※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。
「十年後、お互いに独り身だったら貰われてあげる」
人気のない公園。手を固く握りながら想いを吐露しようとした彼の言葉を遮って、私はそんな台詞を口にした。
「それは……」
面食らったようにつぶやいて、それから彼はそっと頷く。
「またね、比企谷くん」
踵を返して、足を踏み出した。
正直に言えば、そのまま素直に聞いておきたかったという気持ちがないわけじゃない。けれど、今それを聞いて、私が答えを返しても、それだけでは彼と結ばれることは出来ないから。
十年……十年あれば、どうにかできる。今、力のない私ではどうすることもできないけれど、十年後なら。
きっと——いいえ、必ずあなたを迎える土壌を作ってみせる。
だから、それまでにあなたも誰にも文句が言えない男になっておきなさい。
「……ふふ」
こんなに楽しいの、いつぶりかしら。
——十年後——
潮騒の中を女が歩いていた。
青色のロングスカートが風に踊り、白いブラウスは女の影を濃くする夕陽と同じオレンジに染まる。
雪の字を含む名には余りに不釣り合いな情景。けれど、そこに違和感はなく、まるで女のために用意された舞台のようだった。
コツ。サンダルのヒールがスタッカートで弾いたように小気味いいテンポで音を奏で、波が引いた刹那の静寂に、隠されていた歌が顔を見せる。
鈴の音のようにりんと響く声は瞬く間に波に攫われていってしまったけれど、そうして消えては現れ消えては現れを繰り返す様がどこか儚げで、極々微々にしか聞き取れない故にたった一瞬が格別なものに感じられた。
そんな少し浮世離れした動く絵画じみた光景は、女が足を止めたことで現実感が与えられ——ることもなく、止まったら止まったでそれもまた絵になるのだから、景色なんてものはこの女には関係がないのだろう。
雑多な街中を歩こうが、欝蒼とした茂みの中で座ろうが、路地裏でコンクリートの壁に背を預けていようが、それをしているのが彼女であれば同じこと。
潮風に流れた濡れ羽色の長い髪を整えて、すんっと潮の匂いを楽しむように息を吸った女は、現代の日本人にしては珍しい漆黒の双眸でなんの変哲も無い海辺の公園を見つめる。
懐かしげ、且つ愛おしげに見つめる姿は、そこが特別な場所に見えてくるほど——否、特別な場所なのだ。他人にとってどうでもいい場所でも、彼女にとってはなによりも大切な場所。
「……来たのね」
小さく息を漏らす。
「そう。来たのよ」
穏やかで、けれど勝気な微笑み。
「私は、来たわよ」
誰に向けてともしれない言葉に引き寄せられたのか、現れたのは一人の男。冴えない、と言うほどではないにしろ、女と釣り合うかといえば首を傾げてしまうような背の曲がった男だった。
男は女を見て優しげに微笑み、口を開く。
「久しぶりだな、雪ノ下」
「ええ、久しぶりね。比企谷くん」
× × × ×
雪ノ下雪乃が比企谷八幡と約束を交わしたのは、もう十年も前の話だ。タイムカプセルを開ける約束でもしていたのかというレベルの、区切りのいい再会。
比喩とするならおおよそ間違ってはいないだろう。二人はタイムカプセルを空けに来たのだ。あの日——十年前に缶ケースに閉じ込めてこの場所に埋めた想い。あの頃には仕舞うしかなかった理由が二人にはある。
「よく来たわね。……婚約者がいるとか、風の噂で聞いたのだけれど」
ベンチに腰を預け、こちらの顔も見ないまま唇を尖らせて言う雪乃に、八幡は苦笑いを零しながら言葉を返す。
「小町か……由比ヶ浜か。まあ、なんだ、取締役に思いの外気に入られちまってな」
「経緯なんて……聞いていないのだけれど」
むすーっと頬まで膨らませて顔を背ける。子どもっぽい仕草で怒りを表現する雪乃が新鮮で、暫し見入ってしまった。なにも言わない八幡になんだか恥ずかしくなって首を動かすと、ばちっと視線が合わさる。
「なによ」
「いや……変わったなと思ってな」
「……嫌?」
「嫌なわけねぇだろう」
間髪入れずに否定されて、つい言葉に詰まってしまった。
——そんな台詞、昔は言えなかったくせに。
「あなたも、変わったわね」
「嫌か?」
