黒森峰機甲科の隊長室。ここの現主である西住まほはようやくのこと、書類整理にひと段落を終えて帰路に着こうとしていた。外はまだ茜色の輝きを放っており、窓から明々とした陽射しが部屋へと差し込んでいる。普段より早く帰路に着く時間帯だが、書類整理を始めた時間を考えると、ようやく終わったと言ってもよかった。
だからと言って、早い時間帯に帰れることを喜ぶでもなく、まほは動作の一つ一つの合間にため息を挟む。彼女には重大な悩み事があって、その所為か最近どんなことにも喜びを感じられなくなっているのだ。
「はあ、みほのこと、どうすべきかな」
悩みとは妹のみほのことである。黒森峰がみほの失態で十連覇を逃して以降、機甲科の空気は下降の一途を辿っている。次は絶対に負けないと訓練によりいっそう力を入れるでもなく、ただただみほを糾弾し続ける事二ヵ月。黒森峰機甲科には嫌な空気が漂っているのだ。
これをどうにかしたいと思っていても、まほは西住流の次期家元として、みほの二ヵ月前の行動を庇うことは出来ない。自分の戦車を放置して仲間を助ける行為は、人として褒められても、西住流としては褒められないのだ。みほは西住流の人間である。なので姉としてではなく、西住流として対応しなくてはならない。
こうしてまほがみほに厳しい態度を取ると、みほへの糾弾はさらに激しいものとなる。悪循環であったが、まほにはこれを止める術がなかった。
「帰るか」
悩んでいても一向に答えは出てこなかった。
もう自分だけではどうしようもない。誰か助けてくれないだろうか、と口にすることを憚れることを心中に浮かべる。
その時だった、ドアが三回ノックされたのは。
一体誰だろうか、と考えつつもまほは返事をする。
「どうぞ」
エリカだろうか――まほは自分の側近的な人物を予想したが、この予想は大きく外れていた。
「おう、失礼するわ」
部屋へと足を踏み入れて来たのは、まほが知らない人物だった。いや、まったく知らないわけではない。戦車道界隈ではそれなりに名を馳せている人物であった。
安斎千代美。通称としてアンチョビの名を通しており、アンツィオ高校戦車道部の隊長を務めている者だ。
突然、予想もしない人物が来客したことで、まほの表情に驚きの色が浮かぶ。アンチョビはその表情を見て、悪戯小僧が悪戯を成功させた時のような顔で笑った。
軽快な足取りで左右に括られた薄緑の髪をルンルンと揺らしながら、まほの前へと立つ。
「先触れもなく、出し抜けに来たことを、先ずは謝罪するでよ。すまにゃあ。しかし、大事な話があるんだて。ちびっと聞いてもらってもええか」
軽々とアンチョビはそんなことを言ってきた。
こういう軽い人物はまほの好むところではない。誰とでも仲良く出来るような柔和な感じも、まほはちょっと思うところがある。
追い返そうかと考えたが、大事な話というのが気になった。他校の隊長がわざわざ会いに来るとはそれなりの理由があるのだろう。
椅子を二つ用意して話をする態勢を整えると、アンチョビは言った。
「話ってのはおみゃあさんの妹さんのことでよ」
みほのこと。何故大事な話ときて、目の前の人物から妹の話が出て来るのだろうか。一瞬、まほは分からなかったが、アンチョビという人物の情報を思い出した時、直ぐにハッとなった。
アンチョビが他校の生徒を引き抜いて、自勢力を強化しているのは有名な話である。聖グロ、サンダース、プラウダと強豪校から次々と引き抜きに成功したと聞いた時は、まほも驚きを隠せなかったものだ。つまり、この話にみほのことを加えるとするならば、アンチョビの目的は、みほの引き抜きにあるのは明白だった。
ついに魔の手が黒森峰にも及んで来たのか、と顔を強張らせる。誰がお前なんかに妹をくれてやるか、と怒りが沸き起こってきた。
「反応を見るに、話す前に話を理解してくれたみたいで手間が省けるわ。既に妹さんからの承諾はもらっとる――西住みほをこの安斎千代美にくれ!」
「断る」
きっぱりと、まほは言い切った。
正直なところ、みほ以外なら話し次第で認めるところだ。本人がアンチョビの下へ行きたいと言うのなら好きにしてもらえば良い。
けれども、みほだけは認められない。本人は頷いても、まほは頷けない。頷くわけにはいかない。頷きたくない。
黒森峰機甲科の隊長として、西住流次期家元として、そして何よりも西住みほの姉として、何が何でも頷かない。これは理屈ではなく感情の問題である。
「ん? ん~、まあまあまあまあ、そう、来るわな」
