※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。
いつかくる別れを思うと、今から胸が痛くなる。
それは由比ヶ浜さんに感じるものとは違っていて、でも、なにが違うのか私自身にもわかっていない。由比ヶ浜さんと比企谷くんは違う人間なのだから、私がそれぞれに別の想いを抱くのは当たり前といえばそうなのかもしれないけれど……。
それだけではない気がする。
気がするだけ。確証なんてどこにもない。ただの予感がずっと胸の内に漂っていて、気持ちの晴れない日々が続いている。
なにをどうすればいいのかしら。いくら思索に耽っても答えは出なくて、むしろ考えれば考えるほどに沼に落ちていっているような気分になる。
こんなの、初めてのことだから。
でも、由比ヶ浜さんとの関係だって初めてのはず、なのよね。と、友達、とか……いなかったから。
そういう意味で、やっぱり由比ヶ浜さんと離れるというのも想像するだけで胸の痛くなる出来事ではある。自分が大切に思っている人と離れるのは辛いもの。
でも、比企谷くんは……。
比企谷くんは友達ではないのだし、私が悲しく感じる要素はそこまであるようには思えないのよね。だって、比企谷くんはただの部員で——も、もちろん、他の数度話した程度の相手よりは私にとって重要な存在であるとは思っていないことも、その、ないのだけれど。
だから、その——あぁ、もう。なんで頭の中でまであの腐った目を見なければならないのよ! 本当に腹立たしい男ね……。だ、だいたい、私が比企谷くんをどう思うかなんて私の自由なのだからいちいち過敏になる必要もないじゃない。もっと堂々とすべきよ、雪ノ下雪乃。
比企谷くんは部員。それ以上でも以下でもない。
なのに。
なのにどうして、彼との別れを考えるとこんなに苦しくなるの……?
いずれ、さよならをするときがくる。もしかしたら、またねなのかもしれないけれど、同じ学校でなくなるのなら、またがくる保証はない。
決定的な別れがもうすぐそこまで迫っているから、それまでにせめてこの気持ちの正体に決着をつけてしまいたい。
さよならを、言う前に。
「あ……っ」
慌てて頬を拭った。けれど、雫は留まるところをしらなくて、濡れた袖口から伝わる冷たさにぶるりと身体が震えた。
「どうして」
——ねぇ、比企谷くん。
どうしてあなたを想うと涙が出るの?
× × × ×
「やー、もうあとちょっとで卒業なんだねー……。なんか実感沸かないや」
「由比ヶ浜さん。あなたはその前に受験の心配をするべきだと思うのだけれど……。この惨状で随分と呑気な言動ね?」
視線を机に落とすと、殺人事件でも起きたのかというほど赤に染まったノートが視界に入ってきて頭が痛くなった。……どうすれば、これだけ間違えられるのかしら。もはや才能よ。由比ヶ浜さん、あなた天才だわ。
「い、いやー、ほら! あたし本番に強いタイプだから!」
「総武高を受験するとき、クラスで似たような発言をしていた女子は落ちたわ」
「……うぐっ。が、頑張ります……」
落ちるのが相当嫌なのかしら。嫌なのが当たり前とはいえ、由比ヶ浜さんにはランクの高い大学なのだからそこまで気負うこともない気がするけれど。
「まあでも、どうせ滑り止めも受けるのでしょう?」
「……うん、一応ね。正直、受かる気もあんまりしないし」
たははと困ったように笑ったあと、ふっと真剣な表情へ変わる。
「でもさ、滑り止めがあるから〜、みたいなのってダメだと思う、から」
「……そうね。ごめんなさい、今のは失言だったわ」
受かりたい理由があるのなら、水を差す発言はすべきでない。由比ヶ浜さんがなぜこの大学に合格したいのかはしらないけれど、友人の努力が実るよう少しでも手伝えたらと思った。
真面目になにかに取り組む由比ヶ浜さんの姿はいつも輝いて見える。そんな彼女が私は少しだけ羨ましくて、それで、とても誇らしい。
× × × ×
「終わったぁーっ!」
問題集を一通り解き、答え合わせと間違い直しを済ませた由比ヶ浜さんが咆哮する。まるで鎖から解き放たれた犬のようね……。気持ち距離をとってしまう。
「ちょうどいい時間だし、そろそろ部活も終わりにしましょうか」
「そだねっ」
由比ヶ浜さんの返事と同時、ぱたんと本を閉じる音が室内に響く。
「おつかれさん」
