夢をみていた。
『目覚め』る前には、必ず夢をみる。
私は、個性を認識したあの夜から、眠ることがなくなっていた。だから、夢をみるのは決まって私が死から『目覚め』るときだけだった。
そして、その夢はいつも決まって悪夢のような凄惨な一夜を切り取ったものだった。
『……――よ、君はよくやった。長い夜は、もう終わる。さあ、私の介錯に身を任せたまえ。君は死に、そして夢を忘れ、朝に目覚める。……解放されるのだ。この――……』
ああ、この
この悪夢の一夜が終わる、その最後の
幾つもの木製の磔台が墓標の如く立ち並び、名も知らぬ純白の花が一面に咲いた地に聳える荘厳な巨木が見下ろす庭園で、暁とは違う奇妙な青白い
一人はくたびれたつば付帽を被った老爺の紳士。もう一人は、靄がかかったように姿は
老爺の紳士は、車椅子に身体を預けていた。彼の右脚は一本木の簡素な義足をつけており、さらには歩くために要するのか車椅子にも関わらず、その手には杖が握られている。声もしわがれ、顔にはどこか悲哀を感じさせる皺が深く刻まれていた。
その老爺の提言を、もう一人が一歩退くことで拒否の意を示す。
老爺はそれを最初から分かっていたかのように薄く笑みを浮かべつつ、おもむろに車椅子から立ち上がったのだった。
『――君も何かにのまれたか。狩りか、血か、それとも悪夢か? まあ、どれでもよい。そういう者を始末するのも、助言者の役目というものだ……』
一陣の風が吹き、純白の花弁が舞い踊った。
老爺は、折り畳まれた長柄を背負い、杖から手を離し傍らに置いてあった諸刃の巨大曲刀を恭しく持ち上げると、素早く長柄と接合、展開させる。隕鉄特有の澄んだ音を響かせながら巨大曲刀は、命を刈り取るという行為をそのまま象ったかのような巨大な戦鎌に変貌していた。否、
左腰に古びた散弾銃を据え、戦鎌を諸手で携えた老爺の気迫が膨れ上がり、凄まじい威圧感を伴いながら一歩、また一歩ともう一人の人間への距離を縮めていく。
対峙している翳みがかった人間も、迫る老爺を前に何かの武器を構えた。
(今回は、それか)
翳みがかった人間が構えていたのは、ノコギリ鉈だった。私も持つ、よく見知った馴染みのある狩武器。
私の腕の長さほどある僅かに歪曲した柄に、同じ尺を持つ緩い弓形に曲がった、大振りで肉厚な両刃の刀身。片刃は細かく波立ったノコギリの特長をもったギザ刃、他方の片刃は鉈の特長をもった直刃。通常のノコギリや鉈ならば柄頭から切っ先まで一直線に造形されるものだが、ノコギリ鉈は口金の部分に折り返しの駆動機構が付いており、その駆動によって用途と姿を変えるのだった。
そして彼の持つノコギリ鉈は折りたたまれ、
私の持つ武器の大半は、この夢から影響を受け作ったものだ。今回は、ノコギリ鉈だが、同じ場面を夢に見ても、見えぬ者が持つ武器は夢を見るたびに変わっていた。あるときは巨大な戦斧、またあるときは銃機構を突端に据え付けた長槍。その都度、懸命に覚え現実へ持ち帰り作成を依頼をした。その者が使っていた武器はどれも私のために見せ、私のためにあるようにしか思えなかった。そうしてできたものが、私の狩道具であり狩武器だったのである。
がしゃり、とノコギリ鉈の鈍い音が聞こえた。そして、間をおかず短銃の撃鉄を引く音。
老爺に対峙する人間が完全な臨戦態勢になった証拠だった。相手が義足の老人であっても、加減する気配は微塵も感じられない。いや、その老爺だからこそ、油断は死に直結すると彼は本能的にわかっていたのだろう。
呼吸も忘れそうな張りつめた空気の中、一際強い風が吹いたのを合図に、両者は同時に地面を蹴って相手へ猛進した。武器同士がぶつかり合い、猛獣の嘶きの如き金属音を迸らせる。幾多もの斬撃が互いから繰り出され、白い花弁と共に鮮血が舞った。眼で追うことすら困難な神速に至る斬撃と無数の銃弾の嵐を掻い潜り、私でさえ瞠目する電光石火の体運びを以って、互いの命を狩らんとする。
