電子の海でふたりきり   作:梶五日

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6.午前十一時の希望

 終わりは突然やって来ます。

 初夏のある日のことでした。

 波の音が聞こえました。

 それは船の音でもありました。

 この鎮守府へと進む、船が一隻ありました。

 日付の感覚をなくして久しい私です。

 それでも、わかることがありました。

 海の上にいる彼女へ、緊急の連絡を取ります。

 『さ、……提督? 何かあったの?』

 普段行われない出来事に、彼女は動揺しているようでした。

 私を提督と呼ぶことさえ忘れそうになるほどに。

 だけれどそれは、正しい呼び方でした。

 紛い物の私たちです。

 名前で呼んでよいのでした。

 本当はきっと、ずっと前から、そうするべきだったのです。

 「五月雨、でいいですよ」

 彼女に事態を伝えるための言葉は、ひとつの形を取ります。

 ずいぶん昔に覚えたような、定型文が口をつきました。

 「提督が鎮守府に着任しました。これより艦隊の指揮を執ります」

 無線の向こうで、はっと息を呑む気配がします。

 『――わかった。戻る』

 短く答えて、時雨さんは通信を切りました。

 言葉の端に、焦りの色がありました。

 私の声にも、恐らく硬さがあったでしょう。

 喜ぶべきことのはずでした。

 始まりの予感に胸を躍らせていいはずでした。

 それなのに、止めどなく溢れる不安を、私は抑えられずにいます。

 ねえ、時雨さん。

 わたしたちが待ち焦がれた終わりの形は、こんなものだったでしょうか。

 

 

 船は時間をかけて、次第にこちらへと進んできます。

 「戻ったよ!」

 執務室の扉を開け放って、時雨さんが飛び込んできます。

 これほどまでに慌てているこのひとを見るのは、はじめてかもしれません。

 時雨さんは私の姿をみとめると、ひとつため息をつきました。

 「間に合ったのかな」

 そう尋ねる声に、安堵の色が滲んでいました。

 「……ただいま、て――」

 「五月雨」

 その言葉を遮って、

 「へ?」

 呆気にとられる時雨さんに、

 「ちゃんと、名前で呼んでください」

 そんな要求を突きつけました。

 「……た、ただいま、五月雨」

 「はい。おかえりなさい――時雨さん」

 それは、せめてもの抵抗だったのかもしれません。

 お互いの名前を呼びあうことさえ、できなかった今日までへの。 

 

 私たちはいつからか、お互いの目を見なくなりました。

 嘘が伝わることを恐れて、あるいは、ほんとうが返ってこないことをおそれて。

 私たちはどちらからともなくそうしたのです。

 言葉を聞いていても、それを聴くことはなく。

 話していても、お喋りをすることもなく。

 繰り返すたびに、言葉はかわいていくものです。

 ふたりぼっちのわたしたちは、届かなくても良い独り言を一生懸命ふたつあつめて、空っぽの毎日をやり過ごしてきたのでした。

 

 何ができるわけでもなく、長い長い待ち時間。

 時雨さんは落ち着かなそうに、うろうろとあたりを歩き回っていました。

 「……五月雨、あのさ」

 「はい」

 「怖いよ」

 こくり、と頷きます。

 心の準備は、できていませんでした。

 私たちはどこかで、その日を待ち望んでいたはずでした。

 すべてが終わることを、あるいは始まることを。

 それなら、迷うことなんてなにもないはずなのに。

 「なんて声をかければいいだろう。どんな顔して話しかければいいだろう」

 そう言って時雨さんは狼狽えます。

 「ええと、はじめまして?」

 ――気が動転していたのです。

 「五月雨はそうかもしれないけど……ああ」

 時雨さんはふと、思い出したように呟きました。 

 「おかえりなさい、だ」

 もしかすると、淡い期待があったのかもしれません。

 はじめての船としての記憶をなくした私が、提督と再会することでそれを取り戻す。

 そんな筋書きは、もしかすると、ちょっとした希望と呼んでいいものかもしれませんでした。

 そうなればいいな、と思いながら、私は窓の外を眺めます。

 

