「あぁ~」
頭に熱したタオルを乗せて、どっぷりと湯船に浸かり体を癒す。長かった一日を終えてようやく一息ついたところで、雄は絶賛開放中の大浴場へと赴くことにした。
朝の自己紹介から始まり、初めての授業、放課後、寮前での戦闘と初日としては目まぐるしい日だったが、無事に一日を終えることが出来た。もうこれ以上問題が起きることが無いようにと、切に思うばかりだ。
さて、大浴場だが夜の十一時から十二時までは男性の入浴時間となっていて、この間の時間であればゆったりと湯船に浸かることが出来る。事前に配布物で周知をしていたため、入浴してくる生徒はいない。
むしろ来られたら四面楚歌、有無を言わさず捕まる自信がある。
もしかして誰か入浴しているんじゃないかと不安に思い、念のためにノックして大浴場に入ったところ、無事に誰も入っていることはなかった。
周知によると十時半には完全に女子入浴時間が終了するため、残りの三十分は着替えや髪を乾かすための時間か。いずれにしてもしっかりと入浴時間を取ってくれているのは嬉しいところ、最初はシャワーだけを覚悟していたが、手配してくれた近右衛門にも感謝しなければならないと心の底で思っていた。
「そういえば来ないな、ネギくん」
ゆったりと湯船に浸かりつつも、いつまでも入ってこないネギの存在が気になる。
折角大浴場が使えるというのに、一向に入ってくる気配は無かった。何故だろうとは思いつつも、まだネギは十歳。今現時刻は十一時半、ゆっくりと浸かっているから実際はもっと経っているかもしれない。
今の小学生がどうなのかはよく分からないが、大体の小学生は寝ていることだろう。
「……」
どれくらい浸かっているのだろうか、少しばかり頭がぼーっとしてきた。あまり浸かりすぎるとよくないし、そろそろ上がろうかと考え始める。
その時だった。
カラカラ……。
「ん? ネギ先生?」
突如、風呂場の入口の扉が開く。
入口に向かって声を掛けるも返答がない。自分の声が小さすぎたのだろうか、そもそもこの夜遅くに大声で叫ぶわけにもいかず、それ以上声を掛けることはしなかった。ひたひたと、タイルを踏みしめる足音が近づいてくる。肩までどっぷりと浸かっているせいで、顔は上にしか向けれず見上げる先は天井しかない。
加えて浴槽から立ち込める湯気と、心地よさによる眠気が雄の視界を遮ろうとした。こんな湯船で寝るわけには行かないが、それでも初日の疲れからか、瞼が閉じたり開いたりを小刻みに繰り返す。
リラックス状態の雄に、ふと入ってきたのが女生徒だったらどうしようかと、一抹の不安が過る。
近右衛門はしっかりと事前の配布物に、特記事項として入浴事項の変更を記載して周知したと言っていたし、ちゃんと書類を見ていれば、見逃すことはないはず。仮に見逃したとすれば、絶賛年頃の男性の裸を見ることになる上に、自身の体も見られることになる。
年頃の女性がこの時間にわざわざ入ってくる可能性も低いし大丈夫だろうと、安易な考えのまま湯船に浸かり続ける。
そしてその足音は雄の近くで止まった。
「あぁ、ネギ先生。こんな遅くに。まだ起きてたんですね」
瞳を半分閉じかけたまま、目の前にこちらをのぞき込むようにして見ているネギであろう人物に声を掛ける。
「……っ!」
「どうしたんですか?」
フワフワとした思考の中で声を掛けたものの、ネギの反応に違和感を覚えた雄はどうしたのかと聞き返した。
が、返答はない。彼の性格上、こちらが声を掛ければどんな状況でも、返答してくれそうなのに、何故返答が無いのだろう。ましてここは大浴場、何かで思考が手一杯なんてことはない。
