3.1 瞬間
「ふぇぇ……」
萩原雪歩は穴を掘って埋まりたい気分だった。
スコップはある。手に持っている。しかし現実に埋まることなどできない。むしろ掘るなどもってのほかだ。
毎度お馴染み、ブーブーエスの楽屋。その天井裏に雪歩は潜んでいる。もし仮に天井を掘ろうものなら、雪歩は落っこちてしまう。雪歩が逃れたい現実が広がっている、恐ろしい楽屋へと真っ逆さまだ。
「ど、どうしよう……」
弱気な思いが雪歩の心に広がっていく。それがいけないことであると雪歩にはわかっている。アイドルはいつだって輝いていて、みんなを勇気づける存在でいないといけないのだ。
ふと、考える。
今の自分は本当にアイドルであると言えるだろうか。
萩原雪歩は個性豊かな765プロのアイドルたちの中でも、特に清純派と言うにふさわしい存在だ。淡い茶色のサラサラとしたショートボブの髪に、大人しそうなたれ目が男女問わずに庇護欲を掻き立てる。自分に自信がなくて男性と犬が苦手。それでも健気にアイドル活動に取り組む姿はファンを勇気づける。
その何事も頑張る姿勢こそが、萩原雪歩を人々をひきつけてやまないアイドルたらしめるのだ。
だが、今の雪歩は眼前の現実から目を背けてしまっている。今の雪歩には、自分が弱気な女の子のままに思えた。
ああ、このまま天井裏に引っ込んだままでいたい。むしろ天井と一体化してしまいたい。
そうすれば、天井にぷすりと空いた穴から覗く、悪夢のような現実から目を背けられるのに。
改めて、確かめるように穴を覗き込む。見慣れた楽屋だ。ブーブーエスの仕事の時はよくこの楽屋を使わせてもらっている。そこには、抱き合う見目麗しい一組の男女が……否、どっちも女性である。
一人は如月千早。765が誇る孤高の歌姫。そしてもう一人は……。
「真ちゃん、どうして」
雪歩の掠れた声は、二人には届かない。
菊地真は、765プロのアイドルの中でも、最も女性人気のあるアイドルである。中性的で、凛々しく整った目鼻立ち。灰色がかったショートヘアに、輝かんばかりの爽やかな笑顔。これにアクション俳優顔負けの、抜群の身体能力もあるとなれば、世の女性が彼女を王子様ともてはやすのも大げさではないだろう。
「……千早、その、本気なの」
「ずっと好きだった……もう、抑えられない」
「あわ、あわわわわわわわ」
(真ちゃんまずいよ同じ事務所のアイドル同士でそんな、いやそもそも女の子同士でそんな……)
見てはいけないとわかっていながらも、見てしまう。むしろ食い入るように見てしまっている。ブーブーエスの楽屋は雪歩の知らない間に、禁断の花園と化していたのである。
「や、やっぱダメだよ。ボクたち女の子同士なのに」
「真は、いや?」
「ええっ、いや、その……」
「お願い、私を見て」
逸らしていた視線と視線が絡み合う。しばらくの沈黙のあと、千早がその潤んだ瞳を閉じた。雪歩からは真の表情は窺うことができない。やがて真の後頭部が、切なげな千早の顔に覆いかぶさるように……。
「だっ、ダメぇぇぇーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
その瞬間、天井裏から天使が舞い降りた。
*
時は数刻ほど遡る。
「はぁー……きゅんきゅんくるなぁ……」
事務所のソファに深く腰をかけ、菊地真は読書に没頭していた。読書と言っても、小難しい本を読んでいるわけではない。音無小鳥厳選の少女漫画である。この光景は765プロにおいて、そう珍しいものではない。真と小鳥は少女漫画愛好家として、暇を見つけてはこうして互いの勧める漫画を読んで、感想を言い合う仲なのだ。
765プロ漫画同好会(非公認)は今日も絶賛活動中である。
「いいわよね……。特に主人公が健気に皇帝陛下の帰りを待つところがまた……!」
「わかります! 彼が戦場に向かうとわかっていながらも、笑顔で見送るそのいじらしさ! くうーっ! ボクだったら我慢できなくて一緒についていっちゃうなぁ!」
「真ちゃんだったら、そのまま大活躍して勝ってきちゃいそうね……」
