「すっかり暗くなっちゃったねランサー」
マナは振り返り後方の騎士と相対した。可愛らしい自分でもアピールするかの様に、クルリと綺麗に回って見せた。
「そうだね、あんまりはしゃぐと危ないよ」
注意しつつもランサーの顔は笑っており、その声もどこか優しく発せられていた。
二人が月宮新駅を出て一時間以上が経過したバスですら四十分掛かる道を歩いて帰ろうと言い出したのは当然マナであり、「疲れたら私をおぶって帰ってね」等という始末であるが、今の彼女を咎める者はいない。その役目を担う筈であるランサーは笑って彼女の我儘を了承したのだから。二人の足取りは軽く話す話題も尽きる事はなかった。
「流石に少し疲れたよ。少し、休憩しよ―――」
一軒家が立ち並ぶ住宅街で、マナが休憩をしようと適当な自販機で飲み物を購入しようと財布に手を伸ばした時だった。
痛烈にそれは襲ってきたのである。
それは、憎悪にも似た魔力の塊だった。
「ラ、ランサー」
思わず声を上げマナは騎士へと振り向く。既にランサーは彼女の買った服から戦闘用の甲冑を着込みそのままマナを抱きかかえていた。
「か、感じた?」
「あぁ、魔力もそうだが……この気配は間違いなくサーヴァント」
騎士は駆ける。住宅の屋根から屋根へと飛び跳ね、サーヴァントの気配を近づけていく。マスターを置いて自らだけ接近しようとも考えたが、マナを一人置いていくことは出来ないと判断して直ぐにそんな思考を掻き消えた。
「ここだ」
ランサーは一軒の家の前へと立つ。何の変哲もない平均的な大きさの一軒家だ。しかし、その中から感じる禍々しいまでの魔力の渦は二人をこの中へと誘う魅惑の香辛料。確かめずには居られないのである。
「マナはここで待って居て。僕が中を見る」
ランサーは黄金の槍を携え家の扉をけ破った。
―――赤。
そこは、赤だった。只の赤色。只の赤色。
見渡す限りの赤色が敷き詰められていた。それと同時に漂ってくるどす黒い匂いがランサーの鼻をつつく。
「―――血か」
冷静にランサーはその惨状を分析した。おぞましい程の赤は人間という具材から出された最高の絵の具だろう。それが廊下というキャンパスに残酷に描かれているのだ。
その廊下の先に蓋が避けた人間だった具材が三体横たわっていた。
「い、やあああ」
悲鳴。それは、マナの悲鳴だった。それと同時に一発の銃声と窓ガラスが割れる衝撃音。その弾丸は正面からランサーに向けられたもの。そして、窓ガラスが割れる音は、上からマナに目がけて飛来物が押し寄せる音だった。
それは黒。真っ黒な影だった。人の形をしたそれは確かに笑ったのである。
「見つけたぜ。器のお姫様」
笑う。笑う。笑う。影は、黒い影は笑う。
マナは見た。それを確実に、明確に認識した。
圧倒的な、完全的な殺意。そして、それが自らに向けられているという事も。
「―――さようなら」
影は言う。笑って、笑って。それは、優しい微笑みだ。死者を見送る優しい微笑み。
影の右腕から振り下ろされたそれはマナの肩口を犯す。得物越しに伝わる肉が裂ける感覚に影は甘美の声を漏らした。
一方でマナはそれが知覚できないでいた、頭の中で認識を拒んだとも言っていい。だが、現実は違う。彼女が認識するよりも早く別の感覚がマナの痛覚を抉ったのだ。
「―――えっ」
声が出ない。声がでない。苦しい、苦しい。
私は、今は肩を切り付けられた筈なのに。
理解が出来ない。思考が追いつかない。
「なんで?」
なんで?なんで?なんで?なんで?
なんで?
―――なんで私の胸にナイフが刺さっているのだろう?