まさに龍闘虎争。白い花弁を朱に染めて、肉片は飛び散り、その先の骨が覗こうとも二人の気力が衰えることは些かもない。それどころか双方の技の鋭さは増すばかりだった。永遠の時を廻るような闘争の中で老爺は笑みを讃え、翳みがかった人間は歓喜にうち震えていた。
血霞と硝煙でむせ返るほどの濃密な香りに満ちた庭園で、狂気と狂喜が入り乱れた死闘の末、ついに老爺は討ち取られる。
義足によりほんの僅かに老爺が体勢を崩した刹那の隙を突き、ノコギリ鉈が老爺を肩口から袈裟掛けに深々と切り裂いたのだった。夥しい血飛沫とうねる臓物が老爺の身体からひりだされ、彼の足元には血溜まりが拡がっていく。
しかし、老爺の紳士は、その結末を待ち望んでいたかのように満足げに嗤った。
老爺は事切れる直前、諸手を直上の燦然と輝く満月に伸ばし、そのまま自身の血で朱に染まった地に臥したのだった。
死闘の後の庭園は異様なほどの静かさに包まれていた。風も、葉擦れも、衣擦れも、荒く乱れているはずの呼吸音さえも、なにもかもが消え失せていた。
不意に、満月に陰ができる。
翳みがかった人間が陰に気付き
(またここで『目覚め』てしまう)
またしても、最後まで見ることが叶うことはなさそうだ。
数瞬後、奇妙な浮遊感と共に眩い光に包まれたのだった。
◇◆◇
『目覚め』ると埃っぽい匂いと共に眼前には土煙が漂っており視界はほとんどきいていなかった。
足下にはドームの天井に使われていた資材が瓦礫と化して散乱しているところを見ると、私は死後、どうやらドームの天蓋まで吹飛ばされ、激突したらしい。パラパラとまだ細かい粒子が真上から降り注いでいるところをみるとまだ死してからそれほど時間は経っていないようだった。
(これだけは、相変わらず制御が利かないな。まったくもって忌々しい)
この『目覚め』の唯一の欠点は、死から『目覚め』までの時間と『目覚め』る場所を選ぶことが出来ないという点である。死んでいるのだから当然と言えば当然だが、自身のことにも拘らず思い通りにならないのは、なんとも歯がゆかった。今まで観測した中で死から『目覚め』までの最長は十分程度、早ければ数秒で『目覚め』ることができる。
(今回はおそらく死から数十秒程度。まあ、おおむね予想通りだ)
制御は効かないものの、『目覚め』に関しての法則はある程度掴んでいた。
それは、私の死を拒絶する意志が強く関係しているのである。『死ねない』『死ぬわけにはいかない』と強く思えば思うほど死から『目覚め』までは比較的に短くなり、反対に事故などの不意の死や強い意志を持たないまま死を迎えると『目覚め』までの時間は長くなる傾向にあった。
それに加えて、死した場所も『目覚め』までの時間に影響を及ぼす。
この個性に宿る意志のようなものだと私は思っているが、『目覚め』た直後に再び死が訪れることがないように、死の脅威のない安全な場所、且つ死した場所から最も近い場所で『目覚め』るように発動する。
譬えば、私が火山の火口へ投身したとしても、マグマの中で『目覚め』るわけではなく、『目覚め』る場所は火口付近ないし山岳のいずれかで『目覚め 』るだろう。ただ、何をもってこの個性が死の脅威を判断しているかは未だに不明であり、究明のため自死を幾度か試みたものの自死を試すことのできる場所は大抵安全な場所であるため大したサンプルにはならなかった。
ただし、その研究から判明したことの一つが、死した場所から死の脅威のない場所までが離れていれば離れているほど『目覚め』までにかかる時間は増大するということであった。
(死自体の場所は脳無のすぐそばだったが、ここで『目覚め』たのは脳無のすぐそばは死の脅威で満ちていたということだろう)
