「せんせー早くいこうよ!」
「待て待て、お前ら歩くのはえーんだって!」
バタバタと清水の一角を駆けていく三年A組の生徒たち。元気に走り去る後を小走りに追うのは雄、学生の元気さには着いていけないのか、苦笑いを浮かべる表情には疲れが見えた。
もっとも体力的な部分での疲れではなく、気疲れであるといったことには現状誰一人として気付いてはいない。
清水寺と言えば清水の舞台が有名であり、生徒の一人、長瀬楓が足を掛けて飛び降りようとするのをあやかが必死に止めている。
綾瀬夕映曰く、意外にも生存率は高いそうだが、リアルな数値を出されても何か複雑なところがある。ぺらぺらと皆野知らない知識を並べる夕映に対して、変な人がいると驚きの眼差しを向ける明石裕奈だが、早乙女ハルナは平常運転だと告げる。
奥の深い日本の伝統文化に、何度も頷きながらメモを取るネギの姿を見ると、本当に日本の文化が好きなんだと改めて知ることが出来た。日本文化に関心するネギを、今度は生徒の何人かが別の場所へと連れて行こうとする。
「ほらほら、ネギくん! いこー!」
背中を押されて半ば強引に連れていかれるネギの後姿を遠巻きに見つめるのは雄。腕を組みながら柱に背を持たれ、自分の幼い弟を見るような眼差しを向けて見守っている。
「相変わらず元気ね、うちのクラスは」
「あぁ、むしろこうじゃないとな。明日菜も騒ぎたいなら混ざってきてもいいんだぞ?」
缶ジュースを持ちながら雄の近くに寄ってくる明日菜に、混ざってくればと伝えるも苦笑いを浮かべながら首を横に振られる。色々と楽しみたいのは山々だが、そこまでぶっ飛んで遊ぶほどアクティブではないらしい。
「私はあーいうのはガラじゃないしね。遠くから見つめることにするわ」
「そうか。まぁ、あそこまでぶっ飛んでるとちょっとついていけないわな。俺も若かったら全然ありなんだけど……」
「いやいや、まだ雄さん十分若いでしょ」
何言ってんのと突っ込みを入れる明日菜にケラケラと笑ってみせる。流石に女性集団の中に割って入って騒ぐ勇気はなかった。さて、これからどうしたものかと腕時計を見る。清水寺に来てから数十分が経つが、今のところ何かが起こっている兆しはない。
午後の状況に応じては多少行動を変えようと思っていたものの、特に変わりなく時間だけが過ぎていた。むしろ平和すぎていいことではあるのだが、逆に今後反動が来るのではないかと思ってしまう。
うーんと考え込む雄だが、そんな雄の背後に忍び寄る影。敵意がないせいで雄の注意も完全に散漫になっており、あっけ無く、影の接近を許してしまう。影の人物はニヤリと微笑むと手に持っている何かを、雄の頬に当てた。ヒヤリとした冷たい何かが押し当てられ、突然の冷気に我慢出来ず、思わず声を上げる。
「冷たっ!?」
想像以上に声が大きかったのか、周囲の人間も何事かと雄の方を振り向く。大の大人が場にそぐわない声を上げたことで、好奇の視線が一斉に降り注いだ。マズいとおもった時には既に遅く、何人からかクスクスと笑い声が聞こえる。
これでやった相手が男性ならば雄も容赦せずに突っ込んでいただろうが、振り向いた先に映った姿に思いとどまってしまう。
「驚いた?」
「ああ、びっくりした。木乃香か」
木乃香だった。
してやったりと言いたげな笑みを浮かべながら、キンキンに冷えているコーヒーを雄へと差し出す。どこで買ったのか、少なくとも自動販売機で買ったような冷え方ではない。
「お兄ちゃんコーヒー飲む? 出店で飲み物買ったら、サービスでつけてくれたんやけど……」
缶のラベルから判断するに、ブラックコーヒーのようだ。独特が苦みがあるせいで、好き嫌いが大きく分かれる。木乃香の世代だと甘いものが好きな女性も多く、苦いコーヒーは口に合わない、飲めない方が多いはず。言いづずらそうにしているあたり、木乃香も飲めないように見えた。