 船は初夏の海を渡り、やがて岸へと辿り着きました。

 そうして、すこし小柄な人影が姿を表すと、迷わず敷地の中へ足を踏み入れました。 

 「来た、のかな」

 時雨さんの声に頷きます。

 「出迎え、忘れてましたね」

 「あの子たちでも並べておけばよかったかな。どう思う?」

 寝室で眠っている、たくさんの時雨ちゃんや私のことを言っているのであれば、

 「それはちょっと、趣味が悪いです」

 わかってる、とため息が返りました。

 「前から思ってたけど、五月雨、こういう冗談はあまり好きじゃ――」

 こん、こん、とノックの音が聞こえて、時雨さんは口をつぐみます。

 ――来たみたいだね。

 そう視線を私に投げかけて、

 「どうぞ」

 そう、扉の外へ声を掛けました。

 

 

 執務室へ入ってきたのは、少し細身の男性のかたでした。

 ――私はなくしていました。

 かつての提督との記憶を、すべて。

 顔を見れば思い出すかもしれない。

 そんな期待が、なかったと言えば嘘になります。

 だけれど、なにもありませんでした。

 白の軍服に、ぼさぼさに伸びた黒い髪。

 あまり健康的には見えない肌。

 そんな知らない男のひとが、やってきたというだけでした。

 だから私は、なにも言えずに立っていたのです。

 時雨さんの表情は、強ばっていました。

 困惑。疑心、それから、失望。

 感情がない交ぜになったようでした。

 それでも、黙っているわけにはいかなかったのでしょう。

 「あ、あの、おかえりなさい」

 そう声を掛けると、そのひとはじいっと時雨さんを見つめました。

 まるで、値踏みするように。

 気まずい沈黙が、一分近く続いたころです。

 そのひとは、私に気が付いたようでした。

 そうして、ひょい、と手を伸ばすと、

 「あ、あれ?」

 私の頭から帽子を軽々と奪い取りました。

 ――お恥ずかしながら、ずっと被ったままでいたのでした。

 提督が来る、って自分で言っておきながら、頭にのせてお出迎えしてしまったのです。

 時雨さんはつられて苦笑しながら、ごめん、と目配せをしました。

 言ってほしかったです、と目で訴えかけてみると、穏やかな笑みが返ります。

 その笑いには、どこか懐かしむような気配がありました。

 もしかすると、いつか、私の知らない昔のことを、思い出していたのでしょうか。

 和やかな雰囲気のなか、その人は帽子を被ると、おもむろに私の首に手を伸ばし。

 ぱちり、と何かが外れる音がしました。

 

 「……えっ?」

 

 時雨さんが声を漏らしたのと、それがごとりと床に落ちたのは、ほとんど同時だったと思います。

 思わず首に手をやります。

 つるりとした肌の感触だけがありました。

 床には、時雨さんの首にあるものと同じ、桃色の首輪が転がっています。

 首飾りが、私たちを見分けていたしるしが、――保護印が。

 あっけなく外されていました。

 「……何を」

 呆然と、時雨さんが口にします。

 「いま、何をしたの」

 男の人は、それに答えることはなく、かわりに時雨さんの保護印を、同じように外しました。

 その意味が分からないほど、時雨さんも私も、無知ではありません。

 「……僕たちを、どうするつもりなのさ」

 時雨さんの問い掛けに、けれども答えはありません。

 そのひとは懐から手帳を取り出すと、あれこれとあちこちを眺めては、なにかをさらさらと書き付けはじめました。

 家具を眺め、資源の確認をし、資材や、僅かばかりの備品のひとつひとつをチェックしているようでした。

 だけれど、紙の一枚、ペンの一本であっても、決して動かさないように――触れないようにしているのです。

 まるでわたしたちのほかには、なにも変えたくないかのように。

 私には、それが不思議でしかたありません。

 どうあっても、このひとが提督であるのなら、気にすることはないはずなのに。

 

