今朝は気分がいい。なぜか。昨日買った『おおはらベーカリー』のチョコクロワッサンがまだ残っているから。
少し苦めのカフェオレで脳を目覚めさせてからチョコクロワッサンの甘さと香りを味わう。リビングから外へ繋がるガラス戸に目をやれば、庭には爽やかな陽光が射し込んでいる。いつもなら気にもかけないか、煩わしい存在でしかない雑草が鮮やかな緑色でそっと柔らかそうに揺れているのが見えた。そんなことに気づいただけで、なんだか贅沢な朝に思える。これで今日が休日なら完璧だったのに。
「いってきます」
そう言って玄関を出るが誰の声も返ってこない。両親はすでにお店の方で開店準備。リビングにいるハナコにも聞こえているのかいないのか。無言の我が家のドアを閉め学園へと向かう。
空は雲ひとつない一面の青空。燦然と輝く太陽に早くも夏へと想いを馳せそうになるが、気温の方はいたって心地よい。衣替えも、梅雨の時期だってもう少し先のことだ。
いまはまだ、どんなに強く想ってみても、裕子のようにムムムッと念じてみても、夏休みにはほど遠い、新緑の眩しい春の折り返し地点──。
*
見慣れた風景がとりとめもなく視界を流れていく。ちいさい頃、よくお使いで行った精肉店。うちの母も含め近所のお母さん方が井戸端会議の場として集う喫茶店。たまにお父さんが行く(らしい)質素な佇まいの居酒屋。取り壊されもせず、かれこれ5年くらい放置されたままの元薬局。十字路の左の角地には最近セルフになったガソリンスタンド。道路を挟んでその向かいにはコンビニ『オーソン』がある。十字路を曲がらずにまっすぐ進めば石畳の路地のオシャレな通りにたどり着き、さらにその先へ行けば商店街の入口だ。
通りは野良猫たちのたまり場になっていて、私たち美城学園生のあいだでは『野良猫ロード』と呼ばれ、日々猫たちを愛でる女子たちで賑わっている。連休があって穏やかな日和がつづく先月・今月などは特に人が多く、その大半が女子学生なこともあってか通りにあるお店はいずれも若い女性を狙ったものが軒を連ねている。オープンテラスのあるカフェ。ケーキ、アイスクリーム、クレープ、ドーナツといった各種スイーツは言わずもがな、最近ではパスタ専門のレストランもできた。以前は地味だった文房具店も女子向けの小物やキャラクターグッズを取り入れ、レイアウトもポップな感じにリニューアルしたらそれが受けたようで流行っているらしく、どこもかしこもかしましい。そんな様子を見た商店街の住人の誰かが、この場所に『
もっとも、通りのメインターゲットである女子学生たちにはまったく浸透しておらず、相も変わらずあそこは『野良猫ロード』の呼び名で親しまれている。家の店番をしてるとき、聞くともなしに聞いてたお客さんどうしの会話で知っただけで私にとっても『五月女通り』は、いまいちピンと来ない。誰に通用してもしなくても、あそこはやっぱり『野良猫ロード』だ。
そんなことを考えながらも十字路を左に曲がった。学園はこちら側にある。『野良猫ロード』を通って猫を見ながら登校するのも悪くないけど、それでは遠回りになってしまう。行きたくなったら帰りに寄ればいい。私はいつもどおりに通学路を歩いていく。
*
公園に入り、なんの気なしにまわりの景色を眺めながら林道を歩いていると、それは唐突に視界に入った。
林の中の、ひときわ木漏れ日の降り注ぐ下に日傘をさして立つ、ドレスを着た後ろ姿──。
私の目がそれを捉えたのとほぼ同時に、彼女がこちらを振り向いた。パラソルに隠れて顔はわずかに口元が見えるだけだが、なぜだか私は相手を『同い年くらいの女の子』だと思った。
木漏れ日に照らされた薄緑色の日傘を持ち佇む彼女は映画のワンシーンや一枚の絵画のように美しく、そして涼しげで儚い空気を
コスプレ、PVやドラマの撮影、この格好で公園に佇むのが日課の人……先週までの私ならそれくらいの可能性しか浮かばなかっただろう。
しかしこの肌で感じる奇妙さの正体を、今の私は知っている──確信している。
問題は彼女が危険な存在かどうか、そして本体はどこにいるのかということ。周囲を見回しても遠くの方で談笑する、おそらく登校中の女子たちの声がわずかに聞こえるだけで近くに人の気配はない。
警戒状態の私の緊張を察知したのか彼女が動きだす。しかしそれは、ゆったりと、優雅な所作で傘を下ろし、閉じる。ただそれだけの動きだった。
下ろされた傘から現れたのは、つば広の帽子を斜めに深く被った、貴婦人然としつつも少しあどけなさの残る顔だった。
その瞳を見つめる。お互いの視線が重なる。
「……………………加蓮?」
なぜ。どうして。
思いがけず加蓮の名前が私の口をついて出てきた。
そのとき、ふたたび彼女が動きだした。閉じた傘を再度開き、今度は頭上ではなくまっすぐ私へと向ける。
なにか……
なにか、嫌な予感がする──!
