雪ノ下さん家の雪乃さん(短編集)   作:夢兎*

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修学旅行後のお話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。



雪ノ下さんの誰にも言えない秘密。

 

 ――痛い。

 

 背中を丸めて歩いてくる彼の姿を見て、私は一体、どんな顔をしているのだろう。

 

 苦しい。なにか、刃のようなもので刺された気分だった。八つ裂きというよりかは一刺しで力の限り貫かれた心持ち。どうしてかなんて、そんなもの考えるまでもないのに、けれど、受け入れきれない。

 

 どうして。私はこんなに辛いのに、彼はいつも通り、一仕事終えたような気軽さで歩み寄ってくる。それを待つ前に、言葉は飛び出していた。

 

「……あなたのやり方、嫌いだわ」

 

 ――痛い。

 

 そうじゃない。そんなことが言いたいわけではないのに。

 

 嘘ではないけれど、今私が言いたいことは――訊きたいことがあるはずなのに。どうして。

 

「うまく説明ができなくて、もどかしいのだけれど……」

 

 ――痛い。

 

 胸に手を添えても、その痛みは(やわ)らがない。ずくずくと、むしろ増すばかりで。やり場のない怒りが、行く宛のない悲しみが、抑えきれない。

 

「あなたのそのやり方――とても嫌い」

 

 ――痛い。

 

 なにか言って欲しい。説明して欲しい。こうするしかなかった理由を、私が納得出来るように。

 

 それが、言えない。口を開いても、言葉が喉を通らない。

 

 だから、そんな私の想いに彼が気づくはずもなく、ただ、ひりつく静寂が空間を支配していた。

 

「……先に戻るわ」

 

 ――痛い。

 

 居心地の悪い空間から逃げ出すように歩き出した。

 

 いたくなかった。信じたくなかった。すべて嘘だったのだとそう思いたかった。

 

 ――痛い。痛い……痛いっ。

 

「いた、い……っ」

 

 胸の痛みが、どうしようもない現実を叩きつけてくる。お前はなにも知らなかったのだと(なじ)ってくる。理解出来てなどいなかったのだと罵ってくる。

 

 誰にも理解されないのだと、独り善がりだったのだと――

 

「ちがう……」

 

 ただの記号は声にしたところで意味を成さなかった。自分の言葉すら、自分を守ってはくれない。覆せない事実がそこにはある。

 

 つぅっと流れるように雫が宙に散っていった。

 

 そうして、いつの間にか走っていたことに気づいて、歩調を緩める。重くなった足は動かすのが億劫で、ふと立ち止まって涙を拭った。

 

「……たすけて」

 

 救いを求めて見上げた空に浮かぶ月が、とても綺麗だった。

 

        × × × ×

 

 ――私には誰にも言えない秘密がいくつかある。

 

 その中でも大きなものが三つ。

 

 一つ目は、ディスティニーランドのキャラクターであるパンさんが幼い頃から好きなこと。ぬいぐるみを抱き締めると、少し心が落ち着いた。

 

 二つ目は、猫が好きなこと。飼ってみたいのだけれど……それは住居の都合で叶わない。今度は心が沈んだ。

 

「……ダメね」

 

 修学旅行が終わり、土日を挟んで月曜の朝。落ち込んだ気持ちを立て直すために好きなもののことを考えてみたけれど、いまいちうまくいかないわね……。

 

 そもそも、最後にくるのがあのことな時点で、手法が間違っていたのかもしれない。考えたくないことを考えなければいけないのだから、事前準備をして挑むのは悪くない選択な気もするけれど、これでは準備体操をしている途中にいきなり試合が始まったようなものじゃない。

 

 とりあえず支度をしながら、別の方法を考えよう。

 

 支度を終え、マンションから外に出ると、ひゅうと冷たい風が吹いた。ぼんやりとしていた視界が、冷や水を浴びたようにすっきりする。

 

 ひらりと枝から落ちた枯葉が、ひたすらに印象的だった。

 

        × × × ×

 

 考え事をしていると、時間の経過は早くて、いつの間にか放課後がやって来た。結局、なにも考えつかないまま部室へと足を向かわせる。

 

 重い。動かす足が、鉛をつけられたように重い。つい先日までは急いで向かってしまうくらいには楽しみだったのに。

 

 ――楽しみ、ね。そう、楽しみだった。楽しかった。あの空間が、心地よかった。いつから、誰かといることが当たり前になっていたのかしら……誰もいないことが、当たり前だったのに。

 

 ――戻るだけじゃない。

 

 集団とも呼べないなにかが、もともとあるべき姿に戻るだけ。そう考えて尚、重い足取りは変わらない。

 