 私はぼんやりと、床に転がった首輪を見つめています。

 ――保護印を失うということは、ふたつの意味を持っていました。

 ひとつは、保護されない、ということ。

 提督の一存で、解体や、改修の指示ができるということ。

 だけれど、おそらくもうひとつのほうが、私たちにとっては大切だったかもしれません。

 それは、時雨さんが、時雨ちゃんではないということ。

 私が、私たちではないということ。

 相手の姿が見えないとき、ひとり夜の中で明日を待つとき、いつでも私たちは、それを目印にしてきました。

 終わりが来た、ということなのでしょう。

 嘘で成り立っていた、私たちのこれまでが終わる時が来たのでしょう。

 

 一通りの確認が終わると、そのひとはぽつり、と口を開きました。

 「お前たちに、教える義理はないんだが」

 話しかけられたのだとは、はじめ思わず。

 「……え、あ、はい」

 生返事をすると、すこし間があいて、再び言葉が返ってきました。

 ――わずかに違和感を覚えたのは、それが、言葉を発するにも、考え込むにも中途半端な間だったから。

 「明日、新しい提督が、やって来る」

 私は、言われたことの意味を、すぐには理解できずにいました。

 時雨さんは、どこかあきらめたような眼で、そのひとをじっと見ていました。

 このひとは、奇妙な声で話しました。

 どこか寒々しい響きのある音。

 単語区切りで読み上げていく、人間離れした声です。

 「お前たちは、提督を選べない」

 このひとは、本当に生きてるんだろうか。

 そんな考えが浮かんで、だけれど確かめることはできませんでした。

 次に聞いた言葉が、私たちにとって、そのひとと交わした最後になったからです。

 「そいつが何を選ぶのかは、俺の知ったことではない」

 それだけ言うと、かき消えるように、そのひとはいなくなっていました。

 待って、と引き留める間さえなく。

 来るときにはきちんと船で訪れるのに、去るときは忽然と姿を消すのです。

 それは、時雨さんの話に聞いた、提督と同じでした。

 ひとつ違うことがあるとすれば――

 あの人は、帽子を被ったままだった、ということだけです。

 後に残ったのは、暗い顔をした時雨さんと、私と、床に落ちたふたつの保護印だけ。 

 しん、と静まった執務室で、私たちは立ち竦んでいました。

 

 

 

 どれくらいそうしていたでしょうか。

 気付けば、窓の外には夕暮れが広がっていました。

 夢じゃないのだとわかっていて、だけれど夢の方が何倍もましでした。

 「ぼくたち、捨てられたのかもしれない」

 ぼそりと、低く呟かれた言葉。

 時雨さんは、じっと床を見つめていました。

 これからのことを考える時間が、必要でした。

 「時雨さん」

 その名前を呼ぶと、

 「……さみだれ」

 力なくそう呼び返して、きゅ、と私の左手を握りました。

 細く滑らかな指にこもった熱が、じんわりと伝わってきます。

 「握ってて、くれないかな」

 はい、と答えて、手を取ります。

 離したくありませんでした。

 なくしたく、ありませんでした。

 時雨さんの手は震えていました。

 「怖いよ」

 それは、先ほどと同じ言葉でした。

 「混乱してる。うまく考えがまとまらない。……怖い」

 ぽつり、ぽつりと、震える声で、時雨さんは言葉をこぼします。

 「こんな終わり方、望んでなんて――」

 その時でした。

 

 ――くぅ、と。

 

