※この短編集は、前話や次話との繋がりはなく、違う世界線でのお話を纏めたものとなっております。あらかじめご了承ください。
女は、なぜとかなんのためにとかいった理由なしに愛されることを望むものだ。つまり、美しいからとか、善良であるとか、聡明であるとかいった理由によってではなく、彼女が彼女自身であるという理由によって愛されることを望むものだ。
そう言ったのは誰だっただろう。すっと胸の奥から浮かんで来たいつか耳にした言葉を口の中で反芻して、ふと空を仰いだ。
雲のない青い空を、ひとひらの花弁が泳いでいく。それを追って徐々に視線を下げていくと、印象深い瞳と目が合った。気怠げで、けれど常よりも真摯な眼差し。
春の陽気な昼下がり。桜舞う校舎裏にいるのは、私の彼の二人だけ。御誂え向きのシチュエーションと、なんだかいつもと雰囲気の違う彼に、私の心臓が早鐘を打ち鳴らす。
「……えっと、比企谷くん? もう依頼は終わったのだし、戻ろうと思うのだけれど……」
じっと私を射抜く眼にわけもわからずしどろもどろになりながら部室への帰還を促すも、彼は「あぁ」と曖昧な返事をしただけでそこから動こうとしない。
比企谷八幡。私が部長を務める部活——奉仕部の部員であり、そして……そして? それ以上でも以下でもないわね。比企谷くんは奉仕部の部員。強いて挙げる点があるとすれば、腐った魚みたいに目が淀んでいるくらいで……あぁ、あと、性格が捻くれているわね。それに、姿勢も悪いし、態度も悪い。いろいろ悪いし、ぱっと浮かんでくるいいところもないけれど、悪い人ではないわ。それは私が保証する。
そのくらいかしら……少しくらいは大切に思っていないこともないけれど、比企谷くんは奉仕部の備品なのだから当然といえば当然ね。ええ、なにか特別な感情があるとかではなくて。断じて。
というか、そんなことはどうでもいいのよ。問題は、どうして比企谷くんがここから動こうとせずに、その、えっと、私のことを睨みつけているのかということであって、あ、この場合の睨みつけているというのは、彼の目つきの悪さに掛けた比喩であって、実際に私が睨みつけられていると感じているわけではないのだけれどって、一体誰になんのために弁明してるのかしら……。
なんだか頭がうまく回らない。それもこれも全部比企谷くんのせいよ。だいたい、なんだって急にこんな……あの、アレっぽい雰囲気を醸し出しているの? こんなの私だって期待してしまうというか、ついつい恋に関連する格言とかを思い出してしまうというか——待って? 期待ってなに? 私、別に期待なんてしてないわよ。本当に、本当……よ?
「——雪ノ下」
「ひゃっ——痛ぅっ」
したが……したがぁ。ひりひりする……ぐすん。
……なにこの沈黙。私のせいなの? 比企谷くんがいきなり話しかけてきたのが悪いのであって、私は悪くないわよね?
「だ、大丈夫——」
「続けて」
「いや、でも——」
「続けて」
「……お、おう」
なんたる失態! なんたる不覚! こんな無様な姿を晒してしまうなんて、私らしくもない。軽く死ねるわね。……なんだかつい先日も似たようなことを考えた気がする。気のせいね、ええ、気のせいよ。私は比企谷くんと話しながら紅茶を淹れていたら、満杯になったのも気づかず零してしまったりとかしていないし、たまたま本屋さんで比企谷くんを見つけて近づいたら本棚の角に脛をぶつけたりとかしていないわ。していないったらしていないわ。
「雪ノ下……」
最初が「と」だったら、「それは無理」って言うのよ、私。……まあ、今回の依頼でもなんだかんだでいろいろあったから、そっちの可能性のほうが高いわよね。普通に考えて、比企谷くんが私に? って思うし、私もいつも言われて嬉しいとは口が裂けても言えないような台詞ばかり吐いているし、これでアレだったら、この人相当ね……ってちょっと引くまであるくらいだわ。
私が比企谷くんだったら、こんなやつのこと絶対って感じだし、それに比企谷くんってなんだかすごい私と友達になりたがる節があるというか、まずは友達みたいな気持ちがひしひしと伝わってくるときがあるというか。誠実な男性ほど順序立てて事を進めようとすると聞くから、比企谷くんがそうであっても特別不思議はない。
