※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。
「……好きよ、比企谷くん」
目の前の私がぎこちなく笑った。表情筋を使わなさ過ぎて笑顔を作るのが下手になった人、という称号を贈りたいわね……今ならありがたく頂戴するわ。
「はぁ……ダメね、全然ダメ。こんなの、比企谷くんの理想には程遠いわ……」
一度姿見から離れて、ベッドに横になった。目を瞑ると、以前手に入れた情報が頭の中をぐるぐると巡る。
『お兄ちゃんは、ちょっと照れた感じの笑顔で告白されるのが個人的にツボ、だそうですよ、雪乃さん!』
『どうしてそれを私に言うの……?』
本当にどうして小町さんはこんなことを私に言ったのかしら? おかげで姿見とにらめっこをする毎日なのだけれど……一生恨むわよ。
気を取り直して、もう一度姿見の前に立つ。……普通に笑えばいいだけ……普通に笑えばいいだけ。見た目は悪くないはずなのだから、ちょっと笑えばあんな男イチコロに決まってるのよ。スパッと決めてしまいなさい。
「……こほん」
大きな咳払いを一つ。
「すっ——んんっ、んっ、ぅん……」
……今のはあれよ。その、夕ご飯がちょっと喉に詰まっていて、それで、なんというか、少し高い声になってしまっただけみたいな、そういうアレよ、ええ。別に声が裏返ったわけではなくて。本当に。
リテイクリテイク。
「す……好きよ、ひきがにゃっ——痛ぅっ。……いひゃい」
もういい! もういいわ! もうたくさんよ! なんで私がこんな目に合わなきゃいけないのよ! もういや! 寝る!
「うぅ……ばか」
比企谷くんのばーか! ばーか! ばか! ぼけなす! 八幡!
「ふふっ……」
……悔しい。
× × × ×
『やぎ座の方は残念! 最下位です! 今日は一日家でゆっくり過ごしたほうがいいかも? ラッキーアイテムは赤いマフラー! 風邪を引かないよう暖かい格好で乗り切りましょう!』
ぐっと強めにリモコンのボタンを押した。
天気予報のおまけの分際で人の気分を悪くするなんて、どういう了見なのかしら……クレームも視野に入れるレベルだわ。だいたい外に出るなと言っておいてラッキーアイテムが赤のマフラーっておかしくない? 頭の程度がしれるわね。
……ま、まあ、マフラーの色には悩んでいたし、全体のバランスを考えれば赤いものがベストであることは明白だから、赤いマフラーは巻いていくけれど。
「……どう、かしら」
姿見の前で今一度服装を確認してみる。無難なものを選んだつもりだけれど……少し地味? いえ、でも、変に張り切った服装で行くのも恥ずかしいし……一応、赤いマフラーがアクセントになってもいるし。
「変、じゃないわよね……?」
というか、小町さんもあんな情報よりもどんな服装が好みかとかどんな髪型が好みかとかそういうことを教えてくれればよかったのに。なんでよりによって人を悩ませるようなことばかり伝えてくるのかしら……もしかして私、小町さんに嫌われているの?
もしもないとは思うけれど……あまりネガティブなことばかり考えていてはダメね。笑わないと。笑顔よ……笑顔。
比企谷くんの前で笑顔になるのって難しいのよね。そもそも、意識して笑うなんて経験もあまりない。いつもなにかに苛立ちを感じてばかりいたから仏頂面が通常運転になってしまっている。これでも、ここ一年は笑うことが多かったおかげでマシになってきたほうだとすら思う。
……こんなに悩んだところで、私の笑顔なんかで本当に比企谷くんを振り向かせることができるのかどうかも怪しいのよね。私なんて、いつもいつも悪口を言ってばかりだし、由比ヶ浜さんや一色さんのように積極的に距離を狭めることも躊躇ってしまうし。
正直、話すだけでもすごく嬉しいというか、一日幸せで終われるというか。なにかきっかけがあって肌が触れたりした日には嬉しくて死んでしまいそうになるし……別にこのままでもいいのではないかしら。
ぶんぶんと頭を振ってまた思考を埋め尽くしていたネガティブを追い出した。
それじゃダメよね……由比ヶ浜さんにも一色さんにも小町さんにも背中を押されたのだから、ここでもういいなんて言ったら怒られてしまうもの。
「頑張らないと……」
軽く頬を叩いてから玄関へ向かった。あのときは頑張れたのだから、もう一度。あと一歩踏み出せば、きっと。
「——好きよ。比企谷くん」
玄関を出る直前、行ってきます代わりに放った台詞は淀みなかった。表情は見れなかったけれど、それは本番に取っておくことにしましょう。
私は歩き出す。
私が誘った、比企谷くんとのデートに向かって。
× × × ×
うだうだと悩んでいて出るのが遅れてしまったせいかギリギリに着いた待ち合わせ場所で、比企谷くんはぼんやりと佇んでいた。
待たせたくなくて——一秒でも長く同じ時間を過ごしたくて、早く彼に近づきたくて、今すぐ彼の声が聴きたくて——私は強く地面を蹴る。
足音から本音がただ漏れで、私より素直なスタッカートが辺りに響く。恥ずかしいけれど気持ちが抑えきれなくてたどり着いた彼の前、とんっと止まったはずの靴は冷えた地面で滑って体勢を崩してしまった。
「——あっ」
ぽすっ。飛び込んだ腕の中は常日頃感じていたイメージよりも随分とたくましくて、つい堪能してしまいそうになる。
「あ、え、あの、その、えっと、その……ご、ごめん、なさい……」
恥ずかしい……っ! でも、にやけてしまう自分が恨めしい!
