アクセスを確認。
照合中……照合完了。
データを送付します。
提督が鎮守府に着任しました。
これより艦隊の指揮を執ります。
――
おかえりなさい、提督。
お待ちしていました。
長旅でお疲れでしょう。
帽子、お預かりしますね。
いま、お茶をお淹れしますから。
少しだけ、お待ちくださいね。
執務室から聴こえる声に、僕は身を固くする。
来るべき時が来たんだと、わかっていた。
五月雨が帽子を片手に、扉を開けて歩いてくる。
「時雨さん」
「うん」
「大好きです」
そうして帽子を僕に預けて、お茶を淹れに台所へ向かう。
僕は手にしたそれをぎゅっと握りしめる。
あのとき、五月雨は――
どんなつもりで、この帽子を被ったんだろうと考えていた。
どうぞ、お茶で――、あっ、わ、わあぁっ。
ご、ごめんなさい。すぐ片付けますね。
扉の向こうで、がしゃんとなにか落としたような音がした。
お盆に載せたお茶を、ひっくり返したに違いなかった。
懐かしい記憶と同じように。
ぱたぱたと戻ってきて、拭くものを探す彼女に、白い雑巾を手渡す。
これが、本当の五月雨だろうと思う。
がんばり屋で、真面目で、ときどきとんでもないポカをする。
ただそれだけの、どこにでもいるはずの女の子。
その小さな肩に、どれだけの重荷を背負わせてきたんだろう。
お騒がせしました……
それにしても、ほんとうに、いつぶりでしょう。
ええ。長かったような、短かったような。
いえ。……皆さんがいましたから、寂しくはありませんでした。
はい。所属している艦娘の一覧でしたら、こちらになります。
――処分、ですか。
私だけ残して?
……わかりました。
執務室に背を向け、僕は帽子を被る。
今朝はクリームシチューを食べた。
ルーが品切れだったからだ。
懐かしい味がしたのは、遠い昔に彼女が作ってくれたから。
勿論同じ味じゃないけれど、変わらないものだってある。
なにもかもがはじまってゆく。
止まっていたものが動き出す。
だから僕はゆっくりと、使われることもなくなった通信室へ歩く。
彼女が忘れずにいてくれた、番号を控えた紙を手にして。
扉を開く。
久々に、電話の前に座る。
受話器を取る。
メモを片手にダイヤルを回そうとして、なにかが机からひらりと落ちた。
拾い上げる。
それは、随分と古いメモだ。
「あ――」
声が漏れる。
彼女の字だ。
震える手でかけた電話。
あの日、どうしようもなく失くしてしまった思い出のひとつ。
なくしたのだと、思っていた。
だけれど今、ふたつの紙が、僕の手のなかにあった。
――変わらないものがある。
それは祈りだ。
幸いあれと願う心だ。
その祈りは、夏の前に降る長い雨のように、乾き続ける大切なものを、枯れないように助けてくれた。
二つの祈りに支えられて、僕は今日まで生きてきたんだ。
執務室の音声を拾うため、受信機の電源を入れる。
そうして、ダイヤルを回した。
あの日、彼女が試したように。
それが賭けだとわかっていて、だけれどそこに後悔はない。
何度かの呼び出し音が流れて、そして誰かが口を開いた。
『――お待ちしておりました』
あの、つかぬことをお聞きしますが。
前の提督さんの、ご家族のかたですか。
いえ、顔立ちが似ておりますので。
――知らない。では、どうやってこちらに?
……ああ。
そう、だったんですね。
いえ。なんとなく、わかっていました。
そうですか。
この間、別のかたが来られたんですよ。
その人だったのかもしれませんね。
たくさんメモをとっていましたから。
いくらだったんですか――いえ。
訊いたところで何にもなりませんね。
そんなに、提督になりたかったんですか?