部室に来てしばらくしてからずっと聞かなかった声。それはどこか気だるげだったけれど、今更マイナスな印象を持つことはなく、ただ日常の中に溶け込むような。どこか安心するものだった。
「ええ、あなたも」
——受験も近いのだし、自由参加で構わないわ。
私がそう言ったのはいつだっただろうか。
なにか、言いたくないことを言ってしまったかのような気持ちになったのをよく覚えている。本当に言いたいことが別にあるかのような抵抗感があったのを、よく、覚えている。
正直、彼はもう来ないのだと思っていた。
受験が終わってしまえば二月の頭からは自由登校になる。そうなると、当然部活は休みになるし、そのまま卒業式まで会わないという可能性が高かっただろう。
けれど、彼は来た。
なぜ来たの? と問うことはしなかった。問う必要もなかっただろうし、そもそもそんな疑問は浮かんでこなかったから。
そのときは、ほっと息を吐き出した自分に気づいて、なぜだかとても恥ずかしい気持ちになった。
疑問ばかり。疑問ばかりが増え続けている。なぜ来たのか、なぜ来続けているのかも今は気になるし、彼と会うと、彼を見ると、彼……比企谷くんと話すと、自分のことがわからなくなる。
「ゆきのーん?」
はっとなって顔を上げると、心配そうに私を見る由比ヶ浜さんの瞳と視線がぶつかった。
——だめね。
ふるふるとゆっくり首を振ってから立ち上がった。
こんなことばかり考えいてはいけない。私は由比ヶ浜さんの友人なのだから——友人なのだから? 由比ヶ浜さんの友人だと、どうしてそんなことを考えてはいけないのかしら……。
動かした足がやけに重い。自然と俯きがちになってしまう。
「大丈夫? なんか調子悪そうだけど……」
「……大丈夫よ。帰りましょう」
片付けを済ませて、三人で教室を出た。鍵をかけて向かう先が二つに別れる。
「私たちは鍵を返しに行くから」
「ヒッキー、またねーっ」
「おう、じゃあな」
「ええ、また」
私たちは別々の道を歩み始める。数歩進んだところで一瞬、後ろを振り返った。まだ声の届くところに比企谷くんの背中はあったけれど、声は出なかった。
喉元まで来ている。
もう少しで出て来そうなのに鎖で締められたみたいに苦しくて、私はその鎖を切ることも解くこともできずに歩みを再開した。
諦めてしまえば、苦しさは遠退いた。
それで、いいのかしら。楽な道、知っている道を歩いて行くのは簡単だけれど、そのままでいいのかしら。
ずっと、木霊している。
本当に——
「——いいの?」
どきりと心臓が跳ねた。
「なんの話、かしら……?」
わかっているのかわかっていないのか、自分のことなんて全然わからないままに言葉を返した。んー、と悩むような仕草を見せた後、由比ヶ浜さんはとても優しい声音で言葉を紡ぐ。
「ゆきのんがいいならいいんだけど……行かなくて、いいの?」
行くって、どこに行くの? 純粋にそんな感想を抱いた、つもりでいた。
「ヒッキーになにか言いたいこと、あるんじゃないの?」
言いたいことがなんなのか私にも分からない、つもりでいた。
「あたしのこと、気にしてる?」
言えない理由がある、つもりでいた。
どこにもそんなものはなくて、どこに行くのかも、なにを言うのかも、私は全部わかっていて、ずっと逃げ続けていただけだったことをすべて暴露された気分だった。
「あたし、ゆきのんに後悔してほしくないよ……。あたしのことは大丈夫だから。ね? ほら、その、ゆきのんには言ってなかったけど、あたし——」
「——あなたがっ」
なにを言えばいいのだろう。聞きたくなくて遮ってしまったけれど、私はその先に続く言葉を知っている。
私は、知っているから。
由比ヶ浜さんが比企谷くんに好意を寄せていたことも。
途中まで、由比ヶ浜さんの志望校が比企谷くんと同じだったことも。
由比ヶ浜さんが、比企谷くんに振られてしまったことも。
すべて、すべて余すことなく知ってしまっているから、なにも言えなくて。
ただ逃げ道を塞がれてしまったことに恐怖を感じ、沈黙するしかできなくて。
でも、そんな私に由比ヶ浜さんは笑って、
「知らないふりばっかりしてると、疲れちゃうよ。ね、ゆきのん。行かなきゃ」
「私……あなたをっ」
「いいよ……いいの。怖いの、わかるから」
ふわり、柔らかい感触が身体を包んだ。すんっと鼻をすすると、由比ヶ浜さんの香りがして、徐々に落ち着いてくる。
「友達、なんだから」
身体が離れると、由比ヶ浜さんの表情が瞳に映る。
