アンチョビが、みほとまほの母親であるしほと会談したのは二日後のことである。
しほはかっちりとした黒のスーツに身を包み、姿勢を正してアンチョビを迎えた。
客間に迎え入れられたアンチョビはテーブル越しにしほと対面する。爽やかながらに凛とした出で立ち、一目で分かるほどに一廉の人物だった。アンチョビは腹の中で唸る。
これは手強そうだ。今まで様々な人物と出会ってきたが、これほどの人物は片手で数えるほどしかいない。それでもみほ、そしてまほのためだとアンチョビは気合を入れる。
「お初にお目にかかります。手前は安斎千代美と申します。西住先生の御高名はかねがね。突然お訪ねして、お世話を掛けます」
アンチョビが平伏すると、クスクスと頭上から笑う声が聞こえてきた。
眉を顰めて顔を上げれば、しほが口元に手を当てて笑っている。
「何か、変なことを申しましたか?」
「いえ、そうですね。先生などと畏まって呼ばなくても良いのですよ。私のことは気軽にしほさんとでも」
見た目よりは茶目っ気がある人なのかもしれない。事前の調査では相当に堅い人物だと聞いていたし、一目見た時にも調査したものと同じような印象を抱いた。が、実際に話してみるまでは分からないものだ。
とにもかくにもこれならば話はしやすい。アンチョビはみほをアンツィオに連れて行きたいという旨と、まほが現状に苦しんでいることを話した。しほは礼儀よく膝に手を置いて、黙ってアンチョビの話に耳を傾けていた。話が終わると、一度深々と頷く。
「よく分かりました」
しほが口を開いた。
「第一印象通りですね。陽の如く温かな人。まったくの赤の他人であるまほとみほの身をそこまで案じる貴女の心には感服するばかりです。一人の人間として、何より一人の母親として嬉しい」
「そんな勿体ないお言葉を……!?」
「いえ。それに貴女から実際に話を聞いて私も決心しました。貴女なら信頼出来る。みほと、そしてまほをよろしくお願いします」
「はい……はい?」
アンチョビは首を傾げた。
どうしてみほだけでなく、まほまでアンツィオに連れ帰ることになっているのだろう。
「ふふ、いきなりでは分かりませんね。勿論説明させていただきます」
話は二日前の夜にまで遡る。
その晩、しほの下にまほから一通の電話があった。この時にアンチョビがみほを勧誘したことを明かしたのだが、それともう一つ。まほが自分もアンツィオ高校に行きたい、と言い出したのだ。正確にはアンチョビの下に行きたい、であるが。
しほは悩んだ。一母親としては娘の久しぶりとなる我儘を叶えてやりたい。ただ家元としては何とも言い難かった。そのアンチョビなる人物は西住の利益となるか否か。それが分からない以上、了承することは出来ない。
故に実際にアンチョビと会って、自分が認める人物であるならば二人を任せようという結論に至ったのだ。
そうして今。
アンチョビはしほのお眼鏡に叶っていた。この子にならば、まほとみほを任せてもいい。しほは僅かな時間でそう判断したのである。端的に言うと、しほはアンチョビのことを気に入ったのだ。
「私は人を見る目は確かだと自負しています。貴女なら信頼出来る。貴女の下でなら二人は成長出来る。母と家元、二つの立場から見ても何の問題もありません」
「私としましては歓迎させて頂きますが、まほさんまでアンツィオに来るとなれば黒森峰にかなりの不都合が生じませんか?」
しほは声を上げて笑った。
「構いません。黒森峰に人がいないわけではありませんし、先ほど言ったでしょう。貴女の下にいれば成長が期待出来ると。まほは次期家元ですから、上に立つ者としての在り方を学ぶ必要があります。その教師として貴女はうってつけなんですよ」
それに、としほは笑う。今度の笑いは静かに穏やかに、母親が全面に出た笑いであった。思わずアンチョビが見惚れるような微笑みだ。
「まほもみほも自分で貴女に付いていくと決めたのです。貴女が信頼出来る人間だと分かった以上は、母親として見守るだけでしょう。母親としての特権を使いあの子たちの人生に干渉するところはしますが、しないところはしない。これが愛情というものです」
さっと、しほは乱れてもいない姿勢を正す動作をした。その動作にアンチョビも倣う。
すると、しほがテーブルに両手をついた。
「改めて、まほとみほを、娘たちをお願いします」
良いな。良い母親だ。まほとみほは幸せ者である。何とも惚れ惚れする様な母親を持っているじゃないか。
アンチョビは妙に嬉しくなった。平伏はしなかったが、もう一度頭を下げた。
「お任せ下さい。決して悪い様には致しません。それに私の方こそ彼女たちの力を借り受けるのですから、礼を述べさせて頂きます。まほさんとみほさんの助力、誠にかたじけないことです」
一時の間、アンチョビとしほは頭を下げ続けた。それからどちらかが言うでもなく、同じタイミングで顔を上げる。
話はこれで終わりだ。けれどアンチョビは立ち上がらない。しほもアンチョビに帰ることを促さない。お互いにもう少し話がしたいと思っていた。
しほが言った。
「安斎さん。お昼は食べましたか?」
「いいえ」
「でしたらいかがです?」
少し悩んでアンチョビは答えた。
「甘えさせていただきます」
「でしたら待っていて下さい」
しほは立ち上がって客間を後にした。
しばらくアンチョビが待っていると膳が二つ運ばれて来た。運んで来たのはしほである。美味そうな匂いが湯気に乗って辺りを漂った。
元の位置に座ったしほが、照れるように頬を赤らめる。
「料理をしたのは久方ぶりです」
そう言ったしほの料理は、匂いが証明するように大層美味かった。この料理を箸でつつきながら、二人は会話を楽しんだ。戦車道のことは一切話さず、他愛のない雑談が主であった。その雑談が楽しいのであった。
「ご馳走様でした。大変美味でありました」
「お粗末様でした」
昼食が終わっても二人は雑談を続けた。だが何時までも入り浸るわけにもいかず、しほにも仕事があるということで、アンチョビは帰ることにした。
しほは門のところまで見送りに出て来た。
「しほさん、今日は愉快な時間を過ごさせていただきました。名残惜しいですが、これにて失礼させていただきます」
言って背を向けるアンチョビに、しほは声を掛ける。
「千代美さん。今日の話はくれぐれもまほとみほにしないようにお願いしますね。あの二人には厳格な当主として接しているのですから。と言うより、こんな風に話すのは貴女をのぞけば常夫さんとちよきちぐらいです。なのでくれぐれもお願いしますよ。私にも立ち位置というものがあるのですから」
アンチョビは顔だけ振り向いて言った。
「分かっています」
「それともう一つ。貴女は壊滅的に敬語が似合っていませんので、人がいない時は素の口調で結構ですよ」
何と答えるべきかアンチョビは数瞬沈黙して、ニヤリと口角をあげると、
「余計なお世話だぎゃ!」
努めて明るくそう返したのであった。
こうしてみほとまほはアンツィオ高校に迎え入れられた。以降彼女たちはアンチョビの傍に常として侍ることになる。西住家としての立場を自覚した上で、しかし過剰に意識することも意識されることもなく、二人は新しい仲間たちと日々成長していくことになるのだ。
それから後年の第六十三回戦車道全国高校生大会において、アンツィオ高校の名前が燦然と輝くことになるのだが、これらのことはまた別の話だ。
太閤殿下編最終話