バンディット 作:名無しのナナシMAX
夢から覚めるように。
朝焼けの中、寝台列車に揺られ旅情気分に浸っていられたのは、車窓の向こうにうんざりするほどに見慣れた大型イベントホールの白い屋根が見えた時までだった。
ガタンゴトンとレールの切れ目に車両が落ちる単調なリズム。線路の両脇に等間隔に設置された架線柱が、まるで世界を刻む目盛りのように後方へと流されていく。
車窓の向こうで徐々に近づいてくる郷里――海守市を見据え、潮見忠司は懐かしいというよりはどうにもむず痒い感傷にさらされていた。
生まれ故郷である海守市に帰ってきたのはおおよそ五年ぶりくらいになる。
『ある相手と会ってほしい。詳しい話はあちらで聞くように』
そう派遣先の上司に告げられた〝あちら〟というのが郷里である海守市だったことには少しばかり驚いたものだ。仔細を告げず『都合が悪いなら断ってくれてかまわない』との歯切れの悪い言葉には怪しいものを感じたが、上司のお願いは命令と同義だよ、お前わかってんよな? と自分の中で培われた
だが何より、疎遠になっていた郷里の土を踏む理由付けとして、その命令は都合が良かった。
両親はすでに他界しているが、その墓は母方の故郷にある。どうにも社会人になると確たる理由がなければ「なんとなく」で行動できないようになった。なんとなく、で生まれ故郷に帰ってこれない自分の心境の変化には少しばかりうら寂しいものを覚える。
望郷の念などというものはこれといって感じなかったはずだが、こうして懐かしい景色を目にすると記憶の蓋がいやがおうにもこじ開けられてしまう。思い出すのは大人になってからのことより、幼い子供の時分の事ばかりだ。膝小僧擦りむいても元気いっぱいに街中を駆け回り、各所でイタズラギャングなどと呼ばれる悪ガキだった自分を包み込んでいた景色の中に、大人になった自分を乗せて列車は飛び込んでいく。
郷里を目の前にどうにも気恥ずかしいというか、むず痒いような羞恥心が心の中にぽこぽこと浮かび上がってく。それは大人になって社会の荒波に揉まれすっかり性根ねじくれた自分が、無垢だった幼い頃の自分を包み込んでいた郷里の景色に対して後ろめたさみたいなものを感じているからだろうか。あるいは郷愁の中でふんぞり返っている黒歴史まみれの自分を自覚できる程度には心が成熟したからかもしれない。
潮見は窓枠に頬杖をつきながら、湧き上がってくる女々しい感傷を、カップホルダーにさしてあった缶ビールの残りと一緒にぐびりと飲み干す。
……温い、マズい。やっぱり缶ビールは後生大事にチビチビと飲むもんじゃない。ずいぶん苦いものだ。
長旅の最中に列車に乗りながら飲む酒は格別だと思うが、侘しい財布の中身にトドメを刺してまでケチ臭い飲み方をするものではなかった。ツマミにしていたイカの燻製の塩っ気が咽喉の奥にだいぶ残っているので駅に着いたらミネラルウォーターでも飲むとしよう。
『――次は海守~、お出口は左側です』
ずいぶんと長い間列車に揺られていたせいか気怠げにふやけた意識の淵に、車内アナウンスの声が引っ掛かる。
軽く伸びをして身体を解し、網棚から唯一の荷物であるバックパックを引きずり下ろした。
まもなく歯ぎしりのようなブレーキ音をかき鳴らし、列車は海守駅の構内に滑り込んだ。
数百年前に起こった深海棲艦との大戦から
時計を見るとまだ七時を過ぎたばかりだ。『ある相手』とやらと会う約束の時間は正午きっかりであるため時間がだいぶある。
久しぶりの故郷だ。適当に街を散策してみるのも悪くない。
潮見はバックパックを駅のコインロッカーに預けると、財布だけを持ってゴシック調の駅舎から出た。ロータリーにはバスや客待ちのタクシーや迎えの乗用車が停まっている。駅前は相変わらず車や人でごった返しており、騒音が迷宮のように入り組んでいる。
にぎやかなのは嫌いではないが、騒がしいのは好かない。
喧しさにこめかみの辺りが痛くなってくるのを感じながら、潮見はさっさと駅から離れようとした。その時。
「あああああ――っ!?」
叫び声が聞こえた。空に突き抜けるような野太くデカい絶叫を上げた人物に、潮見は公共の場、それも朝の通勤時間で込み合っている中で迷惑な野郎だなと思いながら横目でちらりと見遣った。
……めっさこちらを見ていた。
男が視界のど真ん中に潮見を捉え、目を真ん丸に見開き、ぷるぷると震える指先を潮見に向けていた。
