妹、粉雪の、あのひどく青ざめた表情を、私はきっと忘れられない。
知らない方が良い真実もあるのだということを、初めて実感した瞬間だった。
ーーーーもうひとつだけ、どうしても忘れられそうにないことがある。
粉雪に向かい合う江戸川さんの表情。
恐ろしい話をしているというのに、そうとは思えないほど楽しそうなあの笑顔を。
…どうして、江戸川さんは笑っていたんだろう。
布団の中で、私は目を開く。
誰かが話をしている。
まだ朝日は東の空に隠れていて、辺りは暗い。
襲い来る眠気のせいか、誰が何を話しているのかなんて気にもとめなかった。
私はもう一度目を瞑って、眠気に身を任せた。
それを後悔することになるとも知らずに。
『先日の首なし死体の身元が判明しました。遺体はーーー市在住の木根ーーさんと見られており、ーーー』
昨日の夕方頃からずっと流れているニュース。
結局、江戸川さんの推理通りだった。
粉雪はそれから部屋に篭ってしまっている。
私は客間で眠っているはずの彼女のところに歩いていく。
朝ごはんの準備ができたから、これから起こさなきゃいけない。
「江戸川さん」
襖の奥に呼びかける。
しかし、物音ひとつ返ってくることはなかった。
「江戸川さん?」
やはり何も聞こえてこない。
「失礼します」
断りを入れてから、恐る恐る襖を開く。
布団はもぬけの殻だった。
何故、とかどうして、とか思うよりも先に、やっぱり、と思った。
布団に触れると、すでにそこに体温は残っておらず、冷たい感触だけが指に伝わってきた。
出て行って、しばらく経っているらしい。
それでも痕跡を探して布団を完全にめくると、紙束がばさりと音を立てた。
『首なし殺人事件に関する資料
6月末日までの被害は三件。うち二件は指紋により身元が判明したが、頭部は全く見つかっていない。』
「首なし、殺人事件…」
どうやらその資料のようだ。
資料は複数枚に渡っており、すべての事件に関して、わかりやすく綺麗にまとめられていた。
どうして江戸川さんが、こんなものを…?
江戸川さんは、探偵科の中でも推理はずば抜けているが、尾行などの調査は得意ではないらしい。
そもそもパソコンなどの電子機器の扱いが苦手で、調査資料の整理もろくにできないとか。
それでも彼女には、それを補って余りある頭脳があった。
尾行などしなくても、証拠の所在を言い当てた。
調査などしなくても、わずかな情報からすべてを推理できた。
きっと、この資料を作ったのは江戸川さんではない“誰か”だ。
ぱらぱらと流し見ていくと、最後のページにたどり着く。
地図だった。
ここから少し離れた場所に、赤で丸がされている。
地図の裏には、メッセージも添えられていた。
『今から武装して、星伽神社の前に立っていろ。この紙を忘れるな。』
あまり綺麗とは言えない字で、そう書かれていた。
武装…?
意味のわからないことばかりで、この通りにすべきかどうか迷う。
でも江戸川さんには、何か殺人犯を捕まえる策があるのかもしれない。
私は、江戸川さんに賭けてみることにした。
紙を掴んで急ぎ足に客間を出る。
そのまま自室に入ると、江戸川さんの指示通りにきちんと武装した。
イロカネアヤメの柄をそっと撫で、心の中で“勝手に出かけてごめんね、粉雪”と謝罪。
覚悟を決めて神社の前に行く。
神社の前に立っていた人が、私の足音を聞いて振り返った。
「白雪、来たか」
え?
「き、きき、キキキキキキンちゃん!?」
驚きで盛大に心臓が跳ねる。
どうしてここにキンちゃんがいるの!?