雄の好き嫌いは一切確認していなため、雄がコーヒーを嫌いな可能性もある。若干いつもより言いづらそうなのは、分からないからだろう。
「え? マジで貰っていいの?」
「あ、うん。ウチもう自分のあるし、苦いのはちょっと苦手で……」
「そっか、ならもらうよ。ちょうど喉も渇いていたし」
差し出されたコーヒーを嬉しそうに貰う。雄の反応に目を何度も瞬きしながらも、やがて手を合わせて嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「なんか雄さん、本当の木乃香のお兄さんみたいですね」
「アスナみたいちゃうで、ウチのお兄ちゃんや」
「ははは、こんな可愛い妹なら大歓迎だなぁ」
容姿端麗、頭脳明晰、家事万能におまけに性格良しとまで来た。ここまで理想的な妹がいるだろうか、世の男性からすれば喜んで招き入れること間違いない。
缶の蓋を開けて中のコーヒーを口の中に入れた。本来なら水かスポーツドリンクが好ましいところだが、人から貰ったものにいちいちケチをつけても仕方ないし、雄自身コーヒーは嫌いではなく、好きな部類に入る。渇いた喉を潤すコーヒーがいつも以上に美味く感じるのと同時に、想像以上の喉の渇きを感じた。
清水寺は死角になる部分も多く、どこに誰が潜んでいるか分からない。ネギのサポートとは別に掛かる負担は並ではなく、気付かぬうちに口の中はカラカラに渇いていた。
(俺もまだまだ甘いってことか。思った以上に気を張り詰めているみたいだ)
生きている時間も長ければ、こなした裏の仕事の数も多い。それだというのに想像以上に気を張り詰めているということは、まだまだ自分の実力が未熟であることを悟る。表情にこそ出さないものの、彼自身が思う部分は多いみたいだ。
と、思っている間に周囲から自クラスの生徒たちがほとんど居なくなっていることに気付いた。先ほどまで隣に居たはずの明日菜まで居なくなっている。
少し話が長すぎたか、集団行動だからあまり離れると迷惑を掛けてしまう。
「あれ、みんなもしかして行っちまったのか?」
「そうみたいやね。あらら、ウチら置いてきぼりかいなー」
「ま、すぐに追いつけるさ。あまり時間かけても仕方ないし、俺たちも行こう。後コーヒー美味かった、ご馳走さん」
「あはは、ありがとう。せやね、いこかー」
木乃香は無意識の内に雄の手を握りしめる。彼女の仕草に気付き、雄はほんのりと顔を赤らめた。いくら妹みたいな存在とは言っても血は繋がっていないし、木乃香は女性。
いきなり手を繋がれれば驚くし、人前であるが故に恥じらいも持つ。極めつけは二人が教師と生徒という関係図にもなっているせいで、話が拗れると色々問題があった。
幸いクラス内で、過去に会って遊んだことがあることは知られていて、本当の兄妹のような関係なのは周知の事実であり、手を繋いだくらいでは何とも思われない。からかうのが好きな人間からは『お熱いですね』くらいの声は掛けられても、それ以上のことは一切無い。
ここは京都。更に二人の関係を知らない生徒も点在する上に、ネギを除いた他の教師たちは二人の関係を知らない。教師や他クラスの生徒にバレたらマズい。雄も木乃香もそこについて十分に分かっていた。しかし今は周りに誰もいない。
多少なりとも彼に甘えても良いのではないかと判断し、木乃香は雄の手を握った。
「お、どうした急に。寂しくなったのか?」
「んー? えへへ、こうやって手を繋ぐの夢だったんよ」