それに気づいた時。マナがそれに気づいてしまった時、彼女の口元から赤い赤い血が噴き出したのである。
「―――美しいな、お姫様。綺麗、鮮やか、君の鮮血はとてもとても、愛おしい」
笑う、影は笑う。自らが突き出したナイフによって人体から噴き出す鮮血に影は狂ったように笑う。
「―――マナ」
ランサーがマスターの異常事態に気づいたのは自身に飛来した弾丸を弾いて直ぐの事だった。今すぐにでもマナの元に駆け寄りたいという衝動と意思を圧し折るかのように。自身と対面するサーヴァントは居るだけで彼の足を釘つけにしたのだ。それ程の狂気を目の前のサーヴァントは有していたのである。
「一瞬でも気を反らすとは心外ですぞ」
刹那。目の前のサーヴァントはランサーの懐に潜りこむと右手に携えたサーベルを掬い上げるように槍兵へと振るう。
「―――くっ」
ランサーはその一撃を弾き、すぐさま後方へと飛びのいた。一軒家から飛び出し横目でマスターの状態を確認する。
「死んではない。マナ!マナッ!」
彼は叫ぶ。自身のマスターの名を。だが、返事はない。一人の青年の前で彼女は伏していた。
「あらら?殺してしまったでござるか?中々に可愛い娘だったのに」
蓄えた髭を摩りながら残念がるのは、ランサーと相対したサーヴァント。
「いいや、ライダー。殺してはいないよ。まだ、生きてる。でも、直ぐに殺すけどね」
青年はナイフを振り下ろす。マナに振り下ろされたそれは彼女の頭蓋を確実に潰すだろう。
「―――やめろっ!」
跳ねる。槍兵は跳ねる。それは、ライダーと呼ばれたサーヴァントが一切の反応も許さない程の速度だ。英霊ですら反応出来ない神速の槍を只の青年は躱す。
「マ、マナ」
ランサーは青年もサーヴァントも顧みずマナを左腕で抱きかかえると、右手に槍を構えその表情を憎悪に染め上げた。
「アチャー、滅茶苦茶怒ってる。こんな怖い顔されたら吾輩失禁ものですぞ」
ライダーはケタケタと笑う。そんな自らのサーヴァントに呆れながら、青年は怒りに震えるランサーを見据える。青年は、先ほどの槍を避けられたのは偶然に過ぎないとハッキリと理解していた。本能、彼の防衛本能が咄嗟に肉体を飛び退かせたに過ぎない。それでも、自身のサーヴァントであるライダーが余裕の表情を浮かべているのにある意味関心していた。
「ライダー、抑え込めるか?」
青年は問う。
「モチのロン、あんまり見縊られると流石の吾輩も少しナイーブになりますぞ」
ライダーは答える。
「―――あまり戯言をぬかすな!」
一瞬だった。ランサーの言葉に青年が眉を顰めた一瞬。ランサーの持つ黄金の槍がライダーの腹部を貫いていた。
「―――オウフッ。これは中々に強烈で……」
血が滲む。ライダーの腹部から溢れる血が黄金に輝く槍を濡らす。
そして、苦悶の表情を浮かべた。
油断したつもりなど毛頭もない。確実に仕留めるつもり、いや、仕留めたつもりだったのだ。この一撃にランサーが手を抜いたなどということは一片もない。ただ、相手が悪いとしか言いようがなかった。目の前のサーヴァントは苦悶の表情を浮かべた後。
―――笑ったのだ。
「これで、両手使えませんなぁ」
「しまっ―――」
ランサーがライダーの意図に気づいた時。それは既にランサーの死が確定した瞬間となる。
「怒れる時こそ頭はクールに。これ、吾輩からの餞別ね。それでは、良い夢を。ナイト気取りのイケメン小僧」
狂気の笑みを浮かべてライダーは左手に持つピストルの銃口をランサーに向けて引き金を引く。乾いた音、銃声の音が響く。
だが、次に漏れた音はライダーの呻き声だった。
ランサーは槍を起点に自身の体を捻り、その回転でライダーの顔面を蹴り上げたのだ。
吹き飛ぶ衝撃と勢いで槍を引き抜き、横たわるライダーへ追撃すべく得物を突き出そうとする。しかし、その槍がライダーを貫くことは無い。ランサーは一瞬で体を反転させ、防御姿勢をとっていた。
彼がその槍で受け止めたのは青年の振り下ろした一刀のサーベル。それは、先ほどまでライダーが握っていたものだ。
「―――流石はサーヴァント。今の反応するかよ普通に」