であるならば、ここは友達になっておくのも一手よね。比企谷くんが思う通りに事を進めさせてあげるのも、私としては悪くはないし、素直に言えばありよりのあり。よし、なら、私がここで返すべき言葉は一つしかないわね。
「お前のことが好きだ。俺と——」
「いいわよ」
「え?」
「……え?」
あっれー? あれ? 今、好きって言った? 比企谷くんが、私のこと、好きって言った? いや、いやいやいや、まさかそんなことあるわけないでしょう。さっきも思った通り、私が比企谷くんだったらこんなの絶対好きにならないわよ? まあ、さっきもなんだかんだといって比企谷くんが私のこと大好きなの前提で考えていたのは、ひとまず置いておくとして。そんなのは放り投げておくとして。
比企谷くんが私に好意を向けている、なんて、私からしてみればそれはもう明日地球が終わるくらいありえないことで、だって、自分で言うのもなんだけれど、私、好かれるようなことなにもしてないわよ……? なんならちょっと思い返してみる? ……思い返すまでもなく圧倒的なまでに失礼なことしかしてないわね。すごい。
「……いい、のか?」
戸惑いを隠せないといった表情で、比企谷くんに問われる。……これ、本当に私の妄想とか夢とかじゃなくて? 現実なの? 実際に起きていることなの? 正直、姉さんが変装しているとか言われても信じるわよ、私。
「え、ええっと、え? あ、あ、あの、その、いいか悪いかで言えばいいというか、いいの? あ、待ってっ、今ちょっと、頭が混乱していて、その、え? ……も、もう一回、言ってくれる、かしら? ちゃ、ちゃんと、聞き取れなくて、好き? と言ったかしら? 比企谷くんが? 誰のことを? 私、じゃないわよね? 私なわけないものね。知ってるわ、知ってる、そんなことは理解しているのよ、ええ。もちろん。で、えっと、誰が好きだと言ったのかしら……? ゆ、由比ヶ浜さん、とか……? それとも、一色さん、かしら……どちらにしても、そうね、私は出来る限り協力するつもりだけれど、どちらか定かではない状態ではそれも難しいわけで——」
「……お、落ち着け?」
「……少し、待って」
くるりと比企谷くんに背を向けて、すぅはぁと何度か深呼吸をする。心臓の音は変わらないままだけれど、それはもう諦めるとして、多少は落ち着きが取り戻せた。
「……っ」
ああ、なんだか涙が出そう。比企谷くんは由比ヶ浜さんのことが好きだとか一色さんのことが好きだとか、そんなことを口走ったせいかしら。それで心を痛める理由なんて私には一つもないと注釈しておくわね。その注釈、私しか読まないとか、どうでもいいのよ。
「えっと、ひきがやくん。もう、いらいはおわったのだし、もどろうとおもうのだけれど」
「いや、それはちょっと無理がないか……?」
「……こほん。それはそれとして、もう一度ちゃんと言ってもらっていいかしら。いえ、遮ったのは私なのだから、本来そんなことを言う資格なんてないのかもしれないけれど……その、えっと、私の幻聴でないのなら、聴きたい……です」
「なんで敬語……」
「どうでもいいじゃない、そんなこと! 早く言いなさいよ!」
「逆ギレかよ!?」
いちいち細かいのよ。ばーか、ぼけなす、はちまん! ……私のばーか。ばーか、ばーか……もぅ、ほんと、ばか。
「はぁ……まあ、いいけど。じゃあ、仕切り直して」
比企谷くんはそう言って、最初よりも柔らかい表情で同じ言葉を口にする。……なに、その顔。なんで最初より威力高そうなのよ。私を殺す気なの?
「雪ノ下、お前が好きだ。俺と付き合ってほしい」
うわ、うわっ、うわぁぁぁー……ほんとだった。ほんとだった。ほんとだったー……。雪ノ下って言ったわよね? 今、はっきり雪ノ下って言ったわよね? 雪ノ下って私のことよね? 姉さんのことだったりとかしないのよね? それで陽乃さんと付き合うにはどうしたらいいんだろう、とか言いださないわよね? 文脈的に考えておかしいものね? 現代文学年三位がそんなミスしないわよね? これ、勝ったのよね? 私の勝ちなのね? そうなのね? 私、勝ったのね?
