・ボラード……道路や公園の境にある背の低い石柱 犬にマーキングされるやつ
「あ、ここ……かな」
やまぶきベーカリーを出た後、沙綾に言われたとおりに道を辿っていた少年は、ものの十数分ほどで恐らく目指していただろう場所へ辿り着いた。そこは、脇を通る川と五メートルは優にありそうな一対の滑り台が特徴的な公園だった。
遊具が少ない故か、それとも他の理由からか人影は見当たらない。
探してみれば、目当てのベンチは公園の端に置かれており、川がすぐ傍で涼しげだった。
「……ん、っしょ」
表面に目立った汚れの無い事を確認して、少年は静かに腰を下ろす。そして、やまぶきベーカリーのロゴが入ったビニール袋を開けた。
「あむ」
(結局、父様はどうしてこんな……いや、それよりも今日のこれから――あ、これおいしい。じゃなくて、これから……でも、あんまり人とは――ん?)
初めに取りだしたカレーパンを一口食べながら、少年は思考に
我が父の考えは?
これから何をすべきか?
それよりも……?
そこまで考えを広げた辺りで、彼は何かに気づき、その方向へ顔を向けた。二つある入口の内の一つ、その遠くの方から誰かが走って来ていた。タッタッという音を連れて進むその影は、公園と道路の境目をダンッ! と勢いよく踏み込んで、体操選手よろしく両手をあげてポーズを決めた。
「私の勝ち! いえいっ! ……って、あれ? 有咲が見えない」
速く走りすぎちゃったかなぁ、後ろを振り返りながら少女はそう呟く。どうやら競争でもしていたらしい。それからしばらく、手を額につけて、来るべき誰かを探していた彼女だが……。
「むむむ!」
「っ!?」
突然、弾かれたように後ろへ振り返った。それが偶然なのかどうか定かではないが、少年は丁度その方向に座っており、何事か、とパンを喉に詰まらせてしまう。
「くんくん……くんくん……」
「…………」
視界というのは案外広い。その中に偶々入ってしまっただけ、自分は関係ない。
そう思い、そうあって欲しいと少年は願った。しかし、無情にも目の前の少女は段々と彼へと近づいて行く。目を閉じ、鼻を尖らせて、まるでそう、犬のように。
そして、二人の距離がジワジワと縮まっていき、まさに鼻先が触れるという所で、彼女は目をいっぱいに見開いた。
「さーやのパンの匂いだ!!」
「ひっ!」
しょうじょのさけぶこうげき。しょうねんはひるんだ! といった感じだろうか。家を出て未だ数時間程度であるが、彼は驚いてばかりだった。
「こんにちは! 私、戸山香澄。ねぇねぇ、それさーやのお店のパンだよね?」
「あ……えっと、こんにち――」
「あ、そうだ! 今からさーやのところ行こうと思うんだけど、まだお仕事中かな?」
「え、それはちょっと僕には――」
「うーん、でもそれは行ってみなきゃ分かんないかぁ。そういえば、君は何してるの?」
怖い。マシンガンさながらに言葉を吐き出す彼女に、少年が真っ先に浮かべたのはそんな感情だった。少なくとも彼が今まで会ってきた人達――そもそも母数が小さいが――の中には、初対面でここまで距離を詰めてくる者は一人としていなかった。
恐怖と困惑とで体を小さくする彼に、しかし原因である本人は何もわかっていない様子だ。
「んー、もしかしてお腹痛い? トイレ行く? だったらあっちの――」
「おいいいいい! かあすみいいいいいいいい!」
その時、公園の入り口方向から怒鳴り声が響いた。見れば、そこにはボラードを支えに荒い息をしている金髪の少女が。
「お前なぁ、急に競争だとかなんとか言って走りだしやがって……そんなのお前が勝つに決まってんだろ……あ?」
文句をこぼしながら二人のもとへ歩いてくるのは、香澄の言葉を頼れば有咲というらしい。彼女は香澄に近づき、その影に少年の姿を見つけると、眉をひそめた。
「……おい香澄。ちょっとこっち来い」
「え、なになに?」
有咲は香澄の首根っこを掴んで少し離れた所に移動させる。そして耳元で小さく話しだした。
「なぁ、あの子は知り合いか?」
「ううん、違うよ? さっき初めて会った子」
「はぁー。やっぱりな」
「……? どうしたの?」
大きく溜息を吐いた有咲は、声量に気を付けながらも器用に怒鳴る。
「あのなぁ、完っ全に怯えてんじゃん! 怖がられてんじゃん!」
「えー、そうかなぁ?」
「どっからどう見てもそうだろ! 子供に声を掛ける角付き不審者、なんて噂になったらどうすんだよ!」
「もう、有咲は心配性だなぁ。そんなことないから見ててって」
「あ、ちょ!」
そういうや否や、香澄は制止を振り切って少年の元へと戻る。それから目線の高さを合わせて、再度話しかけた。
「うーんと、何の話してたっけ……あ、そうそう! 結局、君は何してたの?」
「僕は……そう、ですね。何を考えようか、考えてたんだと……思います」
「何を考えようか、考えてた?」
(なんだぁ? こいつもしかしておたえタイプか……?)