「『ネヴァー・セイ……』ううっ……!?」
瞬間、予感は『突風』となり、正面から私を襲った。
「………ッっ!!」
間一髪、なんとか『ネヴァー・セイ・ネヴァー』で防御する。踏ん張っていなければ体勢を崩されかねないほど強烈な風だ。寒さすら感じる……いや、これは──?
その風は奇妙だった。止んだあとも寒さを感じる。いや、寒いなんてものじゃない。全身を冷凍庫に突っ込まれたかのように『冷たい』。地面に目をやると私のまわりに生えていた植物にはうっすらと霜が付いていた。まるでここだけ季節が冬に戻ったみたい……突風の勢いといい、なかなかのパワーを持っているようだ。
などと感心している場合ではなかった。彼女はまだ、傘を私に向けている。
次が、来るっ……!
身構えたのと同時に第二波が吹き
風はキラキラと輝いていた。
そうか。ただの風じゃない……『吹雪』──『吹雪を起こすスタンド』!
それが彼女の能力。ひとり脳内で納得しながらも注意は怠らない。吹雪が不発に終わっても焦ったり苛立つ様子はなく、相手は淡々と私に狙いを定めつづけている。
そして、みたび傘から薄荷色の結晶を吹雪かせた。
しかし攻撃は真正面から、しかも三度目だ。しっかりと見据えれば、もはや見切ることは決して難しいことではない。
力を込めておおきく右斜め前へジャンプ。吹雪から逃れる。彼女は再攻撃のために傘を私に向けて構え直す。その瞬間、すかさず今度は左前へ跳ぶ。また彼女が傘を構え直す。そうしたらまた右へ。彼女が動く。また左。右。左。右……ジグザグに跳びまわり、攻撃のチャンスを与えないまま距離を詰めていく。
数メートル前まで近づいたところで傘の照準が私に合う。が、本能が反射的に身体を真横へ動かし、それすらもかわしきってみせる。
なおも彼女は攻撃の態勢を解かない。粘り強く傘を私に向けようとする。
だが、もう次はない。仕上げにまっすぐ全力疾走。ひといきに彼女の目の前に到達。ひとまず体勢を崩すべく……体当たりを喰らわせるっ!
「やあっ! ………………え?」
しかし『ネヴァー・セイ・ネヴァー』渾身のタックルは不発に終わってしまった。衝突のまさにその瞬間、彼女は『消えてしまった』。
事態は唐突に、あっけなく終わった。おそらく本体がスタンドを解除したのだろう。
本体……そうだ、本体だ。あのスタンドの本体はいったいどこにいる……? なんの目的で私を襲ったのか? ターゲットは無差別なのか? だとしたら他の誰かも襲われるのでは?
さまざまなクエスチョンが頭をよぎる──が、それらはあるひとつの謎によって脳の片隅に追いやられていく。
なぜ私はあのスタンドに向かって加蓮の名前を呼んだのだろう……?
私にとって、それは大きなクエスチョンだった。私はあのとき、スタンドの本体を加蓮だと思ったのだろうか。攻撃されておきながら? そんな馬鹿な。
ここで考えていてもこの疑問は到底解決しそうにない。そして考えれば考えるほど、加蓮のことが気になる。会えばなにかが動くような気がする。加蓮がスタンド使いにせよ、そうでないにせよ。
寒さはすでに去っていた。春が戻ったその場をあとにして、急ぎ足で学園に向かう。
*
案の定、と言うべきなのか。なんとなくそんな気はしていたが、加蓮は学園に来ていなかった。
加蓮と同じクラスの子に聞いても分からず、保健室を覗いてもいない。朝のホームルームのあと、再度クラスを訪れてもやっぱりいない。しかもどうやら欠席の連絡は届けていないようで先生も首をかしげていたらしい。
一時間目まで、もう10分を切った。仕方ない……緊急事態だ、サボる。とりあえず、あのスタンドと出会った森林公園をまずは探し回ってみよう──
「おい凛、今からどこ行く気だよ?」
教室を出ようと扉に手をかけたところで奈緒が話しかけてきた。
……確証はない。でも、もし加蓮に緊急事態が起きているのなら、幼なじみの奈緒には言っておくべきだろう。私と加蓮を引き合わせてくれたのも奈緒だ。それに、この件に関わらせなかったらすべてが問題なく収まったとしても奈緒にとってはおそらく腑に落ちないだろうし、加蓮に力を貸せなかったことに少なからず引け目を感じるかもしれない。この子はそういうお人好しな子だ。そしてそんな奈緒だからこそ、大切な友達だと思っている。私も、そして加蓮だって、きっと私以上に……。
「確証があるわけじゃないんだけど、聴いてくれる? そしてできれば……一緒に来てほしい。実は今朝──」
*
キーンコーンカーンコーン…………
一時間目の授業開始のチャイムに耳も貸さず、校舎から正門へと疾走する制服姿のふたり。他の生徒は私たちを見て学園から脱走する不良少女と思っているかもしれない。だが友人が危険な目に遭っている可能性のある今、そんな視線など気にもならない。些細な問題だ。