ううぅうれしぃぃぃぃ。……嘘。今の嘘だから。全然嬉しくなんてないわよ。付き合いわするけど! 嬉しくなんてないわよ! ま、まあ、常識的に考えて? 比企谷くんが私の美貌諸々含めたスペックの高さに惹かれてしまうのは男性として当然のことだし? これも当然の結果というか? 私も比企谷くんなら妥協してあげてもいいし? ……はい。あの、嬉しい、です。ごめんなさい。
「……わ、私でよければ、付き合ってあげても、いいわね。ええ」
「なんだそれ……」
ああ、もう。こういうときくらい素直にものが言えないの!? 人を不快にするだけなら空気洗浄機の方がまだ優秀よ? ほら! ほら、言うのよ! 今しかないのよ! 今、この勢いじゃなきゃ、あなたでは当分言えないわ! 私が一番それを知ってるのよ!
「……わ、わ、私もっ」
いけっ、いけっ、いけっ!
「私もっ、比企谷くんのこと、だっ、大好きよ!」
言った! ちゃんと言えた! よくやったわ、私! 褒めて! 比企谷くんも褒めて!
「……そ、そうか」
うぐっ……大は余計だったかしら。いえ、でも、当分言わない分だと思えば、それで丁度いいくらいだろうし、嘘ではないのだから後悔はないけれど。……恥ずかしさはあるけれど。恥ずかしさはめちゃくちゃあるけれど。
「……ねぇ、比企谷くん」
言うべきことを言い終えてすっきりしたからか、少し平静を取り戻した頭に浮かんできたのは好きだと言われる前に考えていた一つの言葉。
「私の、どこを、好きになってくれたのかしら……?」
窺うように訊ねたのは、なんとなく答えを聞くのが怖かったから。比企谷くんが私の望む台詞をくれる確証なんてどこにもなくて、でも期待が胸を膨らませる。あなたならと思えた。あなただからこそと願った。あなただけはと祈った。
「……顔、とか」
だから、あなたの言葉がなによりも痛かった。
「そう……」
小さなため息が地に落ちる。自分のものだと気づいたのは、その落胆を確かに認識出来てから。
「……ごめんなさい、比企谷くん。やっぱり、少し、考えさせて」
「えっ——」
「先に、戻っているわね。今日はもう依頼はないでしょうし、全員揃ったら解散にしましょう」
踵を返してその場から離れた。
——熱い。
胸の奥が熱い。喉が熱い。せり上がってきたなにかが、瞳からじわりと溢れて、人気のない校舎の陰で子供みたいに膝を抱えてうずくまった。
「……顔、ね」
私は、あなたがその顔でなくても好きよ。
心の中でそう叫んだ。
× × × ×
生まれつき、異性からちやほやされることが多かった。恵まれた家庭で生まれたというのもその一因ではあるのでしょうけれど、もっと直接的な原因は私の見た目にあったのだと思う。
かわいいと言われた。綺麗だと言われた。肌が白いね、瞳が澄んでるね、鼻筋が通ってるね、髪が、足が、指が、声が——あぁ、いらない。そんなの、いらない。どうだっていい。こんな見た目に生まれて、得だと思ったことなんて一度もない。逆恨みはされるし、変態に付き纏われるし、上履きはなくなるし、リコーダーは盗まれるし、体操服はよく分からない液体でべちゃべちゃになってるし、教科書は破かれるし、机には落書きされるし、いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもいつもっ、私を不快にさせる種にしかならない。
多分、喜ぶべきところなのよね。私がこういう容姿だったおかげで、私の好きな人を振り向かせる事が出来たって。そうやって、今まで嫌なこともあったけどこれからは好きになれる気がするわ。とか言って、綺麗に纏めるのが一番いいんだって、頭では分かってる。
比企谷くんが顔が好きだと言ったことを怒っているわけじゃない。私だって、彼の顔は好きだし。もっと言えば、顔も好き。いろいろ好きで、比企谷くんが好きで、比企谷八幡が好きで、比企谷くんの顔が、たまたま比企谷くんの顔だったから好きで。
顔とか、と言ったから、多分比企谷くんも私の好きなところは複数あるのだろう。それはとても光栄なことで、よかったと感じないといえば嘘になる。ただ、やっぱり私は、「雪ノ下雪乃が」と言って欲しかった。
どこが好きか、と訊いておいて、こんなことを考えている自分は、どうしようもなく面倒な女なんでしょう。そうでしょう、そんなの私も自覚している。でも、面倒くさくたってなんだって、好きな人に言って欲しい言葉と、好きな人に言われたくない言葉があって、冗談っぽく「比企谷くんが私の容姿に惹かれるのは当たり前」とか考えたりもするけれど、そんな表面だけの話は聞きたくないのが本音で。
だって、それじゃあ……私と同じ顔の人なら誰でもいいみたいじゃない。
嫌だ。嫌なんだ。私じゃなきゃダメだと思っていて欲しい。メンヘラって言われたって、重いと罵られたって、私は唯一無二なんだって教えて欲しい。
……他人に自分の価値を求めるなんて、バカみたいだわ。バカね、私。恋をするとバカになるって聞くけれど、これがそういうことなのかしら。
恋は自分本位、愛は他人本位なんて言葉もある。確かにと頷かざるを得ない。私は今……どこからどう見てもわがままなエゴイストだもの。
からりと扉の開く音が耳に届く。と、出来た通路に駆け込むように、窓から入った風が抜けていった。
「……うす」
「……こ、こんにちは。比企谷くん」
あー、だめ! やっぱり好き! ちょっと待ちなさい、私たちって今、冷静に考えなくても両思いで、それをお互いに把握している状態なのよね? なにそれ! 意味わかんないわね!
