びじょとやじゅう   作:彩守 露水

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第9話「紛物の事情」

 二人きりの密会から大分経ち、教室では本日四度目になる授業が催されていた。

 科目は数学。小気味良い音を響かせて数式がチョークによって書き連ねられていく傍ら。奥沢美咲は机に頬杖をついてぬぼー、と解説の吹き抜ける筒と化していた。その態度がこの授業だけなら『あぁ、数学が嫌いなのかな』ともなろうものだが、何を隠そう彼女、一限目からここまでずっとこの調子である。

 その頭の中では、ある言葉がただただリフレインしていた。

 

(『いっぱい楽しい事を教えてあげて欲しい』って。何それ、抽象的すぎない……?)

 

 それは優が美咲に託したたったひとつの願い。その具体性の皆無さに軽い文句を垂れるが、同時に、それも仕方がないと納得している彼女もいた。コウの事情を知ったが故だ。

 数時間を共にした美咲は、しっかりと知識面の教養を感じさせる反面、対人に慣れていない様子だったり世間について疎かったりするな、と彼を評価していた。

 

(しっかし、本物の箱入り娘なんてのが今どき実在してるなんて思わなかったな……あ、娘じゃないか)

 

 致命的で、しかし仕方ない間違いを正しながら、美咲は思考を続ける。あーだこーだと言いながらも一度引き受けた以上、彼女は頼みを無下にするつもりは毛頭なかった。

 

(楽しい事ねぇ……。それ聞いて真っ先に思い浮かぶのは……)

 

 顔は動かさず、目線だけをある人物へ向ける。『楽しい』のスペシャリストこと弦巻こころは、実に楽しげにノートに何かを書きなぐっていた。角度の問題でその詳しい内容は見えないが、黒板を写し取っている訳ではない事だけは確かだった。

 

(こころは感性特殊すぎだし無しでしょ)

 

 脳内でこころの名前にバツ印を付け、思考の枝を再び育てる。

 

(そもそも男子中学生が何を楽しめるかなんて知らないし。あ、でも花音さんとかいいかも。なんか通ずるところもあるみたいだったし。後はそうだなぁ、他のバンドの人たちにも――)

 

 そこまで考えたところで、チャイムが鳴り響き授業が終わる。いつのまにか四限まで終わってたなぁ、などとまるで他人事のように呟いて美咲が礼を済ますと、瞬間、教室の扉が勢い良く開かれた。

 そこにいたのは二つ隣のクラスのはぐみ。授業終了から即飛び出して来たとしか思えない早さでやってきた彼女は、声を大にしてこう言うのだった。

 

「みーくん、こころん、大変だよ! ゆーうんが記憶喪失になっちゃった!?」

 

 内容こそ荒唐無稽だが、はぐみの言動は真剣味で溢れており、心の底から困惑している事がわかる。その様子に美咲は、若干の申し訳なさを覚えつつも内心で安堵の息を吐くのだった。

 

(よかった。祖師谷さんの方もうまくやってくれたみたいだ)

 

 

 

――――――

 

 

 

 北沢はぐみは走っていた。幼年からソフトボールで鍛えてきた脚力を遺憾なく発揮し、仲間に重大な、ともすればハロハピ結成以来最も深刻かもしれない問題を伝える為に。

 その事が発覚したのはつい一時間ほど前、三限と四限の間の十分休みにはぐみが優へ喋りかけた時だった。本当は朝から話す機会をずっと窺っていたのだが、香澄や沙綾と楽しそうにしている間に割って入るのも忍びないと一人になるタイミングを待っていて、結果そんな時間になってしまったのだ。

 『ねぇねぇゆーうん! 今日のパーティーの事なんだけど』と、話しかけられた優は困惑顔で、何の話か、とそう返した。その時にはぐみが受けた衝撃と言えば、まるで雷にでも打たれかと思う程だった。

 そして、何かの間違いだと懸命に懸命に説明を続けた彼女は、衝撃の事実を知る事となった。

 

『え、それ本当……?』

『うん。昨日の学校終わった後、何してたのか記憶が全くないのよね。気付いたら家で寝てたって言うか――』

 

 その後もしばらく優は何かを話していたような気がするが、はぐみの耳には微塵も入って来なかった。そのまま、始まった次の授業をまるで案山子の如く過ごし、終業の挨拶がすむとクラスの誰が着席するより前に教室を飛び出したのだ。

 