「―――悪い言い方をしよう。魔術師程度で僕に傷をつけられると思うな」
青年は槍を蹴り鮮やかに宙を舞い華麗に着地すると、いつの間にか起き上がったライダーが彼を庇う様に間に立ちふさがる。
「いやはや流石吾輩のマスター。英霊に切りかかるって自殺行為するとかマジ尊敬しちゃう」
「お前みたいな不細工に褒められても嬉しくないネ。ライダーさっさと殺すぞ」
一人と一騎。二つの死を運ぶ狂気はランサーを死に追いやろうと同時に距離を詰めた。
本来ならばマスターが前線に出るなど自殺行為に等しい。事実、マスターだけ狙えば確実に殺せる自信がランサーにはあるからだ。しかし、今は状況が悪い。仮にランサーがマスターである青年を殺せても、ライダーの攻撃からマナを守り切れる保証など何処にもない。
彼が取る選択として望ましいのはこの場からの早急な脱出。ならば二人を同時に退かせなければならない。だが、ランサーにその手段は現状ない。せめて、両手でこの槍を振るう事が出来たのならばとランサーは顔を曇らせるが、出来ない事への希望など無意味なことと彼は重々承知している。
「―――打つ手がない」
それでも、彼に諦めるという選択は毛頭ない。せめて、せめて自身のマスターだけでも守らねばと。そう槍を力強く握りしめた瞬間だった。
後方から声が漏れた。ため息にも似たそれは本当に一瞬。直後にそれはランサーと並行する。
「マスターの方を狙え!私は、サーヴァントを止める!やれるな、色男!」
女の声。ランサーはその声に返事を返さない。代わりに彼女の指示通り、迫るマスターの青年に槍を振るった。
鈍い金属音と共にランサーの槍と少年の持った奇形なナイフが交差する。
「おろっ?いやそうだよナ。それは、お前の武器だ。俺自身もそう認識した。ならきれねぇナ」
「何を言っている?」
青年は、再びランサーと距離を置く。一方でライダーは困惑と怒りを帯びた顔をしていた。
「おいおい女ァ!邪魔をするか!」
「悪いな髭野郎!この色男は私がやりたい相手だ。雑魚はすっこんでな!」
セイバーの剣とライダーのサーベルが拮抗する。しかし、その時間は余りにも短い。すぐさまセイバーは自身の剣技でライダーの両腕を叩き上げると無防備になった胸元へ鋭い突きを放つ。
「―――ぐっ。マスターどうするでござるか?吾輩、大分テンション急降下気味」
「まぁいい。切り上げるぞライダー」
「あいあいさー」
嵐のように、突風の様に、二つの狂気は闇へと消える。一瞬、安堵の表情を浮かべるランサーだが目の前のサーヴァントの顔をみるや再び顔を引き締めた。
「なぜ助けた?」
当然の問いだ。ランサーにすれば自身を助ける理由が思いつかないからだ。肩を竦めて剣士の女性は呆れた顔を見せる。
「おいおい、別に私はやり合ってもいいけどさ?お前、マスターの心配が先だろう?」
「―――そうだ、マナっ」
ランサーとて忘れていたわけではない。だが気を散らさせる程にはセイバーの気に圧されていたのだ。
すぐさまランサーは自身の腕の中にいるマナに目線を移す。
「息は……ある。まだ、生きてる、良かった」
「……あー、どうでもいいけど早く治療してやれ―――あっ」
セイバーが声を漏らす。彼女の目線の先からは、一人の少女がこちらに駆けつけてきて
いた。
「セ、セイバー、どうなっ―――マナ?」
直後にセイバーのマスターであるサラは直ぐに現状を理解し、その表情を怒りに変えた。
「―――ランサー、貴方これはどういう事かしら?返答によっては直ぐに殺すわ。セイバー剣を取りなさい」
「おいおい落ち着けマスター。そら、色男説明しろ」
思わずセイバーが制止するほどサラは激昂していた。当然、サラがサーヴァントに敵う筈もない。それでも、サラは迷わずランサーに対し魔術を行使するであろう。
「―――悪いが説明している時間はない。ここからなら教会はまだ近い方か……。すまない
が、まずはマナの治療をしたい。彼女が落ち着いた状態になれば幾らでも話をする。だから―――」
「とりあえず応急手当てを」
コツコツと靴音を鳴らしサラは妹を抱いた騎士へと歩みを進める。ランサーも意図を理解してそれを拒もうとはしない。それは、彼女から明確な敵意を感じなかったからだ。