 時雨さんのお腹が鳴りました。

 「……あ」

 ――お昼前から、何も食べずにいたのでした。

 どんなに酷いときにも、悲しいときにでも、お腹は空きます。

 時雨さんは困ったように眉を下げて、

 「ご、ごめん。こんな時に」

 耳まで赤くして、顔を伏せます。

 でも、それでよいのでした。

 私は時雨さんとつないだ手を、ゆっくりと握り返して。

 「おゆはん、作りましょうか」

 そう尋ねます。

 「……うん」

 時雨さんは素直に頷きました。

 「最後の晩餐、かもしれないから」

 「じゃあ、時雨さんの好きなものにしましょう」

 そう答えて、何にしようかと考えます。

 いまここにいるのは、時雨さんと私だけ。

 提督のいない世界に、秘書艦がいてもしかたありません。

 何を演じる必要もありませんでした。

 何をごまかす必要もありませんでした。

 私は頷きました。

 もう、嘘は終わりにしようと、思ったのです。

 「時雨さん」

 「……うん」

 「ほんとうは、カレーに飽きてきてますよね」

 ひとつひとつ、確かめたくて。

 「うん」

 苦笑が返ったことで、それが本当だとわかりました。

 「私もです。クリームシチューの方が好きなんですよ」

 だからひとつ、ほんとうを返して。

 「知らなかったな、それは」

 はっきりと伝えないことは、嘘をつくことと同じだったでしょうか。

 「どの味付けがいちばん好きでした?」

 「最初はね、赤ワインだったんだよ」

 これは、わかっていました。

 「大好きですもんね」

 時雨ちゃんに頼まれて、何度も作った味付けでした。

 味覚が同じだとすれば、時雨さんが嫌いな道理はありません。

 「でも、どうだろう。今は……そうだね、肉じゃが風のやつなんか、僕は好きだよ」

 時雨さんはそう言って、ひとつ息を吐きました。

 「ねえ、五月雨」

 「はい」

 「僕ら、ずいぶん長いこと暮らしてきたんだねえ」

 ぽつりと、言葉が零れました。

 そのほんとうに、私は胸がいっぱいになります。

 私たちの間にあったのは、どこまでも嘘でした。

 嘘を嘘で覆い隠して、新しい嘘を出迎えて。

 だけれど、それは本当なのでした。

 味の好みが変わるくらい、長い長い時間を過ごしてきたのです。

 ふたりきりの鎮守府で。

 「それなら、今日のおゆはんは、カレーです」

 「いいの?」

 きみの好きなものにしていいのに。

 そう言いたいのだと、わかっていました。

 「だって、最後の晩餐だったら」

 私は時雨さんに笑いかけます。

 「一番自信のある料理を、食べてもらいたいですからね」

 

 

 野菜を切る音。

 鍋の中のお湯が煮立つ音。

 夕暮れ時の鎮守府に、カレーの匂いが広がります。

 「いつぶりだろ。なんだか、こうやって待つの、懐かしいや」

 時雨さんが提督をしているときには、いつも食欲がないから、と、晩御飯を食べずにいました。

 私が提督をしているときには、時雨さんは日が暮れるまで、ずっと出撃を繰り返していました。

 お鍋に野菜と、冷凍していたお肉を放り込んで、蓋をします。

 あとは煮えるのを、じっくりと待つだけ。

 私は鍋がぐつぐつするのを見届けながら、顔を見ずに呼びかけます。

 「時雨さん」

 「……うん」

 「おゆはん食べたら、一緒に、海に行きませんか」

 出撃できないのだと、わかっていました。

 私たちには沈むことすら、もはや選べないのだと。

 「――うん。一緒に、行こう」

 それでも、時雨さんはそう答えてくれました。

 

 

