フロントガラスに水滴が落ちてくる。ぽつぽつと、小雨の音だけが響く車の中、真は後部座席に座って、助手席越しに千早の青い髪を見つめていた。
「……雨降ってきましたね」
千早の声に我に返ると、真はようやく窓の外に目を向けた。
「本当だな」
「本降りにならないといいですけど」
車のワイパーがつく。ちょうど信号前に差し掛かって、車が減速していく。真はワイパーが規則的に揺れる音を聞きながら、今度は信号の赤い灯りを見つめた。耳が寂しく感じた。
「……プロデューサー、何か音楽かけませんか?」
「ああ、構わないぞ。何が聴きたい?」
「えっとー、プロデューサーの最近のイチオシとか?」
聞いてはみたものの、特に聞きたい曲は浮かばない。真はただ、何となく感じる居心地の悪さを払拭したいだけなのだから、それも無理のないことである。
「イチオシ……なかなかプロデューサー心をくすぐる言葉じゃないか。よーし、任せろ」
プロデューサーは意気揚々とCDラックをあさると、取り出したCDを車のプレーヤーに差し込んだ。
「あ、プロデューサー。青になりましたよ」
「おっと、サンキュー千早」
止まっていた車が進みだす。その瞬間、音楽が流れだした。
「あ……」
視線を感じた。
不意に見上げた、ルームミラー越しに目と目が逢う。切れ長な蒼い瞳に、真は自身の心が揺れるのを強く感じた。
「この曲って……」
「目が逢う瞬間、いい曲だよな。なんたって歌手がいい」
「もう、プロデューサー? からかわないでください」
「からかってなんかないぞ。いつだって俺のイチオシはお前たちの曲だからな」
真は今朝の千早との出来事を思い返す。今朝方、可愛いと言ってほしいと訴える彼女の切なげな瞳が真の心にずっと引っかかっていた。
(千早、何かあったのかな……?)
普段クールな千早が絶対に見せないような表情に、今流れている歌詞が妙に重なる。奇妙な居心地の悪さに体が強張るのを感じながらも、真は気持ちを切り替えようと、あえて千早に話しかけてみることにした。
「そうだ、千早。今日は歌の収録だっけ」
「ええ。ドラマのタイアップで新曲を録ることになって」
「ボクが出るドラマの曲だよね! 実はまだどんな曲か全然知らないんだよね。くぅーっ、楽しみだなぁ!」
「今回のドラマ、あの国民的少女漫画が原作だからな。先方も気合が入ってるみたいだよ」
国民的少女漫画『嘘から出た誠』。有名進学校に通う、成績優秀で運動神経抜群の女の子小鳥遊飛鳥。資産家の娘で、将来の許嫁も性格良しの超イケメン。自他共に認める完璧な彼女だが、敷かれたレールの上を歩く人生に何となく閉塞感を覚えている。
『いつか白馬に乗った王子様が私をさらってくれる』
そんな子供の頃のささやかな夢を今を持ち続けている彼女の目の前に、ある日突然異世界から本物の王子様が白馬に乗って現れて……。
「白馬の王子様役、なんだよなぁ」
ドラマのあらすじを思い返し、真は苦笑いを浮かべた。自分のイメージに合った役がもらえるのは幸せなことだと頭ではわかっている。ただ、ささやかな乙女のプライドがささくれ立っているだけである。
「真は、やっぱり嫌?」
千早の単純な問いかけが、真には単純な気遣いには聞こなかった。恥じらう千早の表情が思考の片隅をよぎる。
「その、嫌じゃないよ。少し、複雑な気持ちだけどね」
それは何に対しての答えだっただろう。揺さぶられた心に慌てて蓋をして、白馬に乗るのは楽しみだと取り繕った。
「そう」
何故か安心した声で千早が相槌を打つ。桜色に染まった頬に、真は気づかないふりで愛想笑いを浮かべたのだった。
◇
「お疲れさま……ですぅ」
二の句が継げない。
ゆきぽちゃんコスチュームに身を包んだ雪歩が意を決してスタジオのドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。人々の視線が一斉に雪歩に向かう。その圧に動揺しながらも、一人一人を確かめるように視線を動かす。それはもう錚々たる面々であった。
「ふ、ふえぇ……」
泣ける映画を撮らせたら右に出るものはいない(小鳥談。雪歩もそう思う)気難しいことで有名な実力派映画監督、四葉武志。普段は温厚だが、熱血な演技指導で有名な『掘削天使ゆきぽちゃん』のアニメ監督、古海誠司。さらに今回のドッキリ企画で協力してくれる、765プロの看板番組『生っすか』の見知ったスタッフたち。各々が一つのパイプ椅子を取り囲む形でそれぞれの席についている。
「どうぞ、おかけください」
全員の鋭い視線が雪歩に集中する。大人でも耐えがたい空気の重さ。それでも雪歩は息をぐっと呑みこんで、指示された通りにそのパイプ椅子に座った。
「あ、あのぅ……これはいったい?」
