シュッ……と軽い擦れたような音が鳴る。それは、制服の胸元を締めるリボンが勢いよく引き抜かれた時のものだった。
続いてボタンも外され、上下一体になっている制服もパサリと床に落ちる。
「よい……しょっと」
棚に仕舞いこむ時のようにきっちりとではないが、皺にならない程度に軽く折りたたんでそれらを洗濯籠へ納める。
そのまま最後に下着へと手を掛けると、丁寧に両足を抜き取って同じく籠へと放った。
脱衣所から浴室へ移る際に、鏡に映る華奢な自分の像。そんな見慣れたものには一瞥もくれずに、少年は扉を開けた。
その先にあったのは、いくつも設けられたシャワーに大きな浴槽。その広さは六か、七人程度なら余裕を持って全員が寛げるだろう程であり、生まれた時から慣れ親しんできた彼は何も思う事はないが、そうでない者ならば旅館か何かの風呂場かと騒ぐこと請け合いだった。
「お風呂、かぁ……」
顔、頭、体を順番に洗って湯船に肩まで浸かり、その
彼が漠然と頭に浮かべるのは、四日前に美咲の家に泊まった時の情景。彼女の家は一般的な一軒家で、その風呂場もいたって平凡な造りをしていたのだが、それが幸にはかえって新鮮で、よく記憶に焼き付いていた。
そこから連想して、次に彼は父親の嗜好へと考える対象を移した。
幸の父である博則。彼は『和』というものを重んじていた。それが単なる好みなのか、もしくは伝統やしきたりなのかは不明だが、とにかくそのようであった。
「服とか……」
例えば衣類。家にいる時も、外へ出る時も、彼が身に着けるのはいつだって甚平衛などの和装ばかりだ。
「ご飯とか……」
例えば食事。これも、彼は和食を好んで食べる。和食でなければ口にしない、などと言うほど頑固な拘りでもないのだが、あまりいい顔はせず、おかげでそこに勝手に配慮をした幸の母によって、祖師谷宅での夕食は洋風のものがあまり出てこない。
「あと話し方とかもだよね……」
例えば言葉づかい。博則は話す時に、どこか堅苦しい表現や古風な言い回しをよく使う。それは、横文字を使えば短く的確に表現できるところを、無理して日本語で表わそうとするからだ。そんなたちが祟って本や新聞を読んでいる途中、突然登場する片仮名表記の和製英語に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている、というのは彼の自室でよく見られる光景だった。
「けどまぁ、一番は――っと」
ハッ、と何かを零しかけたところで、幸は口元に両手をあてて自分の行動を戒める。
(最近、独り言が増えた気がする……)
今度は、実際にではなく内心で口にする。それは、ここ数日で自覚できる程に顕れた彼の変化の一つだった。
ほとんど会話の無い生活を送ってきた故に、彼は最近の口も体も休まらない慌ただしい日々の中で、確実にお喋りというものが好きになってきていた。それが行き過ぎた結果、ということだろうか。
そんな事を考えながら、たっぷりと百二十秒ほど経った後。しっかりと身体が芯まで温まった事を確かめた幸は、風呂場を後にし、床へと就くのだった。
――――――
「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」
「あ、六人です」
「六名様ですね、少々お待ちください。……はい、ご案内しますね。こちらへどうぞ」
日は変わって、本日は木曜日。放課後になり、無事に入れ替わりも済ました幸を含むハロハピのメンバーは、揃ってファミレスチェーン店へやってきていた。
人数を訊いた後、条件に合う席が空いているかを確かめた店員は、慣れた動作で六人の事を先導する。案内されたのは窓に面する六人席で、彼女らは椅子に腰を下ろすと、すぐにメニューへと手を伸ばした。
「では、ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びください」
「あ、すいません。先にドリンクバー六人分だけ、お願いします」
定型文を残して下がろうとする店員を、美咲が呼びとめて既に確定している分の注文だけを済ませる。それは他のメンバーへの確認なしの彼女の独断であったが、ハロハピがこういった店を訪れた際にドリンクバーを頼むのは常であった為、誰も口を出す事はなかった。
「こころん、早速ドリンクバー行こ!」
「えぇ、行きましょう。はぐみ!」
