びじょとやじゅう   作:彩守 露水

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ながめ


第38話「魔法の言葉」

 あっという間に時は過ぎ、美咲の急遽企画したライブの開始時刻もとうとう目前にまで迫って来ていた。

 

「突然の無茶なお願いでしたのに受けてくださって、本当にありがとございました!」

「いえいえ、そんな。こちらこそ、感謝の言葉を送らせていただきたいくらいです」

 

 黒服の人たちが機敏な動きでステージのセットを組み立てていく傍ら、美咲はハロハピメンバーの代表として、今回の会場にする事を許してくれたこの施設の者と話をしていた。

 まず初めに礼儀として感謝を述べ、そのまま一つ二つほどの世間話を交わす。方々へ駆けまわり、また掛け合いまわった末に美咲が見つけたこの人物は、しかし無理を聞いてくれたにもかかわらず、嫌な顔一つすらなしに、むしろ礼謝を返しさえした。

 そのあまりの腰の低さに、よもや目の前の人物は弦巻の威光を恐れてこのような対応をとっているのでは、と美咲の中で疑念が生まれたが、相手の表情を窺ってみても穏やかな笑みには裏があるようには思えない。

 

「……納得いっていない顔ですね」

「えっ!? あー、その……まぁ」

 

 そんな内心を見透かされたのか、本人としてはおくびにも出していないつもりだったのだが、相手がそう切り込んできた。それは彼女の予想だにしないタイミングであって、美咲は咄嗟に言い繕う事も出来ず、正直に内心を曝す。

 

「ちょっとあたしたちに都合が良すぎる展開だなぁ……と、思いまして」

「なるほど、そういう捉え方もあるのですね……。心配しないでも、特に邪な考えはありませんよ。ハロハピの皆さんには是非ともまた来てほしいと私どもも思っていましたから……そう、利害の一致というやつです」

「そう、ですか」

「はい」

 

 その言葉に、美咲は頬を少し赤くする。普段から彼女たちの主な活動場所となっているライブハウスでは、そういった専用の施設が故に演者と観客との隔離がしっかりとしており、あまり生の声を聞く機会がなかったからだ。

 にこやかな表情を崩さない相手を直視できなくなり、彼女はふい、と顔をそらす。

 そのおかげで、ガラリと変わった視界の中で美咲は意図せずあるものを見ることとなった。

 

「おーい、みーくーん!」

「……はぐみ?」

 

 それは景色の奥、野外に設けられたステージの裾から二人の方へ手を振るはぐみ。

 

「お友達に呼ばれているようですね」

「ええ、みたいです。それでは、かさねがさねになりますけど、今日は本当にありがとうございました」

 

 最後に深く頭を下げ、美咲はその場を後にした。

 

 

 

「おまたせ、みんな。設営終わった感じかな?」

 

 誘われるがまま、メンバーの集まる元へと駆けつけた美咲はきちんと整えられたステージを見て、確信的にそう言う。

 

「うん! いつもパパーッとやっちゃって、すごいよね黒い服の人たち!」

「いや……まぁ、そこに関しては全面同意かな。……よし、行こうか」

「……え? も、もう始まるんですか?」

 

 呼び掛けに応じ、各々メンテナンスをしていた楽器を置いて立ち上がる面々。だがそこに一人、幸だけが虚を突かれたような表情で声をあげた。

 それもそのはずで、前日に取り行っていた会議で定めたスケジュール上では開始はまだ二十分以上も先の事なのだ。

 今から舞台に上がる事も不可能ではないのだが、準備の完了を本番の直前に持ってくるよう計画だてていた幸は大きく慌てた。

 

「あぁ、ごめんごめん、ややこしかったね。まだ本番って訳じゃないよ」

 

 そして、美咲は言う。

 曰く、これから行うのは最終確認のようなものだ、と。リハーサルではない。それは昨日のうちに通しで実行済みである。

 

「……?」

「なんていうかな……実際に一回舞台に上がってみて、自分の目で確かめてみるみたいな?」

 

 それは例えば楽器を置く角度であったり、或いは音量であったり……。

 黒服の者たちは確かに図面上での最適な配置をしてくれるが、逆を言えば、あくまでそれだけ。

 客足の伸びやその場の空気など、そんな何処か感覚的な、演者にしか理解できない現場の細かな機微は考慮してくれないのだ。

 

「だからさ、もう少し楽器を動かしたい……とか。気になる事があったら、ちゃんと言いなよ? そういうのは全然、恥ずかしい事でも遠慮する事でもないんだし」

「は、はい……」

 