おい、バカやめろ、〝公共の場で騒ぐ迷惑な野郎〟の所業に俺を巻き込むな。周りの人がみんな俺も見てんじゃねえか、迷惑そうな感じで。
とりあえず相手が誰か知らないができるだけ関わりたくないので「人違いですよー」ととりあえず一声かけてからさっさとその場から離れようとする。
「ふ、ふざけるなっ、人違いなものか! そのツラァ忘れたくても忘れられねえよ、潮見忠司ぃっ!」
「……うっわ、マジもんの知り合いかよ」
それも非常によろしくない間柄のようだ。覚えてないけど。
さっさと走って逃げようかと思ったがフルネームを覚えられている相手だと後々面倒くさいことになりそうなので、とりあえず話だけでも聞いておくことにする。忘れていただけで実は親戚とかかもしれないし。たぶん無いけど。
潮見はまじまじと男を観察してみた。
歳はたぶん自分と同じ二十四、五くらい。ニッカボッカのズボンに地下足袋。頭にねじったタオルを巻いている。いかにもとび職といった風体だ。
「えっとだな……まずは周囲に迷惑だから声のボリューム下げようぜ」
「お、おう、それもそうだな……みなさん、お騒がせしてスンマセンしたっ!」
遠目でこちらを眺める群衆に向けて、腰を九十度に曲げて謝罪する男。じつに気持ちの良い謝罪だった。
ちょっとこっちへ来いと言われ、黙って目の前の男についていく。面倒ごとに巻き込まれていることをビンビンに感じるが、とりあえず話くらいは聞いてみるかと潮見は考える。
二人がやってきたのは駅の裏手にある駐車場だった。
男は再び潮見に顔を向けるやいなや、こちらを見下すように頭をぐるんと傾け、目をカッと見開いた。獣が獲物を物色するように大仰に舌なめずりしながら、ズボンのポッケに手を突っ込み、威嚇するように全身を左右にゆすりながらこちらに向かって近づいてきた。
「おうおうおう、まさか今更になって北高の潮見さんと再会できるたぁ思っても見なかったぜ俺ぁよぉっ!」
さっき見せた体育会系の謹厳とした謝罪は何だったのかと思える……なんというかごりっごりに古臭いヤンキーじみた所作である。声色こそ荒々しいが、律儀に声のボリュームは耳をすませば聞き取れる程度に抑えている。
……えぇ、なにこの面白い人(困惑)
潮見がその奇妙な熱量に押されながら「ひょっとして高校時代の時の知り合い? ごめん、おたくのこと覚えてねえんだけれども」と言うと「ああん!?」と声を荒げた(ボリューム低)
「俺のこと覚えてねえだと!? こっちは忘れたくても忘れられねえってのにいい気なもんだぜっ、あぁぁん!?」
「いちいち歌舞伎みてえに見栄をきらないとしゃべれねえの?」
「あっああぁぁん!?」
「なんでもない。続けて続けて」
「おうよぉ! アレは忘れもしねえ、俺が高二の時だったぁ!」
話を聞くに。
男はカブラギというらしく、当時東高の不良を束ねる番長だったらしい。時代錯誤な、とも思ったが腕っぷしの強そうなやつに片っ端から喧嘩を売っていったら自然とそのポジションに収まったとか。
「そんな時に出会っちまったのがお前だっ、潮見忠司!?」
「……なにやらかしたんだ、当時の俺は?」
怪訝そうな表情で尋ねる潮見。
さっきから目の前の男について記憶を底からすくっているが、何一つとして引っかかるものがない。記憶力は悪いほうではないと思っているが、カブラギという男どころか東高の人間と関わった記憶が全くもって無いのだ。
潮見の通っていた北高はカブラギの通っていた東高と仲が悪い……というより海守市にある四校の中で東高の生徒が一方的に全方位に敵意をふりまいている。東高の生徒曰く、北高の腰抜け集団、南高のガリ勉アスパラガス、西高が人の心を忘れ去ったキ〇ガイマッド集団とのことだ。
その評価はどうやら過去に北高の不良生徒がそれぞれの高校の生徒にイチャモンつけた時の反応からきているらしい。
海守市で平均的な成績を持つ生徒が集まる海守北高校の『腰抜け集団』の由来は、因縁つけられた生徒はおおむね喧嘩するでもなく逃走したことからだ。
もっとも偏差値が高い海守南高校の『ガリ勉アスパラガス』は、理路整然と言葉を並べられ口で負けたということらしい。アスパラガスというあたりに東高の生徒からのささやかな負け惜しみが感じられる。
……そこまではいい。なんとなく分かる。
西高の『人の心を忘れ去ったキ〇ガイマッド集団』って何だ?