立ち上がって、徒手で槍をふるう真。気分はすっかり戦場で一騎当千の活躍をする勇者である。その動きは実に様になっており、真が突き出した空想の槍の先に、獰猛に笑う敵国の猛将の姿を小鳥は見た。貴公子然とした真と筋骨隆々の猛る漢たちとの血湧き肉踊る戦いを夢想すると、図らずも小鳥の口許に一筋の鼻血が流れた。彼女の乙女的思考は今日も絶好調である。
「来ないかなぁ、こういうお淑やかなお姫様の役。ジャンジャンバリバリ頑張るんだけどなぁ」
「真ちゃんはやっぱりお姫様役がいいのね」
「当たり前じゃないですか! 憧れですよ? 今までのボクのイメージとは、その、違うかもですけど、ボクだってやればできると思うんですよ……」
真には目標がある。男の子のファンを増やすことである。
菊地真というアイドルは、とにかく女性人気が高い。握手会を開くと、その長蛇の列の半分以上が女性だ。先日街頭モニターに先行で流れたスポーツドリンクのCMで炸裂した王子様然とした笑顔に何人の女性がハートを撃ち抜かれたことだろうか。
「女の子のファンだって、もちろん大事ですよ? 今までのボクのイメージも大切にしていきたい。でも、たまには女の子らしいことしてみたいじゃないですか……」
(出た! いつも凛々しい真ちゃんから不意に溢れる乙女な一面! 大丈夫よ! 今のままで充分、真ちゃんはお姫様やれてるから!!!!)
小鳥の魂の叫びが、自身の脳内にこだまする。当の本人はまるで自覚なく、少し気落ちした様子だ。
「落ち込まなくて大丈夫よ、真ちゃん。今の真ちゃんの魅力を知ったら、男の子なんてイチコロなんだから」
「……小鳥さん、今のボク、女の子してますか?」
「もちろん! 真ちゃんはいつでも女の子してるわよ」
「そうかなぁ……」
「真ちゃん、今日はなんだか重症ね」
いつも前向きな真だが、今日は珍しく元気がない。
「今日、このあと恋愛ドラマの収録なんですよ。……男役で」
「あら」
「嬉しいんですよ? 嬉しいんですけど、複雑ですよ……」
プロデューサーもまだまだ真の魅力をわかっていないなぁと、小鳥はこっそりアイドル通を気取った。
願わくばいつか、真がお姫様の役が来ますように……。
小鳥がそう願ったタイミングで、事務所のドアが開いた。
「お疲れ様です」
聞き取りやすい、よく通る声。開いたドアから淀んだ空気が抜けて、さらりと青い髪が舞った。
「おはよう、千早ちゃん」
「音無さん、おはようございます」
「じー……」
その瞬間、千早は強烈な視線を感じた。目と目が逢う瞬間、千早は怪訝な表情で真の様子を窺った。
「どうかしたの? 真」
「……千早って、カワイイよね」
「えっ?」
ジャーン、ジャーン!
瞬間、小鳥の中の尊みセンサーが警報を打ち鳴らした。
「ボクも髪、もっと伸ばそうかなぁ……」
「それって、どういう意味?」
「え?」
真剣な眼差しを受けて、真は少し戸惑う。
「いや、ボクも髪伸ばしたら、フェロモンバリバリになるかなー、なんて」
「……かわいいって」
「あ、ごめん。……気を悪くしたかな?」
千早は顔を赤らめて、無言で首を横に振る。
「気を悪くなんて、しないわ」
「そっか、良かったよ。……はは」
何やらいじらしい千早の態度に、真も引っ張られて恥ずかしくなってくる。
「あ、水を」
「水?」
「水を買い忘れたから、ちょっとコンビニ行ってくるわ」
「え、水なら冷蔵庫に……」
慌ててそっぽを向いて、千早は出入り口の扉に手をかける。ドアが少し開いて、止まる。
「その、真」
「うん?」
「もっと、かわいいって、言って欲しい」
ごとん、と重たい音が鳴る。小鳥が持っていた湯呑みを落としたのだ。しかし、そんな物音も気にならないほど、真は千早の様子に釘付けになっていた。
「そ、それってどういう……」
「行ってきます!」
慌てた様子で事務所を飛び出す千早。後に残ったのは、呆然と立ち尽くす真と、だらだらと鼻血を垂らしながら溢したお茶をハンドタオルで拭いている小鳥の2人だけだった。