 こころが、はぐみが、続々と軽い足取りで舞台へ上がっていく。そして、幸へと話しかけていた美咲も次いで。

 一人残された幸はおずおずとした動作で脇幕を小さく捲り、即席の客席を覗き見る。まだ開演時間には少しばかりがあるはずなのに、そこには既に多くの観客がひしめきあっていて。

 

(…………)

 

 ただ、純粋に、彼は怯えた。当然だ。ほんの数日前までは大人数の前に出るどころか、限られた数人としか顔を合わせないような生活を送っていた者が、このような場に平気な様子で出ていける道理などない。

 

「……コウくん?」

 

 足を踏み出せず、立ち往生をしている幸を不思議がるように、美咲が振り向いて声を掛ける。ほんの数十センチ程度の、しかし絶対的にそこに存在する()()()から。見下ろすかたちで。

 幸は考える。目の前にいる美咲、そして今ドラムの調子を確かめている花音。この二人、なかでも後者は、決して人前に進んで立つような性分ではない筈だ。他の三人と比べるなら、どちらかと言えば彼寄りの、そんな。

 だが、現実はどうだろうか。花音は観衆の視線の真っただ中で取り乱すこともなく座っているし、美咲の顔にだって特別、焦りなどはみられない。数度の帰り道で聞いた話では、ハロハピ結成当初の花音は緊張で幾度も失敗を繰り返したとの事であったが、そんな話を疑わしく思ってしまう程の落ち着きぶりだ。

 

――慣れたのだろうか?

 

 ふと彼はそう考え、いや、違うだろう、とすぐにそれを否定した。

 

――きっと変わったのだ。

 

 慣れると変わる。どちらに進んでもそれらは、おそらく今の花音へと辿り着く道ではあっただろうが、実態はまるで違う。

 慣れるとはつまり、ライブに耐性ができ、ステージという限定されきった環境で平気に振る舞えるようになるだけ。

 それだけではきっと、気弱ながらも頼れる先輩である彼女はできあがらない。行動が、心が、そして松原花音というヒトが変わらねば、きっと。

 嫉妬の情も羨望の念も、彼は持たない。キラキラと眩しい五人を見上げて、ただ内に思う事は……。

 

「……くん? …………、ほら…………」

(やっぱり僕は……)

 

 美咲が何やら言っている事も耳に入らず、幸は意識外から手を引かれる。

 たった三段ぽっちの果てしない階段を、彼は重く踏みしめながら、上った。

 途端。

 

「……あ」

 

 そこかしこに散らばっていた何気ない視線が、幸のもとへと殺到する。突き刺さるように。容赦もなく。

 衆目にさらされる様子を『針のむしろ』などと表現する事があるが、冗談じゃない、と幸は思った。

 この言葉を造った者はきっと、とてつもない巨人か何かで、だから視線を針だなんて細くてちっぽけな存在に例えられたのだ、と。少なくとも彼にとっては、今自分の身を取り囲んでいるそれは、もっともっと大きな質量を孕んだ、恐ろしい何かに他ならなかった。

 いつの間にか滲みだしていた雫も意識の外に、彼は両の手で堅く自らの口を塞いだ。そうしなければ何かが、たくさんの何かが溢れてしまうような気がしたから。

 まるで心臓が太陽にでもすり替わってしまったかが如く、胸の内が不自然なほど急速に熱を帯びて立っていられなくなる。

 

「……や、だ」

 

 ぺたりと座りこんだ事によって、幸へと向けられる視線が一層濃いものへとなった。そこに込められているモノが興味や好奇、心配など、悪感情とはかけ離れていた類なのだと理論は言っていても。

 

「コウくん?」

「――ごめん、なさい」

 

 圧し掛かるナニカに耐えられなくなって、祖師谷幸はその場を逃げ出した。

 

「……えっ?」

 

 手を払うという初めての拒絶的反応に呆けたのも一瞬。観衆含め周囲の人間も自分と同じく唖然としている事をすぐに察した美咲は、状況は理解できていないながらもフォローへ走った。

 

「すいません、少しトラブルが発生してしまったみたいで……ライブは時間通りに開催する予定ですので、皆さまもうしばらくお待ちください!」

 

 ざわざわと色めき立つ客席に行き渡るように、美咲は声を大きく張って伝える。中には邪推をする者もいたかもしれないが、ひとまず会場単位では落ち着きを取り戻させる事が出来た。

 

「うーん、コウったら一体どうしちゃったのかしら?」

「あー、なんかあれだよ……そう、お手洗いを我慢してたみたいでさ。コウくんが場所知ってるか不安だし、あたしちょっと追いかけてくる!」

「美咲ちゃん……」

 