 それからは、時雨さんは物思いに沈んでいて。

 晩御飯を食べて、ごちそうさま、おいしかった、ありがとう、と言ってくれたあとは、ずっと何かを考えこんでいました。

 窓の外ではゆっくりと、日が沈んでゆきました。

 八時を少し過ぎたころでしょうか。

 どちらからともなく立ち上がると、時雨さんが私に、右手を差し伸べました。

 一緒に。

 その言葉の通りに、私たちは歩いてゆきます。

 ――波の音だけが騒がしくて、星の光のほかには、暗闇だけがある夜の海。

 ふたり並んで、ぺたり、と埠頭に座り込みます。

 手をつないで、それをずっと眺めていました。

 わかっていました。

 これが最後になるのだと。

 時雨さんも私も、わかっていました。

 たとえ、新しい提督がどんな人であったとしても。

 これまでの私たちは、今日が最後になるのです。

 「いつまでも続くものだと思っていました」

 「……僕もだよ」

 率直に、そんな本当を伝え合って。

 そうして、ようやく私は、伝えたかった本当を口にします。

 「ごめんなさい。時雨さん」

 「どうして謝るのさ」

 そう尋ねる時雨さんの声には、だけれど意外そうな響きはありません。

 私は気付きました。

 時雨さんも、私が気付いたことに、気が付いたようでした。

 だから、まっすぐに時雨さんへ、本当だけを伝えます。

 「ずっと、あなたに、嘘をついてきたからです」

 「――覚えてるんだね」

 それは、確認の言葉でした。

 「はい」

 「そうだね、……そうか。いつから?」

 「あなたが、はじめて提督を辞めた日からです」

 そう答えると、少しだけ、時雨さんの指に力がこもりました。

 そこまでだとは、予想していなかったのかもしれません。

 「……五月雨、どうして、って聞いていいかな」

 だから、続く言葉は少しだけ揺れていました。

 どうして、嘘をついていたのか。

 どうして、僕の嘘に付き合ってくれたのか。

 あるいは、どうして――提督に、なってくれたのか。

 答えはひとつでした。

 「あなたが、酷い顔をしていたから」

 「うん」

 「私が最後の一人になって、母港に戻るたびに、ほっとしたような、苦しいような、辛いような顔をしていたから」

 「――うん」

 「……嘘をつきました。あなたのそんな顔を見たくなかった」

 私も、いいえ、おそらく時雨さんも。

 きっと、耐えられなかったからなのでしょう。

 自分で頑張ることは、いくらでもできました。

 だけれど、それが時雨さんを苦しめているのだとわかっていて。

 そうして、嘘をついたのです。

 「記憶があるなら、僕を殺してくれたっていいだろう」

 それは、疲れを滲ませた言葉でした。

 「怖かったんです。あなたが望むのなら、本当に殺してしまいそうで」

 「何度も言ったよ。いいんだ、って」

 「私はいつも、だめです、って言いました」

 「……優しすぎる。残酷だ」

 時雨さんは喘ぐようにそれだけ言って顔を伏せて、

 「時雨さんは自分勝手です」

 私は繋いだ左手に、すこし力を込めました。

 「置いていかないでください。あなたがいなかったら、私だって寂しいんです」

 そんなまっすぐな言葉を、もっと早く伝えていたら、なにかが変わったでしょうか。

 こんな日を迎えるまでのあいだを、違う形で過ごせたでしょうか。

 後悔は、するだけ意味がないことだとわかっていました。

 私たちには、もう今しかなかったのです。

 「――ほんとうは、いっしょに逃げませんか、と言うつもりでした」

 「……でも、それは叶わないんだろう」

 海に出られない艦娘が、どうやって逃げ出せるというのでしょう。

 「なので、いっしょに沈みますか、とも考えました」

 「奇遇だね」

 時雨さんはあっさりと同意して、

 「そのつもりで、海に来たんじゃないのかな」

 あっけらかんと答える姿に、

 「違いますよ」

 そう答えました。

 「たぶん……巻き戻されてしまうんでしょうから」

 「たぶん、ね」

 私たちが閉じ込められた、毎日を繰り返し続ける鎮守府で。

 沈むことは、なくすことでした。

 時雨ちゃんが、懐かしいと言ったカレーの味も。

 時雨さんが語り続けた、遠い遠い昔の記憶も。

 私たちが過ごしてきた、その一日一日を。

 「……やだ、なあ」

 「五月雨」

 「そうしたら、私は時雨さんを忘れて。時雨さんも私を忘れて――」

 「……うん」

 「なにもなかったことに、なるんですね」

 時雨さんがおそれたもの。

 私が嫌がったこと。