「みーくん、こころん、大変だよ! 優が記憶喪失になっちゃった!?」

 

 C組中の視線が扉付近へ集中する。しかしそれも、叫んだ人物がはぐみだとわかった途端にパラパラと散っていった。彼女、こころのように奇行で有名なわけではないが、時たまおバカな事を言う奴程度には周囲に知られており、皆『またか』と思うだけだった。

 

「優が記憶喪失? それは本当なの、はぐみ」

「うん。さっきね、歓迎パーティーの事を話そうと思ったら、ゆーうんが『昨日の事は何も覚えてない』って!」

 

 そう言いながら、心中の不安などがどんどん膨らんできたのか、はぐみは遂に涙までを浮かべてしまう。このまま事態が大きくなってしまう事を危惧した美咲は、早々にはぐみを落ちつけに掛かった。

 

「あー、はぐみ? その事なんだけどさ、あたしが詳しく知ってるから、花音さんも呼んで一回皆で話をしよう」

「そうなの!? じゃあ、早速かのちゃん先輩呼びに行こう!」

「あー、待った待った!」

 

 話を聞くや否や、気持ちが(はや)り手を取って走りだすはぐみに対し美咲は全力で踏ん張る。肩の抜けるような痛みと引き換えに橙の暴れ馬を引きとめる事に成功した。

 

「花音さんはあたしが呼んでくるから、はぐみは祖師谷さんをお願い。こころは……そうだな、中庭に適当に場所とっといてくれる?」

「了解だよ、みーくん」

「わかったわ、美咲」

 

 三人が各々別の場所へ向かう。

 

 

 

 それから約五分後、優と花音を加えた五人はこころが確保しておいた中庭の一角で落ちあっていた。

 

「……あ、繋がった。もしもし薫さん、聞こえますか?」

『もしもし、聞こえているよ。美咲が学校から掛けてくるなんて珍しい。どうかしたかな?』

「えー、ちょっとハロハピ緊急会議が開かれることになりまして」

『緊急……だって!? 一体何があったんだい?』

「薫くん、大変なの! ゆーうんが記憶喪失で昨日の事全部忘れちゃったって!」

 

 悠長に話している場合か、とばかりにはぐみの横槍が飛び出す。その振る舞いは、一秒でも早く真実を知りたいと言外に語っていた。

 

「でも、みーくんが色々知ってるらしくて、今から話してくれるって」

「はいはい注目。じゃあ説明するよー」

 

 パンパンと手を叩き、美咲は優の横へ移動する。そして肩に手を置いてこう言った。

 

「昨日確かにハロハピには新メンバーが入ったけど、その人は祖師谷さんであって実は祖師谷さんじゃなかったんだ」

「どういうこと……?」

 

 美咲の珍妙な言葉に、はぐみは首を傾げる。彼女の知る中で祖師谷という名字を持つ人物は二人いるが、その内で美咲が『祖師谷さん』と呼ぶのは姉の方のみ。まったく訳がわからなかった。

 

「って言っても解んないよね。つまり解りやすく言うと、祖師谷さんはね」

『…………』

「――二重人格なんだ」

『えぇぇ!?』

 

 美咲が短く核心に触れる。これにばかりは薫、こころ、はぐみ、そして昨日の真実を認識している花音は殊更(ことさら)に驚いた。

 更に説明は続く。

 

「昨日私たちといたのは今と違う人格の方で、その間のことは覚えてないんだって」

「じゃ、じゃあ、ゆーうんの中にはもう一人違う人がいるって、そういうこと!?」

「うん、そういうことかな」

「……言われてみると昨日のゆーうん、なんかちょっとヘンな感じだったかも」

 

 今更言うまでもないことであろうが、これは勿論ウソ、今朝に密会にて急遽決まった雑な設定である。故に、花音には初耳なのだ。

 細やかな部分を二人で考えなどはしたが、その原案は美咲のもの。これを聞かされた優ははじめ、もしやふざけているのだろうか、と考えたものだ。それくらい、美咲のアイデアは現実味のないものだった。

 故に、いま目の前で疑いではなく驚きを表すこころたちのことが、優にはとても信じられなかった。

 花音が美咲へ、ひっそりと耳打ちをする。

 

「ねぇ、美咲ちゃん。一体どういう事なのかな?」

「花音さん。いえ、本人と色々話してみて、この設定が一番やりやすいかなって事になったんですよ」

「えっ、じゃあそこにいるのってコウくんじゃないの!?」

「あれ、そういえば言ってませんでしたっけ」

 