「はぐみ、この前ね、すっごい美味しいジュースの作り方見つけたんだ! こころんにも作ってあげる!」
「本当!? それは、とっても楽しみね!」
なんとも嫌な未来を予想させる不穏な言葉を口にしながら、こころとはぐみの元気はつらつコンビが店の奥へ駆けてゆく。
「じゃあ私は、ここで荷物みてるね」
置き引きなんてめったにないとは思うけど、そう言って花音は、一人残留を表明する。進んで嫌な役を引き受けてくれる先輩に感謝を述べて、美咲は幸の手を引いてこころたちの後を追う。
「すまないが、私は少しお手洗いに……」
同時に、薫もそう言って席を立った。
「なら、あたしついでに薫さんの分も入れてきますよ。何がいいですか?」
「本当かい、美咲? なら……紅茶、だね。とびっきり儚いのを頼むよ」
「はいはい、とびっきり普通の紅茶ですね……」
慣れたやり取りを溜め息交じりにこなして、美咲は改めて席を立つ。薫とは通路の途中で別れた二人がドリンクバーに着くと、そこでは既にはぐみの手によっておぞましい怪物が造りだされてしまっていた。
「は、はぐみ……それは?」
「あ、みーくん! これはね、はぐみが発見した特製ちょーうまドリンクだよ!」
若干引き気味な美咲の問いにとびっきりの笑顔で答えるはぐみ。
確かに機械に表示されているジュースはどれも美味しいものばかりで、それらをどう混ぜ合わせたところで、元が良いのだからそう悪い味になるとは思えない。だが、彼女の手もとの液体は、暗い緑や濃い紫などに順々に色を変えつつブクブクと泡を立ち昇らせており、見た目だけの話をするならば、はぐみがつけた名前がどこまでも似つかわしくない代物だった。
そんな珍事も美咲には今更おおげさに驚くほどの事でもなくて。彼女は、それが何かの間違いで自分に回ってくる事だけはないように、と祈りながら薫と併せて二人分の飲み物をいれた。
「あ、コウくんは花音さんの分もいれてきてくれる?」
「はい、わかりました。……って、花音さんは何がいいんでしょうか?」
「んー、いつもはリンゴジュースとか飲んでるのが多いから、それでいいんじゃないかな」
美咲に言われるがまま、リンゴジュースと自分の分のぶどうジュースをいれた幸はすぐに席へと戻る。
二人が席に着いた時、薫はまだ戻ってきておらず、こころとはぐみはメニューを大きく広げて、品物をいちいち指さしてはどうのこうのと言い合っていた。そのページには、見間違いでなければがっつりのセットメニューが載せられている。
「うーん、どれがいいか迷っちゃうなー」
「はぐみ、もしかしてお昼食べ損ねたりした?」
数度こすって、自分の目が正常である事を確かめた美咲は、はぐみに一つの可能性を問う。というのも、今は学校が終わってすぐの午後四時。昼休みの時間はおよそ一時なので、昼食をとってから四時間も経っていない。今の段階でそこまで腹が減ることなどあるとは思えなかった。
「ううん、ちゃんと食べたよ。でも今日の六限、体育で持久走だったから。思いっきり走ったら、お腹すいちゃって!」
「あぁ、なるほど……」
理由を聞いた美咲は、短く納得の思いを示す。はぐみとは違うクラスの為タイミングは違うが、彼女もまた同じ事を午前中の授業で行っていたからだ。走る事がそもそもあまり好きではなく、記録にもこだわっていない美咲はそこそこのペースを維持するだけだったが、対照的に、走る事が大好きで何事にも全力投球なはぐみが、そこで多大なエネルギーを消費しただろう事は想像に難くなかった。
「カレーかハンバーグか……。どうしよう、決められないよー!」
「カレーもハンバーグも食べたいのなら、どちらも頼めばいいんじゃないかしら? あたしならそうするわ!」
「……! 確かに! さすがこころん、あたまいい!」
「こらっ」
最終的に二つにまで選択肢を絞ったはぐみに、こころがとんでもない事を吹き込んだ。これはドリンクバーの惨劇をもスルーしてみせた美咲でも、看過する事が出来ず、あまり気のこもっていない声ではぐみを叱った。
「はぐみ、スキーの時の青空カレー……忘れたわけじゃないよね?」
「う、それは……」