か、顔を、俯いている間に顔をどうにかしないと……昨日の私はなにを悩んでいたの? こんなことなら悩む必要なんてないじゃない!
「雪ノ下……?」
「ちょっと待って」
落ち着け……落ち着くのよ。そう、ゆっくり息を吐いて、吸って、それから口もとをマフラーで隠して、よし。
「こんにちは、比企谷くんっ」
「お、おう……」
口もとは隠せても喜色は隠しきれなかった。……い、いいのよ、今日は。そういうつもりで来ているのだし、過剰なくらいでいいのよ。だいたい、私の誘いをOKしてくれただけでも相当嬉しかったのだから、その当日なんて楽しくて仕方ないのが当たり前なわけで、おかしなことなんてなにもないわよね。そうよね。
「……その、なんだ、似合ってるな、服。誰が見ても、か、かわいいって言うと思う、ぞ」
ーーーーーーーーーっ!?!!?!?
なんなの!? なんなのこの男!? 今、かわいいって言ったっ? 比企谷くんが、私のこと、かわいいって言ったのっ? なんで——待って、いい響きね! もう一度!
比企谷くんが、私のこと、かわいいって言ったのっ! なんで急にそんなことを言い出すのよ! こっちにだっていろいろ、心の準備とか、録音の準備とかがあるというのに、私の気も知らないで!
「も、もう一回……今の、もう一回言ってもらってもいいかしらっ」
「いや、なんでだよ……ほ、ほら、行こうぜ」
そっぽを向いて比企谷くんは歩みを進め始める。私はそれに不満がなかったこともなかったけれど、それでも比企谷くんの隣を自分だけが独占できる事実が、そんなことを一瞬で吹き飛ばしてしまうくらいにすごく——すごく、嬉しくて。
やっぱり頬の緩みをどうにもできないままに隣へと駆け寄った。
「ねぇ、比企谷くん。今日の予定は考えてあるのかしらっ?」
少し腰を曲げて、彼の顔を覗き込みながら訊ねると、彼はまた恥ずかしげに顔を逸らしてそれからぼそりと蚊の鳴くような声で答える。
「……まあ、一応」
他人にとってみたらなんでもないようなことが、自分には特別に思える。いつか小説で読んだことのあるその表現の意味が、今わかった気がした。
「そう。なら、楽しみにしてるわねっ」
今度は返事がくることはなかったけれど、私の心は満たされていたから合格点を上げることにしてあげようかしら。
それからのことは、ほんの少しのときさえ忘れないほど鮮明に記憶に残っている。
比企谷くんと一緒に見た映画は、正直無難なものというか、『話題沸騰中!』のような煽り文句のついた流行りものだったけれど、自分のことより私のことを考えてくれたのだろうと思うと自然と楽しもうという気分になれて、内容だってしっかり語れるくらいに見入ってしまった。
お昼に入ったラーメン屋さんは、これは……まあ、私にとって都合のいい解釈かもしれないのだけれど、私に自分の好きなものを知ってほしいという気持ちならと思えば全然苦ではなかった。やっぱり強烈ではあったけど、別にまずいわけではないのだし。とはいえ、この先数ヶ月は遠慮しておきたいところね……。
そのあとは私が行きたいところを訊ねられて二人でショッピングに向かったのだけれど、そこでまた私が試着してみた服を比企谷くんが褒めてくれたりして、調子に乗って選んでもらったりもしちゃって、やっぱりボイスレコーダーを買っておくべきだと思った。……ただ、舞い上がってあれもこれもと買ってしまった結果、荷物が増えてしまったのが反省点ね。またこんな機会があったなら、そのときはもうちょっと後々のことを考えて動くことにしましょう。
私の両手も比企谷くんの両手も、私の買い物でいっぱいだ。流石に心苦しい。
「……ごめんなさい」
「別に謝るようなことじゃねぇだろ。気にすんな」
「でも……」
これのせいで帰宅する運びになってしまった。それがなによりもつらくて、自分に呆れてしまう。
なんでもっとよく考えなかったのかしら……いえ、わかってはいるのよ。いつもそんな言葉をかけてくることなんてない比企谷くんに褒められて我慢できるわけなんてないってことくらい。
「雪ノ下?」
「え?」
「……着いたけど」
一人落胆しているうちにも足は動いていて、いつのまにかマンションの目の前にたどり着いてしまっていた。
結局、練習していた言葉は言えていない。今言おうにも、全然そんな雰囲気ではなくて、笑える気なんてこれっぽっちもしなくて。別れるのが嫌で泣いてしまいたいくらい。
「上まで行ったほうがいいか?」
「あ、いえ……その」
言わないと。
