「音無さん、この後ってお時間ありますか?」
夜。時計の短針が8時を過ぎようかという頃だ。
音無小鳥は間の抜けた顔で、思いつめた顔の千早を見つめた。
仕事も一段落し、事務所に残る数人のアイドルたちに帰宅を促そうと、席を立った時だった。
「どうしたの?」
「少し、相談したいことがあるんです」
珍しい、と小鳥は思った。
765プロの事務員として、小鳥は所属アイドルたちをデビュー以前からずっと見守ってきた。その中でも如月千早は人に頼るということをあまりしない少女だった。むしろ進んで壁を作ろうとしていたと思う。
「スケジュールの話?」
「いえ、ここではちょっと……」
歌以外には一切興味を示さない、強さと繊細さを兼ね備えた女の子。それが小鳥の持つ千早のイメージだ。
「……お仕事で何かあった?」
「仕事は順調です。どちらかというと、プライベートな話、なんですけど」
「えっ」
本当に珍しいと、小鳥は目をぱちくりさせた。
だか確かに、小鳥には最近の千早の雰囲気が柔らかくなったように思うのだ。きっかけは千早のスキャンダルだ。紆余曲折を経て、あの一件から復活を果たした千早は、以前よりも自然に笑うようになっていたし、人と関わろうという意識が強いように感じられた。
「あの、やっぱり迷惑ですか?」
「ううん! そんなことないわ!」
彼女はきっと変わろうとしているのだ。ならば小鳥は千早の自主性をなにより尊重したいと思った。
765プロの事務員として、それだけではなく1人の大人として、だ。
一歩一歩、765プロでの活動を通じて、アイドルたちが成長の階段を少しずつ進んでいく。
そんな彼女たちを見守っていくことが、小鳥にとって何より楽しみなことなのだ。
だから、小鳥は微笑んだ。千早の変化が何よりも嬉しくて、優しい気持ちになったのだ。
「私でよかったら、なんでも話してね」
そんな二人の和やかなやり取りを、こっそりとうかがっていた二つの影。
「んっふっふー。ぴよちゃん達、なぁにこそこそしてんのー?」
双海亜美と双海真美。
765プロ所属の双子アイドルだ。
彼女たちの朗らかな笑顔は、少しばかり人に生意気な印象を与えるが、決して嫌な印象にはならない。その生意気さもまた、彼女たちの魅力のひとつであるし、それ以上に愛らしさを感じさせるのだ。
顔立ちではほとんど区別がつかないが、見分けるポイントは髪型にある。
亜美は短めの髪を左側に、真美は長めの髪を右側に、それぞれサイドアップにしてまとめている。
765プロでは最年少である二人だが、その才能は本物。それぞれがアイドル活動を通じて日々成長している、まさしく新進気鋭の逸材なのだ。
ただ現状においては、ただのイタズラ好きな困った二人組であるが。
「何々ー? 千早お姉ちゃんもしかして、ぴよちゃんに愛の告白ですかなー?」
「でも残念だったねん! ぴよちゃんは真美のものだからねっ!」
「だめーっ、ぴよちゃんは亜美のなの!」
「こ、こら二人ともっ。大人をからかうんじゃありませんっ!」
小鳥の左右の腕を、それぞれがっしり掴んで引っ張り合う双海姉妹。小鳥は口では注意しているものの、どこか嬉しそうだ。双子アイドルが自分を巡って争っているというシチュエーションが、小鳥の乙女心をたまらなくドキドキさせるのである。
「からかっちゃダメだってー。じゃあ真美は千早お姉ちゃんとっぴ!」
「えっ」
小鳥の腕をぱっと放し、真美は千早の腕に飛びつく。その反動で、小鳥の体はバランスを崩し、亜美に向かって崩れる。それを、さっと避ける亜美。
「あーずるーいっ、亜美もぴよちゃんより千早お姉ちゃんがいいー!」
「ええっ!?」