少し考えて述べられた少年の言葉に、一人は首を傾げ、もう一人は内心で訝しんだ。
「よくわかんないけど、考え事してたってことかな? ……あ、カレーついてる」
「えっ」
「あ、待って待って。拭いてあげるから動いちゃだめだよ」
「うゅ……」
香澄に指摘され、少年は急いで拭おうとするが、それは止められる。代わりに両頬が、そっと手に包みこまれた。
「ん、しょ。よし、取れた……よ?」
口の端についたカレーを親指でピッと取る。そこで彼女はようやく気が付いた。
少年の顔が尋常でない程赤くなっている事に。
「あう……う、あの……」
そもそも、香澄一人と話しているだけでも、あれほど取り乱していたのだ。そこに更に、人が増え、肌が触れ、目線がバッチリ合うときた。そんな怒涛の追加コンボは、到底彼の耐えうるものでない。
つまり。
結論。
限界だった。
「ごめんなさい! 失礼しますーーー!」
謝罪の言葉を引きずりながら遠く離れて行くその姿は、彼の容姿も相まって脱兎という言葉が人一倍似合っていた。
「…………」
「…………」
「……逃げちゃった」
「ほらな。お前距離の詰め方は、初対面の人からするとちょっとあれなんだよ……ま、まぁ、私は別に嫌じゃなかったけどな? むしろ、嬉しかったて言うか――」
そこから暫し、照れ顔有咲による独白が続く。ただ、それは茫然としている香澄をざるのように吹き抜けていた。
「……あれ? 有咲、なんかあるよ」
ハッ、と意識を取り戻した香澄が指差すのは、つい先ほどまで少年が座っていたベンチの上。そこには、なにやら四角い物が置かれていた。
「ほんとだ。これは……財布っぽいな」
「えっ、お財布!? 大変だよ、届けてあげなきゃ!」
状況から察するに、十中八九去って行った彼の忘れものだろう。しかし、既に少年の影は彼方にすら見えず追い掛ける事は到底不可能だった。
(んー、なんか身元特定できそうなもんとか入ってねぇか――なあああああ!?」
「えっ!? なに、有咲どうしたの?」
何かヒントでもあれば、そんな軽い気持ちでチャックを開いた有咲だったが、その中に何かを見たらしく、今日一番の声を張り上げた。
「ま、待て香澄! お前はこっち来るな! ってか、見んな!」
「もう有咲ったらぁ、そんなに言われると逆に見たくなっちゃうで……しょ……?」
必死に隠そうとする有咲の手の隙間から、それが見えてしまった香澄が今度はフリーズする。
今から十数分前に二人の友達である山吹沙綾がそうなったように、奇しくも、香澄たちは同じものに、同じように、驚かされた。
「ねぇ有咲。これ、何枚くらいあるのかな……?」
「さぁ、数えてみないと分かんないけど……少なく見ても三十くらいはあるな」
ただし、程度に関しては比べ物にならなかったようだが。
「……これだけあれば、ギターが買えちゃうね?」
「おい、変な気起こすなよ。マジで。マジだからな」
財布は、有咲の懐に深く仕舞われた。
―――――――
少年は街の中を走り抜けていた。
「はぁっ、はぁっ……」
脇目も振らず、一心不乱に。
(失礼な事をしてしまった……!)
見慣れぬ景色が過ぎてゆく中、彼の胸中を占めるのはそんな、ある種自責の念だった。
実に久しぶりだった他人との接触。それを突然逃げ出すという形で締めてしまったものだから、もしそうできるだけの酸素が体に残っていたなら、きっと彼は誰にでも無く謝罪の言葉を叫んでいただろう。
(もう……もう……って、あれ?)