しかし、実はここですでにイレギュラーな問題が起きている。というのも、学園の外へ向かって走っていく制服姿のふたり、というのは『私の目に映った景色』であって、私自身はカウントされてない。本来ならここにいるのは私と奈緒だけ。なら私の目に映る制服は奈緒のものだけのはずだ。
「……つまり、加蓮がヤバいことになってるかもしれないんだ。とにかく、凛がその加蓮のかもしれないスタンドに会った公園を、とりあえず片っ端から探すっ! OKか?」
「了解ですっ、奈緒ちゃん!」
そう奈緒に応えたのは、誰であろう裕子だった。
移動教室に向おうという、まさにそのとき、教室を飛び出した私たちの勢い(と、持ち前の好奇心)につられて気づいたらついてきてしまったらしい。
「裕子、一応言っとくけど遊びじゃないからね? 危ない目に遭うかもしれないよ?」
「もちろん! 北条さんとは親しくなくとも、ともにこの学園に通う同級生! それにこの出来事のきっかけがスタンドにまつわるものなら、『スタンド使いは引かれ合う』ということ! ここは奇妙な縁に従い、加勢しますっ!」
走りながら忠告するも、相変わらずまっすぐ純真な瞳で裕子は堂々と宣言した。
正門前にたどり着こうというところで、また見知った顔に出会った。
「おや、おはよう、先輩方……課外授業の時間かい? 他の生徒や引率者はいないようだが」
私たちはともかく、なぜ今この時間にここにいるのか。先日のカラスの一件で知り合った少女、飛鳥だった。
「飛鳥……そっちこそ、一時間目はもう始まってるよ?」
「フッ……
小粋なジョークでも話すようにクールな受け答え。寝坊してるのに。
「それで、キミたちはいったいどこに行こうと言うんだい? そんなに息を切らせて」
「……課外授業に出遅れて、ね。急いでるから、それじゃ」
ゆっくり話している時間はない。話を切り上げ、学園の外へ──出ようとしたところ、
「まあ待ちなよ。そうかい、課外授業か……フフフ。授業内容は……『スタンド』、だろう?」
「えっ──」
ニヒルに微笑む飛鳥の一言に、私だけでなく奈緒と裕子も一瞬固まってしまう。
「
驚きと期待の混じった声を裕子が発する。緊迫した状況でも、彼女のエスパーへの好奇心アンテナは敏感なようだ。
「そのとおり、『スタンド使い』さ。キミとははじめましてだね。ボクはアスカ、二宮飛鳥。エスパーではないけど観察力には長けているつもりでね……」
裕子へ自己紹介を挟みつつ飛鳥が話をつづける。
「キミたちのその真剣な表情……単なるサボりではなさそうだ。スタンドがらみの『なにか』を解決するべく学園の外へ向かう──そんな風に観えたものでね」
カラスのときといい、ずいぶんと察しが良い。しかしそれなら私の気持ちも多少は察せるだろう。
「当たってるよ! またね」
焦りから思わずぶっきらぼうに飛鳥に言い放ち、ふたたび走り出す。慌てて奈緒と裕子もついてくる。そして……なぜか飛鳥も。
「飛鳥っ!? 話なら今度にして──」
「手伝うよっ! 協力者は多いに越したことは無いだろう? 事情は走りながら聴くよ」
「え──?」
飛鳥からの思わぬ申し出。しかし……裕子にも言えることではあるが、飛鳥はこの件になんら関係ない。加蓮のことは知らないだろうし、どうして……。
「『ボクはこの件に関係ないはずなのに、なぜ?』って言いたそうな顔だね」
また見透かされた。やっぱりホントはエスパーなんじゃ……?
「いわゆる好奇心だよ。といっても、別に物見遊山気分で付き合おうってわけじゃない……同じ『スタンド使い』として、奇妙な連帯を感じるのさ」
軽く息を荒らしながら理由を話す。つまるところ、裕子と同じなわけだ。
「いいの? ついてきても、アンタに得なんてひとつもないと思うけど……」
「ボクの好奇心が満たされる。収穫なんてそれひとつで十分さ。それに……損得勘定だけで動くほど効率化された感情は持ち合わせていないよ、ボクは」
唇を歪めて不敵に笑う。彼女なりに私たちのことを気にかけてくれている、ということだろうか。その想いの発端は飛鳥自身の純粋な好奇心によるところのようだが。
──こうなったら、一蓮托生、ってやつなのかな……。
「それなら……とりあえず公園まで行くよ。ついてきて」
「奇妙の舞台はまた森林公園かい。望むところさ」
「奈緒も裕子も、いい?」
「ああ!」
「了解! さいきっく……だーっしゅ!」
スピードを上げ、先頭に躍り出る裕子を見て私たちも加速する。
待っててよ、加蓮……。
学園を飛び出し、目の前の下り坂を森林公園の入口目指し、駆け抜けていく──。