大爆音が森に響くと同時に、西南西の方角のやや離れた崖上から土煙が舞いあがる。
その直後に、マンダレイからテレパシーが送られてきた。
『狩人! ごめんなさい、連絡が遅れてしまって! 緑谷くんが洸汰の場所を知ってるって飛び出してしまったの!』
『こちらにも
マンダレイのやや歯切れが悪い物言いが引っかかるが、双方性のある個性でないため確かめることは叶わない。やはり、私が制圧した
施設にはプッシーキャッツの四名に雄英の教師が二名。以前雄英を襲撃してきた際と同じく、チンピラ崩れの
(一対一になるだけならば、案ずる意味はない。不意を打たれない限り十分対応できる範囲であることには変わりない。だが、多対一を常時強いられるとなると、崩れるのは時間の問題になってくるな)
そして何よりも、相手が
雄英を襲撃してきた際にオールマイトと戦闘を行った脳無のレベル、もしくは私に宛がわれたスペリオールと呼ばれた脳無と同等クラスがいた場合、状況は大きく変わってくる。脳無は基本的に身体強化を施されており、それが発動型の個性であるならばイレイザーヘッドによって封じることが出来るが、そうでなければ身体強化個性を持たない彼らにとっては否が応にも苦戦を強いられ被害は大きくなってしまう。
脳無に関しては、
雄英襲撃、保須市襲撃、そして私の交戦。これらの戦闘データを参考に脳無がもたらす脅威の度合いから、『狩人』の執行案件とされているのであった。
(いずれにせよ、少年を見つけ出してイレイザーヘッド達と早急に合流する必要がある)
マンダレイのテレパシーから推測するに、おそらくは先程の爆音と粉塵の先には少年か緑谷出久がいる。
プロヒーローたちはともかく、流石に緑谷出久の手にはまだ余る
しかし、この場を離れるにはこの眼前の
(だが捕縛装備は持っていない。ならば、心理的に縛るまで)
ブーツに仕込んであった
マグネ、スピナーと順にそのメスを肩口へ垂直に突き刺す。突き刺した後には、容易に抜けないようさらに捻りを加えておく。傷口から血がメスの柄を伝い小さな血だまりを作り出す。
両名ともその痛みに唸るが、敵意を膨らませ、隠すことなく剥き出しにして私を睨み付けてきたのだった。
「拷問でもするつもりかしら? 残念ね、口は割らないわよ」
「こんっ、こんな! 非人道的なことをヒーローがして許されると思うのかッ……!?」
マグネもスピナーも冷や汗を額に浮かべながらも、その強がりは消えない。大したものだ。
だがしかし、それもまた無意味なのである。
「拷問? まさか、この状況で時間がかかることをするわけがないだろう。真実と確証が得られない情報に踊らされるほど蒙昧ではない」
縄も手錠も必要はない。今、彼らが置かれている状況をそのまま伝えてやれば、それが堅固な牢となる。
「今お前たちの肩に突き刺したのは毒メスだ。この毒の特徴として手始めに立っていられないほどの眩暈を感じるのだが、今のお前たちでは脳が揺れていて自覚するのには難しいかもしれんな」
あえて、二人の正面に移動し表情がしっかりと視える場所から声を掛ける。
「遅効性の神経毒で、放っておけばやがて死に至る。あと数十秒もすれば、最悪の吐気と悪寒に襲われ、その直後には脳を直接鎚で殴られ続けるような頭痛と鼓膜を錐で突かれるような耳鳴りも一緒についてくる。だが、すぐには死ねない。その苦痛が数時間にもわたって続く。楽しみにしておくといい。身体中が大音量で警報を鳴らし死が一歩ずつゆうっくりと近づいてくることを知覚できる稀有な経験だからな」
私の経験則を伝え青ざめていく二人を見下ろしつつ、言葉を続ける。
「その毒は少々特殊でな。上手く解毒ができなければ、お前たちの身体に重篤な後遺症が残ることはまず間違いない。今まで通りの生活を送ることは不可能になる。少なくとも『自立』という言葉とはこの先死ぬまで無縁になるだろうな」
冷や汗が脂汗に変わり、引き攣った表情からは震えた声が漏れ出る。
「は、ハッタリよ……ヒーローがそんなもの持ち歩いているわけないわ」
辛うじてマグネが口にした言葉は震えている。既に唇は紫色に染まっており、歯の根は合わずがちがちと震えているのは毒の症状が表れ始めたためか、恐怖のためか。
