雪ノ下さん家の雪乃さん(短編集)   作:夢兎*

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二人で出かけたときの話。
※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。


だから、雪ノ下雪乃はその答えを待ち続ける。

 

 スマホで時刻を確認して、少し視線を動かす。吹き抜けた風に乱れた髪を整えて、もう一度周囲に目をやれば、もう見慣れた怠そうな顔が視界に映った。

 

「遅いわよ、比企谷くん」

「いや、丁度いいくらいだろ」

「はぁ……五分前行動は基本でしょう。流石、集団行動を乱させたら右に出る者はいないわね」

 

 まったく、この男はいつもいつも……。

 

「まあな。俺ほど単独行動が似合う人間もそうはいない。気づいたら周りに誰もいないまである」

「置いていかれてることに気づいていないのね、かわいそうに……」

 

 それとも気づいていないフリをしているのかしら。そちらの方が残酷な辺り、とっても比企谷くんらしいわね。

 

「そもそも呼ばれてないしな」

「今日は呼んだ……というか、私とあなたが任されたのだから、しっかりしなさい」

 

 本当に、なんで比企谷くんと二人で行動しなければならないのかしら。極めて遺憾だわ。私と比企谷くんが二人で行動とか、これまでにも何度かあったけれどほとんどうまくいった記憶がないわよ?

 

 だいたい、それもこれも全部由比ヶ浜さんと一色さんのせいよ。私のことを頼めばなんでも引き受ける女だとでも思っているのかしら。

 

 ……実際そうなっているから、否定も出来ないのだけれど。

 

「へいへい。つっても、なんで俺と雪ノ下なんだろうな。あいつらのほうが向いてるだろうに」

「本当に。私とあなたがデスクワーク、由比ヶ浜さんと一色さんが現地取材を担当したほうが効率がいいとは何度も言ったのだけれど……いいから、と押し切られてしまって」

 

 なにがいいのよ。なんにもよくないのだけれど。

 

「だいたい、私はともかく、引きこもりがやくんに関しては完全に人選ミスよね。あの二人、ヒッキーがあだ名の人間が外に出てなにか出来るとでも思っているのかしら……」

 

 ……まあ、いつか由比ヶ浜さんの誕生日プレゼントを買いに行ったときのことを鑑みれば、少しは使えないこともないかもしれないけれど。

 

「ねぇ、振り切ったバットこっちに放り投げてくるのやめてくれます? っていうか、もはや俺に向かってスイングしてるよな?」

「女性に向かってフルスイングするわけにはいかないでしょう」

「そういう問題じゃねぇんだよなぁ……しかもフルスイングなのかよ。もっと部員を大事にしろよ」

 

 じとっとした瞳で私を睨め付ける比企谷くんに、思わず笑みが溢れてしまう。別に虐めたいというわけでもないのだけれど。

 

 それはさておき、確かに奉仕部の大切な備品にフルスイングするわけにはいかないわよね。

 

「ふふ、ごめんなさい。あなたは振られるほうが得意だったわね」

「そうですね……そういうお前はまんま振るのが得意だよな」

「言われてみればそうね。なら、この組み合わせも理にかなっているのかしら。どう? 一度振られてみる?」

「……いや、遠慮しとく」

 

 なんだかぐったりしているわね。調子が悪いのかしら。まあ比企谷くんの調子が悪そうなのは今に限った話ではないから、放っておいても問題はないのでしょうけど。特に目とか調子悪そうよね。慣れると悪いものでもないけれど。

 

 ところで、比企谷くんのテンションが下がると私のテンションが上がるのは一体どういう理屈なのかしら。サンドバッグを殴ってストレスを発散するのと似たようなもの……いえ、それとはどうも違う気がするのよね。

 

「というか、そんなことはどうでもいいのよ。あなたはどう頼まれたの?」

「あー……昨日の夜中にいきなり今日のこの時間に雪ノ下が待ってるから一緒に行ってこいとかってLINEが来たんだよ」

「それで来るなんて、あなたどうかしてるんじゃないの……?」

 

 私だったら、由比ヶ浜さんから唐突に比企谷くんが待ってるから行ってこいという旨の記載されたLINEが届いても……行かない、こともないわね? 一応、一色さんからの依頼に必要なことではあるのだし。無視して後で文句を言われるのも癪だし。

 

「いや、一応一色の依頼に必要なことだからな……無視して後で文句言われても面倒だし」

「なっ——」

「? どうした」

「ど、どうもしていないわ……」

 

 なんでほとんど同じことを考えているのよ……。比企谷くんと思考回路が一緒とか、それはちょっとまだ早い気がするのだけれど。もう少し時間とか手間とか歳月とかいろいろ掛けてからにして欲しいのだけれど。