ああ、もう。ああ、もう。ああ、もう! なんでこういうときに限って由比ヶ浜さんが三浦さんと遊びに行ってしまうのよ! 今、私、比企谷くんの顔を見てまともな会話が出来る自信がこれっぽっちもないのだけれど!
どうすればいいのこの状況っ! い、依頼とか来ないかしら……別のことを考えていないとやってられないわ。ていうか、私って比企谷くんの告白を保留してるのよね。うわうわうわ、何様って感じじゃないそれ! 誰よそんなことしたの! だから私!
しかもすごーく下らない理由で保留しているわけで、ああなんだか後ろめたくなってきた。そういえば、こういうときってどのタイミングで改めて返事をすればいいのかしら。比企谷くん、また告白してくれたりしないかしら。……流石にその思考はクズ過ぎない? だいたい今告白されたところでちゃんと答えられるか分かんないし、やっぱり私の心の整理が出来たら私から切り出すのが誠意というものよね。……やだな、怖いな。え、だって、そのときに比企谷くんがまだ私のこと好きかどうか分からないじゃない? この男、こう見えて結構見境がないというか、一部に好かれているし。私なんかより楽で物分かりのいい女性なんて沢山いるだろうから、いつまでもぐずぐずしていたら心変わりしてしまう可能性もあるのよね。
嫌よ、そんなの。折角、両思いだと分かったのに、自分の不手際で付き合えなくなってしまうなんてことになったら、悔やんでも悔やみきれないわ。
今言ってしまおうかしら。私が一言付き合いましょうと言うだけで済む話だもの。私の問題はそのあとどうにかすればいいし、後悔してからでは遅いもの。
そうね……。そう。今、言いましょう。ちょうど、由比ヶ浜さんもいなくて二人きりなのだし、一色さんが来るという可能性もなくはないけれど、なら尚更のことその前に言わなければ。
それに、たとえ今は容姿が好きでも、それは私の努力次第で変えていけるはずよ。私が努力して、私じゃなければダメだと思わせればいいのよ。最初から相手に期待するなんて、それこそ自分本位よ。比企谷くんにすべてを任せてはいけないわ。さあ、立ち上がるのよ雪乃! ……す、座ったままでもいいわね。
「……比企谷くん」
「雪ノ下」
「は、はいっ! あ、えと、なに、かしら……?」
「ああ、いや、悪い。なんか言いたいことがあるなら、先に言ってくれ」
「……え、あ、うん。そ、そうね……」
もしかして、再度告白してくれようとしてくれていたんじゃ……ああ、だからもう、そういう人任せはやめると言ったばかりでしょう! 腹をくくるのよ!