 どうして、という問いへの答えは、きっとそれなのでした。

 自分が自分でなくなること、だけではなく。

 ――狂っていても、失いたくはなかったのです。

 示し会わせることはなく。

 だけど、同じことを考えていたのでした。

 「……だって、時雨さんには、それができたんですよ」

 わかっていたはずです。

 「五月雨だって、できたはずだ」

 わかっていました。

 私たちはそれを選ばないのだと。

 他の誰でもなく、あなたには生きていてほしいのだと。

 「できませんよ」

 「うん。できなかった」

 頷きあいます。

 選ばなかったから、私たちはここにいるのでした。

 夜の海は、どこまででも水平線が広がっています。

 「もうひとつ、本当のことを言って、いいですか」

 「……いくらでも、聞くよ」

 ありがとう、と伝えて、私は海を見渡します。

 「ほんとうは――あの向こうまで、進んでみたいんです」

 誰もいない海には、どこまでも水平線だけが続いていました。

 だけれど、それは本当の姿では、ないはずでした。

 あのひとが渡ってきた船。

 あるいは、時雨ちゃんがいたはずの、どこかの鎮守府。

 海の向こうには、そんなあらゆるものが、あるはずなのでした。

 「あまりにも遅くなってしまったけれど――あなたと、進んで行きたいんです」

 望んでも、届かないとわかっていて。

 それでも望むことをやめられなかったそれを、希望と呼んでもいいでしょうか。

 「僕も同じ気持ちだよ。嫌だ。きみを失いたくない」

 「……はい」

 「だから、ずっと、考えてたんだ。この先には、ほんとうに、終わりだけしかないんだろうか」

 提督でなくなって。

 首飾りをなくして。

 いつでも替えのきく私たち。

 それはあるべき姿のはずでした。

 だけれど、私にとって、時雨さんは時雨さんだけで。

 同じ顔で、同じ声で、替えの効くだけの女の子。

 だけれど、違います。

 あなたは特別なのでした。

 たったひとりの特別なのでした。

 時雨さんにとっても――私が、そうであればいいと思います。

 ぎゅう、と左手が強く握りしめられて、

 「ねえ、五月雨」

 時雨さんが真面目な声で、私の名前を呼びました。

 「ほんとうの提督の顔、思い出せるかい」

 投げかけられた問いに、私は首を振ります。

 「……あのひとは、記憶にない顔でした」

 だけれど、その提督は、べつのひとになるのだと言っていました。

 今、それを確かめることに、どんな意味があるでしょう。

 私の顔に浮かんだ戸惑いに、時雨さんは気が付いていました。

 「僕は覚えてる。だから言うんだけれど」

 気づいていて、だけれど伝えなくてはいけないことがあるのだと、そう言葉をつづけました。

 「――あのひとは、本当の提督じゃないよ」

 私はふと、先ほどの時雨さんの言葉を思い出します。

 捨てられたのかもしれない。

 それは、言葉通りの意味、だったのでしょうか。

 「それって――」

 「わからない。だけど、絶対に違うよ」

 時雨さんはおかしそうに笑います。

 「だって、提督は僕より、ずっと背が高かったんだもの」

 本当の提督ではない、のだとして。

 「……じゃあ、新しい提督も、偽者なんでしょうか」

 そうなんだろうね、と時雨さんは息を吐きます。

 「だとして――どうして、帽子を渡そうなんて思ったのかな」

 言葉が指しているのは、きっと時雨さんの記憶だけにある姿に向けて。

 「……それは、わからない、ですけど」

 言いながら、ひとつ違和感を覚えました。

 帽子を、渡すこと。

 私たちがそうしたように、それは権限を渡すことでした。

 だけれど、それだけではなかったはずでした。

 帽子だけでは――だめなのです。

 私たちが不完全に、権限を手にしたように。

 あのひとが私の頭から、帽子を奪い取れたように。

 私は最初の船でした。

 ここに来る前、遥か昔の記憶。

 学んだことがあるはずでした。

 検知。報告。対応。

 「――いいえ」

 「うん?」

 言葉にするには、それは微かな閃きです。

 だけれどそれは、形を持っていました。

 罪の形。

 それは、あの日被った帽子のような――

 「……もう少しだけ。あと少しだけ、諦めないでいて、いいですか」

 そんな言葉が口をつきました。

 言いながら、手に力が入ったことに気が付いて、時雨さんを見つめます。

 時雨さんは微笑みます。

 手を柔らかく握り返されて、

 「僕にできることはあるかな」

 そう、真面目に尋ねてくれます。

 