はぐみの脳裏をよぎるのは、少し前に他バンドのメンバー数人と異色の組み合わせで人工スキー場へ赴いた時の事。はぐみはスキー休憩中にロッジで頼んだカレーに、あこと日菜と悪ノリをして頼めるすべてのトッピングを盛ってしまったのだ。食べても食べてもカレーは底を見せず、後から駆けつけた美咲と麻弥の救援もあってなんとか事態は収束したが、『青空カレー』という単語はその時の苦しみと共に、しっかりと彼女の中に根付いてしまっていた。
はぐみはお腹をさする。その内には確かな空きが感じられたが、それが丸々二人分の食事が入る程かどうかは怪しいところだった。
「でも、やっぱりはぐみどっちも――」
「あら、薫が誰かと話してるわね?」
悩ましげな言葉を遮って、こころが店の奥を指さす。見れば、化粧室前の通路で薫が四人の女子生徒に話しかけられていた。彼女らは皆ひとしく羽丘の制服に身を包んでおり、その態度からもおそらく薫のファンなのだろう事がうかがえる。
薫がファンと交流をする。これ自体はなんて事はないのだが、問題はここが店の中だという点だった。憧れの人に会えた興奮のあまりか、彼女らは黄色い声量を抑える事が出来ておらず、端的に言ってしまえば、少しうるさい。その上、このまま放置すればファン独自のネットワークなどから更に人が増える危険性もあった。
「うわぁ、薫さんまたファンの人に囲まれてる……」
「あれはきっと、薫のお友達ね? お話ししてみたいし、あたしちょっと行ってくるわ!」
「あー、あー! こころ待って! お願いだから、ほんと待って!」
「み、美咲ちゃん、私が行ってくるから……」
推定十割の確率で事態をややこしくするだろうこころを美咲が必死に引きとめていると、その間に花音が薫の救出に向かった。これで薫の方はどうにかなるだろうが、まだ問題が一つ手つかずのまま残っている。
なおも思い悩みを深くしているはぐみを横目で見つつ、まずはこころを落ち着かせてからだ、と美咲が考えたその時。
「――あ、あの! はぐみさん!」
ここまで目立った発言の無かった幸が、
(……コウくん?)
「あの、よければ僕とはんぶんこしませんか? そうすればどちらも食べられますよね」
「こーちゃん……いいの?」
「もちろん、はぐみさんさえよければですけど……」
「いい! いいに決まってるよ! こーちゃん、ありがとー!」
幸からの提案を、はぐみは快諾して飛び跳ねるように喜ぶ。
その様子を美咲は、内心に隠せる程度の驚きと共に見ていた。まさか幸が――まだ"よければ"を重ねるほどに遠慮がちではあるが――はぐみに助けを求められるでもなしに、自分からそう持ちかけるとは思いもしなかったから。少なくとも、出会ったばかりの彼では到底できなかったに違いない。
美咲は幸の方へ顔を近づけ、ヒソヒソ声でお礼をした。
「ありがとね、コウくん」
「いえ、そんな! 美咲さんには、いつも助けられてばかりですから……」
「けど、大丈夫だったの? メニュー二つを半分にしても結局一人前はある訳だけど」
「えっと、実は今日、練習に夢中になりすぎてお昼を逃しちゃってまして……」
「ふーん?」
美咲は幸の顔を見る。その表情からは、彼の言葉が真実なのか、それとも気を使わせない為の虚栄なのかは判別がつかなかったが……。
「ま、いいか。もしダメでも、六人いればなんとかなるだろうしね」
そんな結論で、美咲は話を締める。
丁度そのタイミングで薫が花音に連れられて戻って来、残りの四人はサイドメニューなどの中から、比較的軽いものを幾つか見繕って注文するのだった。
「ところで、今日はどうしてファミレスにやってきたんだったかしら?」
「いや、忘れてるんかい」
店員が席を去ってすぐ。人差し指を顎に当てたこころが、唐突にそう言い出した。
「あんたらが昨日ライブ後にどんちゃん騒ぎしたせいでできなかった反省会をしようって、あたし言ったよね?」
「反省会! そう、あたしたちは反省会をしに来たんだったわ!」
とても嬉しそうに、美咲の言った事を復唱するこころ。反省会ってあんまり感じ良い言葉じゃないんだけど、とこと弦巻こころに対しては無駄な事を美咲は考える。きっと彼女にとっては、ハロハピのメンバーが集まってするのなら、どんなことだって楽しく感じられてしまうのだろう。
「私は昨日も、華麗で儚いギターを披露する事が出来たと、そう自負しているよ」
「はぐみは実は二曲目の途中でちょっとだけ失敗しちゃったんだ……。けど、それ以外はちゃんとできたよ!」
「ぼ、僕は自分ではミスなくできていたと思うのですが……。何か、皆さんから見てダメなところなど、ありませんでしたか……?」