「信じようが信じまいが構わないさ。何もなせないまま逃げ帰って治るかどうかもわからない博奕染みた解毒に期待するか、投降し適切に治療可能な解毒薬を手に入れ牢の中の生を得るか。どちらか好きな方を選ぶといい」
そう言い伝えると、二人は眼を見開く。マグネは口角を上げ笑みを浮かべる。
「間抜けね……そんなこと言ったら奪うに決まってるじゃない」
「戦うも投降するも好きにすればいい。言った通り、選ぶのはお前たちだ。私じゃあない。ただし、次に僅かでも戦闘の意志を見せたのなら、たとえ投降しても解毒薬は与えないと心得ておけ。今の言葉は聴き逃すが、次はない」
ごくりと生唾を飲み込む音が宵闇に溶ける。力なく喚く声を背に受けつつ私は爆音のした方向へを夜の森を駆けていった。
(ステインの意志を継ぐと標榜していても、死柄木弔をトップに据えている組織である以上、所詮信念ではなく利害の一致で結託している集団に過ぎない。ならば、命を睹してまで集団に忠義を尽くす理由がない。然るに、自身の命と組織への忠義を天秤に掛させれば、容易に保身に傾く)
木々の間を縫うように、先程の粉塵が見えた方向へと向かっていく。その崖の直前、人影が立ちはだかった。
「よう、ダメだぜ。ここは通さ――」
「邪魔だ、どけ」
顎から下が焼け爛れ継ぎはぎだらけの顔をした男がなにやら右手をかざしていたが、構わず突進する。顔面を片手で鷲掴みにし、そのままその男の背後の樹木へと後頭部を叩きつけた。
身体強化の個性や防御に秀でた個性でない限り昏倒する威力で叩きつけたのだが、その男は不可解にもどろりと溶け、跡形もなく消えてしまったのだった。
(……何だ今のは。いや、何の個性か考えるのは後でもできる。今は緑谷出久の元へ向かうことを最優先だ)
一瞬、頭の中に擡げた疑問という靄を振り払い、脚を止めることなくさらに加速していく。
粉塵の舞っていた崖下に着くや、すぐさまその絶壁を駆けあがる。僅かな岩の突起を足掛かりに我が身が重力に引かれるより前に蹴りあがっていった。
駆け上がりきったその場には、緑谷出久と洸汰少年、そして大柄で筋繊維が肥大化した男が対峙していた。
「か、狩人先生っ!」
「緑谷くん。無事ですか」
「はい、洸汰くんは無事です! 怪我はしていません!」
無事といいつつも緑谷出久の腕の左腕は折れているようで、痛々しく紫色に変色している。
私の問いかけは、緑谷出久へ向けたものだったが彼は、自身のことなど眼中にないようだった。
「その腕は?」
「あの、無我夢中になってしまって……」
「コントロールを忘れてしまったということですか?」
「はい……」
「……後でお説教です。いいですね。これ以上怪我をせず、私の説教を無事に聞くこと。それが今から緑谷くんの宿題です」
「え……あ、はい……」
「わかったのでしたら、今すぐここから離れてください」
「え?」
がらがらと音を立てながら降り注いだ岩など何事もなかったかのように、
「オイオイ。お楽しみの邪魔ァ、するんじゃねぇよ。せっかく人が遊んでたってぇのに」
不機嫌そうに首を鳴らしながら歩みよってくるその男の顔は見覚えがあった。左反面に大きな傷痕を持ち、左眼を義眼にした大男。
まさか、このようなところで会うとは思わなかった。ここにいるということは
「行きなさい。緑谷くん、施設まで走れますね」
「無視してんじゃねェぞッ!」
私へ向けて振り下ろされた巨拳を受け止める。受け止めた力を地へ逃がすことで、立っている場所が蜘蛛の巣状にひび割れていく。
「へぇ……ッ!」
男が喜色に満ちた声色を上げる。その軽薄な声にたまらなく不愉快な気分が募っていく。
「で、でも! 先生! 一人でそいつの相手を……!?」
「いいから行きなさい。その子を守るんでしょう。救けるためにここに来たのでしょう。ならば躊躇している時間はないはずです」
私が緑谷出久と言葉を交わしている間も、
「オイオイオイ! マジかよ! マジかよ、マジかよ! 強ェじゃねェかよお前! 最高にぶっ壊し甲斐のあるオモチャだぜ!」
更にラッシュは力強く、速く、激しくなる。しかし、私は緑谷出久へ声を掛け続けた。
