「……」
「おい、近衛!」
「ふぇ?」
「どうしたんだボーッとして、どこかぶつけたか?」
受け止めたまま微動だにしない木乃香の身を案じ、何度も声を掛けるが反応が見られずに心配した雄だが、ようやく反応を見せたことに安堵しつつも、怪我がないかどうかを再確認していく。実は自分が知らないところで怪我をしていたんじゃないかと思うと、居ても立ってもいられなくなる。
木乃香は自分の大切な生徒だ。こんな些細なことで怪我をして辛い思いをして欲しくない。
そう思う雄と別に、我に返った木乃香は抱きついた格好のまま、顔だけを上げて雄の顔を見つめた。純粋な子供のような眼差し、不思議そうに、何かを観察するかのように見つめる木乃香の視線に、年齢不相応にドキリとする。相手はまだ年端も行かない、十五歳の少女。成人している雄が手を出したらただの犯罪であると必死に頭の中の雑念を振り払う。
(おいおい、なんだこの展開は!? ちょっ、近衛の視線が)
あまり雄は女性関係には慣れていない。
普通に話したり遊んだりすることは問題ないが、一歩踏み込んだ状況になると正常な思考がままならなくなる。だから意図的にくっつかれたり、ドキリとする仕草に弱く、冷静な姿から一変してオロオロと頼りない男性に早変わりする訳だ。
幸い周囲に人がいないからまだしも、もし仮にこれを誰かに見られていたとしたら固まったまましばらくは動けないことだろう。
「つよし、おにいちゃん?」
「……は?」
雄を見つめながら木乃香が呟く一言に反応する。
恥じらいに満ちた雄の表情は急変し、みるみるうちに驚愕の色に染まっていった。今、何て言ったかと。
そう呼ぶ人間は限られてくる。未だかつて自身のことを『つよしおにーちゃん』と呼んだのは僅か数人しかいないからだ。
ましてや木乃香とは今日が初対面だったはず、なのにどうしてその呼び方を出来るのか、知っているのか。昔京都で彼女と知り合ったことに気付かず、必死に頭をフル回転させた。
未だ分かっていない雄とは別に、既に木乃香は気付きかけている。目の前にいる人物が、かつて木乃香が京都にいた時に遊んでもらった男性と同一人物であると。
朝はどこかで会ったことがある程度の認識だったが、先ほどのフラッシュバックにて出て来た男性と、雄の姿がピタリと一致した。
名前、仕草、見た目。
何から何まで寸分の狂い無く一致する。十年以上前の出来事にはなるが、あの時交わした約束をしっかりと覚えていた。
『また会うた時は、ウチと遊んでくれる?』
木乃香の問いに対して彼は肯定した、当然だと。十年以上前の約束であるが故に忘れていた部分もあったが、彼とこうして再会する事で、ようやく過去の眠っていた記憶を呼び起こすことに成功した。
「お、おい。その呼び方は一体どこで……」
「何言うとんの。雄お兄ちゃんが昔京都に来た時、言うたやんか」
「京都……あっ!」
未だ気付かずにいた雄に対して、ムゥとリスのように頬を膨らめながら、京都に来た時に自分から呼んだと伝える。京都、の単語に一瞬考え込むも、徐々に過去の記憶が蘇ってくる。
確か十年ほど前、関西呪術協会の長の近衛詠春に護衛任務を依頼され、単身京都に向かったことがあった。が、護衛とは名前ばかりで、実際雄がやったのは対象者と遊んだこと。それも集会が終わるまでの数時間を、だ。
京都訪問時に遊んだ少女の名前、詠春に教えてもらった名前は。
「まさかあの時遊んだ相手って……木乃香、なのか?」
言われてみれば体格は変われども、話し方や仕草、顔立ちはそこまで大きく変化しているわけではない。加えて同姓同名、顔がほぼ同じの段階で何故気付けないのかと、そっちの方が不思議に感じる。
全国に近衛姓はそう居ない。良くある名字のランキングを出したら、間違いなくレアなケースに当たる。
あの時人間生きていれば、必ずどこかで会えるだなんて青臭いことを言ったが、まさかこうも早く再会するとは。あまりにも衝撃的かつ、予想外の事態に頭の中が真っ白になる。
それと同時に、父親にも似た、娘の成長を喜ぶような感覚に襲われた。
(大きく……なったよな)
あんな小さかった木乃香がいつの間にか立派な大人の女性に育った。まだまだ中学校三年生、さえど中学校三年生。時間の流れは早い、いつの間にか五年、十年と歳月が過ぎていくことだろう。
