人は誰も、失ってしまうことを良しとはしない。
嫌な記憶も、辛かった思い出も、失って良いものなんて一つだってない。
失わずに生きていけるなら、それに越したことなんてない。
ある少女は、大切に想う人の為にその人を失う覚悟を決めた。それは壮絶な決意という訳ではなく、少女からしたら当然の選択でしかなかった。仮に相手が自分でもそうしたに違いない、と信じて疑わなかった。
――どうして。
窓の外を頻る雨のように流れ落ちてゆく大切な友達の涙を、詰まった喉から這い出るようにして漏れて来たその言葉を、少女は未だに忘れた瞬間などはない。つい先刻の出来事であったかのように、胸を掴まれたまま過ごしていた。
「あとはこれを運んで、と」
暮れ色に染め上げられた水平線を望みながら、その日も松浦果南は父親の仕事の手伝いをこなしていた。
酸素ボンベの重みも今では慣れたもので、ボンベ自体の重みが減った訳ではないにも関わらず当初に比べて幾分も持ち運ぶ行為自体が楽に思えるようになっていた。筋力的な成長もひとつの要因ではあるものの、慣れてきた、というのが一番の要因であろう。
怪我を負い動けなくなった父親の代わりとして、何ら遜色なくその任を全うしていることに対する喜びや充実感は確かに果南の内にあった。が、この生活に慣れてきてしまっている自分への疑念も同時に抱いていた。
現在の彼女は高校生でありながら高校へは通っておらず、ずっと休学状態のまま父親の手伝いをこなす毎日を過ごしているのである。父親の怪我は順調に回復へと向かっており、あと少しもしたら仕事への復帰も見込める状況にある。しかし果南の頭の片隅には、このまま高校を中退して父親の営むダイビングショップを継ぐという選択肢がチラついているのである。
彼女の抱いた疑念とは、自分が諦めることに慣れてしまったのではないか、というものだった。
大切な友達との繋がりを失ってしまったあの日から、彼女は自分の出した答えが正しいものであったのかを疑うことから逃げ続けてきた。
――疑う意味がない、鞠の為を思うならああする以外に選択肢なんてなかった。
果南は、あの日からずっと自分にそう言い聞かせ続けていた。
「お久しぶり、ですわね」
暮れの色が薄まり間もなくやって来る夜の色が一層に濃くなってきた頃、唐突に聞こえてきた聞き覚えのある声によって果南は、自分がぼうっと水平線の向こうを眺めながら物思いに耽っていたことに気付いた。
彼女にしては珍しくやや慌てた様子でその声の持ち主の方へと向く。するとそこには、記憶の中にあったその人物の顔よりも少しだけ頼もしい顔付きになった黒澤ダイヤその人が立っていた。
「ダイヤ……うん、そうだね。ちょっと見ない内にすっかり生徒会長っぽい顔付きになったね」
予想もしなかった来客に対して面食らっていた果南だが、すぐにいつもの調子へと戻し、持ったままだったボンベをその場に降ろした。
「何ですの、生徒会長っぽい顔とは」
ダイヤは穏やかに微笑みながら返してくる。
別に、と果南は心の内で呟くと続ける。
「なんでだろうね。あの時からさ、何となく私たちも話さなくなったんだよね。だからこうして、ちゃんとダイヤの顔を見るのって本当に久しぶりな感じだったんだよ」
「……そうですわね。私たちだけが仲良く、というのが鞠さんへの裏切りのように思っていたのかもしれませんわね」
そんなこと無いのにね、と果南は心の内だけに漏らす。
恐らくそれはダイヤの方も同じだろう。その証拠に、暫しの沈黙が二人の間に降りる。
「復学の目処は立ちましたの?」
波音の間に割って入ってきたのは、ダイヤの問いだった。
「まだ、かな。お父さんの怪我はだいぶ良くなったけど、治ったからといってもさ、すぐには戻れないよ」
そうですわよね。ダイヤは抑揚なく返すと、果南のすぐ横まで寄って来る。
「もしあのとき鞠さんを強引にでも引き止めていれば、と考えたことがありますか?」
すっかりと陽が暮れた濃紺の夜空を映し出す海を眺めながらダイヤがそう呟いた。
似た者同士なのかもしれない。果南はダイヤのその呟きを聞き、あの時のことを考え胸に積もり溜まった想いを誰かに吐き出したくなっていたのはダイヤも同じだったんだ、とそれが少しだけ嬉しく思えた。
「あるよ、何度も」
果南もダイヤ同様に静かな海を眺める。
「楽しそうに笑っている私たちは居ました?」
それは、大層に意地の悪い質問だった。
紫色の目を細めながら果南は低い声で答える。
「居たよ。いっぱい居た」
そう。果南は大切な繋がりを手放さなかった『もしも』の自分をいつも羨んでいたのだった。
愉しげに三人で輪を作ってワイワイと、それまでと同じように充実した日々を送っている。作りかけだった新曲を歌って踊り、ダイヤが憧れて止まない『μ’s』のように学校を廃校の危機から救い、感涙を流し合う三人の姿が見えていた。
そんな未来を何度も何度も繰り返し果南は、頭の中に描いては掻き消してきた。
だからこそ、あの日の自分の選択を疑うことから逃げてきた。
「それでも、私は果南さんの選択を間違いだったとは思っていませんわ」
優しげな声色が果南の心にそっと触れる。
「だって、その答えが分かるのはもっと先の事ですもの。数年後……いえ、数十年後。あの時はありがとう、と鞠さんが果南さんへ伝えている未来が私には見えていますわ」
果南の視線が自然と向いた先にあったダイヤの表情はとても穏やかで、しかし目にはやんわりと涙が溜まっているようにも見える。その表情はダイヤの心境が自分とは比べ物にならない程に複雑であることを示しているのだ、と果南は悟る。
思えばダイヤはいつもそうだった。果南は隣にいる友達がどういった為人をしているのかを思い出し、静かに閉眼する。
「ありがとう。でも、そのお礼を言われる資格があるとすればさ、それはダイヤだけだと思うよ。私にはそんな資格――」
「ぶっぶー、ですわ」
言葉を遮ったダイヤの声に驚いた果南が目を開けると、ダイヤはいつの間にか足元にあったボンベを持ち上げて見せていた。
「私たち、三人で、AQOURS、ですわ……」
しかし、予想以上のボンベの重みに耐え切れなかったのか、すぐにまたボンベは地面へと降ろされる。それでも、肩で息をしながらダイヤは続ける。
「果南さんばかりが悪役になる必要なんてありませんわ。その重荷、私にも背負わせて頂きますから」
そう言って笑みを向けてくるダイヤの姿に、果南は鼻の奥が急速に熱を帯びるのを感じ、咄嗟に視線を逸らしながら返した。
「……ありがとう」
失うことを良しとする人間なんていやしない。
それが例え、より良い結果に繋げる為に必要なことであったとしても。
ある女の子は、少しだけ優しさが過ぎてしまった。
だからこそ気付けなかった。例え将来を犠牲にしようとも、大人になって後悔することになったとしても、その人が今という時間を共に過ごして行きたいと本気で思っていたことに。
その思いの大きさに、気付けなかった。
今後も週一での更新になると思います(汗)