「いいですか。緑谷くん。この戦いに緑谷くんは既に勝っているのです。私がここへ到着するまで、その子に傷一つつけさせなかった。そして緑谷くんは耐え、結果大事に至る前に私は間に合った。これ以上ない勝利です。そうでしょう?」
緑谷出久は、眼を見開くと力強く頷いた。
「ははっ! イカれてるぜ、この女! この状況のどこが勝ってるって!?」
猛攻を捌きながら、緑谷出久へ改めて行くようにジェスチャーをするとようやく彼は駆けだした。マスキュラーは何度も緑谷出久や洸汰少年に追い打ちを掛けようとしてきたが、私が受け流し捌き続けていると舌打ちをし、見るからに不機嫌を顔に滲ませていく。
緑谷出久が十分に離れたことを確認したと同時に迫りくる拳よりも速く、奴の顔面へカウンターを叩きこむ。
再度、その巨躯は宙を舞い岸壁へと強かに撃ちつけられるが、やはりダメージはそこまで負っていないようで挑発的な笑みを浮かべて立ち上がってきた。
「オモチャが抵抗すんじゃねェよ。大人しく壊されろや」
「ようやく、これで仕事ができる。その傷跡と義眼……マスキュラーだな」
快楽殺人鬼、マスキュラー。数多の殺人を犯し、ヒーローすらもその毒牙に掛けた男。間違うことなき執行対象であり、優先的に狩るべき相手がここにいた。
「へぇ。俺を知ってるのか。それで?」
「ただの本人確認だ。しかし、これをもって最終警告とする。投降し警察へ出頭を命ずる。抵抗する場合には、投降の意志はないものと見做す」
「やだね。冗談にしちゃァ、つまんねぇなぁッ!」
振り下ろされる巨腕をバックステップで回避をする。私が立っていた場所は砕かれ、土煙が舞う。
マスキュラーは、次々とコンビネーションを繰り出してくる。右の拳を振ったかと思えば、膝蹴りから即座に中段前蹴り。左拳でアッパーを突き上げ、勢いを利用し後ろ回し蹴りへと繋げる。肘打ち、裏拳、ハイキックと多様な技で攻めてくる。
さらに大きく跳躍し、頭上まで振り上げた脚を豪快に叩き付け拳以上の威力で地面を粉砕する。どうやら足元を崩し私の脚を止めて仕留めるつもりらしい。
戦闘に関しては、言動とは裏腹に綿密に考えられていた。
だが、所詮はアマチュアである。快楽殺人鬼といえども戦闘も、殺しも、全てがアマチュアの域をでていない。
「警告はした。警告をした上で法において刑を受ける機会も与えた。極めて文明的に扱ってやった。極めて人道的に扱ってやった。にも関わらず応じないのならば、仕方がない」
「何を、どうするってぇ!?」
脚に筋繊維を何重にも纏い猪突猛進してくるマスキュラーに対し真正面から拳打によるカウンター。だが、マスキュラーは空中で体勢を立て直し、着地をするとこちらへ不快な笑みを向けてくる。
「俺を捕まえるってか? 無理に決まってる、無理無理。だってお前の攻撃、速ぇだけで軽りィぜ。そんなんじゃあ、絶対に俺は倒せねぇよ。現にこうして慣れたしなァッ!」
「確かに私の拳ではお前を斃せないだろうな。首の骨を折るつもりで振りぬいたのだが脳震盪すら起こさないとは。大した斜角筋だよ。まさに筋肉の鎧だ」
「はっ。そりゃどうも。だけどな、お前はウゼェよ。俺ァ、強ェ奴といい勝負をしたいんじゃねぇ。個性ぶっ放して強ェ奴をブチのめして気持ちよく血をみられりゃそれでいいんだからよ。大人しく殴られろ」
「ひたすらに度し難いな」
狩人の象徴たる武器の一方であるエヴェリンを腰から抜き払う。時間も惜しい。一発の銃弾で、この勝負の趨勢を決定してみせよう。
「銃ぅ!? ははははッ! それが切り札ってか、こりゃ傑作だ! いいこと教えてやるぜ、この
マスキュラーは銃を持った相手との戦闘も経験しているのか、全く怯む様子はない。
強力な個性。圧倒的な力。他者を傷つけることを躊躇しない精神性。マスキュラーは暴力の権化である。
時として暴力は他者を支配する。
時として暴力は万能感を与えてくれる。
時として暴力は自らの価値を錯覚させる。
そして暴力を利己的に振りかざすとき、人は人でなくなる。ただの快楽を貪る獣へと、成り下がる。
「私は、人でなくなった人皮を被った獣を狩る狩人なのさ。これは、そのための猟銃。生徒らを逃がしたのは、専ら私のため。守るための闘いは苦手なのだよ。それに仕事となればここには凄惨な光景が広がる。そんなところを見られるわけにはいかなかったからな」