 

「顔赤いぞ?」

「えっ」

 

 熱でもあるのかしら……なんだかちょっと暑いような気はしていたけれど。いえ、でも、待っているときはそんなことはなかったし。

 

「……大丈夫、だと思うわ。多分」

「ならいいが……っつーか、あいつらもしかしてなにか企んでんのか?」

「……さぁ。まあ、あの二人がなにか企んでいたとしても、たいしたことではなさそうだけれど」

「それもそうか……んじゃ、そろそろ行くか」

「そうね。いつまでもあなたと立ち話だなんて時間がもったいないし」

‪「一言多いっつの……」‬

‪「削ったら無視することになってしまうじゃない。それに、座れるなら座って話したほうがいいでしょう?」‬

 

 比企谷くんと話し始めたら長くなるから、私の体力がもたないわよ。……そのくらい、分かりそうなものだけれど。体力がないって話、していなかったかしら……?

 

‪「ま、まあ、疲れるしな……ほら、行くぞ」‬

「ええ」

 

 歩き始めた比企谷くんの隣に並んで、バッグからスマホを取り出した。

 

「最初の目的地は……」

「新しくオープンしたカフェ、よ」

「案内は……あー、いや、俺に着いてきてくれ」

 

 ……今の間はなに? 私がスマホを手に持っているのに、なんでわざわざ比企谷くんも持つのよ。まったく、無駄の多い男ね。

 

「私に任せてくれればいいわ」

「いや、それはな……」

「なによその顔……」

 

 まるで私が案内したらなにか起こるみたいじゃない。別に自覚がないわけじゃないのよ? 私だって地図さえあればなんとかなるから申し出ているわけであって、そこまで不安気な表情をされる謂れはないわ。

 

「地図あっても、な……」

「そう……そういうこと。その挑発、乗ってあげるわ。見ていなさい……」

「いや、挑発じゃなくてだな……」

「いいから行くわよ、着いてきなさい」

「はぁ。はいはい……どうなっても知らねぇぞ」

 

 ふん、言っていればいいわ。この距離で地図まであって目的地に辿り着けない人間がいるわけないじゃない。私をバカにしたこと、後悔させてあげる。

 

        × × × ×

 

「……ごめんなさい」

 

 数十分後、見事なまでに迷っている私がいた。信じられないことだけれど、どうやら事実らしい。デパートのフロアで迷うような人間が一人で街を歩くなんて無謀だったということね……えぇ、本当に反省しているわ。

 

「いや、止めれなかった俺も悪いし……」

「いえ、今回のは私が一方的に悪いわ……その、えっと、こんなことを頼める立場ではないことは分かっているのだけれど、目的地までの案内頼めるかしら……?」

 

 断られてしまうのではないかと、不安に思いながら返答を待った。私なら置いて帰っているところだわ……。というか、比企谷くんがここがどこなのか分かっているのかどうかも怪しいのよね。……私が余計な意地を張らなければ。

 

 しかし、そんな私の思考に反して、比企谷くんは逡巡する様子もなく首肯する。

 

「おう。じゃあ、さっさと行こうぜ」

「……断らないのね」

「はぁ? 断る理由がないだろ、どのみち行くんだから」

「それは、そうかもしれないけれど……」

 

 いつも、そうよね。そうやって、自分に対する被害を当たり前のように受け入れてしまう。心の中でどう思っているのかは知らないけれど、軽く扱われることに慣れて諦めてすらいるように見える。そういう比企谷くんが私は嫌いではないけど……いえ、やっぱり、嫌いだわ。

 

「……あなたはもう少し怒ったりするべきだと、思う」

「今のが怒るほどのことか? お前、おかしいぞ? やっぱり熱でもあんじゃねーのか?」

「なら……それなら、あなたにとって、怒るほどのことってなに?」

「それは……」

 

 迷うように視線を彷徨わせる比企谷くんを見ながら、私の心に浮かんできたこの気持ちはなんと呼べばいいのだろう。彼を見ていると、彼の近くにいると、何度となく現れては胸中をかき乱していくそれの正体を私はまだ知らずにいる。

 

「別に、いちいち怒ってても仕方ないだろ……都合が悪くなるだけだ」

「都合がいいだけの人間なんて、私は一度だって求めたことがないわ」

 

 全て許してくれる。全て受け入れてくれる。頼めばなんでもやってくれるし、からかっても怒らない。そんな関係に、なんの価値があるの?