あの頃は小さな子供が、二十年も経てば立派な大人になる。成長を喜ぶと共に、自分自身も年を取ってしまったことを再認識する。たかが十年、さえど十年。今年で自分はいくつになるかと思うと、年月の無常さを感じることも出来た。
「ははっ、こりゃびっくりだ。昔遊んだ子が教え子だったなんて」
有り得ない現実に苦笑いを浮かべるが、改めて世間の狭さを知る。
十年前の記憶ともなれば多少なりとも忘れるもの。それでも思い出せたのは、木乃香にとって雄と僅かな時間でも遊んだ記憶は、何よりも根強く脳に紐付いていたことになる。
「久しぶり木乃香ちゃん。十年ぶりだったか、まさかあんな小さな子がこんなに綺麗になるなんて。また会えて嬉しいよ」
「えへへー! ウチも久し振りにお兄ちゃんと会えて嬉しいで♪」
「わっ!? こらこら、誰か見てたらどーすんの!」
近衛から木乃香へと呼び名が変わる。
久し振りの再会を分かち合うように、再度ぎゅっと抱きつく木乃香。現状は周囲に誰も居ないのだが、誰かに見られたらと、焦る雄を余所に胸元に顔を埋めた。
数分間ほどくっついていると、やがて思い出したかのように雄から離れると、少しだけ前屈みになりながらニコッとはにかむ。
「なぁなぁ、またあの時みたいにお兄ちゃんって呼んでええかな?」
「ん、あぁ」
かつての知り合いだと分かり、風見先生だと他人行儀で話し掛けづらいとのことで、木乃香は昔の呼び方でも問題はないかと尋ねるが、すんなりと了承を得た。ポリポリと頬を掻きながら恥ずかしそうに視線を逸らす辺り、満更でもないらしい。
呼び方は若干変化していて、今までは名前を付けていたものの、名前が外れてより純粋な呼び方になっていた。雄自身、そこはあまり気にしていないようで、呼び方は人それぞれだからと括っているように見える。
少なからず、木乃香の雄に対する呼び名が気に入っているのは間違いなかった。
「しかし他の生徒が見てる前で、お兄ちゃんは結構恥ずかしいな」
「えー、何で? お兄ちゃんはお兄ちゃんやん」
「そりゃそうだけど……」
木乃香の無垢な眼差しがあまりにも純粋で、言葉が詰まってしまう。かつて遊んだことがある仲とは言っても、教壇に立っている時にお兄ちゃんと呼ばれるのは些か抵抗がある。悪い気分ではなく、純粋な恥じらいといえば良いだろうか。
これは人として当然の反応であって、流石にプライベートでの呼び方は別々にした方が良いんじゃないか。一瞬はそう思うも、すぐに無理だと悟った。ネギのことを先生呼ばわりせずに、それぞれ好きに呼んでいる時点で、三年A組で公私混同の区別をつけること自体が無理難題な内容であること。
それを崩すにはよほどアッパーで高圧的な態度で臨まなければならないが、まずネギも雄も周囲を敵に回すような指導方法を望んでいない。
故に拒否権はなかった。
と―――。
「―――っ!!?」
不意にゾクリと背筋が凍る。
明確なまでに当てられる敵意に、周囲をキョロキョロと見渡すが周囲には誰の姿も見えない。だが、ふと教室を出る時に感じた監視の視線と同じ雰囲気を感じることが出来た。つまり同じ人間が近くにいることになる。それも雄たちを監視出来る至近距離に。
比較的見開けた場所の高台ではあるが、姿を隠そうとすれば幾らでも隠すことが出来る。故に、見渡しただけでは視線の人物の断定までには至らない。先ほどと同じで敵意は強くなったものの、直ぐに襲ってくるような感じは無い。
「?」
キョロキョロと周囲を見渡す雄を木乃香はポカンと首をかしげながら見つめていることから、彼女自身には敵意を向けられていない。否、もしかした単純に気付いていないだけの可能性もある。あらゆる可能性から、相手の狙いは木乃香ではなく、おそらく自分であろうと推測。
相手の出方にもよるが、現状は視線に我慢すれば問題はないとの判断で考えるを一旦辞めた。
「あ、お兄ちゃん。学園の案内せな時間なくなってまうえ」
「そ、そうだな。行くか近衛」
「あーん! 近衛じゃなくて、木乃香って呼んでぇな!」
「わ、分かったから! あんま引っ付いたら歩きにくいって!」
木乃香に引っ付かれたまま、高台を後にする雄。
二人の後ろに映るもう一人の影。その影は二人の姿が見えなくなると同時に、後を追うように消えていった。
「数時間で見てたのが屋外の運動部の一部だけか。全てのクラブ活動見て回るって考えると、結構時間はかかりそうだな」
「んーせやなぁ。細かい非公式のクラブ入れるといつまで掛かるか分からんえ」