東高との仲は特に険悪な変態集団……もとい一芸に秀でた個性豊かな人間模様(分厚いオブラート)の海守西高校はそのあたりの情報が出回っていないため不明だが……一体何をして、何をされたのだろうか。イチャモンつけた東高の生徒はその後どうなったのか、突っ込んで調べるとなにやら恐ろしい事実が浮かび上がってきそうである。そもそも西高は専門科ばかりで、四校の中で最も生徒数が少ないがとかく変人ぞろいで有名だ。みだりに関わりたいとも思わなかった。
ちなみに入試で名前だけ書けば(むしろ自分の名前を間違えたとしても)合格するという海守東高校に対する周りの高校の評価は総じて『アホの精鋭集団』であった。
その一員であったカブラギは怒りをこらえるように拳を握りしめていた。
「お前の策略によって俺を始めとした東校の生徒が脛に傷を持つ身となったことを忘れたっていうのか!?」
「…………本格的に身に覚えがないな」
頭をひねってみるが何一つ思い出せない。額面通りの大それた事をしていたとすればさすがに覚えている……と思う。
「なら思い出させてやる! きっかけはそう、あれは俺とお前がたまたま一緒の電車に乗り合わせた時のことだ。その日、周りの人々が妙に急いでいることに気が付いた俺は『何かあったのか?』と言葉を漏らしたときに、隣に座っていたお前が俺の言葉を拾い上げ『ニュースで冬将軍が海守市に到来したってよ、激しい寒波の恐れ、だと』と言葉を返した」
「それで?」
どこに一体策略どうこうという要素が関わっているかさっぱり分からなかった。ここまでは少なくとも日常的なやりとりに思える。
「俺はそりゃあ驚いた! 寒波と聞いて思い浮かんだことはただ一つ……そう」
目をカッと開いた。
「カツアゲだ」
「そっちのカンパじゃねえよ!」
そこまでの会話の流れでなぜカツアゲの隠語と捉えたのか。
カブラギはますます熱を込めるように語気を強めた。
「俺はこう思った! 冬将軍という名の族のチームが他所から海守市を強襲ッ、金を巻き上げに来たとな!」
「ちょっと勘違いの仕方がアクロバティックすぎやしないか!?」
「俺は人を集めた。いくら腕っぷしに自信があるからと言って一人でできることには限りがある。銅鑼叩きのカイ、奴は女にめっぽう弱いという悪癖があったが仲間の困難には真っ先に駆け付ける熱い男だ。空手家のシュンは冷徹に見えるが妹想いで女手一つで育ててくれたおっかさんに親孝行をしたいと常々言っていた出来た男だ。岩砕きのレツは寡黙な男だったが人一倍情に厚く後輩にもよく慕われていた。普段はいがみ合い東高の王座を奪い合う関係だったがその日の俺たちは違った。愛する郷土を、俺たちの街をよそ者なんかに荒らさせはしない! その想いで一つに集った!」
なんだか勇者の仲間集めみたいな展開になっているが、その中に一人くらい勘違いに突っ込む人間がいなかったのか。『アホの精鋭集団』の異名は思っていた以上に伊達ではなかった。
「奴らが来るとしたら、カツアゲをしようというなら人の集まる駅周辺に違いない。きゃつらを迎え撃つために集まった数は東高生徒五十と四人! 釘バットや木刀、チェーンや警棒、各々が得意とする獲物を手に、駅前に集った俺たちは想いを一つにした。準備は万端だ。『さあ、かかってこい冬将軍!』 そう息巻いて俺たちは皆、天に向かって拳を武器を、そして声を! 気概を! 突き上げた! そしてちょうどその瞬間、俺たちに向かって――」
そこでカブラギは気まずそうに視線を地面に落とした。
「……警官隊が突撃してきた」
「お、おう」
「…………凶器準備集合罪とかいうのだった」
「そ、そうか」
「俺たちを陥れたお前を、卑劣な罠にはめたお前も、俺はっ、決してっ、許さない!!」
「歩道を歩いていて車に撥ねられた気分だよコッチはっ!」
覚えがないはずだ。というか覚えているわけない。
「大体そんな昔のことなんで今になって持ち上げたんだよ。もっと昔につっかってきてもよさそうじゃねえかよ」
「やろうとしたともっ、地道な聞き込みでお前の名前と通う高校を調べてな! いつも通り呑気に電車を乗っているお前を見て落とし前をつけてやろうとしたとも! だけどよく考えると『あ、あれって潮見は別に悪くないんじゃない?』と結論に至ってな」
「……冷静になってくれて何よりだよ。ところで、それならなんで今こんなふうに喧嘩腰なんだ?」