 

「私がなにを言ったところで、なにをしたところであなたは怒らない。それはあなたが私の行動に頓着していないという証明ではないの?」

「そんなこと——」

「——つまり。あなた、私に興味がないのね」

 

 自分で言ったくせに、なぜだか心がぎゅっと締めつけられる。

 

 けれど、同時に納得していた。自分の論に。だって興味がないなら、今までの全てが腑に落ちるもの。私に対しても由比ヶ浜さんに対しても一色さんに対しても、比企谷くんが怒ることがないのは彼の優しさからなのだと心のどこかで思っていた。

 

 本当にバカみたいだわ。優しさだけで全てを許容出来るのなら、戦争なんてものが起きることはなかったでしょう。人は自らに害を及ぼす相手を意識の外に追いやることで安息を保つのだ。

 

 なにも答えない比企谷くんを見つめていると、沈黙で少しだけ頭が冷静さを取り戻す。……言い過ぎた、かしら。

 

「……ごめんなさい。らしくない物言いだったわね、忘れて」

 

 だいたい、その理屈が正しかったら、比企谷くんの感情の変化で私の気分が上がる理由は、比企谷くんの気を惹けて嬉しかったからということになる。相手の気を惹くために相手を貶すなんて、小学生以下じゃない……。

 

「別に私は、あなたに怒って欲しくてあなたと話すわけではないもの」

「雪ノ下……」

 

 私の名を呼んでなにか言いたげに唇を動かすも、比企谷くんの口からそれ以上言葉が出ることはなかった。

 

「案内、頼めるかしら」

「……おう」

 

 それっきり無言のまま、私たちは目的地へと歩き始めた。

 

        × × × ×

 

 どうしてあんなことを言ってしまったのかしら。とても気まずい。少し前ならきっと言っていなかった……もし言っていたとしても、そのまま平然としていたはず。

 

 居心地の悪さを感じながら黙々と足を動かしているうちに目的地へと辿り着く。

 

「ここだな」

 

 モダンな雰囲気の外観には物静かな印象を受ける。それでありながらもしっかりと存在を主張していて不思議と目に止まる、そんなカフェだった。……悪くないわね。ただ、学生が立ち寄るには少し無骨かしら。

 

「では、入りましょうか」

 

 いろはさんと由比ヶ浜さんに頼まれたのは、このカフェを含め数件のスポットへ向かい現地取材を行うこと。ちなみにいろはさんの依頼はフリーペーパー作成の手伝い。なんでも、前回のフリーペーパーが好評だったため、定期的に発行することにしたのだとか。

 

 それで毎回奉仕部を頼られるのは困るけれど、次回以降は生徒会のみでやると言っていたから問題ないでしょう。

 

 店内へ入ると、コーヒーの香りが鼻孔をくすぐった。焼き菓子の匂いが混じっていることから推測するに、どうやら洋菓子も作っているらしい。

 

 入店時に頼むのではなく、テーブルに座ってから注文を済ませる形式の喫茶店らしい。比企谷くんも似たようなことを考えていたのか、意外そうに言葉を漏らす。

 

「先に注文するわけじゃないのか」

「タリーズやスターバックスとは違って、飲み物よりも洋菓子がメインなのでしょう」

「ああ、なるほど……前回のフリペで来たとこと似てるな」

「そういえば来ていたわね、一色さんと、二人きりで、楽しそうに」

「……なんだよ」

「いえ、特になにも」

 

 まあ、比企谷くんが一人で来るような店ではないわね。この男、コーヒー一杯で一時間くらい居座りそうだし。慣れていないのも無理はない。

 

 とりあえず適当なテーブルへ向かい腰を下ろすと、比企谷くんは改めて店内を見回して印象を述べる。

 

「落ち着いた感じだな」

「そうね。でも学生向きではないかしら」

「あー、どうだろうな。最近はインスタ映えとかで、ちょっと秘密の隠れ家っぽい店が好まれたりするらしいし」

「あら、詳しいのね」

 

 比企谷くんの知識にしては、なかなか信ぴょう性が高そう。私が思っているより流行とか気にするタイプなのかしら。へぇと思いながら店内へ視線を向けると、そんな思考を全削除したくなる答えが横から聞こえた。

 

「一色が言ってた」

「ああ、そう……」

 

 そうよね。比企谷くんだものね。そっちのほうが納得がいく辺り、本当に比企谷くんだわ。私が今一緒にいるのは比企谷くんで合っていたのね。知っていたけれど。

 

「いい加減、なにか頼むか」

「ええ」

 

 ではメニューをと、テーブルの端に手を伸ばすも、それより早く比企谷くんがメニューを取る。どうやら一枚しかないらしい。比企谷くんが決まるのを待とうと思っていると、ぱっと私向きでメニューがテーブルの上に開かれる。