「そういう御託を並べる奴ァ、負けると気付いてから必ずみっともない命乞いをすると相場が決まってるんだぜぇ! 今から楽しみだなァッ!」
マスキュラーは拳を握り、脚に筋肉の鎧を纏って突進を始めた。あの拳を無防備に受ければ、死は免れない。
「血ィ、見せろやァッ!」
マスキュラーは腕に纏っていた筋繊維をさらに重ね、肥大化させている。その拳を地表をなぞる様に振りぬき砕き割ると、地盤を無数の石礫へと変えて攻撃を仕掛けてきた。土煙が同時に巻き起こり、殺到する石礫を覆い隠す迷彩と化す。
予測困難な迷彩から放たれ続ける石礫を紙一重で回避していると、一際大きな土煙の揺らぎが起こる。
マスキュラーが不敵な笑みを浮かべながら、その巨腕を振りかぶり私へと叩き付けようと接近してきていた。
眼前へと拳が迫る。その攻撃が私へ到達するまでに瞬き一つ分の時間もかからないだろう。
私はその行動の全てを確かに視認しつつ、しかしその繰り出された拳が迫る僅かな時間しかない中、緩やかで滑らかに銃を構え、引き金を引いた。
炸裂音が響いたときには、マスキュラーは片膝を突き、攻撃どころか完全に全ての動きを止めていた。
マスキュラーは何が起こったかわからない様子で、表情は困惑に染まっている。視線だけが、私の行動を追っていた。
カウンター技としての極地の一つ。『銃パリィ』と呼ばれるこの技術は、相手が攻撃に全神経と全ての意識を向けた瞬間に身体の特定の部位に銃撃による甚大な衝撃を与えることで、脳から神経系に渡る電気信号を一時的に遮断し、数秒間完全に相手の動きを封じるものである。
この技術の前には、どれだけ分厚い筋肉があろうと関係はない。全身にくまなく張り巡らされている神経から脳へ作用するためヒトという種でいる限り逃れることはできないのである。
勿論そのタイミングは極めて限られており僅かにでもズレが生じれば、ただの銃撃になってしまうため実戦での使用は困難を極めるが、一度決まってしまえばその時点で勝敗は決するといっても過言ではない。
その硬直した時間を逃さぬよう間髪をいれずに右手に手刀を作り、弓を引き絞るようにタメを作る。そして右腕に全身全霊の力を込めて、マスキュラーの水月を貫いた。
貫手は皮膚を破り、筋繊維を裂き、内臓を破壊していく。
仮に私に必殺技というものがあるとすれば、これを指すのだろう。技としての名前などないが、繰り出したのなら文字通り、必然抹殺へと至る。
突いた衝撃で巨躯が浮き上がり、マスキュラーは多量の血液を口からごぼと吐き出す。
「な、なにを……しや、しやが……った……」
「知る必要のないことだ」
右腕を捻ると、マスキュラーの体内で臓器が音を立てて引きちぎれていく。ぬるりとした感触の中、突いた衝撃で破裂した胃を掴みとり思い切り右腕を引き抜くと奔波の如く吹き出す夥しい出血と共に臓器が芋づる式にずるりとひりだされてくる。
掴んでいた臓器を地面に打ち捨てると同時に、マスキュラーの巨躯もうつ伏せに倒れ伏したのだった。
「内臓を直に攻撃されるのは、経験したことがないだろう?」
右手から滴る鮮血が私の足元にも血だまりを作っていく。
マスキュラーは、内臓のほとんどを潰されて尚、息があるようだった。このまま放置していても、間もなく間違いない死を迎えるだろう。
奴のしてきたことを鑑みれば、このままゆっくりと苦痛に塗れさせ、苦しみの中で死を迎えさせた方がいいのかもしれない。
だが、私は狩人だ。罰を決めるのは、私じゃない。私は、ただ狩るだけだ。相手がどれだけ非道な行いをした者であっても、狩人が恣意的にその力を行使してはならない。感傷的になってはならない。
――夜にありて迷わず。血に塗れて酔わず。
それが狩人としての在るべき姿なのである。
撃鉄を起こし、エヴェリンの銃口をマスキュラーの後頭部へと突きつける。
「地獄があるなら、また会おう。そのときは、私がお前に殺されてやるさ」
乾いた銃声が二つ響く。
硝煙の匂いのする昏い穴からどろりとした血が湧き出ると、今度こそマスキュラーは動かなくなったのだった。
遺体回収用の端末のスイッチを押し、この場所を報せる。
(とりあえず、他の者に遺体を発見されないよう隠しておかねば)