ここは土煙が煙幕の役割を果たしており、このドーム内において他の開けた場所よりは脳無に見つかりにくい。だから選ばれたのだろうと思う反面、やはり出来過ぎているとも思っていた。
まあ、いい。久しぶりの『目覚め』のせいで、つい感慨に浸り十数秒無駄にしてしまった。
(『目覚め』たのなら、ひとつ確かめなければならない)
私は、右手の感触を探る。
「おかえりなさい」
あえて言葉にし、敬意を示す。
私が握りこんでいたものはくすんだ白銀色をした飾り気のない一降りの
私の個性の最大の
月光の聖剣は、私が死した直後にのみ私を導くかのようにその姿を顕し、私の闘争心の静まりと共に霧散していく不可思議な剣である。
月光の聖剣が初めて姿を顕したのは、私が狩人として三度目の任務の際だ。その任務で私は生まれて初めて絶望というものを味わっていた。幾度立ち向かおうとも勝ちえぬ事実とまるで突破口の見えない現実、そしてそのあと降りかかるであろう未来が、私の
思えば、その絶望はただの未熟からくるものでしかなく、今の私からすれば易い任務でしかないが、当時の私からはあまりにも達成が難い任務だった。
焦燥が身を焼き、数えることも億劫になるほどの死を迎え、諦念が鎌首をもたげつつあったそのときに月光の聖剣は顕れた。
突然の剣の出現に困惑する私を余所に、個性を初めて認識した夜以上の啓蒙的真実が湧水のごとく脳をすっかり満たしたのだった。
この剣は、私の
私の、いや、我々人類の擁する言語と言う稚拙な媒介では、月光の存在の
私とて月光の聖剣を数千分の一つも理解できていないであろう――ともすれば、僅かでも理解しているという推認すら烏滸がましい――が、それでも月光を信奉することを止めることはできないのだ。
(また力を貸してくれるのか)
私は月光の聖剣を肩に担ぎ瓦礫の山を蹴り、一足跳びで土煙から脱出した。
視界が開けると、オールマイトと脳無の戦闘が真っ先に眼に入ってきた。数百メートルは離れているが、オールマイトの攻撃が先ほどよりも随分と激しくなっているのは遠目でもはっきりとわかる。
確実に距離を詰めているもののまだ、誰一人こちらに気づいた様子はない。オールマイトが、猛然と脳無を攻撃し続けていた。
戦闘では圧倒しているものの、イレイザーヘッドの『抹消』も発動からインターバルまでの時間が段々と短くなっており、反対にインターバルの時間は長くなっていった。その短い効果時間の中ではオールマイトも決定打を繰り出せないようだった。
ただオールマイトならば、己の限界すらも突破しつつも身心に大きな負担のかかるであろう出力で、あの脳無でさえも凌駕することも可能であろうが、私のせいでそれをさせるわけにはいかなかった。それをしてしまえば、オールマイトの活動可能時間はまた縮まってしまうことに疑念の余地はないのだ。
しかし、オールマイトだからこそ、他者を、生徒を護る為ならば、躊躇なくリミッターを外してしまうだろう。そしてなによりも、今オールマイトの顔からは笑顔が失われてしまっており、いつその状況になってもおかしくなかったのである。
不甲斐ない。情けない。私は、なにをしているのだ。無意識に下唇を噛んでいたらしく、口内に血の味が滲んだ。
私は一段と加速しつつ、月光の聖剣の力を引きだすための準備として意識を啓蒙の海へ沈ませる。
(脳髄の最奥のさらに奥まで覚醒していくのがわかる)
月光を持つときのみ可能となる、『筋力』『技術』『血質』『神秘』の全能力の同時行使による戦闘。正真正銘の私の全力。巡る血が細胞の総てを活性化させていく。
意識下の戦闘態勢の完成と同じくして、オールマイトと脳無の間へ割って入り込ることに成功したのだった。
脱力のまま腰だめに構えていた月光の聖剣を脳無の右腕へと突きだした。