 状況を理解していないこころ達を適当な嘘で誤魔化し、不安げな表情で見つめてくる花音へは深く頷く。

 そして美咲は、去っていった幸の後を追うように病院へと走り出した。

 

 

――――――――

 

 

『惚れた?』

 

 息を切らせる勢いで走りながら、美咲は思い出す。

 二日前、ハロハピ会議に遅れてまで設けた優との話し合い。ホームルームの関係で集合場所へ先に着いて待っていた美咲に、その姿を見せるより先に投げかけられた言葉は、そんな極々短い問いかけだった。

 

『第一声がそれって……どうなの?』

 

 声に遅れて校舎の陰からひょっこりと現れた優に、美咲は溜め息をつきながら冷ややかな視線を向けた。実は狼狽えに狼狽えているその内心を、悟られないように気をつけながら。

 対して、冷たく対応をされたはずの優は、それでもニマニマと笑みを崩さずに美咲へと詰め寄る。

 

『ま、いいじゃんいいじゃん! ……それで、そこんとこどうなのよ? 私気になるなぁ!』

『……ノーコメントで』

『ふーん、否定しないんだ?』

『肯定もしないけどね』

『もう、捻てるなぁ』

『性分なもんで』

 

 本当のところを語る気はないという内容のテンポよい応酬が、逆にそのあたりを浮き彫りにしてしまっているのだが。彼女がそこを言い繕ったり、弁明をする事はない。それは言外に真実を語ると大差ないし、なにより、優が既に自分の本心を見抜いているだろう事を、美咲はなんとなく理解できていたから。

 

『だんまりするなら別にそれでもいいけどさー。お姉ちゃん公認だよっ! とだけ、私からは言っとくね』

『何の事を言ってるのかはさっぱりだけど……うん。まぁ、了解……とだけ言っとくよ。っていうか、もしかして今日の呼び出しって、これを訊きたかっただけ?』

 

 それ以上の追及を避けるように、美咲は話題の転換を図った。もうそうであるなら今度はこちらが質問攻めをしてやろう、そんな思惑を心に秘めて。

 

『ううん、違うわよ? 美咲ちゃんの気持ちについてはほとんど確信してたし、本題は他にあるんだけど……うーん……』

『……?』

 

 だが、返ってきたのは否定。語るに、彼女にはまだ本当の目的が残っているらしい。話の流れから美咲は優がこれからそれについて話すのかと予想したが、その快活な語り口が突然に籠った。

 美咲の知る限り、目の前の少女は思った事をズバズバと言い放ってしまえる性格をしていたはず。一体何を言い淀む事があるのかと美咲が首を傾げると、優は頭を掻きながら申し訳なさげに口を開いた。

 

『あの、さ……実は美咲ちゃんたちにまだ話してない事があるんだよね……』

『話してない事って……それは、コウくんの関連で? 例えば、二週間の制限の理由とか』

『……! 美咲ちゃん、すごいね。ドンピシャって感じだよ』

 

 その的確すぎる予想に表情を驚かせた優は、一度息を整えてまさしく美咲の欲していた情報を明かしだした。

 まず、初めに口にされたのはその訳。

 

『秘密にしてたのには二つ理由があるんだけど……。一つはハロハピのことを完全に信じれてなかったから、かな。こっちから頼んどいてほんとに申し訳ないな、とは思うんだけど……』

『それはまぁ……ちょっと思うところが無い事もないけど、しょうがないよ』

 

 そういって優は目を伏せるが、美咲が気にする様子はない。

 そもそも、ハロハピは――主に一匹の――外見や掲げる目標などから奇天烈に見られがちな上、その個々人の実態も知れば知るほど曲者揃いだ。

 一クラスメイトとしてはぐみの言動を間近で見て来、こころの『花咲川の異空間』という異名も認知している彼女が、関わって間もないうちに全幅の信頼を置くようでは、美咲はむしろ心配に思ってしまったことだろう。

 そういった理由から、美咲は自分たちに対して信じきれないと述べた優に対し、文句を言うどころか同意を示しさえした。

 

『それで、二つ目の理由は?』

『んー……後味、かな』

『……後味?』

『うん。この秘密を知ったら、美咲ちゃんたちはきっと二週経ったときに綺麗な気持ちでバイバイできなくなっちゃうから』

 

 知るとお別れに支障をきたす。たったそれだけの概要ではどんな内容なのか欠片も想像がつかないが、美咲は既に幸に対して真剣に向き合うと決めた身。その結果として優の言うような未来をなぞる事になろうとも、彼女には聞かないという選択肢はなかった。

 

『いいよ、覚悟――って言うとちょっと大袈裟かもしれないけど。とにかく、大丈夫だから。聞かせて欲しい』

『……いいのね?』

 