「……えっと、比企谷、くん」
「なんだ」
「その、この前の……お返事を、しなければと思って」
しなければってなによ……比企谷くんもそんな義務感みたいに言われたら困るでしょう。もう少し、落ち着いて、言葉選びを、慎重に……。
「……そのことか。あー、別に無理してすぐ決めてくれなくてもいい。その、いつまでも、待つし……」
なによそれ、なによそれ! なんでそうやってすぐ人が喜ぶようなことばっかり言うの!? それでどうしてあのときは「顔とか……」なんて言ったの!? ……そこを責めるのは筋違いだけれど。
「……いえ、お気遣いは嬉しいけれど、今言わせてもらうわ。私があなたを待たせたくない、から」
あああぁぁぁぁああ、顔熱いっ、あっつ、この部屋暑くないかしら? 窓を開け……そういえば開いてたわね。絶対見せられない、絶対見せられないわよ、こんな顔。
「えっと、比企谷くん。あなたの告白、受けるわ。あ、いえ、受けるというのは笑えるとかそういう意味ではなくって——」
「分かってる、分かってるから!」
「そ、そう……」
軽く死ねるわね。なんだかくらくらしてきた。
「だから、その、付き合いましょう……男女交際、的な意味で」
「お、おう」
わーーーいっ! 今日から比企谷くんの彼女! ……ダメね、ついついキャラが壊れてしまうわ。私、こんなキャラじゃないわよね。で、でも本当に嬉しくて、もう、なに? この、こういうの、なんて表現すればいいのかしら。そういうの、ユキペディアには載っていないのだけれど。
「でも、いいのか?」
「え?」
なにが? 疑問に思って顔を動かすと、顔を真っ赤に染めた比企谷くんが視界に映る。私たち、同じ気持ちなのね……嬉しい。ではなくて、いいって、どういう……?
「いや、この前、悩んでる風だったっつーか、さっきもそんな感じ、だったから……」
「ああ……。ええ、いいのよ、もう。別に、たいしたことではないから」
それがあっても付き合えて嬉しいのは事実だし、だったら悩む必要なんてない気もするし。
「俺があのとき、顔って答えたのがまずかった……のか?」
「っ……まあ、えっと、そうといえばそう、なのだけれど、本当にっ——」
ぶつかった瞳が、じっと本心を見抜くように私を見ていた。多分、比企谷くんは言って欲しいのだ。教えて欲しいのだ。私があのとき保留してしまった理由を、訊きたいんだ。
その気持ちを知ってしまったら私に選択肢なんてないようなもので、私はそっと目を逸らして、長机をぼんやりと眺めながら言葉を紡ぐ。
「……これは、私の独り言だと思って、聞いて欲しいのだけれど、その、私はあまり自分の容姿が好きではなくて」
思い返したくない。思い出したくない。吐き気がするくらい嫌な思い出。過去の記憶。すべてに報復したとはいえ、それですっきりするなんてことはなかった。
「比企谷くんには、前に言ったわよね。小学生の頃のこと、中学生の頃のこと、この容姿のせいで、迷惑な思いをしたって」
「あぁ……だから」
「だから、というわけでもないのよ」
確かに、それらも確かな理由になるのかもしれない。ただ、それだけでなくて。私はそういった記号を挙げて、いざとなったら助けてもくれないくせに好きだなんだと宣う輩が心底嫌いだし、あなたが私のなにを知っているのと怒りすら覚える。けれど、それよりもなによりも。
「私、誰かに必要とされたことがないのよ」
他の誰かでも代用できるようなもので、私を褒める人は沢山いた。でも、私にしかないもの、私自身、私だけの価値を見出してくれるような人は一人もいなかった。
「笑っちゃうわよね。才色兼備とか、文武両道とか、これだけ持ち上げられて、誰一人私自身に興味なんてないんだもの」
母でさえ、私のことなんて見てくれなくて、自分に都合の悪いときに出てくるだけ。だから、家柄とか容姿とか、学力とかそんな付加価値を褒められてもなにも嬉しくなくて、けれど、多分、一番嫌なのは——
「なのに私は、そのことを諦めてしまっていて」
——なにもしないくせに、嫌だ嫌だと喚く自分自身。
「……何度もごめんなさい。やっぱり、比企谷くんとお付き合いするのは、やめておこうと思うの」
こんなのと付き合ったっていいことなんてない。
「私なんか選んではだめよ。あなたならもっと、素敵な女性に出会えるもの」
ぽつり。雫が机を濡らした。
捩れに捻れて、ごちゃごちゃに絡まってしまった私に、あなたならと、あなただからこそと、あなただけはと思わせてくれただけで、もう充分だ。