「は?」
死柄木弔の頓狂な声を置き去りにして、一見緩く穿たれたかに見えたであろうその刺突は脳無を錐もみに回転させ、死柄木弔の真横を掠め吹き飛ばした。
ショック吸収の個性をもつあの脳無にとって、
月光の聖剣を用いて繰り出される攻撃は、現世におけるどの物理法則にも属さない。斬撃であって斬撃にあらず、刺突であって刺突にあらず。月光の聖剣は、この世の一切に該当しない物質で構成されているが故に、月光の聖剣が発生させる現象もまたこの世ならざるものである道理。脳無のもつショック吸収は、あくまでも物理法則における衝撃を受け止めるためのものであり、この世界の理の埒外から発生した衝撃を受け止められないことは、そも当然の摂理であった。
死柄木弔は脳無の個性が発動しなかったことよりも、私が再びここへやってきたことへの驚きが勝っているようで、脳無のことなどまるで気にかけず呆然とした顔で声もなく私を見つめてきている。
「久しいな、死柄木弔。数分ぶりか? 数十秒ぶりか?」
「お、お前……ッ! どうして、どうしてだ! 死んだはずだろう! 確実に! 絶対に!」
死柄木弔の呆気にとられた顔は、徐々に驚愕の、そして怒気を孕んだものへと変遷していった。その変遷と同じく後方から生徒の泣き崩れるような、それでいて安堵の声が上がったのだった。
オールマイトの横に並び立ち、再び月光の聖剣を肩に担ぐ。
「ただいま戦線復帰しました。遅くなり、申し訳ありません」
「そうじゃないよ! 全く、君と言うやつは! あとでお説教だからな!」
オールマイトは
だが、横目でオールマイトの顔を見やれば、そこにはいつもの笑顔が戻ってきていたのだった。
死柄木弔の後方で、脳無が立ち上がった。月光が直接穿たれた右腕は、大きく抉れ皮一枚を残してだらしなくぶらさがっている。
「オールマイト、ここからは任せてもらえませんか?」
「でも君。さっきまで死――」
「だからこそ、です」
私は、返答を待たず死柄木弔へ向かってゆっくりと歩を進める。
未だ怒りにより忘我の彼方から、迫りくる眼前の
急襲の好機を潰すなど私自身が予てより忌避する愚鈍そのもの。平時の私ならば、敵に塩を送るあり得ぬ言動。
しかして、これは断じて慢心ではないし、油断でもない。これは私の我儘だ。知ってしまった以上、言葉にせずにいられない私の我儘なのだ。
「私はお前を誤解していたよ。直情的で自分本位な激情家。短絡的思考から生ずる幼稚な主張と稚拙な弁論を振りかざす利己主義者。特段物珍しいこともない、掃いて捨てるほど見てきた世も知らぬ無能故の万能感から抜け出せない雑輩の
「あァー……なんなんだよ、お前はよォ……!」
死柄木弔は、苛つきを隠すことなく喉首を掻き毟る。
「しかし、ただ一つ。お前が他の
死柄木弔の揺らいでいた視線が据わり、私へと定まった。
危機と相対した時、死柄木弔は目的の達成を第一とする狂信的な強迫観念に駆られた実行者よりも、自己の安全をなにより優先する享楽的な采配者を気取った観測者だという印象を受けた。前線で攻めているように見せかけていても、必ず背後に保険やある種の確証がなければ、自身が先だって立つことはしない。
他者へ自身の行動の成否を任せきっていても思い通りにいかなければ不機嫌を撒き散らす精神が未熟な
殺気を叩きつけられようものなら、即断で身を守れと脳無に命じ、それでも不安が拭えない場合、能動的に危機を排しようと防御よりも私を攻撃してくると踏んでいた。
しかし死柄木弔は、本能的な危機回避行動を振り払ってまで、脳無を自身から遠く離し危機の元凶である私ではなく生徒への攻撃を命じたのだ。
それは、死柄木弔に染みついた、死柄木弔の本質なのである。
「…………黙れよ」
「私が読み切れなかったのは、お前が描いた
「黙れ……ッ!