「まあ、話を聞け。その後、俺は高校をなんとか卒業していくつかの会社に勤めたが、行動が要領を得ないとか会話のキャッチボールが絶妙に成立しないなどいうよく分からない理由で起こる些細な行き違いと喧嘩で退職を繰り返す日々……そんな時だ。巌島の姉さんと運命の出会いを果たし、その唸る拳で俺の間違いを正されることに――」
「なんか人生語りになった? 関係ないなら俺そろそろ行っていいかな」
「行かすかよぉッ! ちょうど俺の人生で積みあがった鬱屈とした気持ちをまるっとぶつける相手が欲しかったところに、のこのこと現れちまった自分の運命を恨みなぁっ!」
「要はなんとなくの八つ当たりじゃねえかっ! 地面に穴でも掘って叫んでろ!」
「ふんっ、どうしても進みたいというなら俺は倒してから進め!」
同じセリフを少年漫画でバトル前のシーンで腐るほど見た気がする。現実、それも駅前で聞くことになるとは思わなかったが。
「倒せって……夕暮れの河原で殴り合いでもする気かよ……?」
暑苦しいテンションの上、しっちゃかめっちゃかな理屈にまともに付き合うのもそろそろ疲れてきた潮見が投げやり気味に疑問を放り投げた。
「さすがにこの歳にもなって殴り合いはちょっとキツイ、世間的にもどうかと思う」
「そこは冷静なのな……で、どうしたいんだよ?」
「知らんっ! ……そこで相談だが、どうすれば俺は納得すると思う?」
「それこそ知らねえよっ。俺ぁもう行くぞ、暑いし!」
「逃がさんぞ潮見忠司ぃっ! 暑いってんならそこのカフェで対面でお茶しながらゆっくり語りあってやんよぉッ!」
「カップルか!?」
いよいよ付き合ってられなくなった潮見は全力でその場からの離脱を図る。
「あ、待て! どこに行くつもりだ潮見ぃっ!?」
「うっせッ、ついてくんな!」
背後で「卑怯者」だの「恥を知れ」だの叫んでいたか構うことなく潮見は走り去った。
うまいこと撒けたのか、それとも最初から追っては来なかったのか、駅前から続く街の中心街へとやってくると周囲にカブラギの姿は見えなくなっていた。
「一体何だったんだありゃ……」
正直、宇宙人と翻訳機越しにコンタクトをとった気分だった。言葉こそ交わせたが会話をする上での常識の下地みたいなものが似て非なるものだったというか……。奇人変人と称される類の人間は総じて人格や能力が世間の枠組みから突き抜けているものだが、間違いなくあの男もその類であった。
……深く考察を始めると頭がこんがらがってきそうだ。さっさと思考を切り替えることにする。
どこかで一息つこうかとも思ったが今は通勤通学の時間帯とかち合っているため、どこもかしこも会社や学校に向かう人々で埋め尽くされている。中心街のスクランブル交差点ともなれば、歩道という縁取られた型枠の中に人がぎゅうぎゅうに押し込められているようだ。誰彼も目的を指し示す矢印みたいなものが目の前にあって、その方向に迷うことなく向かっているような印象を受ける。明確な目的を持たず財布一つを持ってふらふらと街に繰り出してきたことに何とも言えない居心地の悪さを感じた。
とりあえずボケっと立ち止まっていると通行の邪魔になりそうなので、何とは無しに行き交う人波の中に身を任せてみる。
そうして街並みを眺めてみると、五年前にくらべて高いビルが増えていた。空が狭くなったような閉塞感を感じる。なにより衝撃を受けたのは中心街の、さらにど真ん中に屹立していた市のシンボルタワーとも言えた海守中央テレビが大規模な改修工事を終えていたことだ。レンガを積み重ねたようなゴシック調のおしゃれなビルディングは、今では全面ガラス張りのシャープな印象の建築物となっていた。
これはこれで悪くはないと思う。しかしどうにも物寂しい。あたたかみがあって落ち着いた風貌のあの建物は、故郷に思いをはせる上で結構なウェイトを占めていたのだということに失って初めて思い知らされた。
どこもかしこも知らない店や建物ばかり。ここ最近の海守の発展は特に著しいと風の噂で聞いたが想像以上だった。
まあ良いことだと思う。置いてけぼりにされたような疎外感はどうにも否めないが、街が発展すれば人が集まり財政も潤う。実に素敵なことだ。とりあえず台風が来るたびに柵がぶっ壊れて、ひとんちの庭先に羊や牛を解き放っていた公共牧場の設備をきっちりと整えてほしい。
「しかしどうしたもんかな」と潮見は視線を周囲に這わせながらぽつりと独りごちた。
街中に掲げられた『禁煙』や『NO SMOKING』の文字。いつからこの街はこれほどまで喫煙者に厳しい街になったのか。胸ポケットに突っ込んである煙草がじつに窮屈そうにしているじゃないか。