「ごめんなさい……」
言いたいことを、言うべきことを、言わなければならない。比企谷くんにも、由比ヶ浜さんにも。
「——それと、ありがとう。行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
背を向けて駆け出した。廊下には私の足音と啜り泣く声だけが響いていた。
× × × ×
「比企谷くんっ!」
視界に捉えた彼が私の声に振り向いたのを見て、一度足を止め、息を整えながらゆっくり近づいていく。
「はぁ……はぁ……」
体力が……足りない。
玉の汗が溢れては肌を冷やすけれど、寒さで思考がクリアになるかといえば全然そんなことはなくて、距離が狭まるほどに頭は真っ白になっていった。
「雪ノ下……なにかあったのか?」
困惑した表情に自分の優位性を認識して、少しだけ落ち着いた。我ながら、なんて嫌な女だと呆れてしまいそうだ。
「なにか、あったかというと、難しい、のだけれど……用が、あるのは、間違いないわ。……ふぅ」
ようやくたどり着いた比企谷くんの目の前で深呼吸を幾度か繰り返して、改めて見据えた顔に思考が弾け飛んだ。……これ、なんとかならないのかしら。
どうにもならないにしても、もう引き返すわけにはいかない。覚悟を決めるようにもう一度、大きく深呼吸をした。
「——いつか、あなたと会わなくなる日のことを考えると、胸が痛くなるの」
「……は?」
その反応ももっともだった。私も半ばヤケクソ気味になっている自覚はある。でも、感情ばかりが先行して、ろくに言葉が浮かんでこないんだから仕方ないじゃない。
「自由登校期間はもうすぐだし、明けたらそのまま卒業式だし、進学先だって違う……だから私とあなたがこれから見ていく景色は当然のように違ってて、それが嫌で嫌でたまらない……っ」
「お、おい、待て落ち着け雪ノ下——」
「あなたと同じ時間を過ごしたいっ、あなたと同じ景色を見ていたいっ、あなたと同じ道を歩いていきたいっ、あなたと同じ思い出を共有したいっ……!」
気づけば彼の胸元を握っていた。微かに響くリズムの速い鼓動が、ますます私の感情を揺さぶる。彼の顔を見やっても視界が滲んでなにも見えなかった。
「あなたを想うと涙が出てくるのよ……苦しくて、つらくて、切なくてっ。どうして同じ学校に行けないのっ? 毎日のように顔を合わせていたのにっ……どうしてっ! どうして……素直に気持ちを伝えられないの……? 行かないでって、あなたと一緒にいたいって……っ! 言うだけなのにっ」
怖かった。
「怖かったの……今の関係が心地よくて、いつか来るお別れから目をそらしてばかりいた」
恥ずかしかった。
「……恥ずかしかったの。だって、あなたと私はいつも、その、憎まれ口ばかり、だったから。今更……そんなの」
弱かった。
「弱かったのね……私が。私が弱いから、たった一歩も踏み出せずに、ずっと一人でごちゃごちゃ悩んでばっかりで、なにも行動できなくてっ、あなたのそばにいたい自分を知らないふりし続けていたから、だからっ」
だから、なにも言えなくて。大好きな友達に背中を押されて初めて前に進めて、ようやくこうして気持ちを伝えることができた。
嗚咽を堪えて震える声を絞り出す。
「ねぇ、比企谷くん……っ」
——どうして、あなたを想うと涙が出るの?
「私、あなたのことが——」
「——雪ノ下っ!」
諌めるように名を呼ばれて、口を結んだ。
「……ダメだろ、お前、そんなの」
その言葉に背筋が凍る。目を瞑ってしまうくらいに怖くて、ただひたすらに恐ろしかった。けれど、続く言葉は私への否定じゃなくて。
「ここまで言わせて、返事だけしろっていうのかよ」
目を見開くと、いつも通り情けない表情を浮かべた比企谷くんがそこにいた。
「——雪ノ下雪乃。……その、お前のことが、好きだ。俺と、付き合って欲しい」
かっこつけきれない調子が真摯な気持ちを伝えてくる。
あぁ——ダメ、にやける。
「はい……っ」
了
—おまけ—
「そういえば俺……お前と同じ大学、行くから」
「えっ!? だって、確かあなた、私立の——」
「変えたんだよ、夏休み前に」
「変えたって、そもそも私はあなたに進学先は……。それに夏休み前って由比ヶ浜さんと同じ……あ、もしかして」
「ま、そういうことだ。だから、その、なに。あと四年間……よろしく」
「……そう。ふふっ、ええ、こちらこそ」