どうにもできない感情に唸りながら走っていると、いつの間にかどうにも見覚えのある建物が目の前にあった。
荘厳な門。立派な庭。そして、大きな本屋敷。見慣れた、彼の自宅だ。
動物には危機に陥った時に素早く巣へ戻るものもいると聞くが、彼にもそんな帰巣本能が働いたという事だろうか。
さて、ここで少年は困ってしまった。父からは今日一日好きに過ごせというお達しをもらったが、果たして
少しの間少年はウンウンと頭を抱えたが、やがて一つの結論に辿りついて迷いなく扉に手を掛けた。
もし駄目だったら、その時止められるだろう。
門を潜り、庭を抜け、屋敷へ足を踏み入れたが誰からも声は掛からない。それは彼が自室につくまでも、同じだった。
(そうだ、課題を消化しておこうかな。今日ちょっと多めにすれば、明日は少し早く寝られるかも)
結局、彼の自由時間はたったの一時間程度で幕を下ろしてしまった。
机を見れば、追い出される直前に開いていた教材がそのまま広げられていた。
さぁ勉強だ、気持ちを切り替えよう。そう思って席へつく少年だったが、やはりどうしても今日の事が頭から離れない。
(やっぱり、あれは失礼だったよね。もしもう一度お二人に会えれば謝罪を……いや)
それはきっと叶わないのだろう。自分の思考を自ら遮って、彼は結論付けた。
あの父がどういった風の吹きまわしで今日の様な事をしたかは不明だが、こんな機会は恐らく二度とない。
(それにあのパン屋さんにも……)
彼自身、物思いに耽るという行為は嫌いではなかったが、今日ばかりはするほどに気が滅入ってしまい、がっくしとうなだれた。
こんな状態では何にも身が入らない。そんな気がした少年は鉛筆を放って、体をベッドへ投げ出した。
(なんだか、とっても、疲れた、な……)
物心が付いてから初めての昼寝というものに、彼の意識は重しのように沈んで行った。
同刻、その階下では。
「そんな……」
プッと電源の切られたモニターの前で優が唖然としていた。どうにか作る事の出来た、愛しい弟の縛られない時間。それがまさかこれほど早く、しかも彼自身の手によって終えられるとは夢にも思わなかったようだ。
「これではっきりしたな。あいつには、やりたいと思っていることなど無い」
アクションを掛けられた場合を除いて、彼が何をしたかと言われれば、パンを買って食べた。それだけ。その他の店、施設などには何も手を出さなかった。そこから考えれば、博則の言っている事は確かに正しいのかもしれない。かもしれないが、それでも優は諦めなかった。
「それが……それが自分の所為だっていう自覚はあるの!? あんな生活してちゃ、楽しみも見つけられなくて当然でしょ!」
「所為とは人聞きが悪いな。私の育て方の結果である事は認めよう。だが、それが悪い事だとは思っていない」
「っ……なら! 私が、私があの子にやりたい事を見つけさせる。もう少し時間があれば一緒に――」
「何を訳のわからない事を言っている。話の趣旨をすり替えるな」
噛みつく優。ただ、皺を深くする博則。火花を散らす両者を止めたのは、新たな声だった。
「まぁまぁ、いいじゃないですか」
「え、お母さん!?」
障子をあけ、姿を現したのは優の母親。思わぬ人物の登場に、争いが一時止まった。
「して、いいとはどういう事だ?」
「少しは我儘も聞いてあげましょうってことよ。それにあの子ももう、親が全てを決めてやる歳でもなくなっているのかもしれませんよ?」
「何を馬鹿な。それを許して将来苦労するのはあいつなのだぞ?」
「あなたが過去にそれで苦労したのは知っています。妻ですもの。けど、時代と共に求められる物というのも変わってきているのよ?」
「…………」
「…………」
妻の言葉を博則は一蹴する事が出来なかった。
「……お前は本当にそう思うんだな?」
「えぇ、もちろん」
最終確認のようにそう問うて、彼は頭を掻いた。
「一ヶ月……いや二週間だ」
「えっ?」
「今日から二週間、予定を白紙にする。もしその間にあいつが自分から、やりたい事があると私に言ってくれば、考えてやる。ただし、お前からこの事を伝えぬよう、常に見張りをつけておく」
「……本当?」
「二度言わせる気か。話は終わりだ」
言うだけ言って博則はすぐに部屋を出て行った。
残されたのは、未だに信じられないといった様子の優と、ニコニコと笑みを浮かべる母だけだった。
「ねぇお母さん、私、お父さんがわからない。私やあの子の事をちゃんと考えてるのか、そうじゃないのか……」
「ふふ、あの人はすごく不器用だから。私も昔は苦労したものよ」
「……それ、結局どっちなの?」
「さぁ、どうでしょう。ま、もうすぐわかるんじゃないかしら。そうね、再来週くらいには」
「……?」
颯爽と現れ優に助勢をしてくれた母だが、完全な味方という訳でもないらしい。肝心なところだけは、笑って有耶無耶にされてしまった。
「それより、あの子の事よろしくね。必ずよ?」
「うん、まかせて! 私が絶対やりたいことを見つけさせてみせるんだから!」
改行具合、どのように感じましたか?
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地の文間もっと開けた方がいい
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セリフ間もっと開けた方が
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上記二つとも
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特に問題ない