せめてゆっくりと煙草を吸える程度にくつろげる居場所を求めて、潮見はふらふらと故郷の街を彷徨っていた。
バスターミナルなら喫煙所があるだろうと考えて訪れてみると、ずらっと張り出されているポスターの中の一枚にふと目が留まった。『今年の夏は海守でエンジョイ!』という見出しとともにフレームいっぱいに海の写真がのっている。
「……海か」
海守市はその名の通り海に面した街である。海辺に行ってようやく嗅ぎ取れる程度の磯の香りは、それだけ海が汚れていないことの証明でもあった。
脳裏をよぎるのは透明な海が沖に向かって徐々にコバルトブルーに変わり、日の光によって金粉をふりまいたように光り輝く美しい光景だ。眺めているだけで心の中が徐々に空っぽになっていく漫然とした感覚に、心の空白が清涼とした青で満たされてく清々しいさ。
昔は悩みや辛いことがあればいつでも海を眺ていたものである。
……思い出した途端、心が海に惹かれた。少しターミナルを歩けば喫煙所があったはずだが、知らないおっさんの顔眺めながらよりは海を眺めて吸う煙草のほうがよほどうまいに違いない。
「そうだな、海でも見にいくか」
「おや。お兄さん、海守は初めて? 良いとこよここは」
潮見のつぶやきを拾いあげたバス待ちのおばさんが気さくに声をかけてきた。
周りを見てみるとポスターを見ているのは自分一人だった。確かに朝のもっとも忙しない時間帯にのんびりと観光客誘致のポスターを眺めている地元民は他にいないだろう。
「そうですね、いい街ですね」と答えた時に、どうにも苦笑いが浮かんでしまった。
「海なら近いからここからバスに乗るより歩いたほうがいいよ。あっちの方向に歩いていく大きなスクランブル交差点があるからそのまま真っすぐに歩いていくと海が見えてくるよ」
「これはご親切にどうも」と頭を下げると「あら、こんなことくらいでいいわよ」と朗らかに笑った。
「あたしも1年位前に越してきたばかりだけどね。地元の方の人柄は良いし、街は結構発展しているけど、ちょっと足を延ばせば豊かな自然がある。気候も良くておいしい食べ物がいっぱいあるの」
おかげで一年で十キロも太っちゃったわ、と腹を叩いた。
「買い物をしたいなら西町にあるMIZUHOっていう大型ショッピングモールがおすすめよ。この街の人は大きな買い物があるときはみんなそこに行くの」
おばさんに礼を言って別れ、海に向かう道すがら「MIZUHOか……五年前にゃ無かったな」とつぶやく潮見の手は居心地が悪そうに握ったり開いたりを繰り返していた。
再びスクランブル交差点にやってくると相変わらず人の多さにげんなりする。しかし浜に行くにはここをつっきるのが一番早い。一度大きく息をついてから『いざ、まいらん』と戦場に切り込む戦国武将の気分で人込みの中に突っ込んでいく。
はいはいっとごめんなさいよ、と。
周りの人にぶつからないように気を付けるながら、人波の流れを乱さないように歩調を周囲と合わせながら歩く。
おっ、とつい目が吸い寄せらる光景があった。
反対側からずいぶん派手な容姿の女の子が歩いてきた。といっても服装は落ち着いたもので、軽薄な印象は全く受けない。目を惹きつけたのは長いプラチナブロンドの髪である。ゆるいウェーブがかかっているため重さを感じさせず、その色合いも相まってふわふわと空に浮かぶ雲のようだ。地毛だろう。染色した髪特有ののっぺりとした色合いは無い。外国の子かな、と思ったが面立ちは日本人のそれだ。しかし非常に整った容姿をしていた。
その少女の容姿は派手ではある。しかしその派手さは周りに喧伝するようなやかましさは無く、豪奢な漆器製品のような楚々とした絢爛に彩られたものだった。
年齢は分からない。形姿だけで判断するなら中学生か、いいところ高校生といったところだ。しかしその子の纏う雰囲気には甘えや緩さなどといったものは一切感じられない。容姿こそ頭に〝お人形のような〟と付け加えたくなるような可憐なものだが、鍛え上げられた刃のように凛然とした雰囲気は古典に出てくるような女武芸者を彷彿とさせた。
いくつものちぐはぐさとした印象が混ざり合い、その少女に対する奇妙な神秘性を掻き立てている。
少女は何事かを慮るように目を伏せ、歩いている。
潮見はその少女の姿を見て、胸の奥から奇妙なざわめきのようなものが湧き上がってきているのを感じていた。
会ったことがある気がする。しかし思い出せない。少なくとも学生時代ではない。その他大勢に埋没するはずがないくらい強固な所感だ、一目見たら忘れない。