マナの肩と胸に手を当て言葉を紡ぐ。その動作に無駄というものは一切も存在しなかった。
洗礼された魔力がマナの傷口を覆う。瞬時にその傷口は塞がるが、彼女が目を開ける事はない。
「―――意識が回復するのはまだみたいね。とりあえずは一安心といったところかしら。……で、貴方はどうするの?教会に戻るのかしら?」
サラは淡々と言葉を告げる。ランサーは、彼女の表情を探りつつ空いた手で口元を抑えながらしばし思考した。
「―――いや、君の話を少し聞きたい。正確には、目的と真意を」
真っ直ぐと見据えた目でランサーはサラに提言する。
「―――わかったわ。それじゃ教会に向かわなくてもいいかしら?」
「構わない」
ランサーが頷くと、サラはセイバーに視線を送る。やれやれ、とため息をつきながら彼女は置いてきた車を取りにいく。その場に残ったのはサラとランサーだけになった。
「随分と信用してくれているみたいだね?僕はいつでも君の事を殺せるのに」
「そんな事を貴方がする気なら、とっくに私は死んでいるわよ。貴方が私に聞きたいこ
とがあるように、私は貴方に聞きたいことがある」
昨日の屋敷の件といい、氷継サラにマナを殺す理由はないとランサーは考えている。
そして、マナが負傷しているのを知り激昂する彼女を見て、それはランサーの中で確信に変わっていた。サラの戦う理由がマナにあるならば共に手を取り戦う事ができるのでは、と。
マナの閉じ込められた記憶にある、姉妹の仲睦まじい姿を彼は知っているのだから。
******
「マナの部屋は階段を上がって左の突き当りよ」
そうサラに言われ、ランサーはマナを抱きかかえながら彼女の部屋へと入っていく。
「そう言えば実際に入るのは初めてか」
マナをベッドに寝かしつけると部屋の周りを少し見渡す。部屋の主が寝ている間の物色まがいな行為に、若干の後ろめたさを感じながら、ランサーは本棚へと視線を落とした。
明らかに子供向けといえる絵本たちが、そこには詰め込まれていた。
「―――今はしっかり寝て、明日には目を覚まして欲しい」
騎士は眠る少女の顔を見ながら、そう呟き退室した。
廊下には屋敷のメイドが一人立っており、彼女に案内されるがままに応接室に通された。そこは、自身が召喚された初日に訪れた場所であり、サラが父親を殺害した場所でもある。勿論、そんな事があったとは思えない程に部屋は跡形も無く片付いていた。
「来たわね。で、まず何から話しましょうか?」
サラとテーブルを挟んで対面の椅子へと腰を落とすと、メイドが彼の前にティーカップを置く。
「―――まずは君の目的を知りたい。なぜ君は父親を手にかけてまで戦うのかを」
「そうね……少し長くなるけど、構わないかしら?」
「―――勿論だ」
サラはティーカップに注がれた紅茶を一口飲み、口を開いた。
「私の目的は、マナを普通に戻すこと。あの子が普通じゃないっていうのは貴方も知っているわよね」
ランサーは無言で首を縦に振り肯定する。
氷継マナは、今回の聖杯戦争において小聖杯の役割を担っている。それは、この場に居る全員の共通認識だ。担うまでの経緯をサラは端折って説明したが、ランサーとて大体の想像はついていた。
サラとマナの父親である氷継弦一郎、そして氷継家の目的は聖杯戦争の再現にあった。そして、問題として小聖杯。英霊たちの魂をくべる器の作成が課題として残っていた。氷継家は、ホムンクルスを器として数十年に渡り試行錯誤してきたが、成果としては良くなかった。
ホムンクルスを造っては廃棄、造っては廃棄。最初に造られたホムンクルスには聖杯の欠片を埋め込んだが失敗に終わってしまった。そして、自身の目的の為に歪んでしまった弦一郎は、魔術師としての才能はないものの、魔力の『純度』が高いマナを小聖杯の器にするべく、彼女を一度殺害し、心臓に聖杯の欠片を埋め込むと、それに適応できるよう体中をホムンクルス同様に弄り回したのである。
こうしてマナは小聖杯として現に機能を果たしている。無論、本人がそれを知る余地もない。
「―――ヒドイ話だ」
「ええ、だから私はあの子を元に戻してあげたいの。昔のように」