アンチョビは腕を組んでうんうんと頷く。まほが断ってくることは想定していたらしい。だったら、と話を繋げる。
「おみゃあさんに訊ねるが、妹さんがどういう状況に現在置かれとるかは、知っちょーか?」
悩みの種がそこなのだから、まほが知らないわけはなかった。
「知っている」
「そうかそうか、知っちょーときゃあ――」
突如、アンチョビの顔から表情が消えた。ニコニコと柔らかだったものに、凄みが加わる。居住まいを正しい、面持ちを厳しく改め、鋭い視線はまほを刺しぬいていた。
こういう顔も出来る人物なのか、とまほは息を呑む。心中がざわざわと波立ち、嫌な汗が額から噴き出た。思わず拳を握りしめる。
「だったら、妹さんがどれだけ苦しんどったか、助けを求めとったか、知らにゃあとは言わせねーでよ!」
ダッと勢いよくアンチョビは立ち上がった。
「おみゃあはみほの姉ちゃんだぎゃ! 最も近しい人だと言ってもええ。そのおみゃあが妹の苦しみを理解しながら、助けてあげないとはどういう了見だぎゃ! おみゃあは本当に姉きゃ!?」
まほはアンチョビの剣幕に押されていた。
胸に突き刺さるアンチョビの鋭い言葉。妹が苦しんでいて助けを求めているのを知っていて、何もしない姉。言葉にされると否応なしに理解させられる。最低だ。文句なしに最低の姉である。そうだ、自分は最低の姉だ。
だが、とまほは強く握りしめられた己の拳に意識を向けた。
確かに自分はみほの姉である。みほが苦しんでいるのを知っていて、手を差し伸べない最低の姉だ。言われたって反論のしようもない。
だけど、仕方ないじゃないか……。
こっちには立場というものがある。姉としての立場と、隊長としての立場、次期家元としての立場、複数の立場があるのだ。姉だけをやっていれば良いわけじゃない。時には自分を押し殺して物事を判断しなくてはいけないのだ。
お前に何が分かる。お前なんかに何が分かると言うものか。自分の感情のままに動ける自由なお前に何が――
「何が分かると言うんだ!」
気付けば、まほはアンチョビに掴みかかっていた。
「キーキー、キーキーと煩いんだよ、この猿女!」
胸倉を掴みあげて、まほは絶叫した。もう自分で自分の抑えが利かなくなったようで、思いのままに腹の底から吐き出す。
「お前みたいな奴に、何が分かると言うんだ! 姉としての立場を貫けない私の苦悩を、黒森峰機甲科の隊長としての私の苦心を、次期家元としての私の苦痛を、お前は理解しているのか! いや、理解していよう筈がない! 理解しているのなら、理解してくれているのなら、ぬけぬけとあんなことを言って来るものか! 何がみほは苦しんでるだ! 何が姉失格だ! 私だって頑張ってるんだ! 私だってやれることをやろうと努力しているんだ! みほを救いたいと思っているんだ! でも、しょうがないだろう! 私だって人間なんだ! 出来る事と出来ない事があるんだよ! 何だよ! 何で私ばっかり悪く言うんだよ! 何でみほばっかり! 私だって、私だって苦しいんだよ! 何だよ、何でだよ! 誰か、私のことも考えてくれよ! 助けてよ!」
がくがくとアンチョビを揺らすまほ。
最早、黒森峰の西住まほはそこに居なかった。そこに居るのは苦しみに耐えかねて助けを求める、一人の女の子だった。
わーわーと喚く女の子の気が済むまで、アンチョビはされるがままに大人しくしている。時には胸元をボカボカ殴って来たりしたが、やはりされるがままだった。
どれほどの時間が経過しただろうか。喚く元気がなくなったのか、目元を真っ赤に腫らしたまほが、力なくアンチョビの肩に額を当てて小さく呟く。
「……助けて」
その小さな呟きを聞き取ったアンチョビは、まほに語り掛ける。凄味のある剣幕ではなく、いつもの笑みを浮かべて。
「許してちょーよ。おみゃあさんの気持ちをまったく考えてなかった。本当に、すまにゃあ」
「……助けて」
「おうおう、助けるとも。おみゃあさんも妹さんも、私が助けるでよ!」
この時、まほは顔を上げてまじまじとアンチョビの顔を見つめた。そしてやっと我に返ったのか、アンチョビから一歩分距離をとる。
自分の醜態を思い出し恥ずかしそうにしながらも、まほは言いたい事をひっくるめて静かに頭を下げた。
「妹をお願いします」
隊長として、次期家元として、姉として、一人の女の子として、まほはアンチョビに頭を下げたのである。
「おう」
こちらも静かに、胸を張って堂々と頷いた。