それは一瞬の出来事だった。はぐみやこころたちに続いて幸が客船に乗り込み、その内部の絢爛さに唖然としていたその時。
辺り一帯が唐突に闇に包まれ、視界が黒一色に染まった。それは、一般に停電と呼ばれる珍しくも無い現象であったが、生まれてこのかた体験をした事の無かった彼は、ただ一生物として恐怖に対する本能的行動をした。
すなわち、一番近くにあった存在へしがみついた、ということだ。
それが一体何なのかもわからないまま、何か柔らかい感触を知覚した直後、今度は全身を浮遊感が襲い、幸は足がきっちりと地面を踏むまで堅く目を瞑った。
「…………?」
およそ十秒が経ち、自分の身体が安定したのを認識した幸が目を開けると、そこは暗転前とはまったく違った場所だった。
先程のホールにも見られた煌びやかな装飾がされた天井に、ふかふかのカーペット。四方にある壁の内一面は鏡張りになっており、そこに幸は……。
「――へ?」
引けた腰で、花音の胴周りに抱きついている自分の姿を見た。
「ひゃあああああ!? ご、ごめんなさい花音さん!」
「あ、あははは……」
苦笑いをする花音から、幸は過剰なまでに声を上げて腕を離す。これまでもそれなりに親しく接してきた二人だったが、それでもあったのは精々手を繋ぐくらい。体を広く使った接触はこれが初めてで、それも要因の一つだった。
花音は、狼狽える幸に深呼吸をさせて、その間に改めて周囲を見渡した。
やはり、部屋の様相には見覚えはない。隅にはたくさんの服がぎっしりの衣装掛けと、垂れる帳によって作られた着替えの為と思われるスペースが、そして中央には椅子がたったひとつポツリ。その上に花音は、紙切れのようなものが置かれているのを発見した。
「……なんだろ、これ?」
花音がおもむろに近づいて手に取ってみると、それは手紙だった。裏面の封を解き、中身を取り出してみる。
「えっと……」
書かれている文は、このような内容だった。
まず初めに、無礼をしたことへの謝罪。そして、しばらくこの部屋で待機しておいて欲しいという旨が続く。
文の最後まで目を通してみた花音だったが、その何処にも差出人の名前は見られない。だが代わりに、通常ならばそれが書かれているはずの、紙面の右下辺りには短く、一文が記されていた。
「『その間に、用意しておいた衣装に着替えておいてください』……?」
花音と幸が顔を見合わせ、部屋の隅に見つけていた衣装掛けの傍へ寄る。
「こ、これを着るんですか……?」
ゴシック、メルヘンから、舞踏会に着ていくような大胆に背中の開いたものまで。古今東西、あらゆる種類のドレスを集めたのかと思う程のレパートリーがそこにはあった。
それら一つ一つを細かく
手触り、デザイン、見えないところの作り込み。どれもが完璧の、人によっては垂涎間違いなしの代物ばかりなのだろうが、彼からすれば何とも言えない。今更何を、という言葉が目に見えるが、彼はこれらを自ら着ることで男として大切な何かが崩れてしまうような気がしていた。
「あ、これかわいい……でも、こっちもいいなぁ……」
だが反対に、花音は両手いっぱいにドレスを重ねてウキウキ顔をしていた。とりわけ、レースなどの付いたメルヘン志向な物が彼女の好みにハマったようで、最終的に水色を主体にしたシンプルなデザインのドレスを選んだ。
ちょっと着替えてくるね、と幸に告げて花音が帳の向こうへ消えていく。途中、衣擦れの音に混じって『あれ?』や『うーん』と困ったような声が聞こえてきたが、三分ほど経つと無事に幸の前へ現れた。
「ドレスなんて初めて着るから、ちょっと手間取っちゃった。……わぁ、えへへ」
普通の女子高生から一変、物語のお姫様のような姿へ変貌を遂げた自分が鏡に映り込み、花音は顔を綻ばせた。体を右へ、左へ、しまいにはターンまで。反射する、生まれ変わった己を存分に楽しんだ花音は、不意に後ろに映る幸に気付き、首をクルリと回した。
(あ、何だか嫌な予感が……!?)