 勿論、ありました。

 だけれど、それを口にするには、やはり勇気が要りました。

 「一生に一度の、お願いをしていいですか」

 「……うん」

 何度も何度も、私は時雨さんの言葉を聞いてきました。

 形を変え、時には隠し、それでもこのひとは、私に語り続けてきました。

 長い長い時間をかけて。

 何度も何度も繰り返しながら。

 なにもなかったことにせず、ひとつひとつ確かめるように。

 それは懺悔なのでした。

 だから私は、この人なら、と思うのです。

 どこまででも、時雨さんとなら、行けるように思えるのです。

 息を吸い込んで、よし、とひとつ頷いて。

 後悔することになっても、言わなければならないと思ったから。

 時雨さんの手を、ぎゅっと握ります。

 この手を離してはいけないのだと、強く思い。

 その手を離さないために、私ができるたったひとつのことを、伝える覚悟を決めました。

 すぅ、とひとつ息を吸って、はっきりと口にします。

 「私の提督になってください。いつでも、いつまでも、私の提督でいてください」

 その言葉に、時雨さんは泣き出しそうな顔をしました。

 「――僕は、何度もきみを沈めようとしたんだよ」

 そんな嘘は、百も承知でした。 

 「だけれど、私は沈んでいません」

 あなたが、そうしてくれたからでした。

 「きみと同じ顔の子を、百の単位で沈めてる」

 私が母港に残された、最後のふたりになるまでのあいだ、時雨ちゃんと、私たちは、なんども出撃を繰り返して。

 「私だって、時雨ちゃんが沈むのを何度も見捨ててます」

 そうして私を旗艦にして、時雨ちゃんを僚艦にして、たくさん繰り返してきたのでした。

 「……きっと僕は、いつか同じように間違うよ」

 そうなのかもしれません。

 「いいんです、間違っても」

 「よくないよ」

 「よくなくないです」

 それで、いいのでした。

 「だって……こんどきみを失ったら、僕はどうすればいい」

 時雨さんの言い分はもっともでした。

 「悲しんでください。忘れないでください。しばらくは落ち込んでいてください――だけど」

 「だけど?」

 「そのあとちゃんと立ち直って、前に進んでください」

 「……怖いね、それは」

 「このまま、なにも伝えられないまま、どこかへ消えるほうが、もっと怖いです」

 そう言って、私は時雨さんに、閃いた計画を伝えました。

 ――あるべきものを、そうではない姿にすること。

 話を聞き終わると、時雨さんは暫く言葉を失いました。

 許されるはずはありませんでした。

 「それが、希望だとしたら」

 時雨さんの手は震えていました。

 「……これも、罰だろうか」

 その手に私の手を重ね、両手でそっと包みます。

 私の手も、やはり震えていました。

 「私がいます」

 その言葉に、嘘はありません。

 「あなたが重ねた罪は、選ばなかった私の罪です。そうして、私は新しく――罪を重ねようとしています」

 間違っているのでしょう。

 私は、どこまでも間違った答えを選ぼうとしているのでしょう。

 「これからの一生をかけて、私はすべての罰を受けていこうと思います。それはたぶん、とても怖いことで、だから――」

 そうと分かったうえで、それでもあなたと歩きたいから、

 「ずっといっしょに、生きてくれますか?」

 

 愛の告白にも似た言葉でした。

 同じようなものだとわかっていました。

 病めるときも、健やかなる時も。

 一生をかけて、ふたりで共犯者になること。

 時雨さんはあのときと同じように天を仰いで、ふう、とひとつ息を吐き。

 だけれど今度は、目を逸らさずに私を見据えて。

 「――わかったよ。約束する。僕は、ずっと、きみの提督だ」

 そうして、少し照れたように、

 「これから……ううん」

 一度だけ首を振り、

 「これからも、よろしくね」

 時雨さんは微笑んだのでした。

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