 

「……あなた、こんな気遣いが出来たのね」

「は? あ、あー……い、いや、小町とどっか行くとよくあるし」

「ふぅん」

 

 よく比企谷くんが言い訳に使っているお兄ちゃんスキルというやつなのかしら。でも、分からないではないわね。昔、姉さんと外食をしたときにもこんなことがあった気がする。……あの人は今でも選んでいる私を見てにやにやするけれど。姉さんの話はやめましょう。私の胃が痛くなるだけだわ。

 

 ……小町さんにするのと同じ対応ね。そう、そういうこと。

 

「ふふっ、なら私は今、妹扱いを受けているということでいいのね?」

「ち、違っ、なんでそうなんだよ……」

「お兄ちゃん、とか呼んだ方がいいかしら?」

「っ……本当に勘弁してくれ」

 

 ふふふ、楽しい。……そういえば、いつのまにか気まずさなんてどこかに行ってしまったわね。そもそも私が勝手に発していたものな気もするから、私の気分によって緩和するのは当然と言えば当然なのだけれど。でも、その気分を変わる方向へ進めていってくれたのは、比企谷くん、なのかしら。

 

 断定出来るというほどではない。だって、私たちは普通に会話をしていただけだもの。ただ、会話というものは一人では出来ないことの代表格で、そしてなにより、双方の機嫌や態度によって弾みやすさが変わる。

 

 比企谷くんには、わけのわからないことを言って雰囲気を悪くした私との会話を放り投げてしまうことだって出来た。それをしないというのは、比企谷くんが優しいからなのか、単にそうすることが面倒だからなのか……あるいは、私との会話になにか個人的な意味を感じてくれているのか。

 

 比企谷くんらしいのは、二番目かしら。居心地の悪い空間にいたくはないし、私と話すのも気が乗らないけれど仕事として継続しなければならないから、多少の面倒を許容してより嫌な方を捨てた。それはとても、比企谷くんに合った考え方だと思う。

 

 一つ疑問があるとすれば、比企谷くんに望んだ雰囲気へ変えられるようなコミュニケーション能力があるとは思えないということ。そんなことが出来るなら、比企谷くんは今頃孤立したりしていない。

 

 私も比企谷くんもそうして上辺だけ取り繕ったような関係を嫌忌しているから、あえてそうはしなかったというような推測も出来るけれど、そうなれば今度はその行動自体が否定されてしまう。

 

 そもそも、それで否定出来てしまう推測なのだから、比企谷くんらしいとは言えないわよね……。あくまで私の知る限りでだけれど、比企谷くんは取り繕って雰囲気を良くするくらいならなにもしないか、更に空気を悪くする可能性があっても自分の言葉を口にする人だもの。

 

 であるならば、一番目が有力かしら。今のこの状態は、比企谷くん生来の優しさで、比企谷くんが気を遣ってくれたから私は笑えた。……けれど、それもまた、私の知る比企谷くんが否定するのよね。気を遣って話を弾ませるなんて由比ヶ浜みたいなことは俺には出来ないし、しようとも思わないって言いそう。ふふっ、すごく言いそうで、ちょっと笑えてくるわね。

 

「……あの、雪ノ下さん?」

「——あ、ごめんなさい。少し、考え事をしていて……」

 

 少し、ではないかもしれないけれど、そこはどうでもいい。ええ、どうでもいいわ、本当に。

 

 でも、気になるわね……答えが出ないともやもやする。いっそ直接聞いてみようかしら。

 

「ねぇ、比企谷くん」

「なんだ?」

 

 首を傾げる比企谷くんに、そっと訊ねた。

 

「あなた、私に気を遣ってる?」

「なんだよ、藪から棒に……。だから、さっきのは小町の——」

 

 一度視線を逸らしてから、照れ臭そうに私を見た比企谷くんは言葉を止めて、それから納得したような表情で数秒考えてから質問に答える。

 

「遣ってねぇよ……遣わねぇだろ、今更」

「無意識でも?」

「無意識でも。ああ、でも、今更って言い方はおかしいよな……最初から、だ」

 

 真剣な瞳に、嘘の色は見えない。そもそも、ここで嘘をつくような人でもない。なら、答えは三番目? ……どうしてかしら、ちょっとだけ喜んでいる私がいる。

 

「そう……そうよね。分かりきっていることを聞いてしまったわ」

 

 本当にそれが答えなのかは分からない。いまだ納得が出来ていないのも確かで、でも、それなのに自然と笑みが漏れた。

 

