この世界には、一体どれだけの悲しみがあるのだろう。
この世界には、一体どれだけの絶望があるのだろう。
48億の個人的な憂鬱。
そう言いきるには、少しばかりこの世界は重すぎる。
ネットの海のひとかけら。ほんのわずかな部分でさえ、誰かの病気だとか、自殺だとか。事件とか、過労死とか。ああ、冤罪で殺されてしまった人もいたっけ。
そんなものは、何もネットに限ったことじゃない。
高校でだって、人は必ず誰かを傷つける。中学でだって、倫理に反する奴は来る。小学校ですら、人は人を傷付けずにはいられない。
だから僕はいつしか、一人ぼっちでこの部屋に閉じこもるようになっていた。
そして、そんな悲しみに溢れたニュースを見て笑うのだ。
僕こそ、本当の強者だと。
あくせく働くために電車に乗って、痴漢の冤罪に会って人生を狂わされた人も。
自らに課せられた業務のために必死になって、とうとう死んでしまった人も。
これだけの時間を費やして会社勤めしたのにと、そんな顔をして公園で途方に暮れているスーツを着た中年の大人も。
みんなみんな、馬鹿ばっかりだ。
この世界は、重すぎる。
薄っぺらな言葉はもう聞きあきた。
大人達はよく言う。立派な大人になりなさいと。
大人達はよく言う。あなたにも責任があるんじゃないの?と。
大人達はよく言う。良い学校に行きなさいと。
お笑いだ。吐き気がする。いい加減にしてくれよ。
立派な大人になりなさい?立派な大人に言われた記憶はない。
あなたにも責任があるんじゃない?子供の問題は大人の監督責任じゃないのか。
良い学校に行きなさい?良い学校は僕を守ったり、助けてくれたりはしなかった。
安っぽいメッキ。空っぽの言葉。善人面した大人達。
どれもこれもうんざりだ。
そう思っていた、高校に入っても。
春を告げる雨が降って、僕は部屋で一人ぼっち。
夏を告げる雨が降って、僕は部屋で一人ぼっち。
そうして高校の夏も終わろうとしている中、不意に家の呼び鈴がなった。
親はまだ仕事のはずだ。いや、そもそも親は鍵を持っていた。なら違う。
親戚が来るようなことも聞いていない。じゃあ親のどっちかが死んだか。いや、それなら電話が来るだろう。僕が出るかどうかはさておき。
ちょうど喉が乾いていた。お茶を飲みに下に降りようか迷っていた所だった。
もしかしたら不審者かもしれない。念のために見に行ってみることにした。
セールスやN○Kの集金なら、110番してやろう。
そんなほの暗い愉悦感を抱きながら、覗き穴に屈みこむ。
そこにいたのは、見覚えのない男だった。
あまり背は高くない。ただ、制服の大きさからして、だいたい高校生くらいだろう。150センチないくらいだろうか?
しかし、まだ時刻は4時を過ぎたばかり。一体どこの誰だろうか。
同じ高校の奴ではない。制服が違う。
同じ中学の友達?途中から不登校になった僕に、そんな友人はいない。
小学校の頃の友人?周りは敵しかいなかった。いじめられている僕を、遠巻きに見ているだけの奴ら。直接関わって来なかったというだけで、僕にとっては変わらない。そんな僕が友人だと思った奴なんて一人もいない。
唯一人、僕より先にいじめられていた奴はいたけど、あのクソチビは情けないことにすぐに泣く泣き虫だった。そしてことあるごとにいじめっ子共がいじるので、うるさくて仕方なかった。
だから一度だけ、先生にチクった。あのときはどうかしていた。そのせいでいじめっ子達の標的は僕に移ったんだ。くそっ、思い出したらムカムカしてきた。
イライラとしても仕方ない。
僕は訪問者を放置して、お茶を飲みにリビングに引っ込んだ。ある程度飽きたら帰るだろうし。
そう思ってお茶を取り出したところで、またチャイムがなった。飽きない奴だな…。
僕がお茶を飲む間くらい待てないのか。まったく、これだから人間は嫌いなんだ。どいつもこいつも自分の都合で人を振り回しやがって。そのくせ、人の都合を考慮なんかしやしない。死に腐れ。
再びイライラしながらお茶を飲んだコップをテーブルに叩きつけ、ドスドスと足音を鳴らしながらインターホンに呼び掛けた。
「セールスならお断りだ!」
『あ、○○!良かった、○○生きてた!』
…。○○は僕の名前だ。もう、親からすら呼ばれなくなって何年も経った僕の名前。本当にこいつ、誰だよ?
「…なあ。お前、誰?」
『ああ、俺?覚えてるかな、小林だよ!小林勇太!