 違うのだと分かっていた。違う、そうじゃない、元に戻ってるわけじゃない。一度変わったものが巻き戻すように元に戻るなんて、そんなことはあり得ない。だって、温め直した紅茶はまずいもの。

 

 それをすでに昼休み、味わっている。

 

 ――ごめんなさい。

 

 口の中でつぶやきながら、それがなにに対しての謝罪なのか分からなかった。中身のない謝罪。それは私が悪いことをしたと思っていないということに他ならない。

 

 あの場で彼を責めたことを、悪いとは思えない。だって、仕方ないじゃない。理解出来なかったのだから、辛かったのだから。ふっと、嘲るような息を吐いた。

 

 ……まるで、幼子の癇癪ね。原因は彼にあるけれど、それを加速させたのは私。それなら、考えるべきは、どちらが悪いとか、誰が悪いとかじゃなくて――

 

 不意に、階段を上る音が耳に届いた。どちらだろう。考えるまでもない。由比ヶ浜さんは基本的にはいつも遅れて来るのだから、そこにいるのは彼しかいない。

 

 答え合わせをするように振り向くと、やっぱりそこには彼がいて、彼もまた、私を見ていた。

 

「……来たのね」

 

 突き放すような物言いになってしまった。そのことに罪悪感を覚えていない自分が、酷く気色悪い。

 

「……ああ」

 

 短く答えた彼は、立ち止まった私を迂回するようなルートで歩き出す。

 

 どうすればいいのだろう。ただ、それを目で追うことしか出来ない。

 

 ――違う。理解している。どうすればいいのかなんて、もうとっくに答えは出ているじゃない。だから、あとはそれを口に出すだけ。なのに、動かない。

 

「……なぁ」

 

 同じ段に立った彼が口を開く。横目で見やると、彼はなにか言いたげに口を開いて、それからふっと視線落としたのち、声を出す。

 

「お前が先に行かないと、入れねーんだけど」

 

 期待していた言葉とは違った。

 

 ――期待、なんてどの口が。もう、一度裏切られているじゃない。あんなことがあったのに、それでもまだ彼に縋って、彼からの言葉を待っている自分に反吐が出る。

 

 言ってもらえる資格もない。言わせる権利もない。私が、突き放したのだから。言い訳する余地を与えず、逃げたのだから。冷静に考えれば、どれだけ私自身に非があるのかよく分かる。

 

「そう、ね……」

 

 理解していながら、それを無視して歩みを進めた。口を閉ざして、分かってくれるのだと押し付けて、逃げ続ける。そうして、いつになるかも分からない、彼からの言葉を待ち続ける。そのとき、しっかりと受け入れられるかも分からないのに。

 

 ――痛い。

 

 かさぶたを剥がされたように、痛みが戻って来た。それは弱い自分を否定する槍だ。責任を取るわけでもない、受け入れてあげられるわけでもない、それなのに彼にすべてを任せていいのか。また、あのときの焼き直しになるだけではないのだろうか。

 

 目を逸らした事柄を痛みを伴って伝えてくる。襲いかかってくる。

 

 ――かちゃり、鍵を開けて、扉に手をかける。

 

 入ったら、ここで終わってしまう気がした。本当にいいの? と、そう問われている。ずっと、心の奥で木霊している。

 

 手を離して、ゆっくり空気を吸い込んだ。そして、吐き出す。

 

 ――いいわけ、ないじゃない。

 

「雪ノ下……?」

 

 いつまでも教室へ入らない私を不思議に思ったのか、比企谷くんが私の名を呼ぶ。その声の震えが、恐怖の滲んだ声音が、ますます私の胸を痛めつける。

 

 正しいことをしなければと思った。壊れかけの空間を維持することが今私のすべきことではない。私が本当にしなければいけないのは、本当に簡単で、本当に難しいことだ。

 

「比企谷くん」

 

 振り返って、彼の瞳を見据える。

 

「――少し、話をしましょう」

 

 ひとたび決意してしまえば、思っていたよりもすんなりと声に出せた。

 

        × × × ×

 

 渡り廊下に出ると、吹奏楽部の演奏が聴こえてきた。それは潮の匂いとともに風に流されていく。校舎内に残っている生徒のほとんどは部活に精を出しているのだろう、環境音は途絶えないけれど、まったくと言っていいほどに人気がない。

 

 風で微かに乱れた髪を整えて、目の前に佇む彼に視点を固定する。

 

「……どんよりしているわね」

「は? ……晴れてるじゃねぇか」

 

 空を見上げて言う。

 