 そう確認をするが、美咲の意思は言葉なくともその目が語っている。優は、硬い表情で徐々に語りだした。

 優が父親に訴えて、弟の稽古漬けの生活に一時の自由を作った事。しかし、それは期待していた程の効果を上げなかった事。そして、彼が自らの意思で抗議をしなければ、元の生活へ逆戻りしてしまう事。

 そこまで話を聞いて、美咲はようやく優の『綺麗な気持ちでバイバイできなくなる』という言葉の意味が理解できた。事実、その実情を知ってしまった為に美咲の中では、『期日が来て幸とお別れをする』が『幸に行動を起こさせるまでの変化をもたらせなかった』と同義になってしまったのだから。

 比較的おとなびた性格をしている彼女だからこそ取り乱さずに受け入れる事が出来ているが、これがもし花音やはぐみなどの耳に入ったならば、きっと美咲以上に気に病んでしまったに違いない。

 

『っていうか、それあたしに言ってよかったの? 伝えちゃダメってお父様との約束だったんじゃ?』

『それはあくまで本人には、って話。昨日お父さんに確認したから、そこは間違いないはずよ。……あっ、もちろん美咲ちゃんから伝えるってのも無しだからね!』

『それはわかってるけど……』

『……どうかした?』

 

 先ほどとは対照的に今度は美咲が言葉を詰まらせ、優が疑問を抱く側に回る。そのまましばらくのあいだ思い悩んでいた美咲だったが、意を決したように息を吐いた。

 

『どうして話そうと思ったの?』

『……え?』

『いや、優がコウくんについて隠し事をしてた理由は聞いたし、納得もしたよ。じゃあ逆にさ、なんでこのタイミングでそれを打ち明けてくれたの?』

『…………』

 

 顎に手を当て、優は考える。美咲の言う通り、どうして自分は情報を明かす気になったのか。

 一つの理由として『美咲への信用が増したから』がある事は間違いない。関係も当初と比べれば親密になり、なにより我が弟へ思いを寄せている今の美咲なら、彼の抱える問題に真摯な態度で取り合ってくれるだろう、と。

 だがそれより、知らぬうちに逸っていたのだろう心を落ちつけて冷静に思考してみると、優は己を行動に移させた最大の理由へすぐに思い至った。

 

『たぶん私、焦ってるんだと思う』

『……まぁ、期限ももうそんなにないしね』

『私も毎日お話を聞いてるからさ、あの子が変わってきてるんだっていうのはすごく感じてるんだ。――あっ、実際に一緒に行動してる美咲ちゃんたちほどじゃないかもだけどね?』

『いや、その微妙なフォローみたいなのはなんなのさ……』

 

 稽古漬けだった頃の幸は笑う事もなく、どころかほとんど表情の変化すらなかった。ただ機械的に、親から課せられた行為だけを淡々とこなす。そのような生活の中でどうして、喜び、怒り、悲しむ事があろうか。

 そんな頃が基底にあるものだから、優は近頃の幸がコロコロと表情を変えるようになっている事がえも言われぬほど嬉しかった。

 

『その日あった事を教えてくれる時にね、すっごく楽しそうに笑うの。内容によっては困り顔の時とかもあるよ? ……けど、そんなのでもやっぱり愛しくてさ。ほんっと、ハロハピの皆には感謝してるんだ』

 

 その実際の現場を思い出しているのか、優は幸せそうに瞼を落として語る。しかし、だからこそ次に彼女が浮かべた表情の悲痛さが際立って見えた。

 

『けど、このままじゃ多分ダメ……。あの子はずっと他人に言われるままに生きてきたから、自分自身で何かを変えるだとか、そんな考え自体が欠けてるんだと思う』

 

 行動を起こせば、何かを変えられる。そんな当たり前の事すら彼は知らなくて。だから、課せられ、与えられたものだけが絶対なのだ。

 稽古に行けと言われれば行くし、期間を二週間と定められれば、ただそれに従う。自分がどう思うかなどは、二の次、三の次にして。

 

『だから、あの子の中の常識とか考え方とかそういうのを、全部ぶっ壊して、ひっくり返して、ぐっちゃぐちゃにしちゃうような……そんなナニカが必要なの』

 

 ただ特徴を捕まえて曖昧に言うだけならば、それは易い。だが、優には具体的な心当たりなど微塵もなく、そんな無力な自分が恨めしくて仕方なかった。

 

『……なんとかなるよ、きっと』

 

 ぽつりと、美咲がそう口にする。それは、優の暗い雰囲気を穿つような、明るい声音だった。

 弾かれたように、優はその方向へ顔を向ける。

 