「黙らせたいのなら、力尽くで私の口を噤ませてみろ。とても簡単なことじゃあないか」
「ああ、そんなに死にたいのならもう一度、今度こそ間違いなく殺しきってやるだけだ……!」
死柄木弔は、もう一つの私のあり得たかもしれない姿だった。だから、声を掛けずにはいられなかった。
私も嘗て、この個性のせいで危険視され、ありもしない個性犯罪をでっちあげられ、
だが私はそこで、オールマイトに救われたのだった。
それ以上ない追い込まれていた窮地に、
もし、あのとき救われていなかったのなら、私は
その先の未来は、想像に難くない。
怨嗟の果てに、世界を、社会を、
つまり死柄木弔は、救われなかった私。理想を描き、理想に助けを
「脳無、あの女をただ殺すな。ミンチだ。ミンチにして骨の一片まで粉々にしろ」
死柄木弔のすぐ背後まで戻ってきていた脳無は、その命令のまま私へ突進を開始した。月光の聖剣で深々と刺し穿った傷は、既に超再生で治っており外傷は完全に消え失せている。
如何に物理現象をも超越した月光の聖剣といえども、創る傷はその肉体に依らざるをえない。つまりは、超再生を妨げるまでには至らないのだ。
「しかし、それはいつまでもつかな?」
おそらくだが、通常の人体で行う場合、『超再生』は、損傷の大きいものなら日に一度か二度が限度の個性のはずだ。
あくまでも個性は身体能力。身体能力である限り肉体を欠損した四肢ごと再生するなどという過大なエネルギーを消費するであろう個性を幾度も行えるはずがない。そのエネルギーの源泉はやはりその肉体ないし脳から発生するものであり、いくら人体改造を施されようとも、人の脳や身体がベースにある限り、限界が存在することは明白だろう。
限界はあるとはいえ、さりとてオールマイトを倒そうと用意したものだ。その試行回数は甚大であろうことも予測ができる。
「月光を拝領させてやろう」
くすんだ白銀色の
拝するように月光の聖剣を頭上に掲げ、襤褸の上から剣身を掌でやおらなぞると、歪んだ高音を啼くように反響させながらその真の姿を顕現させた。
淡く、それでいてほの暗く沈んだ真理の深淵を湛える翡翠色の大刃。纏う青い月の光と大刃に刻まれた微細で妖艶さすらも覚える楚々たる紋様の放つ神秘の波導は隠しようもなく、視るもの総てを陶酔させ憧憬と不吉を与える。
柄を諸手に持ち再び肩へ担ぐまでの剣の軌跡は流麗な残光の尾を引きながら、束の間、空間を常盤に染めていた。
月光の聖剣の真諦を呼ぶ間、私以外の全ての時間が凍りつくかのように止まっている。
「さて、この莫迦騒ぎもそろそろ終いだ」
私が発した声を切っ掛けに、凍った時は再び動き出した。
いや、実際はほんの一瞬の出来事。くすんだ白銀から翡翠色への変遷は、誰一人として正確に捉えられた者はいないだろう。
脳無の背後で死柄木弔が当惑した表情を浮かべている。
しかし、当惑する脳無の主とは裏腹に迫る脳無は一切を介さず遮二無二突っ込んできた。
担いでいた月光の聖剣を脇構えに落し、水平に薙ぐと翡翠色の光の奔流が迸り波を形成した。その薄暗い光波は圧倒的な存在感を持ちながらも、どこか儚い。
光波が脳無の下半身を慈愛の如く包み込み、そして攫っていったのだった。
突如下半身が消失した脳無は、突進の勢いはそのままに上半身が慣性のまま前方へ飛ぶことを止められず、地に落ちるとゴロゴロと私の側らを転がり進んで行った。
「あと何回再生可能だ? 百か? 千か? それとも億か? 私は幾度でも一向に構わない。お前たちが飽く迄付き合ってやろう。そして、全てを塵芥に返し狩ってやろう」
再び月光の聖剣を肩へ担ぎつつ脳無ではなく、死柄木弔へ言葉を投げかける。
「あ……ああ……脳無が……脳無がこんなにあっさり……」