仕返しとばかりに意地の悪い顔で訊ねられたのが、昔とは立場が逆転しているようでなんだか悔しくて、言葉を選びながら唇を動かす。
「嫌、なわけないじゃない。だって、私のために、変わってくれた……の、よね?」
「なんでちょっと自信なさげなんだよ」
笑いながら言う八幡に少しムッとしてしまう。
——私だって別に好きで自信がないわけじゃないわよ。
八幡はそんな雪乃の想いを知ってか知らずか、逸らした顔を覗き込んでくる。大人になった八幡にはどこか余裕があって、それはきっといろんな経験をしてきたからなんだろう。
それは雪乃も同じことで、雪乃だっていろんな経験をして変わって、今ここに来ている。十年間会わないのも雪乃が発案者で、それには十年前に両者合意しているのだが。
それでもやっぱり、変わっていく八幡を隣で見ていられなかったのは残念だと思ってしまう。
「……婚約者は、いいの?」
嫌な質問をしてしまった。そうだ、ジェラシーだ。お互いに納得して離れて自分にも縁談の話だったりがあったにも関わらず、それを棚に上げて嫉妬してしまっている。
嫌な質問をする嫌な女だ。散々嫌になった自分が、もっと嫌になりそうだ。
「いいもなにもな……」
そんな雪乃の態度に、八幡はようやく最初の質問にしっかり答えていないことを思い出したのか、ああと声を漏らしてわざとらしい咳払いをする。
「……俺の婚約者は、その、隣に座ってるわけで、な」
言葉の意味を理解するのに三秒くらい掛かって、それからばっと八幡を見る。茹でダコのような顔で照れ臭そうに頬を掻く姿に、ああ変わらないこともあるのねと安心感を抱きつつ、さっきまでの自分を本気で嫌悪したくなった。
——なにをやっているのよ、私は。
こんなことですぐ機嫌が直ってしまう安っぽい自分もそれはそれでちょっとどうなのかしらとか思うのだが、そんなことより直前の醜態のほうが大事だ。
——それにしても、今日は暑いわね……。
ぱたぱたと襟元を動かしながら、自分の顔が赤くなっているとは微塵も思わぬまま失態を拭うために言葉を紡ぐ。
「……ふふ、あなた顔が真っ赤よ」
「お前もな」
ぼそりとつぶやかれた言葉はどうやら雪乃の耳には届かなかったらしい。ふっと真面目な顔つきになったはいいものの、頬の紅潮が空気を緩める。
「……ごめんなさい。その、久しぶりの再会だというのに」
笑みを必死に堪える八幡の姿に僅かに疑問を抱きつつ、言葉を続ける。
「私の知らない人が、私の知らないあなたを知っていると思うと……うまく言葉にできないのだけれど、こう、胸の奥がもやもやして」
きゅっとブラウスの胸の辺りを握ると、自覚しているよりも速い心臓の音が伝わってくる。
「えっ……ええと、あの」
驚きに口に手を当てたところで、はっとなって手鏡を取り出した。見てみれば、八幡より遥かに赤く染まった自分の顔がそこにある。
「……ぷっ」
吹き出すような笑い声に反応して八幡へと視線を戻せば、もう無理だとばかりに公園に響き始める笑い声。恥ずかしさでなんだか頭がくらくらとしてくる。
「い、言ってくれてもいいじゃない」
「いや、言ったから……」
お前が聞いてなかっただけだからね、と言い訳されては、言われた記憶がなくとも返す言葉はなくなってしまう。されど、それで納得できるかといえば、できはしないわけで。
「……そんなに笑わないで。恥ずかしい、のよ……本当に」
怒るというのもムキになっているようで癪だしと、結局懇願するしかなくなってしまう。ただ、八幡には充分効果があったようで、彼は息を整えつつ謝罪を口にする。
「悪い悪い……」
——姉さんがいなくてよかった。
こんなところを見られたら一生笑いのネタにされてしまう。
出来れば八幡にだって立て続けに醜態を晒すような真似はしたくなかったけれど、これはもう不可抗力というか、どのみちこの先もそういうこともあるだろうしと割り切るしかない。
——そもそも、比企谷くんがあんな恥ずかしいことを言わなければ……とは言えないわね。
嬉しかったのは事実だし、確かにそれで機嫌は直ってしまったのだ。さらに大元を辿れば原因は自分なわけで。
「と、ところで比企谷くん」
わざとらしさはこの際気にせずに、無理矢理にでも話題を変える。幸い、十年空いたおかげで話したいことは山ほどあった。