サラは悲痛な表情を浮かべた。それだけで、ランサーは彼女を信用出来ると確信する程に。
「さて、私の話はおしまいよ。次は貴方の番だけど?」
喋りすぎたと言わんばかりにサラをティーカップに残る紅茶を一気に飲み干すと、空になったカップはメイドによって直ぐに満たされる。熱を帯びた湯気と紅茶の香りが部屋に満ちる。
「それで、僕はどこから話せばいいのかな?」
「どこからというよりは何を、だと思うけど?まぁいいわ。私が貴方に聞きたいのは貴方の願望とマナの夢―――それと」
「それと?」
サラが少し口を濁らすと彼女の後方からクツクツと笑い声が漏れる。その正体は壁を背にして腕組みをしているセイバーだ。サラは、彼女の方へと振り向いて「うるさい」と一喝しながら、わざとらしく咳ばらいをした後にこう告げた。
「―――マナの様子を教えてほしい。なんだっていい。学校はどうとか、そんなありふれた内容でいいから」
「―――そうか。わかったまずは僕の願望から話そう」
ランサーはゆっくりと口を開くのだった。
******
―――なにかがいた。
それがなにかはよくわからない。
―――なにかをいった。
ここがどこだかわからない。
―――本当にわからない。
わからない。
―――いいえ、それは嘘。
わからない。
―――いいえ、わかるわ。
わからない。
―――いいえ、知っているわ。
わからない。
―――いいえ、
知らない。
知らない、しらないしらないしらない。
―――そう、それじゃあおやすみ。
******
マナは夢をみた。遠いとおい。遥か昔の夢。
それは、縛られていた。閉じ込められていた。
隠匿されていた。
ちがう。ちがう違う。違う。
それは、違う。
これは、彼女自身が忘れていたモノ。
これは、彼女自身が切り捨てたモノ。
ちがう。ちがう。ちがう。
これは、彼女自身が失くしてしまったモノ。
彼女が彼女に彼女であったモノ。
これは、氷継マナの夢で、氷継マナの記憶。
―――遠いとおい遥か昔の日常。これは夢に成り果てた記憶。
「おはよう姉さん」
氷継マナは普段と変わりなく自らの姉に朝の挨拶をした。姉は、マナを一瞬視界に入れると焦燥した顔をみせた。
「なんで?」
マナには言葉の意味が分からない。
「なんで?」
サラには現実の意味が分からない。
「なんで?貴女は生きているの?」
なぜ?なぜ?
なぜ姉はこんな事を言うのだろう?
不思議で不思議でたまらなかった。
氷継マナという幼い少女には言葉の意味が分からなかった。
「―――だって貴女は私が殺した筈なのに」
プツンと。何かが切れた音がした。
脳内にノイズが走る。走る、走る。
それは、耳元に永続的に流れ続けている。
あり得ない映像がマナの脳内を駆け巡る。
―――伸びる。
姉の手が自身の胸に伸びる。
怖い。怖い、こわい。―――こわい。
なんで、なんでなんでなんで。
―――なんで私を殺したの?
誰かが言った。誰かが。私じゃない。この声は氷継マナの声ではない。
だって、だってだって。私は現にここに居る。
生きている。それなのに。それなのに。
―――なんで、私はこんなにも姉に恐怖を抱くのだろう。
何かを言ってほしい。声を掛けてほしい。
悪い夢でも見たのかと言ってほしい。
それでも、氷継サラは何も言わずに部屋を去っていく。
「待って姉さん」
マナの声はサラに届かない。
何か悪い事をしたなら謝るから。待って、待って。
マナの声はサラに届かない。
「待ってよ、姉さん。いつもみたいに綺麗なま―――」
声が出なかった。喉が渇く。急激な頭痛が迫る。ノイズが消えない。
怖い。姉さんの魔術は怖い。
だって、私殺されているから。
誰かの声がした。誰かの声がした。
それは、それは、それは。
それは、私の声だった。
氷継マナの根本的な深層心理。魂が、魔術を、姉を拒んだ。
その理由がマナにはワカラナイ。
理由を思い出そうとするだけで頭が割れそうになる。
だから、だから、だから。
考えるのをやめた。苦しい事から逃げた。
嫌なことから逃げた。辛い事から逃げた。
その方が楽だって気がついた。
氷継マナの心が歪んだ。