「ふふっ」

「……やっぱり、今日のお前、おかしいぞ」

「そうかもしれないわね。いつもおかしい比企谷くんが言うんだもの。言葉の重みが段違いだわ」

「……忘れてくれ。やっぱいつも通りだったわ」

「それならよかったわ、一安心ね。さて、では気を取り直して、注文を決めましょうか」

 

 納得がいかないといった様子で了承し、二人してメニューへと視線を落とす。……結構充実しているのね、出来たばかりだというのに。実はチェーン店だったりするのかしら。でもある程度人気のあるチェーン店がオープンしたら普通はもっと混むわよね……。

 

「どれにしようか迷……え?」

 

 滑らせていた視線が、一箇所に釘付けになる。目をぱちぱちと瞬かせて、それからもう一度見ても、やっぱりそれはあれで。

 

「……雪ノ下?」

「……パ」

「パ? なにを……」

 

 どうやら、比企谷くんも気づいたらしい。そこにいる、その存在に。なんでこんなところにいるの……孔明の罠? というより、私ともあろうものがこれに気づけないなんて。いえ、反省は後よ。今はこれをどうするか考えなければ。

 

「……その、比企谷くん」

「なんだ……」

 

 やめて。そんな目を向けないで。私だって選ぶ余地があるのなら、こんなこと頼もうとしないわよ。でも仕方ないじゃない。期限が今日までで、しかも形式が形式なんだもの。

 

「この後のルートを変更したいのだけれど……付き合って、もらえるかしら」

「……はぁ」

「べ、別に断ってもらっても構わないわよ……私の個人的な用なのだから。それなら、なるべく早く今日の予定を済ませて一人で……一人で行く、から」

「それでまた迷うわけだ」

「ぐうっ……分かってるわよ! 分かっているけれど……こうして知ってしまったら、諦められないじゃない」

 

 なにか他に諦めなければならない理由があるのなら話は別だけれど、自分の不甲斐なさが原因で知っていて諦めるなんて、そんなこと出来るはずがないのよ。

 

 じっと見つめていると、比企谷くんは目を逸らし仕方なさそうに息を吐いて、

 

「……本分を忘れるなよ?」

「っ……えぇ!」

 

 このときだけは、比企谷くんが輝いて見えた。

 

        × × × ×

 

 ありがとうございますという挨拶を耳にしながら本日何軒目かのお店を出ると、空にはもう星が浮かんでいた。冷たい風が肌を撫でてぶるりと身体が寒さを訴える。

 

 ……本来ならもう帰っている時間なのよね。隣の比企谷くんに目を向けると、どこか疲れた表情で空を見上げていた。比企谷くんが疲れているということは、私のスタミナなんてとっくになくなっているということで。実際、足なんて棒のよう。もう一歩も歩ける気がしないけれど、それでも家まで帰らなければならない。

 

 というかこれ、どう考えても仕組まれたわよね……なんのつもり? 後日、由比ヶ浜さんと一色さんを問いたださなければならないわ。それはさて置き、まずは比企谷くんへお礼をしないと。

 

「……ありがとう。あと、ごめんなさい、付き合わせて」

 

 後ろめたさが振り切っていて、目を見て言えなかった。けれど比企谷くんは嫌味のない声音で言葉を返してくれる。

 

「ついでだって言ったろ……謝られるようなことじゃない」

「けれど……」

「俺がいいって言ってんだから、いいんだよ……お前がパンさん好きなのは知ってたし。不可抗力みたいなもんだ」

 

 不可抗力。その呼び方になぜだが胸が痛む。比企谷くんが望んでいないことは知っていた。知っていて、その上で頼んだのだ。そういう言い方になるのは仕方ない。

 

 ……頭では分かっているのに、寂しくなるのはどうしてかしら。私の好きなものを由比ヶ浜さんが嫌っていた、あるいは苦手に感じていたときのような、そういう感覚と似ている。

 

「……やっぱり、嫌だった?」

「あー、いや、そういう意味じゃなくてだな……だいたい、もう終わったことなんだからなんでもいいだろ」

 

 なんでもよく、ないのだけれど……。

 

「それにしても、パンさんってスタンプラリーとかやってんだな」

 

 スタンプラリー。私が今日、比企谷くんを連れ回してしまった理由。まあ、私はついていった側だから、連れ回したという表現が適切かどうかは分からないけれど。

 

 シールとか、ポストカードとか、たいしたものではない。でも限定品だから、ここで手に入れられたのは本当によかった。

 

「私も初めて知ったから、これが初なのではないかしら……」

「お前が見落とすなんてことあるんだな」

「公式でアナウンスしていないことがたまにあるのよね……本当に勘弁して欲しいわ」

 