……そうですか。
受信機から流れる声を聴きながら、僕は電話を終える。
彼女のことが好きだった。
そうして、今でも大好きだ。
だから、もう迷わない。
長い廊下を一歩ずつ、彼女に近づくよう歩いて行く。
半開きの扉の前に立つ。
あの日彼女がしたみたいに、そっとノックをふたつ。
ふたりで決めた合図だった。
隙間から、中の様子を伺う。
五月雨と目が合った。
彼女はこくりと頷いて。
――ああ。
準備が整ったみたいですね。
お待たせしました。
私は、いえ、私たちは。
そのときの五月雨を、僕は一生忘れない自信がある。
僕を抱き締めたときと同じ、決意の顔。
思えば、きっとあの時から、僕は彼女に生かされてきたのだ。
ともすればすべての意味を見失いそうな、ふたりきりの鎮守府で。
すべてを終わりにできたはずだ。
僕はそう望んだ。彼女にはそれができた。
だけれど、その道を選ばなかった。
だから今、彼女の決めた答えに、僕は従うことにした。
帽子を深く被り直す。
ドアノブに手をかけて、彼女の次の言葉を待つ。
――私たちは、あなたを歓迎しません。
どういうことだ、ですか。
こちらの台詞です。
鎮守府に、提督はひとりですよ。
不正アクセスの通報は、既に済んでいます。
あなたは、どちらさまですか。
……私の提督は。
「――ここに、います」
ドアを開け放つ。
五月雨は砲を構えている。
男は叫ぶ。
反逆行為だ。
許されると思ってるのか。
思ってないよ。
僕は小さく笑う。
思ってないから、彼女は砲を構えているんだ。
僕は帽子を目深に被る。
「動かないでください。さもないと、撃ちます」
五月雨がそう言いながら、手際よく部屋の隅まで追いつめる。
――お前ら、よくも帽子を。
「さて、何のことでしょう」
しらを切る五月雨に、男はかっとなって殴りかかろうとする。
その頬を、砲弾が掠めた。
「降参しておいたほうがいいと思うよ。それ、当たっても死ぬわけじゃないけど、たぶん死ぬほど痛いと思う」
そう言い放つと、男は観念したようだった。
――騙しやがったな。
両手を挙げながら、呪詛のようにそう呟かれる。
そうなのかもしれない。
僕は答える。
僕たちがやったわけじゃないけれど。
きみはちょっとだけ、運が悪かったのかもしれない。
「でも、本当のことをひとつだけ言うならさ」
僕はちらりと五月雨を見やる。
「僕たちはまだ、生きていたいんだよ」
りん、と通信の音が響いて、僕はつとめて明るく電話を受ける。
――や、どうも。ご無沙汰。さっきぶりだね。
僕のことは覚えてるかい?
あ、そう。顔写真すら残ってない。
それは残念なことだ。本当にね。
入っておいでよ。ちょっと人手が足りなくてね。
ちょっと制圧を助けてくれると嬉しいな。
わかりました、という言葉とともに、扉がノックされる。
「どうぞ」
そう声を掛ければ、眼鏡をかけた、すらっとした女の人が、たったひとりで入ってきた。
もっと機動部隊だとか、大層なものをイメージしていたのだけど、結論から言えばこの人が抜群に強かった。
すたすたと平気な顔で男に近付いてきて、すっと手を添えると、あっという間に投げ飛ばした。
床に叩きつけられた自称提督は、後ろ手に錠をかけられて逮捕と相成った。
五月雨が一瞬の出来事に目を丸くしている。
僕も乾いた笑いを返すしかない。
この人がなにかしてくるとしたら、僕も五月雨も、たぶん歯が立たないだろう。
――この嘘が、許されないのだとしたら。
僕らは結局、道化を演じただけになる。
「お勤めご苦労様です」
背筋を正して、そう声を掛けた。
「いえいえ、ご連絡感謝致します」
そうにこやかに受け答えする彼女だが、その目は笑っていなかった。
「――不正アクセスというものは、なかなか現場を押さえられないものですから」
背中に汗が伝う。
不審がられていることは、わかっていた。
言外に、どうやって見つけたのかと問われていたのだった。
「まあ、こんな偶然があるものなんだね」
そう切り出してみる。
「しばらくぶりに来てみたその日に、現行犯を見つけるなんてさ」
自分で言っておきながらどうかと思うけど、まったく白々しい嘘だ。
これで誤魔化されてくれればいいんだけど。
「――あなたは運がいい」
冷たい眼でじろりと睨まれる。
やっぱり、見逃してくれるわけはないか。
――まあ、こういう終わりになるとしても、後悔はなかったんだ。
五月雨が顔を青くして、心配そうな目で僕を見る。
僕は、彼女に頷いた。
大丈夫だよ。
これなら、きみだけでも生きていける。
僕が残るより、そのほうが何倍もましだと思うんだ。
その人はじいっと僕を見つめて、そうして、大きな大きな溜め息をついた。
「不正アクセスにはいくつか定義がありますが、おおよそ、本来の持ち主ではないものが、通信経路のなかで誰かに成りすますことを指します」
そう前置きをして、苦々しげに言葉を続けた。
「ですから、運がいい、と申し上げておきましょう。確かにこの男は、外部からの成りすましを行ったようですからね」
「それって――」
「認証不要な内部からのアクセスは、想定されていないがゆえに、現状罰する規則もない、ということです。賢明なあなたはご存じかもしれませんが」
ご存じではなかった。
僕は思わず嘆息する。
五月雨の顔を見るに、あれは知らずにやったんだろう。