「……最後のはよく聞こえなかったな」
「なっ——」
慌てて顔を上げると、比企谷くんは意地の悪い顔で、
「独り言なんだろ?」
「っ、それは、そう、だけれど……」
言葉に詰まっていると、比企谷くんは立ち上がって、私の前まで歩いてくる。仕方なさそうに笑う比企谷くんを、場違いにも好きだなぁと思った。
「雪ノ下が誰にも必要とされなくたって、俺には雪ノ下が必要だ」
どくん、と心臓が大きく脈打つ。比企谷くんは照れ臭そうに頭をがしがしと搔いて、
「——なんて台詞は、俺には言えない」
「……ふふっ、似合わない、ものね」
「おう」
ちょっぴり嬉しかったのは、秘密にしておこう。
「だから、せめて、この前のお前の質問に、今度はしっかり答えようと思う」
「この前のって……」
思い当たるものは、一つだけ。あのときの気持ちが蘇って、私はつい身体を強張らせてしまった。
「……雪ノ下の顔とかが好きだって、言ったよな。でも、それは顔立ちがどうってことじゃなくてだな……まあ、顔立ちもその、好きではあるんだが。それよりも、お前が俺に見せてくれる表情が、俺は、いい……と思う。その表情は、同じ顔でも、雪ノ下雪乃にしかできねぇよ」
「ふふふっ……」
「なんだよ……」
「ふふっ、いえ、ごめんなさい……その、なんだか、かわいくて」
「はぁ!?」
好きだとはっきり言うのがそんなに恥ずかしいかと、自分のことなんて棚に上げて笑ってしまった。こうして笑えるのも、彼の言葉があってこそ、なのかしら。
「……つ、続けて?」
肩の震えが収まらないまま続きを促すと、比企谷くんは調子が狂ったとでも言いたげな顔で、それでも言葉を続けてくれる。
「あー……、雪ノ下はさ、容姿とか家柄とか学力とか運動神経とか? そういうのは付加価値で、自分自身じゃないんだって言うけどな、俺はそうは思わない」
「でも……同じことを出来る人、同じような家柄や或いは私よりももっと裕福な家庭は探せばいくらでもあるわよ」
口を挟むと、比企谷くんは特に顔色も変えずに言葉を返す。
「そりゃそうだろ。そもそも、誰よりもなんて、誰にも出来ないなんて、嘘くさい。でもな、誰かとまったく一緒の人間なんていない。俺が二人いたら嫌だろ」
「くふっ……ふふっ、私は、構わないけれど」
うん。比企谷くんが二人。悪くはないわね。
「っ、俺は嫌だ。で、そういう付加価値こそが、その誰かが誰であるのかを作ってるんだと思う。俺は別にお前が成績優秀じゃなくなっても、運動神経が悪くなっても、顔がブサイクになっても、縁起でもねぇけど……家が潰れたりしても、気持ちが変わらない自信が一応あったりはする」
「……私も、その自信なら負けないわよ」
微笑みを返すと、比企谷くんはふいと目を逸らしてしまう。でも、そんな比企谷くんがやっぱり好きで、笑みは絶えなかった。
「……でも、俺がその、好きになったのは、勉強が出来て、運動も出来て、容姿端麗で、家が裕福なお前なんだよ。猫が好きで、パンさんが好きで、にゃーとか言って話しかけちまうお前が、由比ヶ浜とか一色に甘くて、俺に楽しそうに毒舌を吐いてくるお前だから、なんだ」
「待って、今なにか聞き捨てならないことを言った気がしたのだけれど」
「そういうのいいから!」
でも、あの、そうやって誤魔化さないと、流石に恥ずかし過ぎて顔を見ていられないというか。え、なに、いまの? プロポーズより恥ずかしいんじゃないの?
「……付加価値があったから、なんだよ。付加価値ごとって、思ってるんだよ。今のお前を、俺は、その、好きに、なった……だから、もう一度、言うぞ」
「え——」
「雪ノ下。お前が、好きだ。俺と付き合ってくれ」
お前が好きだと言われた。思えば、最初から言われていたのだ。お前だと、雪ノ下雪乃だと、私なんだって彼は最初っからそれだけを言っていて、私の悩みなんて本当に必要のないことで、本当に……バカみたいだわ。
「はい……っ」
——おまけ——
「ところで、猫やパンさんの件なのだけれど」
「いや、そこ今更突っ込むのかよ……」
「そもそもどうして……猫については見られてしまっているから仕方ないとはいえ、パンさんは」
「いや、分かるだろ。バレバレだよお前、バレバレ。由比ヶ浜も一色も知ってるっつーの。お前が方向音痴なのも含めてな」
「……嘘よね?」
「事実だ」
「……聞かなかったことにしましょう」
「現実逃避しやがった……」