マスキュラーが叩き割った地面の窪みに、遺体を移動させ上から軽く土と岩を被せておく。遺体回収係ならば、苦も無く見つけるだろう。
(……知人が近くにいる中で、狩りをしたのは初めてだな。戻る前にこの返り血をどこかで拭う必要があるか)
慣れない状況のせいか、妙に落ち着かない気分に陥りつつ、私は施設へと戻るべく夜の森へと駆けだしていったのだった。
◇◆◇
森を施設へ向けて駆け戻っている最中、道なりに蹲っている人影を見つけた。
黒ずくめの衣装を纏い、覆面と全身拘束具をつけている人物である。
「肉……肉……」
胡乱な譫言を呟きながら、こちらを振り返る。
顔は覆面に覆われており見ることはできないが、その姿には見覚えがった。
「ムーンフィッシュ……? お前も
「肉面……綺麗な肉面をみたい……」
脱獄死刑囚、ムーンフィッシュ。マスキュラーと同じく数多の殺人を犯し死刑判決を受けた犯罪者である。
あるヒーローの活躍により逮捕されていたのだが、最近になり脱獄をし姿をくらませていた。その後ムーンフィッシュの足取りを掴めずに警察は焦りを見せていた。それがこのような場所で発見するとは。マスキュラーに続き予想外にもほどがある。
奴の犯行において、殺害された被害者は例外なく無数のパーツに切り分けられており、被害者の特定は困難を極めた。
「肉……みせて……」
それを可能にしているのが、奴の個性である『歯刃』である。歯を刃と化し、さらにその伸縮は自在。凶器を持たずして行われる犯行に対して、その証拠を掴むことにも警察はかなりの労力を割いたらしい。
ムーンフィッシュが口を開くと、奴の歯が鋭利な刃となりこちらへ向けて高速で伸びてくる。
千景を抜き払い奴の刃を払いのけると、伸びた歯刃が枝分かれし、七支刀の如く形状を変化させさらに襲い掛かってきた。
それらを回避、迎撃し間合いを取ると、ムーンフィッシュは歯の一本を地面へ突きたて大きく宙へと身を躍らせた。
「肉ぅううっ!」
狂乱にも似た様相の相手であるが、攻撃に隙は少なく予断を許さない。
空中から降り注ぐ無数の刃を雨を掻い潜りつつ、マスキュラーと同様投降の勧告をする。
「ムーンフィッシュ。今すぐ監獄へ戻れ。最終警告だ。抵抗するのならば、身の安全は保障しない。今投降し牢へ戻るのならば、お前の刑の執行は法に則り行うことが出来る」
「肉ぅ、肉ぅ!」
もはや意思の疎通もする気も無いらしい。
ならば、私が取るべき行動はただ一つである。
「まったく、今夜の狩りは無駄に豪勢すぎるぞ」
思わず皮肉が口をつく。
千景を納刀し、機構を駆動させ抜刀の構えを取った。
ムーンフィッシュは的を絞らせないように飛び回りながら無数の刃を多角的に私へと向かわせてくる。その攻撃は確かに強力無比であることは間違いない。
だが、やはり奴もマスキュラーと同じく所詮はアマチュアである。この程度の攻撃ならば、遺骨を使い『加速』を発動するまでもない。
上半身を大きく捻転させ、一息に千景を振るう。振るわれた血閃は、襲いくる歯刃を全て叩き折っていく。
ムーンフィッシュは、絶叫と共に地面へと叩き付けられ身悶えのた打ち回っていた。そののた打ち回るムーンフィッシュの頭にエヴェリンの銃口を突き付け、押さえつける。
「終わりだ。ムーンフィッシュ」
「肉……みたい」
歯刃の一本が私の顔面へと伸びるが、その刃が届くことはなかった。
再び、二発の銃声が森の中に響き、その音を最後にムーンフィッシュの身体は動かなくなったのだった。
マスキュラーのときのように、簡易的にムーンフィッシュの遺体を隠蔽し、遺体回収係へ連絡を入れる。
(まさか、ここでこの二人に会敵するとは)
これほどまでの犯罪者を
(いや、それよりも今は施設に戻って……)
不意に、妙な胸騒ぎを覚える。
緑谷出久が戻ったのならば、マンダレイから連絡があってもいいはずだ。それがないということは、マンダレイが連絡の出来ない状況に置かれてるか緑谷出久が戻っていないということでもある。
私は、その脚を施設へ向けて急がせていった。
【狂気の死血】
血の遺志を宿した芳醇な死血。
狂気的な血の遺志を得る。
それはまさに狂気であり、まともな人のものではない。
あるいは、まともであることの、なんと下らないことか。