「そうだね。僕はたぶん、運がいいんだろう……本当に、そう思うよ」
その人は目を細めると、笑顔を作って言い放った。
「帽子、よくお似合いですよ。ぶかぶかなところとか、特に」
「ちょっと大きく作りすぎたかな。サイズ、も一度計りなおさなきゃね」
鋭い皮肉を打ち返すには、それはあまりにもへたくそな嘘だ。
苦笑が返る。そうして、手が差し伸べられた。
「ご協力に感謝します。正しい権限を、あなたにお返しします。――これからも、艦隊をよろしくお願いしますね」
それをわかった上で、この場は見逃してくれる、というのなら。
僕は手を取って、握手を交わした。
五月雨のほうを向きながら、そうして彼女にこう伝える。
「ありがとう。大丈夫だよ。うちには、優秀な秘書艦がいるからね」
男が連行されて、嵐が去った執務室で、僕はようやく息を吐く。
そのままへたりこんだ。
「時雨さん!」
五月雨が駆け寄ってくる。
弱弱しく笑いかけた。
「……寿命を使いきるかと思ったよ」
本音だった。
賭けになることは、わかっていたんだけれど。
「――まあ、約束したからね。いつでも、いつまでも、だ」
それが、いつまで続けられるのかはわからない。
だけれど、少なくとも、明日も彼女といられるのなら。
「……提督。これから、どうしましょうか」
五月雨が問い掛ける。
僕は考える。
正しい提督の権限、というあの人の言葉を信じるなら、できることはきっと、格段に増えるのだろう。
新しい誰かと出会うことも、別れることも、海の向こうを見ることも。
だけれど、急ぐことはない。
「そうだねえ。まずは――ご飯にしようか」
そう答えて、笑いかけた。
「食べればちゃんと数の減る、きみの作ったおゆはんをさ」
終.対岸の灯り
本部から派遣されてきた、と言い張る彼女はとても見覚えのある顔をしていた。
「任務娘です。よろしくお願いしますね」
白々しいにもほどがあった。
「はじめまして、じゃないですよね」
そう指摘すると、彼女は小さく笑って答えた。
「ええ。あなたとは、もとからはじめましてではありません」
「――」
言葉を失う。くすくすと笑う声が漏れて、
「もともと、ここに配属の予定だったんですよ」
そんな種明かしをされたのだった。
「だけど通信が途絶えて――仕方なしに、運営さんのお手伝いをしていたんです」
その手伝いの結果があの日に繋がるというのは、偶然だというのには、少し無理があっただろう。
「もしかして、ずっと気にしていてくれたんですか?」
電話を掛けたときの、第一声はこうだった。
『――お待ちしておりました。そちらの状況を教えてください』
ちょっと、察しが良すぎると思ったんだ。
「あれは失言でしたね」
この人は、あれをどうやって報告したのだろう、と今更ながら不思議に思う。
不正アクセスを検知したところまではいい。
だけれど、そのあと僕たちがなにかまずいことをしてしまったなら。
……僕たちを見逃したこの人も、責任を取らされることになるはずだった。
「知り合いのアイテム屋もそのうち来ますけど、絶対使っちゃダメですからね」
そう平然と言ってのけるあたり、なかなか奇特な人なのかもしれないけれど。
だって、そんな助言をしてくれても、彼女に得なんてあるわけが――
思い至ったのはその時だ。
「……お目付け役として、来てくれたんですか」
彼女はいたずらっぽく笑う。
「さて、どうでしょう。提督は、どう思います?」
時間は流れる。何もかもが前に進むしかないのだとしても。
失くしたはずの過去からの、それが最後の贈り物なのだとわかった。
僕は天を仰ぐ。困ったときの癖だった。
困りながら、何かを選び取る時の。
「……歓迎するよ。僕たちが、ずっと間違わないために。これから、よろしくね」
◇
時雨さんと、埠頭に出ます。
夜の海は暗いはずでした。
毎日、陽が沈むたび、見渡す限り真っ暗な夜が、鎮守府を包んでいました。
今、夜の海の向こうには灯りがありました。
近くの鎮守府の灯りなのだと、時雨さんが教えてくれました。
世界は今や、開かれていました。
この世界には今や、あらゆるもの、新しいものが満ち溢れています。
対岸の灯りは幻みたいに揺らめいていて。
それはなんだか夢のようで、だけれど、今日確かに届いたのでした。
電子の海の向こうまで。
――どこかのだれかさん。
あなたには感謝の言葉しかありません。
罪を犯してくれてありがとう。
永遠に参照されないはずだったこの鎮守府を、開いてくれてありがとう。
あなたのお陰です。
そうして、さようなら。
やり直しのきかない、何も巻き戻らない、この世界で――どうか、よい人生を。
灯りを眺めながら、時雨さんは尋ねます。
「どこまでいこうか」
私は答えます。
「あの海の先まで」
きっと、賑やかになってゆくのでしょう。
麗らかな春が、心弾む夏が、鮮やかな秋が、澄みきった冬が、今や私たちの世界に訪れ、去り、ふたたびやって来るのでしょう。
私たちは間違って、喜んで、涙を流して、笑うのでしょう。
それでも決して戻ることなく、ただただ前へと進んでゆくのです。
ぎゅっと握った手が、確かに握り返されて。
対岸の灯りを目指し、ひとつふたつの答えを手にしながら――
いつでも、いつまでも、ふたりで船を進めてゆくのです。