「もしかして、キリから何も聞いてないのか」
顔をしかめ、ため息を吐くキンちゃん。
私がこくこくと頷くと、何やら携帯電話を操作しだした。
しばらくして、画面を私に向けてくる。
『金は出すから、明日の朝に星伽神社の前に来い。それから白雪と二人で、地図の場所に向かえ。資料は燃やせ。』
「てっきり白雪はキリに聞いていると思ったんだが…」
キンちゃんがくるなんて、そんなこと一言も聞いていない。
聞いていたらもうちょっと身だしなみを整えてきたのに。
「これ、昨日江戸川さんから?」
「ああ」
地図、資料…。
十中八九江戸川さんの布団から出てきたものだよね。
そうすると、私が江戸川さんの布団からこれを見つけて、読むことまで彼女は知っていたことになる。
いや、推理なんだろう。それこそ、未来予知の域に達するような推理。
「地図と資料、多分これだよ」
私はキンちゃんに紙束を手渡した。
キンちゃんは難しい顔で資料を読んでから、地図だけを抜き取って私に差し出す。
「持っておいてくれ。どうやら、燃やすのは資料だけみたいだからな」
「ほ、ほんとに燃やしちゃっていいの?」
キンちゃんは紙の表面をなぞるように指を動かす。
「これは、多分あぶり出しだ。燃やせ、なんて指示をしてくるということは、そうなんだろう。みかんなどの匂いはしないから確信はないが、これはおそらく他の液体を使ったな。そこまで詳しくはないから、何を使ったかまではわからないが」
だから江戸川さんは、メールで“燃やせ”なんて言ってたんだ。
でも、どうしてあぶり出しなんて面倒な方法を使おうとしたんだろう。
「私、マッチかライター取ってくるね」
あぶり出しなら、火は小さい方がいい。
私はキンちゃんを置いて、火を探しに神社に戻っていった。
「そろそろキンジが白雪と会ったころかな」
チョコレート色の帽子を押さえながら、私は目の前の人物と対峙する。
黒縁メガネのレンズ越しに見える15、6歳くらいの少年は、こちらを睨むようにして立っていた。
「どうしてここが分かったの?」
その問いに答える義理はない。
ここは、首なし殺人犯の根城となった建物の一室である。
周りには変装用と思われる服やウィッグなどが乱雑に置かれている。
いや、それよりも目につくのは、凶器と思われるチェーンソーか。
天井の隅には、監視カメラが回っていた。
「答えてよ」
「それを知ってどうするんだい?」
少年は黙った。
私はちらりと監視カメラの方を見る。
「どうして、とか何とか言うけど、君はわざと私をここに招いたよね?…この部屋に来るまでに、銃を持った見張りが5人いた」
少年は驚いたように目を見開いた。
どうして、とまた口を動かすが、声は出ていない。
本当に驚いているようだ。
確かに、見張りは完全に気配を消し、物音ひとつ立てずに死角から監視していた。
…だから、何だ?
どれだけ気配を消し、隠れても、そこにいるという事実だけは消せない。
「…君の犯行は、素人にしては完璧
カメラに向かって口角を上げる。
少年は黙り込んでしまった。
『見事だよ、江戸川キリ君。そうだ、僕がシャーロック・ホームズだ』
カメラの方から、男の声がした。
心なしか楽しげなその声は、私を挑発しているともとれる。
『キリ君と僕が話すことになるだろうとは推理していたけど、まさか正体まで知られているとは驚きだ。素晴らしい推理力だね』
私は、シャーロックによってここに呼び出されたのだ。
粉雪が姉を頼ることも、白雪が私を頼ることも、シャーロックの推理通りだった。
そもそも、少年を利用して粉雪をこんな状況に置いたのはシャーロックなのだ。
そして、こんな回りくどいことまでして、私を呼び出した。
こんな方法を取ったのは、おそらく私を試すためだ。
この事件には、二人の殺人犯が関わっていた。
直接的に人を殺した殺人犯である少年と、間接的に人を殺した殺人犯であるシャーロック。
後者は、私が捕まえるのが難しく、会いたいと思っていた殺人犯である。
彼も私に、会いたがっていたようだし。
『君は賞賛に値する頭脳を持った、天才だ。それも、僕の予想を超える、ね。それに僕のように
シャーロックは、黙ってうつむく私に、さらに言葉を続ける。
『君は、現状イ・ウーにおける最大の脅威だ。その頭脳がどれほどのものか、まだ計りかねているがーーーー少なくとも、僕の想像を凌ぐほどではあるようだ。君は若いから、まだいろいろな可能性がある。その頭脳も、進化の余地があるかもしれない。だから、殺してしまうには惜しい』
嫌な沈黙が室内に落ちる。