 事前に知っていたら、由比ヶ浜さんに頼んで期間中に徐々に回るという方法も取れたのに。これ、逃したファン多いのではないかしら……。

 

「まあ、無事に終わってなによりだ」

「……あなたのおかげよ、本当にありがとう。後日、なにかお礼でも……」

「いや、いらないし……」

「そういうわけにはいかないでしょう」

「道案内ごときで改めてお礼とかされても困るっての……他人じゃねぇんだから」

 

 一瞬、固まってしまった。まさかそんなことを言われるなんて思ってもみなかったから。

 

 比企谷くんは私の反応を見て気づいたのか、慌てて口を塞ぐ。けれど、出てしまった言葉はもう塞ぎようがない。

 

「……他人じゃ、ないのね」

 

 家族などの例外はあれど、どこまでいっても他人は他人。家族さえ一番近くにいる他人だと言い切りそうだと思っていた。そんなあなたらしさを私は感じていた。けれどあなたは情けない声で、

 

「……そう思ってたら、ダメか」

 

 と、そんな台詞を口にする。

 

「あなたらしくはないわね」

 

 私の言葉に怯えているように見えるのは、ただの錯覚か、それとも願望か。そんなに怖がらなくてもいいじゃない。私はあなたのやり方を否定しても、あなたの気持ちを否定したりはしないわよ?

 

「ふふっ。けれど、けれどね、比企谷くん。いいと思うわ。確かにあなたらしくはないかもしれない……でも、あなたらしくある必要はどこにもないもの」

 

 だって、あなたの発言や態度こそが、私の中のあなたらしさを形作るのだから。

 

「そういうもんか……」

「そういうものよ」

 

 微笑みかけると、比企谷くんはすぐにそっぽを向いてしまう。照れてる? 私みたいな美少女に微笑みかけられたらそれも仕方ないわね。今日付き合ってくれた借りがあるし、許してあげる。

 

「帰りましょうか」

「……送っていったほうが、いいか? 疲れてるだろ、お前」

「大丈夫よ。なんだかそれほど疲れてもいないみたい。足が軽いわ」

 

 さっきまで全身が怠かった気がするのに、不思議と今は走り出せそうなくらい。どうしてかしら? 今日は疑問に思うことが多い一日ね。けれど、そこまで気にもならない。きっといつか分かるって、そんな気がする。

 

「ならいいが……」

「ほら、行きましょう」

 

 足を動かし始めて数歩、比企谷くんが着いてこないことに気づいた。

 

「比企谷くん?」

 

 呼びかけながら振り向くと、そこにはすごく真剣な表情をした比企谷くんがいて、私は首を傾げてしまう。まだ、なにか話があるのかしら?

 

「——雪ノ下」

「……なにかしら」

 

 どうやら、只事ではない様子。緊張しながら続きを促すように視線を合わせると、比企谷くんもまっすぐ私を見返してくる。

 

「今日、お前は俺がお前に興味がないんだって、言ったよな」

「……ええ。でも、あれは本気でそう思っているというわけでは、なくて……もし、気を悪くしたのなら——」

 

 謝ると、そう言おうとした私を遮って、比企谷くんは言葉を続ける。確信を得たような、滑らかな口調で。

 

「——ずっと考えてたんだ。お前にそう言われてから、今さっきまで。俺にはそれは違うってことだけが分かっていて、でも、なにが違うのかは判然としなくて。その答えが、ようやく分かった」

 

 なるほど。それをわざわざ私に聞かせてくれようとしているのね。問いに対して答えが出たなら、書かなきゃ意味がないものね。正しいのか間違っているのかはこの場合関係ないでしょう。

 

 誰にも正しい答えなんて分からない。道徳みたいなものだもの。

 

 それでも聞いて欲しいというのなら、聞く。それはただの独白で、自身の感情の吐露でしかないのだとしても、私はそんな独白を聞きたいと思っているから。

 

「……俺がお前になにを言われても怒らないのは、別にお前に興味がないからじゃないんだ。お前が——雪ノ下雪乃が、俺にとって他人じゃないからだ」

 

 そこで奉仕部や他の誰かの名を並べずに、私の名前のみを挙げたのには、一体どんな意味があるのだろう。人の言葉に必ず隠れた意味があると思っているわけじゃないのよ。

 

 なにも考えずに言葉を発することだってあるし、ただたまたまそういう表現の仕方になることだだってある。ただ、無意識にしろ意識的にしろ、強調するように私のフルネームを呼んだことに、なにか特別な意味があったらいいなと思った。

 