「たった一度視た程度で折れてくれるな。こちとら阿僧祇を重ねようと那由多に到ろうと続ける心づもりでいるのだから。最後の血の一滴が絶えるまで闘いを続けたまえよ」
「ああ……あァ……どうして……先生……まだ、はじまってもいないのに……こんな……」
死柄木弔の言葉が覚束ない。そして奴の殺意は急速に萎んでいった。
やはり、彼は戦力分析においては聡いところがある。気づいてしまったのだ、歴然とした戦力差に。
死柄木弔が混迷している間、脳無が私の後方でずるずると再生を始めていたが、先ほどまでの高速再生ではない。傷口に残る神秘のほんのわずかな残滓が再生という個性の発動を妨げているようだった。
脳無を捨て置いたまま、死柄木弔へ一歩で間合いを詰め鳩尾へ拳打を叩きこんだ。
死柄木弔は、ゲロをぶちまけながらのた打ち回る。私を睥睨しつつ立ち上がったが、それでも奴に抗う意志が甦ってくることはなかった。
「所詮ままごとか。それなら、最後にお前を誅し――」
「もう、十分だ」
オールマイトの手が私の肩に優しく置かれる。
「死柄木に闘う意志はもうない。捕まえて、それでお終いにしよう」
「……そうですね。少し、我を忘れていました」
月光を抜くと、いつもそうだ。私でない私が、脳髄の奥底から這いずり出てくる錯覚を覚えるのだ。
オールマイトがイレイザーヘッドを呼び、捕縛してくれるよう頼んだそのときだった。
「オール……マイト……社会の、ゴミ。お前さえ、お前さえ! お前さえいなければ!!」
死柄木弔の慟哭に近い絶叫が響くと、奴の口からタールのような黒い粘性の液体がごぼと溢れだした。
その場にいた全員が、新たな個性の発動に一瞬、身構え硬直した。その僅かな間に、黒い粘性の液体は死柄木弔を半分以上飲み込んでいった。
「相澤君!」
「分かってます! だが、消えない!」
オールマイトの号令よりも早くイレイザーヘッドが個性を発動していたが、それでも溢れ出る粘液は止まることを知らない。
つまり、死柄木弔の個性ではないことを示していたが、反対にこの場に死柄木弔以外に個性を使えるモノがいなかったという事実が、困惑を加速させた。
「皆さん! 黒霧からも黒い液体が! ですが黒霧は気を失ったままです! それに、この黒い液体が吸いきれません!」
13号の悲鳴と脳無の口からも同様の黒い液体の噴出が確認されたせいで、どこを対処すべきかで全体に更なる迷いが生じる。
その寸陰に、まず脳無が黒い液体に飲まれその場から消え失せていった。そして13号のさらなる悲鳴が、黒霧の離脱を知らせる。
発動から完了までの展開が速い。
脳無の消失と同時に転送系の個性である確信を得たが、これは黒霧とはまったく異質なものだった。
私は、死柄木弔へ向かって駆けだしていた。
(くそ、イレイザーヘッドでも13号でも捕縛しきれないとなると私では……!)
既に身体の大半が液体に浸っていた死柄木弔は、身動きが取れないらしく顔だけを動かして血走った眼でこちらを睨み返してくる。
殺してはいけないという意識が、顔面ではなく死柄木弔の身体があるであろう部分に向かって拳打を繰り出させた。だが、そこには液体の感触があるだけで、もう実体は存在しておらず虚しく粘性の液体を掴むだけに終わる。
「ごぽっ、これが先生の言っていた保険……ってやつか。今日は退く、だが必ず殺してやるぞ。俺達
死柄木弔の捨て台詞を最後に、地に転がる取り残された
空虚すぎるその間が、やけに痛々しく、ヒーローたちは誰も声を上げられなかったのであった。
【月光の聖剣】
かつて原初の英雄が見出した神秘の剣。
青い月の光を纏い、そして宇宙の深淵を宿すとき
大刃は暗い光波を迸らせる。
英雄を象徴する武器であるが
その大刃を実際に目にした者は少ない。
それは彼だけの、秘かに秘する導きだったのだ。