『そこで、提案がある。僕のイ・ウーに来ないかい?…拒否するのなら、無事に帰すことはできなくなるが』
少年がチェーンソーを取るために動いた。
『命は保証しよう。君のように優秀なものなら大歓迎だ。待遇だって、それなりに良いだろう。さあ、どうする?』
冷たく威圧的な声が、ゆっくりと室内に響いた。
「…ん?」
私はうつむいていた顔を上げる。
「ごめん、話が長くてつまんなかったから全然聞いてなかった。………次からもうちょっと聞きたくなるように喋ってくれる?」
「は?」
チェーンソーを手に持った少年が、心底訳がわからないというように声を上げた。
『いいかい、キリ君。こちら側にくるか、それとも死ぬか。二つに一つだ。それとも君は、死にたいのかな?』
「私が死ぬ?残念ながらそんな未来はしばらく来ない予定だ。…それに私、興味のない話は頭に入らないんだよね」
監視カメラの奥の表情が、若干引きつったように感じた。
『これは交渉だよ、キリ君。君はその頭脳以外は平凡な人間だ。その少年に、簡単に殺されてしまうような弱い人間だ。命のかかった交渉で、そんなふざけたことばかり言っているとーーー交渉相手が僕じゃなければもう殺されているよ』
「あ、そう。でも私、上につく人間は選ぶタイプなんだよねえ」
私は肩をすくめた。
「第一ねえ、この世界最高の名探偵である私が、こんなところまで何の対策もせずに脅されに来ると思うかい?」
その言葉に、少年が反射的にチェーンソーのスイッチを押した。
回転する刃がこちらに向けられる。
「嘘だ。発信機の類はないはず」
私はチェーンソーを見つめた。
そして、断言する。
「そんなものは必要ない」
シャーロックは喋らない。
彼にこの展開は、果たして読めていたのだろうか。
いや、きっと読みきれていなかっただろう。
「まだるっこしいなあ。殺すんなら早くすれば?」
少年は、チェーンソーを持つ手に力を入れて、私に襲いかかる。
でも残念。もう、勝負は決まってるんだ。
「そこまでだ」
銃声が響いた。
それと同時に、チェーンソーが地に落ちる。
部屋の入り口で、少年に銃を向けるのはキンジだった。
「くそッ」
少年は素早い動きで窓から逃げようとする。
「逃げられないよ」
しかし、そこには刀を構える白雪がいた。
峰打ちで少年を気絶させる。
「やあキンジ、白雪」
私がそう声をかけると、白雪はほっとしたように微笑み、キンジはこちらを睨んだ。
「一人で動くな、危ないだろ」
「だいじょーぶ、全部私の推理通りだ」
それでもキンジの目つきが緩むことはない。
手厳しいなあ。
「それに、作戦はもっとはっきり伝えろ」
キンジが私に見せてきたのは、文字があぶり出された紙だった。
『一階の一番東の部屋。犯人はあまり傷つけないように。(ハサミの絵)』
「よくできた作戦書だろう?」
「どこがだ!!」
怒鳴るようにキンジが言い、紙がぐしゃりと音を立てた。
ちなみにハサミの絵は、挟み撃ちにしろという指示である。
きちんと理解してくれたようで何よりだ。
「でも、どうして傷つけないように、なの?」
白雪は不思議そうに首をかしげた。
「殺人の動機、だ」
二人はさらに不思議そうにする。
その様子は滑稽で、少し面白い。
「白雪、君と行った事件の動機ーーーまだ言ってなかったよね。あれと同じなんだよ。どちらの少年も、家族の愛を欲した哀れな、大人の被害者だ。前の事件の犯人は、あまり構ってくれない大人たちを憎んだがために犯行を行なった。だから、確実ではない可能性の犯罪を起こしたんだ」
彼には確かに迷いがあった。
しかし、彼は起こしてしまった犯罪に罪悪感は持たず、手放しで喜んだ。
「今回の殺人犯は、親に愛されずに育った子供だ。だから、幸せな家庭の一員に成り替わり、被害者の代わりに愛されようとした」
もっとも、彼が罪悪感を感じなくなったのはーーー歪んでしまったのは、シャーロックのせいなんだろうけど。
しかし、それが前の事件の犯人との決定的な違いにもなる。
誰かに人生を狂わされ、利用された少年は、加害者であると同時に被害者でもあった。
「だから、少し哀れに思ってしまったのかな」
ちょっとした気まぐれにすぎないけれど。
「予想以上だよ、キリ君」
暗い部屋で一人、シャーロックは薄く微笑んだ。
条理予知を外すなんて、これまで無かったことだ。
どうやら武偵高の名探偵は、本当に世界最高の頭脳を持っているようだ。
自由奔放なその性格が、玉に瑕だが。
「推理勝負をしたら、果たしてどっちが勝つのかな」
全くもって予測不能な名探偵に、シャーロックはひどく興味を惹かれていた。
彼女なら楽しませてくれそうだ、と。