薫、はぐみ、幸、と。段々と自己申告に自信がなくなっていくが、喜ばしい事に、最後の問いには誰も具体的な答えを持ち合わせていなかった。
「特別ここが、っていうのはなかったんじゃないかな? むしろ、コウくんは譜面とかも貰って全然経ってないのに、もう弾けるようになってるなんて、とってもすごい事だと思う!」
花音の手放しの賞賛に、幸は思わず頬を緩めてしまう。彼女の言う通り、決して難易度の低いとは言えないハロハピの楽曲を、ほんの一週間足らずで演奏できる段階まで持ってきている彼の成長スピードは、通常の学生バンドの観点からは異常の一言に尽きた。
「ありがとうございます。……けど、セットリストに入ってる曲を重点的にやっているので、全部を弾けるようになったわけではありませんし……。なにより、僕は皆さんが学校に言っている間も練習ができますから」
「そういうことか。ちなみに、ちょっと気になったんだけどさ。コウくんって、一日どれくらいキーボードの練習してるの?」
「そう、ですね……。だいたい八時間から……多くて十二時間くらいでしょうか?」
『じゅ、じゅうっ!?』
ふとした拍子に浮かんだ素朴な疑問。幸は回答の最後に、他の三人に聞こえない程度の音量で補足をしたが、それは美咲と花音には衝撃的すぎた。
彼の言う通り、こころたちが学校に行っている間の時間を練習に充てれば、それだけを確保する事も出来るだろう。ただそれは、あくまで理論上の話であって、実際には飽きや疲労などの問題もあり、口にするほど簡単な事ではないはずだ。もっとも、語る際の表情を見る限り本人に無理をしているという感覚はなさそうだったが。
「次はあたしね! あたしは昨日は――」
そんなこんなで続く反省会。それは、何度も何度も脱線を繰り返しながら、およそ夕方頃まで続いた。
――――――――
「あー、疲れたー」
「あ、あはは。お疲れ様です、美咲さん」
反省会も終わり、帰路の途中。幸と美咲の二人は夕陽を背に受けながら、仲良く坂道を上っていた。
「まったく、反省会で疲れるって普通に考えたらおかしいでしょ……。そうだコウくん、今日は色々ありがとうね」
「いろいろ……? 僕、何かしたでしょうか?」
「してくれたよ。はぐみを助けてくれたり、こころを止めてくれたり――ま、いいや」
反省会の始まる前から、その最中まで。幸がしてくれた事を列挙しようとした美咲だったが、彼の性格から無理にお礼を言われるのも苦手だろうと、その口を途中で止めた。
おかげで、あたりは静寂を取り戻して。そのまま数分ほど、ただ共に歩くだけの関係を続けた二人だったが、そろそろ幸の家も見えてくるかというあたりで、美咲の方がポッと口を開いた。
「コウくんはさ、ハロハピに入ってよかったって、思う?」
「……え?」
それはなんというべきか、とにかく漠然とした問いだった。
美咲自身も、一体どんな回答が欲しくてこんな質問をしたのかはわからなかったが、二人きりの静かな空気の中、彼女はそう問わねばならぬような気がした。
「あたしはね、コウくんが入ってくれて嬉しかったし、おかげで楽しくなったし……うん、よかったなって、思う」
しみじみと、空気の中へ溶かしていくような雰囲気で、美咲は呟く。
「ぼく、も……。そんなの、僕もです。ハロハピに入ってよかったなって、そう……そう、思います!」
「……ん。そっか」
幸の力強い同意に、美咲はくしゃりと破顔した。
もう、角を曲がれば祖師谷宅が姿を現す。
彼との別れは、すぐそこにまで迫ってきていた。
だから、彼女は言うのだ。
「――また明日、コウくん」
しれっとスキー周りの情報が改変されてますが、つじつま合わせです。申し訳ない。
改行具合、どのように感じましたか?
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地の文間もっと開けた方がいい
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セリフ間もっと開けた方が
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上記二つとも
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特に問題ない