐だったら」
私は時雨さんに笑いかけます。
「一番自信のある料理を、食べてもらいたいですからね」
野菜を切る音。
鍋の中のお湯が煮立つ音。
夕暮れ時の鎮守府に、カレーの匂いが広がります。
「いつぶりだろ。なんだか、こうやって待つの、懐かしいや」
時雨さんが提督をしているときには、いつも食欲がないから、と、晩御飯を食べずにいました。
私が提督をしているときには、時雨さんは日が暮れるまで、ずっと出撃を繰り返していました。
お鍋に野菜と、冷凍していたお肉を放り込んで、蓋をします。
あとは煮えるのを、じっくりと待つだけ。
私は鍋がぐつぐつするのを見届けながら、顔を見ずに呼びかけます。
「時雨さん」
「……うん」
「おゆはん食べたら、一緒に、海に行きませんか」
出撃できないのだと、わかっていました。
私たちには沈むことすら、もはや選べないのだと。
「――うん。一緒に、行こう」
それでも、時雨さんはそう答えてくれました。
それからは、時雨さんは物思いに沈んでいて。
晩御飯を食べて、ごちそうさま、おいしかった、ありがとう、と言ってくれたあとは、ずっと何かを考えこんでいました。
窓の外ではゆっくりと、日が沈んでゆきました。
八時を少し過ぎたころでしょうか。
どちらからともなく立ち上がると、時雨さんが私に、右手を差し伸べました。
一緒に。
その言葉の通りに、私たちは歩いてゆきます。
――波の音だけが騒がしくて、星の光のほかには、暗闇だけがある夜の海。
ふたり並んで、ぺたり、と埠頭に座り込みます。
手をつないで、それをずっと眺めていました。
わかっていました。
これが最後になるのだと。
時雨さんも私も、わかっていました。
たとえ、新しい提督がどんな人であったとしても。
これまでの私たちは、今日が最後になるのです。
「いつまでも続くものだと思っていました」
「……僕もだよ」
率直に、そんな本当を伝え合って。
そうして、ようやく私は、伝えたかった本当を口にします。
「ごめんなさい。時雨さん」
「どうして謝るのさ」
そう尋ねる時雨さんの声には、だけれど意外そうな響きはありません。
私は気付きました。
時雨さんも、私が気付いたことに、気が付いたようでした。
だから、まっすぐに時雨さんへ、本当だけを伝えます。
「ずっと、あなたに、嘘をついてきたからです」
「――覚えてるんだね」
それは、確認の言葉でした。
「はい」
「そうだね、……そうか。いつから?」
「あなたが、はじめて提督を辞めた日からです」
そう答えると、少しだけ、時雨さんの指に力がこもりました。
そこまでだとは、予想していなかったのかもしれません。
「……五月雨、どうして、って聞いていいかな」
だから、続く言葉は少しだけ揺れていました。
どうして、嘘をついていたのか。
どうして、僕の嘘に付き合ってくれたのか。
あるいは、どうして――提督に、なってくれたのか。
答えはひとつでした。
「あなたが、酷い顔をしていたから」
「うん」
「私が最後の一人になって、母港に戻るたびに、ほっとしたような、苦しいような、辛いような顔をしていたから」
「――うん」
「……嘘をつきました。あなたのそんな顔を見たくなかった」
私も、いいえ、おそらく時雨さんも。
きっと、耐えられなかったからなのでしょう。
自分で頑張ることは、いくらでもできました。
だけれど、それが時雨さんを苦しめているのだとわかっていて。
そうして、嘘をついたのです。
「記憶があるなら、僕を殺してくれたっていいだろう」
それは、疲れを滲ませた言葉でした。
「怖かったんです。あなたが望むのなら、本当に殺してしまいそうで」
「何度も言ったよ。いいんだ、って」
「私はいつも、だめです、って言いました」
「……優しすぎる。残酷だ」
時雨さんは喘ぐようにそれだけ言って顔を伏せて、
「時雨さんは自分勝手です」
私は繋いだ左手に、すこし力を込めました。
「置いていかないでください。あなたがいなかったら、私だって寂しいんです」
そんなまっすぐな言葉を、もっと早く伝えていたら、なにかが変わったでしょうか。
こんな日を迎えるまでのあいだを、違う形で過ごせたでしょうか。
後悔は、するだけ意味がないことだとわかっていました。
私たちには、もう今しかなかったのです。
「――ほんとうは、いっしょに逃げませんか、と言うつもりでした」
「……でも、それは叶わないんだろう」