 しかし、比企谷くんの言葉は要領を得ない。他人より近しい存在に感じているということであるというのは分かるものの、だからといってなんでも許せるわけではないでしょう。

 

 そんな疑問を口にしようとすると、比企谷くんは私が訊くよりも早く具体的な理由を教えてくれた。

 

「……誰かに言われて嫌なことが、相手を変えるだけで嫌ではなくなる。いつもなら面倒で断ることが、特定の誰かなら許せる。そういうこと、あるだろ」

「……そういうこと」

 

 思わず、なるほどと頷いてしまいそうになる。だってそれは確かに身近にありふれていることだから。当たり前過ぎて目を向けることがないから見逃してしまいがちになるけれど、私たちは自然と周りの人間へ優劣をつけて暮らしている。

 

「あぁ。俺にとってお前はそんな誰かで、だから怒りが芽生えない。俺だって、誰になにを言われても怒らないわけじゃない。陰口を聞けば心がささくれ立つし、他人の視線が妙に気になったりすることもある。初対面でお前にボロクソ言われたときは普通に腹が立ったし、喧嘩腰になってる自分がいた」

 

 それは比企谷くんにとって私が他人だったから。なにも知らない私に、自分のなにかが否定されるのが嫌だったから。

 

 共感出来る。思い返せば私だってそうだった。初めて比企谷くんと会話をしたときは、なんだこの男はと思ったし、一生仲良くはなれないタイプの人間だとすら考えていた。

 

 なのに、いつのまにか私は比企谷くんの言葉にマイナスな感情が芽生えることがなくなっていて、弾む会話に楽しさだって覚え、仕事とはいえ二人きりで出掛けることを許容出来ている。比企谷くんとなら、二人きりでも構わないという本音が私の心の奥に確かに存在している。

 

「……お前は俺を知らなかったし、俺もお前のことを知らなかった。でもな……」

 

 言葉を止めて、ゆっくり息を吐き出す。悪戯っぽい笑顔。私が初めて見る比企谷くんの表情に釘付けになっていると、いつか聞いた台詞が耳に届いた。

 

 

「でも——今はお前を知っている」

 

 

 ——今はあなたを知っている。比企谷くんにその言葉を放ったのは何ヶ月くらい前のことだろう。面食らっている私をよそに、比企谷くんは更に口を動かす。

 

「分からないこともある。きっと、知らないことだって数えきれないくらいにあるはずで、知ってることより知らないことの方が遥かに多い」

 

 当たり前だ。なんでもかんでも理解出来るはずがない。どれだけ時間をかけたって見えてこない側面だってある。自分のことすら完全に理解など出来ないのに、相手を知り尽くそうだなんてただの傲慢でしょう。

 

「——でも」

 

 でも。

 

「——それでも」

 

 それでも。

 

「——俺は」

 

 比企谷くんは。

 

「——前よりも確かに、お前を知ってるんだ。いつかお前が俺にそう言ったように」

 

 と、今私にそう言うのだ。それなら、そうなのでしょう。だって、他ならぬ比企谷くん自身が言っているのだから。

 

「他人じゃない。もっと言えば、敵じゃない。だから許せる。お前の言葉に敵意を覚えない、悪意を感じない。なにかを言われても仕方ないと思える。笑って流せる。下らない言い合いが出来る。だから、雪ノ下は他人じゃない……ただ、別にお前にそうあって欲しくて言ったわけじゃないんだ」

 

 強要はしないと、私がそうある必要はないのだと、比企谷くんは告げる。自分が相手を特別扱いしているからといって、相手も自分のことを特別に思っているとは限らないものね。

 

「これは、俺の答えだから」

 

 ……本当にあなたらしいわ。でもね、私はそうじゃないのよ。

 

「……納得したかと問われたら微妙なところね。だって、私はさっきまであなたのことを他人だと思っていたのだから」

「……っ」

「でも、分からないわけではないの。だって、あなたの感じていたことが、私とすごく似ていたから……」

 

 比企谷くんに言われて嫌なこと、由比ヶ浜さんに言われて嫌なこと、いろはさんに言われて嫌なこと、全部違っていて、きっとその数が減っていくほど他人じゃなくなるのよね。

 

 多分、他人じゃなくなることで嫌だと感じるようになる言葉もあるのだろうけど、同時に許せる以上——嬉しい、楽しいと感じられる言葉も増えていく。

 

 今日、疑問に思ったいくつかのことに答えが出た。

 

 私が比企谷くんの気分が落ちたことで機嫌が良くなるのは、比企谷くんがそうして冗談っぽくテンションを下げること、もっといえばそんな冗談を言い合うことにこそ楽しさを感じていたから。その内容や反応がどういうものであるかなんて関係がなくて、比企谷くんと会話をするということ自体に特別な意味を感じているから。