もっと昔、それこそまだ両親が生きていた頃の幼かった時分に。
潮見は声をかけようとして……やっぱりやめた。
俺たちどこかで会ったことない? などというセリフはどう考えてもナンパの常套句である。目の前の女の子はどんなに大人びた印象を受けようと成人しているようには見えない。事案が発生してしまう。
そもそも年齢が合わない。おぼろげになるほどに古い記憶というと下手したら二十年も昔のことである。
会ったことがあるというのはたぶん気のせいだろう、と結論づけ少女から視線を外した。ぶしつけな視線を送っていることに気づかれたら斬り捨てられそう……というのは言いすぎだが、少なくとも相手が年上だろうと物怖じせず『ジロジロといやらしい目で見るな』くらいは言ってきそうだ。公衆の面前でそれは勘弁願いたい。
所詮街ですれ違っただけの他人だと心で一度つぶやいてから、潮見は少女の横を通り過ぎた。
すれ違った二人の距離。一瞬近づいてすぐに離れた距離の空白は、すぐに行き交う人波によって埋めつくされてしまう。ほんの一瞬「……――ぃとく?」と何事かの言葉が雑踏を飛び越え、潮見の耳に届いた。きっとさっきの少女の口から漏れ出た言葉だろう、と自分でもよく分からない確信があった。
わずかに視線を背後に向けてみるが、すでにそこに少女の姿は無かった。
◆ ◆ ◆
夜。
すっかり陽が落ち、宵闇の中から這いずり出てきた冷気が、未だくすぶり続けている昼間の熱気を追い散らしていた。
夏の入口には気温が安定せず夜になると突然冷え込むことがある。今日がそうだった。
「あ、センパイ! こっちですこっち!」
鈴谷の声に気づいた叢雲が軽く手を挙げ小走りに近づいてきた。
「ごめんなさい、仕事が長引いたせいで少し遅れちゃったわ。店の中で待っててくれてよかったのに」
「大丈夫、私も今来たとこです。ウザいナンパ男まくのにちょっと時間がかかっちゃたので……鈴谷ってそんなに遊んでいるように見えますかね、あんにゃろうめ」
そのナンパ男とやらに何を言われたか、言葉尻に怒りがにじんでいた。
「内容如何によるけど平手の一発くらいなら許されると思うわよ?」
女の尊厳を踏みにじってくるような輩にはそのくらいの対応しても許されると、叢雲は口にした。冗談じみた空気が微塵も無い。間違いなく本気だった。
「くらわしてやればよかった……わりと本気で。センパイ、どうしたらセンパイみたいに相手の尊厳を圧し折るようなエグい罵倒を叩きつけながら痛みだけが強烈で跡が残らないビンタを習得できますか?」
「……私、そんなことしたことあったかしら」
「ありません。あくまでセンパイのイメージです」
「おいこら、イメージが合ってるかどうか答え合わせしてあげましょうか」
胸元に掲げた拳を握って開いて、ジト目で睨む叢雲に鈴谷は「ジョーダンです。それとありがとうございました」と言って柔和な笑顔を浮かべた。叢雲は「まったく」とつぶやいてから寒そうに身を強張らせている周囲の人々に視線を向けた。
「急に冷え込んできたものだから来る途中の店で長袖買っちゃたわ」
「チェストの中にまだ冬物入れっぱだった私は先見の明があったということでいいんでしょうかね?」
「んなわけないでしょ」
二人が歩いているのは繁華街である。昼間は人通りも少なく閑散としており、無機質なビル群とのコントラストがより閑寂をかきたててくるが、夜ともなればその表情は一変する。色取り取りのネオンが煌びやかに輝き、夜の闇を駆逐していた。通りはたくさんの人々の雑踏に満たされ、ありとあらゆる騒音が雷雨のように降りそそいでいる。活気があり退廃的でもある。どこもかしこも酒気で満ちており、夏夜に鮮烈に輝く花火のような極彩色の賑わいが街を埋め尽くしていた。
繁華街があるその場所は海守市の西街である。
海守市は東西南北と中央。都合五つの地区に分けられており、それぞれの区に特色がある。大まかに説明すると、住宅地が集まる北街、工業地帯であり産業の中心である東街、いわゆるハイソな人々が居を構える高級住宅街である南街、歓楽街や多方面にマニアックな店が集まる妙に濃い西街、そして世界中からモノと人が集まり都市機能が集中する中街である。
「西街って学生の時はあんまり立ち寄らなかったんですよね。買い物とかなら中街に行きますし」
「飲み屋が集まる歓楽街だし、懐かしのおもちゃやら妙にマニアックな機械パーツ専門店とか玄人好みしそうなお店ばかりだしね。あまり子供が頻繁に訪れるような場所ではないわね」