『何事もほどほどが一番。セーシュンとか、がんばろーっとか、むずかゆい。なんて一人で捻くれてたくせして、ハロハピにそんな考え方とか全部ぶっ壊されちゃった人を、あたしは知ってるから』

『……! そっか、それは心強いわね!』

 

 そこには、何故かそっぽを向いている美咲の姿があった。

 

『信じるよ、『ハロー、ハッピーワールド!』』

『ん、期待して待っててよ』

『うん、期待して待ってる!』

 

 いつかこの場所で話した時とは打って変わって、美咲は胸を張ってそう言った。

 

「だから」

 

 軽く頭を振り、美咲は焦点を今へと合わせる。

 

「あたしは君を、引きずってでもステージに連れていくよ」

 

 その瞳は、真っ直ぐに前を見据えていた。

 

 

 

――――――

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 息を乱し、必死な様子で幸は走って――否、逃げていた。

 今の自分が果てしなく愚かで、裏切りの街道を駆け抜けているのだと、そう彼の歳不相応に聡い頭は正確に状況を理解していたが、足はどうしても止まってくれない。

 恐ろしいと感じる対象から逃亡を図るのは、あらゆる生物に生来備わっている本能なのだから。

 ステージの上で彼が感じたのは、初めての恐怖だった。数年ぶりに家を飛び出たあの日、公園で出会った香澄を大声を上げながら真っ直ぐに襲いかかってくる恐怖とするならば、先程体験したのは静かに、しかし着実ににじり寄ってくる種類のもの。

 周囲に人の影などはとうに消えて、恐怖の根源は何処にも見当たらなくなっても彼は駆け続ける。そんな、もはや何からなのかも定かでなくなってしまった逃走劇は、壁に突き当たり、己が袋小路に入ってしまっていたのだと気付くまで続いた。

 

「……! ……はぁ」

 

 勢いよく背後を振り返ってみるが、当然そこには誰もいない。その事実を自身の目で確認してようやく、幸は隅っこへ座り込んだ。すぐ隣には丁度良い長椅子があったにもかかわらず、小さく、膝を抱えて。まるで、自分にはそんな資格はない、とでも言うかのように。

 

(……気持ち悪い)

 

 水分が足りていないのか、それとも酸素か、塩分か。喪失感と安心感と、そして罪悪感のごちゃ混ぜになった胸に手をやり、ゆっくりと撫でる。しばらくそうする事で、身体の方は少しづつ落ち着きを取り戻していった。もっとも、心の内は依然、曇り渡っているようだったが。

 

「逃げ、ちゃった……」

 

 ここまで走る事に割かれていた思考力が戻ってきた事で、幸は犯してしまった事の重大さを改めて認識する。

 会場はどうなっているだろう。

 皆はどうしているだろう。自分を探しているか、それとも連絡を取ろうとしているかもしれない。

 考え始めれば、気がかりな事はいくらでも湧いてきた。

 生憎と携帯端末は会場へ置いてきてしまっていた為に正確な時間は分からないが、それでも彼の体感ではライブの開始までまだ十分以上の猶予があるはず。闇雲に走ったせいで現在位置がわからない事を考慮しても、今すぐにここを発てば充分に間にあうだろう。

 それができるのならば、だが。

 

「わかんないよ……」

 

 気を抜けばすぐに震えだしてしまう膝を固く抱き、幸は小さく、本当に小さく零した。

 誰かに来て欲しかったし、誰にも来て欲しくなかった。

 こんな惨めな自分を誰にも見て欲しくなかったし、こんな救えない自分を誰かに助けて欲しかった。

 そんな相反する感情を抱えていたから、彼にとって()()が幸であったか不幸であったのかは誰にもわからない。

 

「ちょっと、あんた!」

 

 ずっと静かだった空間に、突然響く怒鳴り声。ビクリと肩を跳ねあげた幸が顔をあげると、そこには一人の少女がいた。幸と同じ程度の身長の彼女は、ここまで走ってきたのか、肩で息をしながら壁に手をつけてこちらを睨みつけていた。

 

「はぁ……はぁ。新しくハロハピに入ったコウって、あんたよね?」

「そう、ですけど……。どうして僕の事を?」

「ふん、はぐみちゃんに聞いたの」

 

 どうやらはぐみから彼の事を聞いたらしい少女は、深呼吸をして息を整えると、ダンダンと力のこもった足取りで幸へと詰め寄ってきた。二人の間の距離がほぼゼロになると、その体勢の違いによって自然と幸が見下ろされる形となる。はっきりと近くで見えるようになった彼女の瞳には、怒りと軽蔑の念が見て取れた。