小学校の時一緒だっただろ?』
「小林…」
小林勇太…?なんだろう、名前に覚えはない。ただ、チビで声が高いままのこいつは、僕のかすれた記憶にほんの少しだけ残っていた。
…もしかして、小学校の時のクソチビか?
「なあ、小林?」
『おう!っていうか、とりあえず玄関でも良いから入れてくれねーか?けっこう大声で喋るのつらいんだ』
「その前に答えろ。お前、小学校の時いじられまくってたか?」
大声で喋るのがつらいと小林は言うが、こっちはもう何年も喋ることすらしてないんだ。俺の方がつらいんだっつの。くそ、本当にどいつもこいつも自分の都合のことばかりだな!
『おー!そうそう!
あの時先生に言ってくれたの、○○だったんだってな!あの時は本当に嫌な思いしてたから、ありがとよ!』
「ーーー」
言葉に詰まった。それくらい衝撃だった。
確かにあのくそちびはよく泣いていた。とはいえ、内容は少しからかわれるとかその程度で、いじめられるとかいうレベルではなかったから。
僕みたいに、ペンを折られていたり、上履きをゴミ箱に入れられたり、ノートや教科書に油性ペンで落書きされたり、汚い雑巾やゴミをバックに入れられたり、男子何人もに押さえつけられて女子トイレに入れられたり、女子の体操服を僕のバックに入れて変態扱いしたりはされていなかった。
しかも、僕はこいつを助けるつもりなんて全くなかった。ただ、あまりにもうるさくて仕方なかったからそうしただけだ。その結果があのざまだけど。
「…用件はそれだけか?」
かすれた声でそう返すのがやっとだった。声が震えていたのは、きっと伝わらなかったと信じたい。
『んー?いや、用って程のことでもないけどさ。
○○があん時に俺を助けてくれなかったら、俺多分こうやって普通に高校に通ったりできなかったと思うからさ。今度は俺の番だろ?』
…意味がわからない。
『だからさ、今度は俺が○○の味方になる番じゃん?今、高校行ってないんだって聞いたぜ』
「悪いかよ…」
あんなクズどもの巣窟になんて、僕はもう関わりたくないんだ。放っておいてくれ。
『だからさ、別に学校なんか無視して俺と遊びに行こうぜ?別に○○の行ける所で良いからさ!』
「…」
学校に行きなさい、なんて。親から嫌という程言われた言葉が来ると、そう思っていた。
学校なんか無視していい。
そんなこと、考えもしなかった。
学生なんだから、学校に行くのが当たり前。行かない奴がおかしい。
僕の両親はそう言って憚らない人たちだし、きっとそれは、世間とか、社会とか呼ばれる場所では当たり前のことなんだろう。
だけど、僕はその場所では適応出来なかった。
そして、居場所がなくなった。
かろうじて今僕が生きているのは、暗い、自分の部屋という逃げ場があるからだ。
『別に今すぐじゃなくていいさ。そっちにも、予定とか都合とか、気分とかあるだろうしな!
俺は今通信制の高校行ってるからさ、時間なら作れるし。
一応通信制っつっても、学校に来たかったら来てもいいって感じなんだけど、俺以外全然来ねえしさ。
どうよ?』
「…考えさせてくれ」
急な話だと思った。だけど、どうしてか。こいつは多分、本気で俺と遊びに行こうと言っている。そんな気がした。
次の日も小林はうちに来た。
『よーっす!○○、起きてるかー?』
「ぅー…ん…」
布団から時計を見ると、朝10時。親はもうとっくに家を出ているけれど、僕がこんな時間に起きたのは久々だった。いつも12時くらいに起きて、深夜3時か4時くらいに寝てるから。
『○○ー?』
「ぅるさぃ…」
寝返りをうつ。しかし、外が明るい上にすでに暑くなってきている。仕方なく、僕は布団から身体を起こした。
リビングに降りて気付く。多分部屋の前にご飯置きっぱなしだ…。
もう一度自分の部屋に引き返すのも面倒なので、そのままお茶だけ飲んで玄関に向かう。
『○○ー?』
「今起きたから少し待ってろ」
そう言って離れようとしたら、小林からすぐに声が返ってきた。
『おーっす○○!おはよう!』
さ、無視だ無視。
部屋の前に置いてあったトーストとベーコンエッグを廊下に座ったまま食べ終わる。
仕方ないのでパジャマから服を着替える。もう全然着ていない服ばかりだ。まあ、適当に上からでいいか。
適当に着たTシャツとズボンに、いくら入っているかもわからない財布と埃のかぶった家の鍵を持って、僕は玄関の扉を開けたーーーーー。
『悲しみが多すぎて泣いてばかりいたって、何も見えなくなっちゃうよ
でたらめばかりだって耳をふさいでいたら、何も聞こえなくなっちゃうよ』