親族以外の男性の手を握り締めるなんてかつては考えられなかった。幼少期はもちろんのこと、現状の学生生活も異性と関わる機会などほとんど無い。かといって年頃の女性が抱える要望や、願望が全くないわけではなかった。木乃香だって年相応の恋愛事情に対して興味はあるし、いつかはしてみたいとは思っている。
前もお見合いに対して、将来のパートナーを探すのは早いと言っただけで、彼氏や恋人が早いと言ったわけでは無かった。手を繋ぐのが夢だと言う木乃香に、少し考え込みながら雄が言葉を被せる。
「夢だったのに、繋ぐ相手が俺なんかでよかったのか?」
「あーん、ちゃうちゃう。お兄ちゃんだからよかったんよ」
大切な夢なのに、相手が自分みたいな男でよかったのかと。彼からすれば、何年も相手を作らずにフラフラとしているような人間で夢をかなえてしまっていいのかと、申し訳なさから言ったつもりだったが、その意見を即答で木乃香は否定した。
歳の差は離れていても、自分にとっては一番最初に『誰かと遊ぶことの大切さ』を教えてくれた異性であり、いつか話してみたい、会ってみたいと思っていた人物に、奇跡的に出会えた。自身が尊敬する人とこうして手を繋げて嬉しくないはずがない。
木乃香にとって雄と手を繋ぐことは、幼少時から抱き続けてきた夢の一つがかなったと言っても過言ではなかった。それだけ彼女の中で雄の存在が大きいものだと実感させると共に、異性として意識させる相手だということを表していた。
「そりゃ光栄だ。木乃香みたいな可愛い子と手を繋げるだなんて」
異性としての認識は雄にもある。
だが、それを共に居たいという好意の眼差しで見ているかどうかで判断すると違う。あくまで妹的な存在として可愛がることはあれど、恋愛をしようとは考えていない。手を握られたり、抱き着かれたりして恥ずかしく思うのは人前だから。
二人が初めて再会した時も、木乃香に抱き着かれたものの人前ではないことから恥ずかしがることは無かった。
(おかしいな。こんなかわいい子と手を繋いでいるのに全くドキドキしないだなんて)
単純に鈍感なだけなのかどうなのかは分からない。もしかしたらとうの昔に人に対する恋愛感情全てを置いてきてしまっているのかもしれない。
そんな心当たりは……。
(恋愛感情か。そんなもの、とっくの昔に置いてきたはずなのに何で今更考えるんだろうか)
あった。だが、昔の一切を語ろうとしない。
誰にも伝えることのない、彼だけの秘密。闇はどこまで広がっているのか。
「むぅ、またお兄ちゃん変なこと考えとる」
「こらこら、人の心を勝手に読むんじゃない」
雄の醸し出す雰囲気で変に悟ったらしく、ムッと頬を膨らませながら顔を覗き込んでくる。
「だって、お兄ちゃん。表情にはでーへんけど、何か考えとると絶対に黙るんやもん」
「そりゃ俺だって考え事はするさ。こう見えても一応教員ですから」
忙しいんだぞ、と付け加えるものの説得力はあまりない。教師らしからぬ学生よりの考え方や行動がそのようなイメージを染み込ませていた。おまけに髪型に関しては到底教師に見えない、男性教員で何人顎までもみあげが伸びている教員がいるか。麻帆良学園の制服を着たら完全に生徒そのものである。
「……でもお兄ちゃんが教師ってやっぱりイメージわかないなぁ。ウチからするとホンマに同世代の友達みたいな感じやし」
「逆に変に教師っぽく見られたくは無いな。むしろ同世代の友達みたいな感じで見てくれた方が、俺としても接しやすいし木乃香たちも接しやすいだろ? って立ち話している場合じゃなかった、そろそろ行かないと皆に心配されるし行くぞ!」
「あっ、待ってえな!」
皆の後を追うように、場を後にする。
それと同時に二人の背後に現れる黒い影。影は二人の方向へ進もうとしながら、やがて消失した。
修学旅行初日はまだまだ続く。