「いやそれもあるんですけど、ここは変態見本市……じゃなかった、西高のテリトリーだからあんまり近づきたくなかったって言うか……」
「あー、西高ってあれよね。菅埜警部や松平さんの出身校よね」
どちらも海守警察署きっての変人である。
菅埜は鉄道模型が趣味である。
オールハンドメイドが当然であり、模型のみならずジオラマ制作にもこだわっている。ここまでの説明ではまずまず〝ふつう〟の範疇に収まる。しかし模型を製作する上での材料の選定にこだわり出したあたりで不穏なものが入り混じってくる。模型に使われている木材はすべて種類から産地まで同じものを使わねば気が済まない。ライトも同じメーカーのもので、模型用にサイズが合わねば、ガラスは溶かして再成型、光源となる部品も同じ部品を流用して作り直すというこだわりようである。電車のレールを作っている鉄鋼メーカーにコネを駆使して拝み倒したうえで制作してもらった鉄道模型用のレールは宝物だ。これが現場の空気が混じった鋼だと、それを袋に入れてまるでシンナーでも吸うように口に合てて深呼吸を繰り返して悦に浸るのが日課となっている。最近現場の空気の含有率が落ちていると意味不明なことを言っていた。
松平警部補は居合の達人である。
いや、居合というのはそもそも精神面での修練が主だったものだが松平警部補の場合はむしろ〝斬る〟ことにその主眼を置いている。「ボーナス全部つぎ込んで竹林のある土地を買ってしまったよ、斬りごたえのある竹がたくさん生えているんだ」というセリフにはほのかな狂気が入り混じっている。最近は検察医の友人に相談していかにして人体と同じ斬り心地――もとい人に近い構成物を作り出すことにご執心のようだ。
この間、ある捕り物があった。押し入り強盗が家主を人質にして民家に立てこもるという事件だ。膠着状態となった現場に松平警部補が現れた。袋に収まった、刀を持って、現れた。本人曰く居合の道場の帰りに報告を受けて急遽現場に足を運んだとのことだが、その日は道場は休みだったはずである。彼は機動隊あがりのたたき上げである。突入部隊に志願してきたのを全員で押しとどめた。大義名分を与えたらこの人は間違いなくヤる、というのが現場の総意であった。言うまでも無いことですけどもちろん刀は置いていってくださいね言うまでもないですけど、という言葉が松平警部補の意思を止めた決め手となった。
人質は無事救出、犯人も取り押さえた。双方に怪我は無かった。ただ松平警部補は連行されていく犯人を見て、まるで釣りをしていて針にかかった魚をうっかり取り逃がしてしまった子供みたいに「ちぇ」と小さく舌打ちしていたことに現場の人間は戦慄した。
菅埜も松平も変人ではあるが厄介なことに業務では優秀である。
菅埜は交通課の課長であり、起案などの決裁はもちろんのこと指示は無駄なく的確で、海守の交通の番人とまで言われている。
松平は現場の陣頭指揮はこの人にやらせれば間違いがないとまで言われ、その優れた観察眼はまるで心を読んでいるのかと思わせるほどに人や物の中に埋もれた真実を掘り起こす。
変態だが優秀だ。
優秀だが変態である。
それが西高出身者におおむね共通する認識である。
「あの高校出身者はどういうわけか、一つのことにのめり込むとそれを変態的にまで極めるとこがありますね。それと頭のネジが外れたように行動が突飛です」
鈴谷がややげんなりしたように言葉を放り投げた。
叢雲はそんな鈴谷の言葉を聞いて思い当たることがあるのか「あー」と小さくうめき声をもらした。
「……あやつらまた何かやらかしました?」
そう鈴谷が訪ねると叢雲は頭痛をこらえるように頭を押さえながら答えた。
「この間、西高の生徒と東高の生徒が街中で言い合いしててね。東高の制服を着たやつが殴りかかろうとしてたわけ。これはさすがに止めないとと思って慌てて割って入ろうとしたんだけど、突然東高の生徒が弾かれたように地面に倒れたのよ」
「それで?」
先を促すが、その両校の気質を知る鈴谷にはなんとなくオチが読めてきていた。
「東高の生徒は白目を向いていて、西高の生徒の手には棒状の機械みたいなものがあったのよ。話を聞いてみたら『これは自分で作った静電気を作り出す機械です、ちょっぴり電圧が高いだけでスタンガンではないです』って……そんな言い訳通じるわけないでしょうが」