「あなたの目の話よ」

「改めて言うことかよ……」

 

 がくっと肩を落としてため息を吐いた。それがなんだか自然で、なにをするでもなく変わらないままだったのではないかと錯覚してしまいそうになる。そんなわけないのに。

 

 前座が終わればまたぎこちない空気が戻ってくる。だから、声を出せた。決意したくせに、少し時間が経っただけでそんなことをわざわざ確認しないと切り出せない自分に呆れそうになる。

 

 でも、今はいい。自己嫌悪は全部終わってからでいい。

 

「いつもより酷いわよ。……私の、せい?」

 

 比企谷くんはとても驚いた顔をして、それから、諦めたような表情を浮かべる。……失望させてしまったかしら。

 

「誰のせいとか、そういうんじゃねーだろ……それでも誰が悪いかを決めるなら、それは俺のせいだ」

 

 いかにも、そんなことを言いそうだ。いつもの自虐。彼はいつも、全部自分でなんとかしようとする節がある。それが好ましく、痛ましい。

 

「俺が勝手にやって、勝手に失敗して。自業自得ってやつだろ」

「失敗したの……?」

「そうじゃねぇのか? だって……」

 

 言いかけて口を閉じる。私が責めたから――と、そう言おうとしたのだろうか。なら、言ってしまえばよかったのに。言われないのは辛い、弁明すら許してもらえないようで、きゅっと喉が締まる。

 

「誰が悪いのかは、どうでもいいわね。いえ、よくはないのだけれど……今話すべきは、なにが悪かったのか」

 

 比企谷くんが私を責めることはない。けれど、私ばっかりずるいじゃない。比企谷くんが自分で片をつけてしまったら、私はなにも言えないもの。

 

 だったら、すり替えればいい。彼が彼自身を責められないように。

 

「どうして、あんなことをしたの?」

「どうしてって……」

「不自然じゃない。奉仕部への依頼に、『告白の成功』は含まれていなかったはずよ。告白が失敗しても、文句を言われることはなかった……なのに、あなたは『告白の失敗』を回避した」

 

 必要のない動きだった。だから分からない。どうしてそんなことをする必要があったのか。

 

「どうして?」

 

 再び問いかけると、比企谷くんはなにか逡巡したのちにゆっくりと口を開く。

 

「あれが、最善だったから――」

「――違うわね」

 

 言い切る前に言葉を遮った。別に彼が最善を求めない性格だと思っているわけではないけれど、それでも正面から否定をぶつけたのは、今までの彼の行動とそれが合致しないから。

 

 今まで、彼はそれ以上のことはしなかった。依頼を超えて何かをすることはなかった。あくまでサポート、もちろんその功績は認めているけれど、今回のは話が違う。

 

 相模さんに罵声を浴びせることで彼女を委員長として舞台に立たせたときは、私の言葉も依頼として取っていたのだろう。サポート自体は完遂していたのだから、彼女を必ずしも舞台に連れてくる必要はなかったのだし。

 

 だとすれば――

 

「……誰かになにか、頼まれた?」

 

 彼は答えない。けれど、その沈黙こそが雄弁に、それが真実であると語っていた。

 

「そうなのね……」

「ちが……っ」

 

 嘘を吐くことを躊躇ったのか、否定の言葉を留める。

 

 なにを頼まれたのだろうか。文化祭の件も含めて、今までの結果を考えれば、答えは自ずと導き出される。

 

 ようは逆算すればいい。告白の失敗を回避することで、告白が失敗したときに起こりうるなにかを潰した。そのなにかは、なんなのか。

 

「海老名さんと、戸部くんは同じグループなのよね……」

 

 同じグループ内に告白した者と振られた者がいる。それはきっと、居心地が悪い。

 

「そう……そういうこと」

 

 変化を望まない誰かがいたのだろう。その誰かを推測するのは容易いけれど、まあ、そこまでははっきり言って興味がない。知ったところで意味はないのだし。

 

「本当に……誰でも救ってしまうのね」

「別に救っちゃいねぇだろ……」

 

 苦虫を噛み潰したような表情。それがとても痛い。見ていられなくて、目を背けた。

 

「きっと、こういう話を、あのときにするべきだったのよね……」

 

 見上げた空が、高い位置にいながらいつもより遠く見えた。薄暗くなってきた空には淡く月が光っている。

 

 由比ヶ浜さんを待たせてしまっている……この時間になっても探しに来ないということは、多分、なんとなく察してくれているのだろう。

 

 ……本当に、悪い癖だわ。もう一度、話さなきゃいけないじゃない。

 