「うへー、マジか」
日はどっぷりと暮れて夜。
すっかり暗くなった夜道を雄と木乃香は二人で歩いていた。帰りの電車で、何人かから飛んでくる好奇に満ちた視線。赴任初日で木乃香と出来ているんじゃないかという噂が、一部で広がっただとか何とか。
屋外の運動部をまわっている内に、何人か自クラスの生徒たちと出会ったため、何人か知らない生徒たちとも会話を交わすことが出来た。雄にとっては比較的貴重な時間を過ごすことが出来たようで、満足げな表情を浮かべている。
後いくつクラブがあるのかと、考えると気が狂いそうなため、木乃香の一言を聞いた後は、極力考えないように気を紛らわした。
「お兄ちゃん、さっきからウチと歩いているけど、住むとこってこっちなん?」
「木乃香と同じ寮らしいぞ」
「えぇ! そうなん!?」
「何でも部屋の調整が難しいとかで、空いている部屋を使ってくれだと。学園長に押し切られてどうしようも無かったんだわ」
一部始終を思い出したのか、雄はがっくりと肩を落とす。まさか男性の身で、女子寮に住むことになるとは思ってもみなかっただろう。万が一間違って女子が入浴中に風呂に入ろうものならと、最悪のケースを想定すると背筋がゾクゾクしてくる。
「おじいちゃん、ごーいんやからねぇ。ウチも良く無理矢理お見合いさせられてるんよ」
「へー、だからあいつあの時あんな事言ったのか」
今日の午前中、学園長室を訪れた時のこと。
クラス名簿を見て木乃香の名字が近右衛門と同じことに気付いた雄は、近右衛門から孫娘を紹介すると言われていた。紹介したところで流石に年齢が離れすぎているのではないかと、やんわりと断りを入れたところ、木乃香はそこまで気にしないと押し切られそうになる始末。
何となく木乃香にお見合いを頼み込む近右衛門の姿がイメージ出来、思わず苦笑いを浮かべる。
「んー? あいつ? あの時?」
「あー……いや、何でもない」
学園長室での一件がうっかりと口に出てしまい、慌てて口を塞ぐ。そんな慌てた様子を雄を笑いながら話を続ける。
「それにな、ウチまだ中学生やのに、将来のパートナーなんて早すぎると思わへん? 人によっては倍以上年が離れてるんよ」
「そうか、まだ中学生か。でも木乃香は綺麗だし、学園長が勧めるのも無理ないかなって思うんだが」
贔屓目に言わなくても、木乃香は美少女である。周囲の人間に聞けば、誰しもがそう答えるだろう。決して雄も大げさに言ったわけではなく、本音を伝えたのだが。
「ありがとな。でもそれならウチ、お兄ちゃんがええなぁ」
「はい?」
まさかのあらぬ方向へと飛び火する。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしながら、ギギギッと音を立てて木乃香の方へと顔が向いた。
「だってお兄ちゃん優しいし。ウチと年もそんなに離れて無さそうやし」
「ははは……」
理由としては木乃香らしいというか、なんとも単純明確な理由だった。いくらイケメンな男子とはいっても素性の知れない男子と付き合えないのと同じで、お見合いは写真でしか相手のことが分からない。いざお見合いに臨んだところで、相手方の内面を瞬時に見分けるのは難しく、いくらでも取り繕うことが出来てしまう。
年齢もさることながら、中学生の女の子が一回りも二回りも離れた大人の男性と付き合うというのは無理があるよりも、想像が出来ないだろう。
(年齢……ね。そう考えると一番不釣り合いかもなぁ)
内心そう思うしかない雄。
あーでもないこーでもないと雑談を交わしていると、いつの間にか女子寮の玄関前に着いていた。
「あれ、お兄ちゃんどこ行くん?」
寮の中に入ろうとしない雄を不審に思った木乃香が声を掛ける。
「いや、ちょっと軽く寮の周りを散歩してこようと思って。もう遅いし、先に帰ってていいぞ」
「ほんなら先に帰るなー。また明日な、お兄ちゃん!」
「おう!」
手を振り、木乃香と別れる。
散歩に行くのは決して嘘ではない。彼にとってはこれが散歩みたいなものだから。木乃香の姿が完全に見えなくなると、周囲を軽く見渡す。玄関の明かりや街灯の明かりを除けば、真っ暗な空間が辺り一面広がっている。夜も遅いことから、周囲に人影らしい人影も見当たることはなかった。
何者かの気配を除いて。
「さて、誰だ? 学園からこそこそと後を付けているのは」