スタンガンを街中で持ち歩くことは軽犯罪法に抵触する恐れがあるが割と微妙なラインである。相手が先に暴力をふるおうとした場面を叢雲も見ていたため、その場は口頭注意だけで済ませたがその言い訳にはもはや取り繕う気はないけどとりあえず言っとくか、というような開き直りがあった。
「西高と東高って特に仲悪いんですよねー。東校がつっかかって西高が軽くいなして、その上で足引っ掛けてすっ転ばすってパターンが多いですけど」
「……あーはいはい」
叢雲がなるほどと頷いた。なんとなくだが、しっくりくる。
「ついでに西高にどれだけ痛い目見せられても怯まないのが東高です。全く懲りないっていうか……おバカって一括りにするには並々ならない勢いみたいなものがあります。この考え方はしないだろう、これはさすがにやらないだろうって想定したハードルの下を余裕でくぐってくるどころか、自分についた傷やら周囲の被害なんか顧みず目的のために猛進するバイタリティーはすさまじいの一言ですね」
「知り合いにも一人いるわね。東高の卒業生で、まさに鈴谷が今言ったとおりの厄介な気質のが」
その人物を思い出して大きくため息をついたのは、だいぶ苦労させられたためだろう。鈴谷はセンパイならきっと何だかんだ言って見捨てず世話焼いたんだろうな、と不器用だが真っすぐな叢雲の胸中を想い、なんだか微笑ましいような気持になった。
「あによ?」
下から覗き込むように睨んでくる叢雲に、慌てて話をもとに戻す。
「ど、どうも西高と東高の生徒は、お互いが憎しってのがもはや代々の伝統みたいなものらしいです。だからそれぞれの高校の卒業生すら巻き込んでの大きな抗争みたいなものがそのうち起こるんじゃないかって言われ続けていますね」
「あーやだやだ、物騒な話ね」
「東高の卒業生は現場のとりまとめ役みたいな形で、西高の卒業生は管理職みたいな形で上に行くことが多いですから、現場を知らない上司と管理職の気苦労を知らない部下みたいな形でまた違う確執も生まれたりして」
おまけに両者ともにこの海守市に根付く産業やら観光業や建設業、果ては政財界にまで手を伸ばしている者もいると聞く。
「いつか西高と東高の生徒が、その卒業生も巻き込んで本格的な全面戦争に突入するんじゃないか、海守市そのものを巻き込んだラストウォーが勃発するんじゃないかって噂になってました。主に学生時代のお昼休み中、お弁当をつつきながら」
ラストウォー、と聞き返すように小さくつぶやく叢雲。
「…………バカなの?」
たっぷり逡巡して言葉を咀嚼して、ひねり出した一言がそれだった。一言で切り捨てられ、ぶーと頬を膨らませる鈴谷。
「学生のおふざけの噂って言えばそこまでなんですけどね。あの連中ならわりと本気でやりそうって思わせるところがおっかないって言うか……と、ここです」
鈴谷は一軒の居酒屋の前で足を止めた。
叢雲は少し驚いて「へー」と言葉を漏らした。
「てっきり鈴谷のことだからおしゃれなバーにでも案内されるかと思ったら意外や意外、正統派の居酒屋じゃない」
鈴谷が叢雲を連れて訪れたのは赤提灯の掛かった和の趣あふれる居酒屋だった。暖簾にはストレートに『居酒屋』と書かれている。扉は格子戸になっていて室内から漏れ出た明かりは、ネオンのギラギラと輝く中をくぐり抜けた後ということもあり、非常に暖かみを感じる。時折中から漏れ出る陽気な笑い声と胃にガツンと来るおいしそうな食べ物の香りは、誘われるがままに中に入ってしまいそうになる。
「バーも好きですよ。ただ〝艦娘〟が心の底から安心できるのってやっぱこういうお店かなって思ったんです」
そう言うと鈴谷は扉を開き「たいしょー、きたよー」と声を上げた。叢雲はそんな鈴谷の小さな気遣いを感じ、後姿を見ながら「……違いないわね」と笑みを浮かべた。
今日、鈴谷に誘われて良かったと叢雲は動悸を抑えるように胸に手を当てた。今日だけは一人で過ごすにはつらかった。
心臓が破裂しそうなほど騒いでいる。今朝からずっとだ。
懐かしい気配を感じた。
もう二十年くらい前になる、それはほんの数時間だけの邂逅であった。
しかし今も色あせることなく叢雲の胸の中で燦然と輝き続ける思い出だった。
気のせいかもしれない、幻かもしれない。
ずっとあきらめていた。この思い出だけを胸に一人で生きていくのだと覚悟を決めていた。
でも、確かに〝提督〟の気配を感じた。もしかしたらと湧き上がる情動は今、この胸を息苦しくなるほどに締め付けている。
「……ねえ、私はあなたにもう一度会えるかしら?」
誰に届けるわけでもない。ずっと自分の中に秘めていた想いは、閉じていた宝箱は、今再び開こうとしていた。