 どうやら彼女、優の事をコウと思っていたらしい。学年的に優は後輩という事になるのだが、例えそうだとしても初対面の人という事で花音は身を固くしてしまった。

 

「えっと、優ちゃん……って呼んでいいかな? 初めまして、松原花音って言います」

「初めまして! 松原先輩の事は聞いてます。昨日は弟がお世話になったみたいで」

「ううん、そんな。むしろ私たちの方が迷惑掛けちゃったっていうか……」

「ぷっ、あっははは」

 

 花音の言葉を聞いて、優が何故か我慢ならなかった様子で笑いだす。

 

「も、もう、何で笑うの!?」

「いや、先輩が美咲ちゃんとまったく一緒の事言うからおかしくって」

「そうなの?」

 

 問いを乗せた花音の視線に、頬を搔きながらにへらと崩れた笑顔で美咲がうなずく。常日頃ハロハピでストッパー役をしている二人だからこそ、考える事が重なったのだろう。

 

「ねぇ、美咲」

「ん。どうしたの、こころ」

「ん-っと、言葉にしにくいのだけど、二人は二人とも優なの?」

「えっ?」

「だって二人とも優だと、どっちを呼んでいるのか判らないじゃない?」

「あー、そっかぁ。そうだよねぇ……」

 

 こころが出した素朴な疑問に、美咲は目を泳がせた。見ると、優も『しまった』という風な顔をしている。こころの疑問に対する答えは、今朝打ち合わせた内容の中には存在していなかった。

 

『そういえば、昨日私に名前を教えてくれた時、少し言い淀んでいたような気がするね。もしかして、本当は別の名前があったりするんじゃないかな?』

「……!」

 

 澄ました顔をしてこそいるが、その裏で美咲は話をどう持っていこうか脳を今までにないほど回転させていた。そして、そんなタイミングで発された薫の何気ない言葉が彼女に天啓を授けたようだ。

 こそこそと優の傍に寄った美咲が、小さく耳打ちをする。はじめ、訝し気な表情を露わにしていた優だが、やがて覚悟を決めたような顔になると耳目を一手に引くように大きく声を上げた。

 

(信じるからね、美咲ちゃん!)

「そ、そうなの! 信じてもらえないことが多いから、普段は私の名前を言うようにしてもらってるんだ!」

『なるほど、ね。なら改めて、あの子猫ちゃんの真実の名前を教えてほしいな』

 

 『本当にこれでいいの?』と優がアイコンタクトを送ると、美咲はおもむろに深く頷いた。任せてくれ、そう言っているように優には感じられた。

 

「コウ」

「……?」

「優の中にいるもう一人の名前はね、コウって言うんだ」

「美咲、コウは確か優の弟の名前じゃなかったかしら?」

「そうだよ。優の弟の名前はコウ。それで優の中のもう一人の名前もコウなの」

 

 したり顔で、美咲はめちゃくちゃな事を言う。普通の人なら絶対に、何かおかしいと感じるような、違和感の塊の様な台詞だ。優は思わず囁く。

 

「ちょっと美咲ちゃん、さすがにそれはおかしいでしょ。バレちゃったんじゃ?」

「あ、やっぱそう思う? っていうか、普通はそうなるはずなんだけどね……」

 

 まぁ見ててよ、と親指でこころたちの方を指す。そこにいた彼女らの表情に困惑などは少しも浮かんでいなかった。

 

「そうなの。姉弟で同じ名前だなんて、一緒にいる時はちょっと不便かもしれないけど、それ以上にとっても素敵な事だと思うわ!」

『名前というのはその人を表す最たるもの。そう考えると、同じ名を持つ君たちはきっととても強固な繋がりで結ばれているのだろうね……。あぁ、実に儚い』

「え、えぇぇ」

 

 納得している、というよりは何も疑わず言われた事すべてをそのまま受け止めている様子。それが優には、とてもではないが理解できなかった。

 

「そもそも、これくらいでバレるんならあたしも苦労してない訳で……」

「うーん。この人たちに任せたの、ちょびっと早計だったかも……?」

 

 期待を寄せてから僅か一日、早くも後悔一歩手前まで来てしまっている優であった。

改行具合、どのように感じましたか?

  • 地の文間もっと開けた方がいい
  • セリフ間もっと開けた方が
  • 上記二つとも
  • 特に問題ない

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