ネギが全力で雄のことを嫌っているのなら話は別だが、会って一日しか経っていない人間を嫌うことは難しい。嫌えるとしたら、どんな酷いことをしたのかと逆に尋ねたいくらいだ。
「ん……?」
思考が徐々に冷静になるにつれて、視界が晴れてくる。否、冷静になったわけでは無く、扉を開けたことで風呂場が喚起され、多少目の前の湯気が取れただけに過ぎない。
それでも雄の視界を取り戻すには十分だった。晴れてきた視界の先に映るネギの姿を身ながら、やはり外国人らしく黒髪が似合うなどと思うのだが。
「黒髪? あ、あれ?」
明らかに自分の言っていることがおかしいことに気付く。
何をどう見ればネギが黒髪などと的外れな発言が出来るのか。冷静になって今一度、顔をじっくりと見つめ直す。
「あ、え? 桜、咲?」
視界の先に映っていたのはネギではなく、顔を真っ赤にして白い四肢をさらけ出した刹那だった。口を真一文字に結び、ふるふると体を震わせ、持ってきていたバスタオルを慌てて拾い上げると、慌てて身体を隠していく。
当然、雄に悪気があったわけではない。確信犯的に刹那を待ち構えていたわけではなく、指定された入浴時間に風呂を済ませようとしただけ。だが、そこで運悪く刹那が大浴場へと入ってきてしまった。
頭が覚醒している状態であれば、バレないように風呂場ら逃げ出すことも出来たはず。しかし忙しい一日を終えたことで気が緩み、いつも以上に長風呂をしてしまったせいで、若干のぼせかけており、正常な判断がし難い状態だった。
更に、周知が既に出回っているこのタイミングで、刹那が大浴場に来るだなんて雄も想定は出来ない。周知を見落としていたとしても、彼女を責めることは出来なかった。
まずは謝ろうと、勢い良く立ち上がろうとする。
「わ、悪い桜咲! 直ぐに出るか……ら?」
途中まで言い掛けると不意に目の前にいる刹那の姿が斜めになった。むしろ刹那だけではなく、視界に映る全ての世界が斜めになっている。
「あっ」
声は聞こえるが、体の自由が聞かず、思考もままならない。足元も覚束ず、普通に立つことが出来なくなる。このままではヤバい、倒れる。
何とかしようとすればするほどみるみるうちにバランスを崩し、気がつけば世界は反転。最後に雄が見たのは大浴場の天井と、歪んだ刹那の顔。
長時間風呂に入っていたことで完全にのぼせた雄は刹那と反対方向に倒れ込み、そのまま湯船へとダイブしてしまった。
「んぁ?」
頭部に当てられた冷たい感触に、思わず目を覚ます。壁を背にして座っていて、頭の上には冷えたタオルが乗せてある。
目の前に脱衣用の籠が置いてあることから、目を覚ました場所は大浴場ではなく、脱衣所らしい。どうして湯船に浸かっていたはずの自分がこんな場所にいるのかと、徐々に覚醒する思考とともに、周囲に視線を張り巡らせて現状を把握しにかかる。
(あぁ、そうだ。風呂場でのぼせたんだっけ)
思い出すまでは早かった。
湯船に長く浸かりすぎてしまった雄は風呂場でのぼせて失神。一人で起きあがれず、誰かが自分自身を脱衣所まで運んでくれた。
そして雄を運んでくれた人物、それは。
「あ……風見先生、目が覚めたんですね。良かった」
雄のクラスの生徒、桜咲刹那だった。
赴任初日で副担任を介抱する羽目になるとは、刹那自身も思わなかったことだろう。手には替えのタオルと氷の入った冷たい水が握られている。ふと安心して笑みを見せると、テキパキとタオルを替え、水の入ったコップを雄に手渡した。
「桜咲? お前どうして……?」
「どうしたもこうしたも、お風呂場でのぼせて溺れかかっている人間を見捨てるようなことは、私には出来ませんから」
「ははっ、そりゃそうか」
差し出されたコップを受け取り、中に入っている水を口へと運び、渇いた喉を潤していく。水分が不足しているせいか、ただの水でしかないのに、普段飲む水よりも美味しく思えた。