「どう、かしら。……うまくいってる?」
「あー……、まあ、ここに来られるくらいにはな。小町とかから聞いてんじゃねぇのか?」
「そ、それはそうだけれど、そういう問題ではなくて」
——私はあなたから聞きたいのに。
口にするには余りにハードルが高くて、そのまま閉口してしまう。ちらちらと窺うように八幡に目をやると、彼は失敗したなという表情で、これまた頬を掻きながらぽつりぽつりとつぶやきを漏らす。
うつむき加減になっただけで彼の顔が見えないのを不思議に思って空を仰ぐと、もう日は沈んでいて辺りは暗闇に包まれていた。
「あの日、雪ノ下と約束してから……俺なりに頑張ってきたつもりだ」
ぽつり。そこに込められた想いの大きさを感じて。
「一応、会社ではそれなりの役職に就いてるし、この先もまだ上に行ける、行く、つもりでいる」
ぽつり。ただの口約束——いや、約束ですらなかったそれを果たすために彼は頑張ってくれてきたのだ。
「さっきは肯定したが、お前のためだ……とは言わない。そうじゃ、ないからだ」
ぽつり。胸が燃えるように熱い。気づけば唇を噛み締めていた。
「これは、全部、俺のためだ」
ぽつり。顔を上げた彼の顔がぼやけてよく見えない。
「俺が、お前のことが……好きだから、今まで俺のためにやってきた。それで、今日、ここに来た」
ぽつり。ぽつり。ぽつり。
目を擦って、そのとき初めて涙を流していることに気づいた。
「なんで、泣くんだよ……」
困ったように笑う彼が好きだ。
照れ臭そうに頬を掻く彼が好きだ。
涙を拭うために伸ばしてくれるその手も、目尻を這う指も、あの頃の瞳も今の瞳も、頭のてっぺんから足の指先まで全部好きだ。
知らないことだって知れないことだっていっぱいある。まだまだ分かり合えていない。けれど、好きだと思う。好きになれると思う。好きになりたいと思う。
愛して欲しいし、愛したい。愛し合いたい。それは胸が苦しくなるくらいに幸せな想いで、こんな苦しさも痛さも全て愛おしく感じられる。
彼だからだ。
比企谷八幡だから。
——私は、あなたが好きなのね。
当たり前だと思っていたことが、ようやく当たり前になった気がした。
「嬉しいのよ……」
十年も待ったのだ。好きだと言われるのを十年待った。
「私も、あなたが好きだから」
好きだと言える日を十年待った。
「本当に、嬉しいの……」
喉が震える。吐息が熱くなる。
いつのまにか握られていた手の薬指に、すっと指輪が通される。
「……こういうのって、許可を取る前に、嵌めてもいいのか?」
「知らないわよ、そんなの。もう、バカじゃないの」
——聞かなくたって、分かってるんでしょ。私の夫になるのなら、そのくらい傲慢でいなさい。
そんな意味を込めて、視線をぶつけた。
ゆっくりまぶたを下ろすと、柔らかいものが唇に触れる。
十年越しの口づけは、涙の味がした。
× × × ×
十年前のあの日のことは今でも鮮明に思い出すことが出来る。
ずっと、あの日の回想と共に道を歩んできたというのもあるし、なにより、
『十年後、お互いに独り身だったら貰われてあげる』
そう言い放ったあいつの笑顔が、それまでのどのあいつよりも綺麗だったから。そんなことを言うと、からかわれるのが目に見えているので絶対に口にはしないが。
扉の前に立ち、一つ小さく深呼吸をしてからノックをする。中から入室を許可する声が聞こえて、ゆっくりと扉を開けた。
——結婚は人生の墓場だと誰かが言った。
ああ、確かにそうなのかもしれない。だって、その姿を一目見ただけで、俺はこいつに——雪ノ下雪乃に全てを渡してもいいと思えたんだから。
純白のドレスに目が釘付けになる。その白さは俺が好きな彼女の髪に良く映えて、まるで芸術品でも見ているかのような気分になった。
「……綺麗だ」
言おうと思っていた言葉ではある。言えるか不安だった言葉でもある。月並みで、けれど率直な褒め言葉は、考えるよりも早く口から漏れて。
口もとを緩めた彼女は機嫌がよさそうに、
「ふふ、ありがとう。あなたも、かっこいいわよ」
俺の人生は、ここまででいい。
だから、残りの人生は彼女に使おう。
彼女の隣で、いつも今までで一番綺麗な彼女を、誰よりも俺が見ていたいから。
了