言わないと、いけないのに。
いっぱい練習、したのに。
「ひ、比企谷、くん……」
名前を呼んで彼を見つめると、彼は不思議そうにこちらを見返してくる。
今、言わなきゃ。
「す——」
「す?」
「少し、寄っていかない……?」
自分の情けなさにため息が出た。
× × × ×
「口に合うかわからないけれど……どうぞ」
「お、おう……悪いな」
「いえ、私が招いたのだからこれくらいはね」
私の分の夕食もダイニングテーブルの上に置いて、腰を下ろす。正面に位置するここは比企谷くんの顔がよく見えてとてもいい。
「い、いただきます」
「ええ、どうぞ」
今日の夕食はチーズリゾット。本当はトマトの予定だったのだけれど、比企谷くんはトマトが食べれないらしいので急遽変更した。
もう何回も作っているから、失敗することはなかったけれど……少し気になってしまうわね。おいしいといいのだけれど。
比企谷くんはふぅふぅとスプーンですくったリゾットを冷まして、一口目を口に入れる。しばらく噛んで飲み込んだのち、水を飲んでちらと私を一瞥した。
「……うまいな」
「本当? よかった……」
これで私も安心して食べられる。ふふっ、なんなら毎食私が手料理を振る舞ってあげるのもいいわよ? ええ、あなたが望むのならいつまでも。
「ごちそうさん」
「お粗末さま」
食器を片付けようと手を伸ばすと、比企谷くんが食器を持って立ち上がる。
「片付けくらい、手伝わせてくれ」
「あなたは客人なのだから、座っていてくれればいいのに……」
「……それはそれで落ち着かないんだよ」
私は所在なさげにきょろきょろしている比企谷くんも好きだけれど、どうやら彼にとっては苦痛らしい。私の家での思い出が嫌なものになっては困るので、ここは手伝ってもらうことにしておく。
「では、私が洗うから、あなたは拭いてくれるかしら?」
「おう、任せろ。拭くのは得意だ」
「なにを自信満々に言っているのかしら……」
どうせ小町さんには拭くぐらいしかやらせてもらえていないとか、そんなところなんでしょうけど。……まあ、こうやって二人で台所に並ぶのも悪くないから、小町さんには感謝しなきゃいけないわね。
「ご苦労様。ありがとう」
「……こちらこそ」
リビングでのんびりくつろいでいると、時間が経つのは早くて、というか、比企谷くんといると一時間が一秒に感じてしまうくらい一瞬で、いつのまにかさよならの時間になってしまっていた。
どうしても寂しくなってしまうけれど、今日がすごく充実した一日だったから、私はなんとか堪えて、彼を玄関まで見送りに行く。
「……今日、楽しかった、かしら?」
比企谷くんが靴を履き終えて向き合うと同時、言葉は自然と口から飛び出した。
「私は、楽しかったわ……その、あなたといられて」
「俺も、楽しかった」
「本当? それなら、とても、嬉しい……」
今なら言える。そんな気がした。でも、私が口を開くより早く比企谷くんは真剣な表情で、
「雪ノ下っ」
「——あ、っと、なにかしら?」
「その、これ……」
言って、比企谷くんが取り出したのは贈り物用に封がされた紙袋だった。
「……えっと、これは?」
「クリスマスプレゼント、みたいなやつ、なんだが……冬休み入ると渡す機会もなくなるし」
「比企谷くんが……私に?」
? 夢? 一体、今、なにが起こってるの?
「……あ、空けてみても、いい?」
こくり、頷いた彼を見て、慎重に中身を取り出した。それは私の着けていたものに似た、赤いマフラーで。
「あー……、その、もう持ってるから、渡さないほうがいいかとも思ったんだけどな。俺が持ってても仕方ねぇし……よければ受け取ってもらえると、助かる」
「……しぃ」
「え?」
「嬉しい……っ」
思わず涙が出てしまうくらい、プレゼントが嬉しくて、私のことをずっと見ててくれたのだということが嬉しくて、嬉しくて、本当に。
「ありがとう……大事に使わせてもらうわ」
そんな気持ちで胸がいっぱいだった。
「……じゃあ、俺は」
「待って!」
今、言わなければ絶対に後悔する。
違う。
そんなんじゃない、この気持ちは後々どうとかそんなものじゃなくて。
ただ。ただただ純粋に。
——今、伝えたい。
そう思えたから、私は躊躇なく彼を抱きしめて、
「ゆ、雪ノ下……っ?」
たっぷり、一、二、三秒。その感触を、その温もりを、身体の奥底まで味わって、それから。
それから彼の顔をまっすぐに見つめて言い放つ。
「——好きよ。比企谷くん」
たぶん、人生で一番心から笑えた。
了