「やり直しましょう」

「……は?」

 

 間の抜けた声を漏らした彼の顔は沈みゆく夕陽に染まって、濡れた瞳がオレンジの光を灯す。

 

「復習は、ここで終わり。簡単なことじゃない……まちがえていたのだから、やり直せばいいのよ」

 

 自然と笑みが漏れて、それからもう一度、彼に視線を向けた。

 

「――あなたのやり方、嫌いだわ」

「……っ」

「でも、とてもあなたらしいと思う」

 

 そう――これが彼なのよ。そういうやり方しか出来ないのが、比企谷くん。そんなの、とっくに分かっていたはずなのにね。

 

「理解していた気になっていた……いえ、理解してもらえてる気になっていた。私も、あなたも。……違う?」

「そう、かもな……」

 

 それこそが、悪だった。なにが悪かったと問われればそう答える他ない。分かってくれているものだとばかり思っていた。なにも言葉にしていないのに、なにも態度に示していないのに。それでなにかを分かれだなんて、傲慢にもほどがある。

 

「それで……もう、ああいうのは最後にして欲しい」

「……どうして」

「痛かったの……とても」

 

 痛かった。ずっと。ずきずきと痛んで、それが無視出来なくて、こうして今ここにいる。それがなければ――そういう気持ちを抱いていなければ、きっと、あのときもすんなりと受け入れられたんじゃないかと感じる。

 

 だから、どうしようもなくそれはそこにあって、捨てられないし、捨てたくない。気持ちを再確認して、彼の顔を見ると、どきりと胸が弾んだ。

 

「海老名さんに、あなたが……その、告白? したのを見て……」

 

 さっきまで平気で言えていた単語が、なんだかとても恥ずかしいもののような気がしてくる。どきどきする。こんなことまで、言う必要、あるのかしら……。

 

「それは……」

「関係が変わることは恐いわよね……あなたが誰に言われたのか知らないけれど、今ならその気持ち、分かる気がするの」

 

 言わなきゃ伝わらない。態度に示さなきゃ分かってもらえない。いえ、それをして尚、信じてもらえるかどうか、理解してもらえるかどうか、分からない。

 

 けれど、言わなければ離れていくばかりだから。

 

「……どきどきするのよ」

 

 ゆっくり彼に近づいて、そっと頬に手を添える。触れた部分が熱い。動悸が加速する。こんなに近づいたの、初めてで、……頭が真っ白になりそう。

 

「あなたは……どう?」

 

 比企谷くんの顔を見ると心が弾む。比企谷くんと話しているとうきうきする。比企谷くんの側にいると、どきどきする。

 

 由比ヶ浜さんと比企谷くんが仲良さそうにしていると、嬉しくなって、それから、少しだけ胸がちくちくする。寝るときにそのことを思い出して、寝覚めが悪くなる。もやもやして、次の日にいつもより辛く当たってしまう。

 

 胸が焼けるように熱い。肌に当たる風が冷たいのが幸いだった。……手汗とか、かいてないわよね……。

 

「これからはもっと……その、伝えられるように、頑張るわ……だから、その」

 

 口がうまく回らない。顔の火照りが自分でも分かる。彼の赤くなった顔を見て、ちょっとだけ優越感。私しか、こんなに真っ赤に染まった彼の顔を知らないのだと思うと、それはとても特別で素敵なことだと感じる。

 

「あなたも、もう少し、正直になっても、いいと思う……のだけれど」

 

 手を離すと、指先に残った熱がじんわりと宙に溶けて消えていく。

 

 いつか、この熱が消えないくらいずっと側にいられるような関係になれたらと、強く手を握り締めた。

 

「話は終わりよ……戻りましょう。由比ヶ浜さんが待っているわ」

 

 その横を通り過ぎて、ふと思う。

 

 ――もっと、ちゃんと言っておいたほうがいいわね。甘やかすとろくなことがなさそうだし。

 

 くるりと振り返ると、思った以上に近くにいた彼にびくっと震えてしまった。こほんと誤魔化すように咳払いをして、それから微笑む。

 

「――いつか、あなたの答えを聴かせてね」

 

 向き直って、背中にぶつかった小さな了承の声に満足しながら足を踏み出した。

 

 

 ――私には、誰にも言えない秘密がいくつかある。

 

 その中でも大きなものが三つ。

 

 一つ目は、ディスティニーランドのキャラクターであるパンさんが幼い頃から好きなこと。

 

 二つ目は、猫が好きなこと。

 

 そして、三つ目は。

 

 ――好きな人がいること。

 

 近い将来、残りの二つも言えるかしら。

 

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