 一体目の前の少女が誰で、どうして自分に話しかけてきたのか。諸々の状況が何も理解できない幸が何かを尋ねるだけの隙もなく、少女は立て続けに大きくまくしたてる。

 

「ねぇ、ライブももうすぐ始まるっていうのに、こんなところでなにやってるの?」

「……………」

「飲み物買いに来たわけじゃないでしょ。もっと近場の自販機なんていっぱいあったし」

「…………」

「――なんとか言ったらどうなの!?」

「……っ!」

 

 彼女の詰問に、幸はただ黙ることしかできなかった。

 

「はぐみちゃんが新メンバーが増えたんだって、嬉しそうに言ってて。あぁ、きっとその人も素敵な人なんだろうなぁって、そう思ってたのに! それがこんな、偽物のヒーローにだって成れない弱虫だなんて、あかりは納得できないよ!」

「…………」

「なんで……なんであんたみたいなのが……。ハロハピは、かっこいいヒーローなのに……そうじゃなきゃ、いけないのに……」

 

 それは、目の前の少女――あかりの心からの叫びであると同時に、幸も心の何処かでずっと考えていた事だった。

 人々に勇気を与え、世界を笑顔にする『ハロー、ハッピーワールド!』に、自分のような存在が混じっていていいのか、と。

 意識し、答えを探してしまえばすぐに否と自答してしまうが故に、努めて考えないようにしていた問いを外から投げつけられて、幸は目を伏せる。

 

「そう、ですよね。僕も、そう思いま――」

 

 自嘲を含んだ彼の言葉を、パンッと乾いた音が遮る。遅れてやってきた頬の痛みに、それを引き起こしただろう少女に目をやって、そこで初めて幸はあかりが涙を流している事に気付いた。

 

「その先を言ったら、許さないから……!」

 

 めちゃくちゃだ、幸は思った。あかりの言った事を、同じく言おうとしただけなのに。けれど漠然と、この少女にはそうするだけの理由と、資格があるのだろうとも、同時に。

 

「ハロハピに救ってもらってあかりは、自分もこのバンドに入りたい! って、そう思った。けど、皆は高校生なのにあかりは小学生だし、楽器だって弾けないし……なにより、魔法のコトバを唱えても何もできなかったから。だから、あかりは諦めた」

「…………」

「けど、バンド以外の方法でだって勇気を分け与えられるヒーローになれるはずだって、次は看護師さんと一緒に病院で働こうと思った」

「あかりさん……」

「ずるい、ずるいよ……。お願いだから、ハロハピを諦めたあかりを惨めにしないで……。あかりの中のかっこいいハロハピを壊さないで――そんな、あの時のあかりみたいな目をしないでよ……!」

 

 力なくその場に崩れ落ちて、あかりは消え入るような魂の声を紡いだ。

 

(あ……)

 

 その光景に、幸は自分の頭がスッとクリアになっていくのを感じた。

 自問する。

 目の前で一人の少女が悲しみに暮れて涙を流しているというのに、ただ見ているだけなのか。世界を笑顔にするのではなかったのか。

 

「泣かないで、ください……」

 

 気付けば幸は、あかりの身体をそっと抱きとめていた。

 こころなら、薫なら、はぐみなら、花音なら、美咲なら――『ハロー、ハッピーワールド!』なら、きっとそうしたに違いないから。

 

「……急になに」

「僕にもわかりません……。けど、泣いてるあかりさんを見たら、こうしないといけない気がして」

「……そんな震えてる手でギュッってされても、頼もしくないし、全然かっこよくもない」

「そう、かもしれませんね……」

 

 鼻をすすりながら拗ねたように口ぶりのあかりの言葉は、しかし先程よりは少し柔らかい雰囲気をしていた。

 

「……でも、目だけはちょっとマシになったんじゃない」

「えっ?」

「周りを全部、ほんとくだらないものまで何もかもを怖がってる。さっきまでのあんたは、そんな目だったから」

「……よくわかりますね」

「そりゃわかるよ。あかりも、そうだったんだから……」

 

 車の事故で足を怪我したあかりは、手術が成功してもずっと車椅子に頼っていた。リハビリをすればきちんと歩けるようになると、そう言われても、もし地に足を着けた時に足がうまく動かなかったら? そんな『もしも』を想像してしまうだけで、怖くなってしまって、動けなくなってしまって。

 

