「初めましてだがや。突然で悪いが、ちびっとだけ話しええかや?」
本当に突然の出来事でした。
夏の生暖かい風が秋風へと生まれ変わり始めた時期、その人は突然私の目の前に現れました。本日の役目を終えて姿を隠そうとしている最中の太陽が、やることがあったのを忘れていたとばかりに再び天に昇ったような、そんな笑顔を浮かべて。
この時既に、私はこの謎の人物に対する警戒の気持ちは欠片もありませんでした。暖かくて優しそうな人という第一印象。初対面で怪しいことこの上ないというのに、私はこの人は信頼出来ると無条件に信じていたのです。
最近、私に対してこんな満面の笑顔を浮かべてくる人などいません。だからでしょうか、人の優しさに飢えていた私は、この底抜けに明るい笑顔に惹かれてしまっていたのでしょう。
寮の自室。一緒に住んでいる人は所用でおらず、私はその人を一先ず部屋へとあげました。寮に入る許可は貰っていると分かる許可証を胸に引っ提げたその人は、まるで勝手知ったるように中へと入り、どっかりと胡坐をかきます。
図々しいと思う心はありませんでした。寧ろ、私に対してこんなにも親し気であることが、嬉しくてたまらなかったのです。
その人は、アンチョビと名乗りました。安斎千代美という本名も教えてくれました。好きなように呼んでくれとのことで、私はアンチョビさんとその人を呼ぶことにしました。
アンチョビさんは言いました。
「思ったより深刻じゃあなさそうで良かったでよ。最悪を心配してたんだて」
ほうっと安堵の息を吐くアンチョビさん。
いきなり何のことか分からずに私が首を傾げると、アンチョビさんは説明してくれました。
「おみゃあさんが黒森峰で酷い目に遭っとると聞いとったんだがや。それが心配でよ、こうして様子を見に来させてもらったんだで」
「えっ? 私を、心配?」
「おう」
最初は、アンチョビさんが何を言っているのか分かりませんでした。
心配? えっ。誰を? と心の中で自問し続けていくうちに、アンチョビさんが私のことを心配してくれているのだと分かりました。
私はアンチョビさんの顔をまじまじと見つめます。彼女はまったく嘘や冗談を言っているわけではなく、心底そう思っていることが、表情から見て取れました。信じられないことですが、事実、アンチョビさんは私を心配してくれているのです。
「どうして、私のことを?」
胸の奥より込み上げて来るものを堪えて、私は訊ねます。
会ったことのない私をどうして心配してくれるのか、と。
今度はアンチョビさんが小首を傾げて、何を当たり前のことを訊いてくるんだ、とばかりに答えます。
「そりゃ、おみゃあさん。普通は心配するでしょう、が。人が苦しい目に遭っとる、それも自分と近しい歳の娘がだで? 誰だって大丈夫かぁ、と思うでしょうよ」
私はその答えを聞いても納得出来ませんでした。
だって、そうでしょう? 誰だって、とアンチョビさんは言いますが、私を心配してくれているのなんて、それこそ目の前のアンチョビさんしかいないのです。
この二ヵ月、私はずっと非難の目に晒されていました。仲間たちにも、OGの人たちにも、一般の人たちにも、そして――お姉ちゃんやお母さんからも。誰だって私を非難してくるのでした。誰だって……。
でもアンチョビさんは違います。私を非難してくることはなく、心配していることを言葉と行動に表してくれるのは彼女だけです。誰だってじゃない、初めての人なんです。貴女が特別なんです。
そう思っていると、堪えていた涙が頬をツーっと伝って流れていくのを感じました。
これは止めないと、後からドバっと来るタイプです。
分かります。もうそこまで来ています。
私は頬を何度も何度も拭うけれど、中々止まることがありません。
そうしたら、アンチョビさんは私との距離を縮めて、両手を私の背中に回し抱きしめてくれました。とっても暖かい。
「身体にも心にも溜まっとるもんがあるんだて。出し切れや」
無理です、限界です、せき止めが完全に崩壊します。
「あ、あう、うう……うわああああああん! ひぐっ、うううううううううう!! えぐっ、あうああああああああ!!」
私は子供のように泣きました。大泣きです。これ以上の泣きっぷりは、赤ちゃん時代に遡らなくてはならないほどの大泣きです。アンチョビさんにしがみついてわんわんと声を上げます。寮にいる事も忘れて、でもアンチョビさんの胸元で泣いているためか、くぐもって外へはあまり聞こえていないかもしれません。とんとんと幼い子供にするように、アンチョビさんが背中を叩いてくれました。
私は全てを吐き出します。
私のせいで負けてごめんなさい。
無茶なことをしてごめんなさい。
でも間違ったことをしたとは思っていません。
人を助けることを悪いことだとは思えません。
戦車道の仲間たちに悪く言われるのはまだしも、それ以外の関係のない人たちにまで悪く言われる筋はありません。
私を正しいとは言いません。
そのかわり、私が間違っているとも言いません。
ただ、私は自分のやったことに誇りを持っています、と。
泣き続けました。吐き続けました。空っぽになるまでずっと、ずっと。アンチョビさんは嫌な顔一つせず、お母さんのように宥めてくれたのだと思います。顔は見えませんでしたが、「ようやった」と、優しさのこもった声を送ってくれていましたから。
時間にして数分は経ち、やっとのことで私が溜まったものを出し切ると、胸元から顔を離します。目線をあげればアンチョビさんが好々とした笑みを浮かべていました。
「どや? スッキリ、したか?」
「はい」
「そりゃあ、良かったでな」
それに、とアンチョビさんは続けます。
「おみゃあさんの気持ちはよく分かったでよ。うん、やっぱり、おみゃあさんの居場所はここではないがや」
その言葉を聞いて、ああ、そういうことだったのか、と私はアンチョビさんの目的をここで知りました。
何もかもが空っぽになってスッキリとした今、ぐちゃぐちゃになっていた頭の中が整理され、正常な働きを取り戻したのです。
私を心配して様子を見に来てくれたと言うのは事実でしょう。これが嘘だなんてことは絶対にあり得ません。ただしそれだけでもなくて――もう、私の答えは決まっています。
だって、これ以上ないぐらいに、私はアンチョビさんに魅了されてしまっているのですから。この人の傍にいたいと、と心が訴えているのです。
「単刀直入に言うでよ。おみゃあさん、私の所に来や。黒森峰じゃ、おみゃあさんの心は満たされんでよ」
予想通りの言葉でした。
ですから、私は、
「はい。これからよろしくお願いします」
即答しました。
アンチョビさんはすんなり話が通ると思っていなかったのでしょう、目をぱちくりと瞬かせ、驚きを表現します。
私はその様子が面白くて、ついつい笑ってしまいました。あははは、と大口を開けて。これも相当過去に遡らないとならないほど、久しぶりかもしれません。
アンチョビさんもつられたのか腹を抱えて笑い出します。あははは、わははは、と二人揃って笑い転げました。
気持ち良い。
この人の傍にいると、自分が自分でいられるような気がします。
黒森峰は、私の居場所ではなかったのです。アンチョビさんの傍こそが、私の本当の居場所、私の本当の戦車道なのです。
それを認めない人たちがいるでしょう。お前は黒森峰の人間だ、西住の人間なんだと。
でも、
「さて、次はおみゃあの姉ちゃんとおっ母のとこだて。こりゃ、骨が折れそうだわ」
日輪の輝きと共にあることを選んだ私には、一抹の不安もありませんでした。