哀れ、移り気な両手の花はあっけなく千早に向かう。地べたにしな垂れて腕を伸ばす小鳥を背に、亜美もまた千早に飛びつこうとしたその時だった。千早が意外な行動に出た。
「そう、真美は甘えん坊さんね」
「ふぁっ!?」
千早が真美を抱きしめたのだ。ぎゅーっという擬音がよく似合う力加減であった。
予想外の事態に双海姉妹は戸惑う。二人の当初の思惑としては、ここは千早が戸惑うべきところであった。
まず小鳥をチヤホヤする。そしてそのまま小鳥を置き去りにして、二人で千早に飛びつく。小鳥はいわば踏台の役割だ。普段真面目でイジりづらい千早に絡むための空気作り。ちょっとしたイタズラは、彼女たちなりのコミュニケーションの手段であった。
双海姉妹も、小鳥と同様に千早の雰囲気が柔らかくなってきたことを感じていたのだ。だからこそ、こうしてイタズラを仕掛けた。
だが二人の目論見は、脆くも崩れ去ることになった。
「真美、髪がさらさら。伸ばしてから大人っぽくなったわね。ふふ」
「ひゃ……っ」
片手で抱きしめたまま、千早は真美の髪にさらりと指を通した。広がる動揺。その中で一人、穏やかな千早。真美の鼻孔を、千早の髪のシャンプーの香りがくすぐった。
「あ、ああああのあのあの……千早お姉ちゃん?」
「なあに? 真美」
囁くような声に、真美はびくりと体を震わせた。
「い、息が、くすぐったいよぉ……」
顔を真っ赤にした真美はしかし抵抗することもなく、千早の腕の中に納まっていた。
「嫌だった?」
「嫌っていうか……」
「ていうか?」
「その、恥ずかしいっしょ……」
いつもの勢いはどこに置いてきたのか、真美はすっかり借りてきた猫状態。そんな真美の様子に千早はにこりと微笑み、改めて真美を両腕で抱きしめた。
「可愛い」
「うあうあ……」
ぷしゅー……と、真美の火照った顔から湯気が昇っていくのが、この時の小鳥と亜美には見えたという。千早と真美の身長はさほど変わらないはずなのに、この時の真美はとにかく小さな女の子に見えて仕方がなかったと、後の二人は語る。
……どれだけそうしていたのだろうと、真美は思った。
それは間違いなく少しの間のことであっただろうが、真美にはその数十秒にも満たない時間が、永遠のように感じられた。
……真美にお姉ちゃんがいたら、こんな感じなのかな。
疲れからだろう。真美がウトウトと瞳を閉じた、その瞬間だった。
——ガチャ
不意に、事務所のドアが開いた。
その音が、双海姉妹と小鳥を非現実な世界から引き戻した。
眠気の吹き飛んだ真美は慌てて千早から離れ、小鳥と亜美はそこでようやく我に返ることができた。
「みんな、お疲れさん」
プロデューサーだった。
「お疲れ様です」
これまで何事もなかったかのように、千早はさらりと挨拶をした。それとは対照的に他の三人の挨拶はどうにもバラバラで、ぎこちないものになった。しかしプロデューサーは特に気にすることもなく、双海姉妹に声をかけた。
「亜美、真美。親御さんがちょうど、下に迎えに来てるぞ。帰りの支度できてるか?」
「え、あ、うん。できてるっしょ……」
「うあうあ……」
覚束ない動作で二人はリュックを背負うと、ふらふらとした足取りで外に向かった。普段から息のぴったりな二人も、今回ばかりは精彩を欠いていた。
「千早も、もうあがりだろ。車で送ってくよ」
「いえ。このあと音無さんとご飯に行くので、大丈夫です」
「えっ」
「へえ、珍しいな。じゃあ戸締りは俺やっとくから、音無さんもそのままあがって大丈夫ですよ」
呆気にとられた顔のまま、小鳥は千早に連れられて事務所を後にした。
「さあ、頼んだぞ」
一人残されたプロデューサーは、そうぽつりと呟いた。