「そのあかりさんを救ってくれたのは、ハロハピの皆さんなんですね」

「あかりはそう思ってるよ。はぐみちゃんたちは、あかりを救ったのはあかり自身で、自分たちは気付かせてあげただけ、なんて難しい事言うけどね」

「自分を救うのは自分……?」

「あかりたちみたいな子供にはわかんないんだよ、きっと。もっと大きくなったら、わかるといいなぁ」

「……あかりさん、よかったらその時の事、色々教えてくれませんか?」

 

 そこから、あかりは色々な事を話した。まだ結成されたばかりで、決して今のような姿ではなかったハロハピの事を。

 時間にすれば五分ほどだっただろうか。初めの剣呑な空気はどこへやら、二人はある程度打ち解けあってきていた。

 

「見つけた、コウくん! ……と、あかり?」

 

 そこへ、通路の角から美咲がその姿を現す。ずっと幸の事を探しまわっていたらしく、あかりと同じくその息は上がっていた。

 

「美咲さん……どうして探しに来てくれたんですか?」

「どうしてって……。え、逆に探しに行かない選択肢があるの?」

 

 ズレたキャップを直しながら、言葉と同じく『当然でしょ?』という態度で美咲が訊き返す。

 

「で、でも! ハロハピはもともと五人だったんですよ? 論理的に考えれば僕を探す為に美咲さんまで間にあわなくなる可能性もあったんですし、僕の事は放っておいた方がよかったんじゃ……」

「あんた、まだそんな事言って……!」

「ごめんなさい、あかりさん! けど、これだけはどうしても訊いておきたくて……」

 

 この場での二人のやりとりを台無しにするかのような質問をあかりが言い咎めようとするが、それは幸の強い言葉によって止められる。見るに、今の彼の眼に宿る想いは、少なくとも悲壮なものではなく、前向きなものであると思われた。

 

「んー。まぁ、確かにコウくんの言う事は正しいんだけどさ。一つ、大事な事を忘れてるよ?」

「大事な事……ですか?」

「うん。ハロハピは結成以来、一度だって論理的に行動したことなんか無いって事をね」

 

 あかりと幸は揃ってポカンとし、それからクスリと小さく笑った。言い放たれた美咲の言葉が馬鹿馬鹿しくて、それでいてどうしようもなく真実であったから。

 

「っていうか、なんで二人は一緒にいたの?」

「えっと、まぁ色々ありまして……」

「気になる……けど、今はそれどころじゃないか。行くよ、二人とも」

 

 まるで接点などなかったはずの組み合わせが気になりつつも、時間を優先して美咲は両側の手で幸とあかりの手をそれぞれ引く。

 

(……って、あれ?)

 

 早足で駆けながら、美咲は内心に疑問符を浮かべる。彼女の中では、きっと抵抗するだろう幸を説得しながら引っ張っていく計画だったのに、それがなかった為だ。ライブ会場へ向かう美咲に迷いなくついていく彼の姿は、ほんの少し前にステージから逃げ出した者と同一人物とはとても思えない。

 

「コウくん、ちょっと間で変わったね。あかり、何かした?」

「……別に、ちょっと怒鳴って叩いて、お説教してあげただけだよ」

「えぇ……あかり、すごいね」

「……なにが?」

「あー、あかりはたぶんはぐみ経由で知ってたんだよね? 断片的にしか聞いてなかったのかもだけど……この子、こう見えてもあかりより結構年上だよ?」

「え……? ええええええええええええええええ!?」

 

 その衝撃的な情報に、あかりの大きな、ともすれば怒鳴った時以上の声が、病院内に響き渡るのだった。

 

 

――――――――

 

 

「みんな、おまたせ!」

「すいません、おまたせしました!」

 

 あかりと客席の近くで別れてミッシェルに着替えた後に、なんとかステージ裏へと辿り着いた二人。時間を確認してみれば、ライブの開始はもうほんの四分後にまで迫っていた。

 

「美咲ちゃん! コウくん!」

「もうミッシェルったら、遅刻ギリギリよ!」

 

 ぷくりと頬を膨らませるこころを尻目に、幸は急いで楽器の準備に取り掛かった。キーボードからチューニング用の機器を取り外し、音の種類を確かめる。

 全員がステージに立てる状態になり、残りの時間が二分を切ったあたり。メンバーを一か所に集めたこころは、あるものを取り出しながらこんな事を言い出した。

 

「やっぱり、この場所でライブをするならこれが必要だと思うの!」

 

 彼女の手に乗っていたのは、色とりどりのお面。あかりから話を聞いたばかりの幸は、それがあかりを励ます時に使ったハロハピレンジャーのものであると、瞬時に理解できた。

 

「わぁ、懐かしい! ハロハピレンジャーのお面だ! 確か、こころんがレッドだったよね? それで、ブルーが薫君。みーくんの分のグリーンはミッシェルが被るとして。ピンクが……あれ?」