萩原雪歩は男性が苦手である。今でこそ気丈に振る舞えているが、それはアイドルとしての彼女の努力の成果であって、根本的な性質が変わった訳ではない。固く握りしめた変身ステッキに滲む汗がその証左である。
「オーディションだよ、雪歩ちゃん」
穏やかな声で、柔和に微笑む古海監督。ゆきぽちゃんで日頃お世話になっている相手の声に、雪歩は幾分の落ち着きを取り戻した。
「オーディション、ですか? プロデューサーからは何も聞いていないですけど……」
「急遽で申し訳ない。四葉監督とは旧知の中でね。今度やるドラマのキャスティングがなかなか決まらなくて困っているようだったから、雪歩ちゃんを推薦させてもらったんだ。君のプロデューサーには、先ほど許可を取ったよ」
「え、ドッキリの件は……」
「それは俺が説明しよう」
四葉監督のドスの利いた低音にたじろぐ雪歩。謝罪のジェスチャーをしている古海監督との組み合わせは、さながら飴と鞭である。
「来季のドラマで、ヒロインのライバル役がどうしても決まらなくて困っていてね。そうしたら、古海くんがプロモーションで面白そうなことやるって言うから、じゃあオーディションもかねて見てみようってなったんだよ」
「え、え。ドッキリで、オーディションするんですかぁ!?」
雪歩の表情から血の気が引く。ただでさえ緊張するドッキリに、突然オーディションの側面が付与されたのである。ヒット作請負人と評される実力派、四葉監督の作品でだ。
「とにかくさぁ、度胸のある子がほしいんだよね。ヒロインのライバル。異世界から大好きな王子様を追いかけてきた、お転婆なお姫様の役なんだけど、知ってるかな? 嘘から出た誠って、少女漫画原作の作品でね」
「それって、真ちゃんの……」
噓から出た誠。それは真が王子様役で出演予定の作品だ。男性役に悩む真を心配しながらも、密かに王子様姿を楽しみにしていた雪歩にとっては記憶に新しい。予習のために漫画も履修しているし、アニメだって視聴している。要は、普通にハマっている。
「まあ、急な話だし。無理にとは言わんがね」
四葉監督の鋭い視線が雪歩から外れる。そのことに安堵してしまう自分が、雪歩にはひどく恥ずかしく思えた。
「問われているのは覚悟の質ってやつだ」
「わ、私……」
再び雪歩を見据える四葉監督の言葉を受けて、アイドルを始めた頃を思い返す。引っ込み思案で、人前に出て何かを表現するなんて想像もついていなかった頃。気弱な自分を変えたくて、雪歩はアイドルの世界に足を踏み入れた。
「自信があるとは言えないです。……それでも」
初めてのライブで人前に立つことに怯えて逃げ出した。そんな自分を助けてくれたプロデューサー、アイドルの仲間たち。高い壁に負けそうな時はいつだって、一緒に歩んでくれる人たちの事を思う。そうすると、雪歩の心には勇気が湧いてくる。
変身ステッキのボタンを押す。ゆきぽちゃんの主題歌『掘削天使☆ゆきぽちゃん』が流れてくる。この曲がかかる瞬間、雪歩は気弱な自分からコスチュームチェンジを果たし、人の恋路に嫉妬して悪事を働く悪の秘密結社デバガメイヤーを埋め立てる、掘削天使ゆきぽちゃんになるのだ。
「私、やります。強くなるために……!」
ゆきぽちゃんの心に勇気がたぎる。変身ポーズを決めて、ステッキから変形した掘削スコップを四葉監督に突きつける。宣戦布告である。
「ゆきぽちゃん……! 君は最高にヒーローだっ!!」
雪歩に熱血芝居を仕込んだ張本人、古海監督がガッツポーズを決める。雪歩はゆきぽちゃんのアフレコにおいて、彼の激烈な演技指導を受けていた。挫けそうになりながらも、懸命に食らいついていく雪歩の頑張りに、古海監督は真剣に惚れ込んでた。
「一度決めたら、もう後戻りはできないぞ。必ずやりきってもらう。いいんだな?」
四葉監督の射殺すような眼光は、最早ゆきぽちゃんが憑依した雪歩には通用しない。苦手なことはたくさんある。それでも、逃げ出していてはいつまで経っても弱いままだ。
「はい! 一生懸命頑張りますぅ!」
故に、雪歩は努力する。765プロのアイドルたちの隣に、胸を張って立つために。
「コングラッチュレーション……!」
熱は、確かに伝わった。
「コングラッチュレーション……!!」
雪歩の熱量に感化されるように、一人、また一人。
「コングラッチュレーション……!!!」
スタッフたちのスタンディングオベーションが連鎖していく。古海監督にいたっては、感涙に咽ぶ始末だ。
「……へっ」
そこでようやく、四葉監督が笑った。
「いい根性してるじゃないの」
……獰猛に。
「じゃあ、さっそくだけどワイヤーつけてもらおっか」
「はい! ……え?」
戸惑う雪歩の感情を置き去りに、雪歩の身体はあれよあれよという間に、765プロの大切な仲間、菊地真が入る予定の楽屋の天井に吊るされるのであった。