海に出られない艦娘が、どうやって逃げ出せるというのでしょう。
「なので、いっしょに沈みますか、とも考えました」
「奇遇だね」
時雨さんはあっさりと同意して、
「そのつもりで、海に来たんじゃないのかな」
あっけらかんと答える姿に、
「違いますよ」
そう答えました。
「たぶん……巻き戻されてしまうんでしょうから」
「たぶん、ね」
私たちが閉じ込められた、毎日を繰り返し続ける鎮守府で。
沈むことは、なくすことでした。
時雨ちゃんが、懐かしいと言ったカレーの味も。
時雨さんが語り続けた、遠い遠い昔の記憶も。
私たちが過ごしてきた、その一日一日を。
「……やだ、なあ」
「五月雨」
「そうしたら、私は時雨さんを忘れて。時雨さんも私を忘れて――」
「……うん」
「なにもなかったことに、なるんですね」
時雨さんがおそれたもの。
私が嫌がったこと。
どうして、という問いへの答えは、きっとそれなのでした。
自分が自分でなくなること、だけではなく。
――狂っていても、失いたくはなかったのです。
示し会わせることはなく。
だけど、同じことを考えていたのでした。
「……だって、時雨さんには、それができたんですよ」
わかっていたはずです。
「五月雨だって、できたはずだ」
わかっていました。
私たちはそれを選ばないのだと。
他の誰でもなく、あなたには生きていてほしいのだと。
「できませんよ」
「うん。できなかった」
頷きあいます。
選ばなかったから、私たちはここにいるのでした。
夜の海は、どこまででも水平線が広がっています。
「もうひとつ、本当のことを言って、いいですか」
「……いくらでも、聞くよ」
ありがとう、と伝えて、私は海を見渡します。
「ほんとうは――あの向こうまで、進んでみたいんです」
誰もいない海には、どこまでも水平線だけが続いていました。
だけれど、それは本当の姿では、ないはずでした。
あのひとが渡ってきた船。
あるいは、時雨ちゃんがいたはずの、どこかの鎮守府。
海の向こうには、そんなあらゆるものが、あるはずなのでした。
「あまりにも遅くなってしまったけれど――あなたと、進んで行きたいんです」
望んでも、届かないとわかっていて。
それでも望むことをやめられなかったそれを、希望と呼んでもいいでしょうか。
「僕も同じ気持ちだよ。嫌だ。きみを失いたくない」
「……はい」
「だから、ずっと、考えてたんだ。この先には、ほんとうに、終わりだけしかないんだろうか」
提督でなくなって。
首飾りをなくして。
いつでも替えのきく私たち。
それはあるべき姿のはずでした。
だけれど、私にとって、時雨さんは時雨さんだけで。
同じ顔で、同じ声で、替えの効くだけの女の子。
だけれど、違います。
あなたは特別なのでした。
たったひとりの特別なのでした。
時雨さんにとっても――私が、そうであればいいと思います。
ぎゅう、と左手が強く握りしめられて、
「ねえ、五月雨」
時雨さんが真面目な声で、私の名前を呼びました。
「ほんとうの提督の顔、思い出せるかい」
投げかけられた問いに、私は首を振ります。
「……あのひとは、記憶にない顔でした」
だけれど、その提督は、べつのひとになるのだと言っていました。
今、それを確かめることに、どんな意味があるでしょう。
私の顔に浮かんだ戸惑いに、時雨さんは気が付いていました。
「僕は覚えてる。だから言うんだけれど」
気づいていて、だけれど伝えなくてはいけないことがあるのだと、そう言葉をつづけました。
「――あのひとは、本当の提督じゃないよ」
私はふと、先ほどの時雨さんの言葉を思い出します。
捨てられたのかもしれない。
それは、言葉通りの意味、だったのでしょうか。
「それって――」
「わからない。だけど、絶対に違うよ」
時雨さんはおかしそうに笑います。
「だって、提督は僕より、ずっと背が高かったんだもの」
本当の提督ではない、のだとして。
「……じゃあ、新しい提督も、偽者なんでしょうか」
そうなんだろうね、と時雨さんは息を吐きます。
「だとして――どうして、帽子を渡そうなんて思ったのかな」
言葉が指しているのは、きっと時雨さんの記憶だけにある姿に向けて。
「……それは、わからない、ですけど」
言いながら、ひとつ違和感を覚えました。
帽子を、渡すこと。
私たちがそうしたように、それは権限を渡すことでした。
だけれど、それだけではなかったはずでした。
帽子だけでは――だめなのです。