 

 当時の記憶を頼りに担当色のお面をメンバーに配っていく途中、はぐみはある事に気がついたようで眉を下げた。

 

「これ、五人分しかないよ……」

 

 それは当然のことだった。あの時の『ハロー、ハッピーワールド!』は五人のバンドで、幸が加入したのはつい最近の事。彼の分が用意されているはずがない。

 

「あー、だったらミッシェルのグリーンをコウくんに譲るよー。……あたしはもともと、お面被ってるみたいなもんだしね」

「でもそれじゃ、ミッシェルだけが仲間外れになっちゃうわ! そんなのダメよ!」

 

 実は、キグルミにさらにお面、という奇抜なファッションを避けたいという思惑も密かに抱えていたミッシェルがそう提案するが、こころがそれを認めない。

 それから数秒ほど、むむむとこころは唸っていたが、突然、妙案を思い浮かんだとばかりに手を叩いた。

 

「そうだ、黒い服の人! あれを持ってきて!」

「はっ、ここに」

 

 こころの呼びかけに応じ参じた黒服の一人が、やけに細長い箱をミッシェルへと手渡す。それはまるで誕生日プレゼントかのように可愛らしくラッピングされており中身がわからなかったが、彼女はとても嫌な予感がしていた。

 

「ミッシェルはそれをつけてきてね! 時間だし、あたしたちは先に上がっておくから!」

「え、ちょっとこころ! ……はぁ、しかたないなぁ。箱の中身は――って、これは……!」

 

 包装を解き始めるミッシェルを背後に、五人はステージへ向かう。一様に笑顔を浮かべた仲間達に囲まれて幸は、たった三段ぽっちの短い階段を一足とびに駆けあがった。

 

「みんな、おまたせー! あたしはハロハピレンジャーのここレッド! これから、『ハロー、ハッピーワールド!』のライブを始めるわよー!」

 

 こころがマイクを持ってそう呼びかけると、観客席が一気に沸く。

 

「……さすがにまだ始まってないよね?」

 

 そんなざわめきの中、ひっそりと一匹遅れてやってきたミッシェル。

 

「み、美咲さん……それ……」

「あははは。まぁ、こころに倣って言うなら、ミシェトライブってところかね」

 

 その顔には、いつかの豪華客船を思い起こさせる、いやに民族的な縦に長いお面がつけられていた。

 

「っていうか、コウくん。今更聞く事でもないと思うんだけどさ……大丈夫なの?」

 

 何が、と彼女は具体的には言わないが、幸には簡単に察せられた。一度恐怖に負けてこの場を逃げ出した彼が、わからないなどとは口が裂けても言えるはずがない。

 

「はいっ! あかりさんに、とっておきの魔法の言葉を教えてもらいましたから!」

 

 不安げに尋ねる美咲とは裏腹に、幸は笑顔を浮かべてそう答えた。

 

「それじゃあ一曲目よ! 『ハピネスっ! ハピィーマジカルっ!』」

 

 こころの宣言で、ライブが始まった。

 

 

 

――――――――

 

 

「ふぅ。いやー、疲れた疲れた」

 

 ライブが無事に終了し、舞台裏へ捌けたミッシェルは美咲へと成り、顔を手で煽いでいた。それは三バカが揃って、都合よく観客席の方へとお喋りに行ってしまったからできる芸当だった。幸もこころに無理矢理引っ張られる形でいなくなってしまっていたが、そこは気にしない。

 

「お疲れ様、美咲ちゃん」

 

 唯一、美咲以外のメンバーで彼女と共に退場していた花音がそんな労いの言葉を掛けた。

 

「あ、花音さんもお疲れ様です」

「ライブ、楽しかったね――って、あれ?」

 

 通例どおりに、美咲と感想を言い合おうとした花音が、ある物に気付いて驚きの声をあげた。

 

「……ん? どうしました?」

「美咲ちゃん、髪留め変えた?」

「あー、その事ですか……」

 

 花音の指摘に、美咲は右の前髪のあたりへ手をやる。何の変哲も無いU字型の髪留めがあったはずのそこには、いつもと違うものがついていた。

 

「そうなんですよ、綺麗でしょ?」

「うん、とっても似合ってるよ。いつの間に買ってたの?」

「あー、いえ、貰ったんですよ。とっても大切な――宝物です」

 

 桃色の硝子の花飾りをキラリと煌めかせて、美咲は空を望んだ。

 

 

改行具合、どのように感じましたか?

  • 地の文間もっと開けた方がいい
  • セリフ間もっと開けた方が
  • 上記二つとも
  • 特に問題ない

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