優しさのあふれる花音の瞳。自分を見つめるのは、いつもと変わらないそれの筈なのに、幸は悪寒が背中を走るのをはっきりと感じた。
「コウくんにはどれが似合うかな? これもいいと思うけど……あぁ、でもこっちも絶対かわいいよね」
「あの、花音さん……?」
幸の声も届いていない様子で、花音はあれでもないこれでもないと衣装掛けを物色する。彼女が慣れない着替えに費やしたよりも長い時間を使って、なんとか二つにまで絞った花音は、両手を掲げたまま幸の方へと歩み寄った……のだが、彼の視点からすればそれは、迫ってきたという言葉の方が合っている気がした。
「私的には、このどっちかがいいかな、って思うんだけど……あっ、でもコウくん女の子の服の着方とか多分わからないよね? 着替え、手伝ってあげるね!」
心配も、手助けも、なんだって。自分はずっとされる側だったと、そう花音は思っている。美咲を初めに、周囲の人が聞けばきっと否定するのだろうが、少なくとも彼女は信じて疑ってこなかった。
だから彼女は、こうして世話を焼いてあげられる存在を心のどこかでずっと欲していたのかもしれない。花音が幸の正体を知ったその日から、異様なまでに彼の事をかわいがってきたのには、そういう理由もあるように思えた。
ぎゅっと体を丸くする幸に、花音の手が迫る。まずは着る前に、と彼女が服をその体にあててみようとした瞬間……。
『えっ!?』
ガチャッ、と二人の背後にあった扉からノブの回る音がした。
衣装に夢中で忘れてしまっていたが、彼女たちは正体不明の何者かに連れ去られてここにいるのだ。考えてみれば、楽しくわちゃもちゃしている場合では、まったくない。
扉が少しづつ隙間を広げていく様を、二人は固唾を呑んで見つめる。そして、それが開ききった時、立っていたのはいかにも怪しい恰好をした人物だった。
肌面積の少ないスーツに似た服、屋内だというのに着けられた外套、そして目元を隠すようなタイプのマスクは、いかにも怪盗といった風貌で。
『ふ、ふえええええ』
部屋に一歩立ち入った位置で止まっている怪盗が何かを言っていたが、そんな事にも気付かず、二人は情けない悲鳴を上げた。
「お、落ち着きたまえ、別に何かしようってわけじゃないさ」
(……あれ? この声って)
身を固くして相手を警戒していた幸だったが、その声を聞いて、首を
どうにもその声質には覚えがある。加えて、冷静になって観察してみると、服装こそ見知らぬものだが、それを纏っている本人にも幸は既視感がある気がした。
(薫、さん?)
いや、覚えがあるだとか、気がしただとか、という域ではない。彼は目の前の人物を、明らかに知っていた。
「花音さん、あれって薫さ――」
「あ、あなたは誰!? 私たちをどうするつもりですか?」
幸の言葉を遮って、花音が怪盗へ大きな声で問いを投げる。その正体が薫である事は誰にだって一目瞭然だと思って彼は話しかけたのだが、どうやら彼女の方は勘付いていないようだ。
「私は怪盗ハロハッピー。以後、お見知りおきを。ふむ、どうするつもり……か。別に、今すぐ何かをして欲しいという事はないよ。引き続き、ここでゆっくりしておいてくれたまえ」
さらっておいてなんだがね、と付け加え怪盗が指を一つ鳴らすと、ティーワゴンが運ばれてきた。そこには二人分の紅茶と多種多様の菓子が乗っており、これでゆっくりしておけ、ということだろう。
「ただ、少しだけ協力してほしい事があってね。お願いできるかな?」
「な、内容も聞かないでお受けすることはできません……!」
怪盗がウインクをして問いかけるが、花音は幸を庇うように前に出て、努めて気丈な態度でそれを突っぱねた。
「ふ、それもそうだ。詳しく話す事に異存はないのだが、今は時間がなくてね。また来るよ、逃げようなどとは思わない事だ……さらばっ!」
笑みを崩さぬまま怪盗はそう言うと、マントをはためかせた。途端、どういう仕掛けか、足元から煙が巻き起こる。
「わっ! けほっ、けほっ」
それが晴れた時、怪盗の姿はそこにはなかった。
「消え、た? あっ、コウくん、大丈夫? 怖くなかった?」
「はい、怖くはなかったですけど……」
(だってあれ、薫さん……)
そうは思っても、口には出せない。もしかしたら怪盗の正体が薫だという事自体、幸の勘違いの可能性もあるのだ。いや、共に過ごした時間の総計を考えれば、その可能性の方が高いとさえ言える。
いざ言って、それが間違っていれば掻く必要のなかった赤っ恥であるし、口を噤んでいるのが安牌というものだろう。
「なら、よかった。あ、紅茶とお菓子はどうしよう……。食べても大丈夫だよ、ね?」
「大丈夫だと思いますよ」
ワゴンが部屋に入ってくる際、扉の縁から一瞬だけ覗いた黒の袖を思い出して、幸は肯定する。
意見がまとまったことで、紅茶に手を着けた花音は、見ただけでわかるその上等さに気分が昂る。菓子も同様に高級品な事がうかがえて、彼女の瞳には棚から出てきた牡丹餅に映った。
なんだかんだと色々あり、幸の着替えの事は有耶無耶になってしまっていた。
……と、彼は思っていた。
改行具合、どのように感じましたか?
-
地の文間もっと開けた方がいい
-
セリフ間もっと開けた方が
-
上記二つとも
-
特に問題ない