私たちが不完全に、権限を手にしたように。
あのひとが私の頭から、帽子を奪い取れたように。
私は最初の船でした。
ここに来る前、遥か昔の記憶。
学んだことがあるはずでした。
検知。報告。対応。
「――いいえ」
「うん?」
言葉にするには、それは微かな閃きです。
だけれどそれは、形を持っていました。
罪の形。
それは、あの日被った帽子のような――
「……もう少しだけ。あと少しだけ、諦めないでいて、いいですか」
そんな言葉が口をつきました。
言いながら、手に力が入ったことに気が付いて、時雨さんを見つめます。
時雨さんは微笑みます。
手を柔らかく握り返されて、
「僕にできることはあるかな」
そう、真面目に尋ねてくれます。
勿論、ありました。
だけれど、それを口にするには、やはり勇気が要りました。
「一生に一度の、お願いをしていいですか」
「……うん」
何度も何度も、私は時雨さんの言葉を聞いてきました。
形を変え、時には隠し、それでもこのひとは、私に語り続けてきました。
長い長い時間をかけて。
何度も何度も繰り返しながら。
なにもなかったことにせず、ひとつひとつ確かめるように。
それは懺悔なのでした。
だから私は、この人なら、と思うのです。
どこまででも、時雨さんとなら、行けるように思えるのです。
息を吸い込んで、よし、とひとつ頷いて。
後悔することになっても、言わなければならないと思ったから。
時雨さんの手を、ぎゅっと握ります。
この手を離してはいけないのだと、強く思い。
その手を離さないために、私ができるたったひとつのことを、伝える覚悟を決めました。
すぅ、とひとつ息を吸って、はっきりと口にします。
「私の提督になってください。いつでも、いつまでも、私の提督でいてください」
その言葉に、時雨さんは泣き出しそうな顔をしました。
「――僕は、何度もきみを沈めようとしたんだよ」
そんな嘘は、百も承知でした。
「だけれど、私は沈んでいません」
あなたが、そうしてくれたからでした。
「きみと同じ顔の子を、百の単位で沈めてる」
私が母港に残された、最後のふたりになるまでのあいだ、時雨ちゃんと、私たちは、なんども出撃を繰り返して。
「私だって、時雨ちゃんが沈むのを何度も見捨ててます」
そうして私を旗艦にして、時雨ちゃんを僚艦にして、たくさん繰り返してきたのでした。
「……きっと僕は、いつか同じように間違うよ」
そうなのかもしれません。
「いいんです、間違っても」
「よくないよ」
「よくなくないです」
それで、いいのでした。
「だって……こんどきみを失ったら、僕はどうすればいい」
時雨さんの言い分はもっともでした。
「悲しんでください。忘れないでください。しばらくは落ち込んでいてください――だけど」
「だけど?」
「そのあとちゃんと立ち直って、前に進んでください」
「……怖いね、それは」
「このまま、なにも伝えられないまま、どこかへ消えるほうが、もっと怖いです」
そう言って、私は時雨さんに、閃いた計画を伝えました。
――あるべきものを、そうではない姿にすること。
話を聞き終わると、時雨さんは暫く言葉を失いました。
許されるはずはありませんでした。
「それが、希望だとしたら」
時雨さんの手は震えていました。
「……これも、罰だろうか」
その手に私の手を重ね、両手でそっと包みます。
私の手も、やはり震えていました。
「私がいます」
その言葉に、嘘はありません。
「あなたが重ねた罪は、選ばなかった私の罪です。そうして、私は新しく――罪を重ねようとしています」
間違っているのでしょう。
私は、どこまでも間違った答えを選ぼうとしているのでしょう。
「これからの一生をかけて、私はすべての罰を受けていこうと思います。それはたぶん、とても怖いことで、だから――」
そうと分かったうえで、それでもあなたと歩きたいから、
「ずっといっしょに、生きてくれますか?」
愛の告白にも似た言葉でした。
同じようなものだとわかっていました。
病めるときも、健やかなる時も。
一生をかけて、ふたりで共犯者になること。
時雨さんはあのときと同じように天を仰いで、ふう、とひとつ息を吐き。
だけれど今度は、目を逸らさずに私を見据えて。
「――わかったよ。約束する。僕は、ずっと、きみの提督だ」
そうして、少し照れたように、
「これから……ううん」
一度だけ首を振り、
「これからも、よろしくね」
時雨さんは微笑んだのでした。