 

 悪くなった雰囲気がただ会話をしているだけで元に戻ったのは、比企谷くんが私との会話に、私自身に特別な感情を向けているから。でも、それは一方的なものではなくて、私だって、そう。私たちはお互いがお互いに敵意や悪意なんてものを抱いていなくて、だから普通に話しているだけで雰囲気なんて勝手に元通りになる。

 

 私も比企谷くんも相手のために取り繕うなんてことはしないし、出来ないし、したくもない。私たちは自分自身がその状態を嫌だと感じて、同じ想いを向け合った上でいつも通りの振る舞いをすることでいつも通りになれる。

 

 分かってる。比企谷くんはそこまで言っていない。これは私がそうであればいいと思っているというだけの話だ。けれど、私は比企谷くんではないからそれでいいのだと思う。私は比企谷くんに対して、私と同じ気持ちでいて欲しいとそう望んでいる。一緒にいて少し話が弾むだけで疲れが取れるのが私だけでは嫌だと、そう考えている。

 

 そして、比企谷くんにも私にそれを望んで欲しいのよ。

 

 ああ、そうなのね。もう、分かった。今まで分からなかったのがバカみたいで、笑えてきてしまう。

 

「似ているからといって、同じ考えになるとは限らない。けれど……それでもね、比企谷くん。私は、あなたを他人じゃないと感じられたらいいと、今、そう思っているわ。あなたが他人じゃなければいい……あなたにも、私に同じことを望んで欲しい」

「……それは、でもな……」

「ええ、そうよね。あなたはそういう人だもの。私とあなたは当然のように違う人間で、考え方だって違うから、答えも違う。当たり前じゃない。だから——」

 

 それはそれでいいのよ。私はあなたに変わって欲しいわけじゃないもの。おかしいわね。昔はあなたの自己変革に躍起にやっていたのに……今はそれも含めて許せるの。

 

「——これが、私の答えよ」

 

 本当なら、比企谷くんが言い終えた時点で話を纏めてもよかった。あれは比企谷くんの独白なのだから、私はたまたま聞いていただけ、それでなくても質問に対する答えにさらに自身の考えを述べる必要なんてどこにもない。

 

 でも、言いたくなった。伝えたくなった。あなたの想いを耳にすれば、私の想いを止めることなんて出来なくて。

 

「ねぇ、比企谷くん」

 

 私はさらに問いを重ねる。あなたのことを知りたいから、という理由付けは出来なくもないけど、それでは足りないわね。だって、私は私の欲しい答え以外を求めていないのだから。……厄介な気持ちに気付いてしまったわ。

 

 それも嫌ではないのだから、本当にどうしようもない。

 

「私とあなたが他人ではないのなら、あなたにとって私はなに?」

 

 そう訊ねた私はどんな顔をしているのか。それは鏡を見なくても、心を満たす感情が教えてくれる。比企谷くんは困ったように眉を顰めて、

 

「それは……」

「ふふっ、いいのよ。今答えてなんて言っていないでしょう?」

「それで……いいのか?」

「ええ、それでいいの。だから——」

 

 いつかでいいわ。あなたのいつかにきっと私がいるから。いてみせるから。

 

 

「——いつか答えを聴かせてね?」

 

 

 

 

 —おまけ—

 

「えぇーっ! そこまでいって付き合ってないとかまじですか! まじですか!」

「ゆきのん……」

「つっ、付き合……い、いいのよ! 別に今すぐどうこうする必要もないでしょう……」

「でも、ねぇー……?」

「ねー?」

「ねー、じゃないわよ……だいたい、あの人の中で答えが出てないのに、私が言ったところで意味がないじゃない。俺にはまだ分からない、とかなんとか言い出すに決まってるわ……」

「あー……確かに、そうかも」

「まぁ、先輩ですしね……。あーあ、せっかく面倒なのがくっついたと思ってたのに、先長そうですね……」

「面倒って……あなた、最近私に対する物言いが砕け過ぎじゃないかしら……構わないけれど」

「うーっす」

「あ、ヒッキー! やっはろー!」

「こんにちは〜。噂をすれば、ですねー」

「よう……なんだよ、噂って。なんか話してたのか?」

「ふふ、陰口なら十八番でしょう? 言われる側だけれど」

「まあな。なんなら直接言われるより気が楽まである」

「本当、どうしようもない人」

「どうにかしようとも思ってねぇしな」

「ふふっ」

「はっ……」

「……まあ」

「……いいのかな、これで」

「「楽しそうだし」」

 

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