「ふぅ、すまない。助かったよ桜咲、ありがとう」
「いえ、当然のことをしたまでですから」
あくまでも雄の切り返しに淡々と答える刹那。
そんな彼女からは寮に帰ってきた時のような敵意や、殺気は感じ取ることは出来ない。襲われた時のことは清算したにしても、不可抗力とはいえ、一瞬でも裸を見てしまった。
一言、二言くらいは覚悟していたのだが、特に何事もなく話が進んでいく。相手から話を出さないのであれば、変な話題に出して思い出させるのも良くない。一旦は胸の中に仕舞おうと、あえて話すことを辞めた。
「凄い人だと思っていたのに、結構変なところで抜けてるんですね、風見先生って」
「良く言われる。肝心なところでやらかすって」
思わぬ図星に恥ずかしそうに視線を逸らす。成人した男性が湯船に浸かりすぎてのぼせた後、女性に運ばれて介抱されるなど、どんな滑稽な図だろう。
雄を運び出した時の状況を思い出したのか、刹那は口に手を当ててクスクスと笑い出す。
「笑うなよ。結構これでもショックなんだから。教え子の前で醜態晒すだなんて、一生もののトラウマになりそうだ」
「ごめんなさい、つい。ぷっ……くくっ」
未だに思い出し、笑いが止まらないのか、顔を背けて必死に笑いを堪えようとするが、全く堪えきれていない。
些細な仕草を見てみると、自分の感情を表現するのが苦手なだけで、全然普通の女の子だった。それに素っ裸を見られたと言うのに、体調が戻るまでしっかりと介抱したりと、気遣いも出来る。
仕事としての一面が、厳しく凛とした刹那を作り上げているだけなのだと分かると、雄はホッと胸を撫で下ろした。
既に刹那は着替えていて、自分だけが上半身裸の状態で座っている。さすがにこのまま話を続けるのは恥ずかしい。一旦話を区切って、服だけ着替えようと立ち上がる。
「あ、大丈夫ですか? あまり無理はしない方が……」
「何とか。多少頭は痛いけど、着替える分には問題無さそうだし、着替え終わったら少しここで休んでから部屋に戻るよ」
支えようとする刹那に大丈夫だと伝え、一人で座っている場所と反対側にある脱衣籠まで向かうと、刹那に着替えが見えないように身を屈めて身体を拭く。
拭き終わった後は、素早く部屋着へと着替えていく。流れるままに手を動かし、この間僅か十数秒。一通り着替え終わると、雄は濡れたタオルを洗面器の中に入れて、代わりに渇いたミニタオルを取り出して頭を拭き始めた。
「よし、こんなもんか」
着替え終わった雄は、刹那が座っているソファの一番端に座る。雄の反対には刹那と、二人の間には大体人一人分の隙間が空いている。座りつつも手を動かしながら、自分の髪を水分を取り除いていく。
「お着替え早いですね。ちょっと驚きました」
「多少はね。桜咲も居るし、あまり時間は掛けられないって思って。まぁちょっと長目の髪は簡単に乾かないから時間が掛かるけど」
ある程度まで水分を拭き取ると、ミニタオルも洗面器の中へと仕舞った。
と、まだこちらを心配そうに見つめる刹那の視線が。多分雄の体調が回復するまでここにいるつもりだろう。彼女の善意なのかどうなのかは不明だが、追い返しても性格上隠れて様子を伺うに違いない。
先の未来が予測できた雄は大きく一つ息をつく。
「それじゃ、ちょっとだけ話をしようか。タカミチに多少は聞いたんだろうけど、俺に聞きたいことあるんだろう?」
「えぇ、まぁ」
「そうか。ちなみに何を聞きたいんだ?」
雄が切り出し始めたことで、内密な話は進んでいく。
刹那はタカミチから伝えられなかったこと、自身の中で気になっていることを雄へと伝えていった。
二人の夜はまだ、終わらない。