───広大な部屋だった。
そこを、部屋だと形容することに違和感を覚えるほど。
フロア全体に薄く敷かれた水は鏡のように空を映し、棺が墓標のように突き刺さる。
出入口の正面。部屋の中央には棺が高く積み上げられ、そこに白衣の男が腰かけている。
異質な光景だ。だが、その中でも一際目を引く異物が一つ。
単眼のオブジェ。未知の文明のアーティファクト。
──七天の聖杯。
万能の願望器は、地上を照らす月の如く、ただ結末を見届ける。
あぁ、これは夢だ。アスナは静かに確信する。
その理由を言葉にすることはできなくとも。ただ、胸に宿る既視感がその答えを孕んでいた。
もう/ようやく ここまで たどり着いてしまったのか/たどり着くことができたのか。
パシャリと足下の水が跳ねる。
自分と重なっていた少女が歩く。茶色の制服に身を包んだ岸波白野は、いつも通りに足を進めた。それは、決して不思議なことではない。例え、この先にどんな結末が待っていたとしても──。
───きっと、その歩みは止まらないのだから。
※
硬い石畳。オレンジ色の街灯と、建物に隠れる影。
漆黒の空は月に至らず、かといって地上でもない天空の城。
私は独り、ただ歩を進める。
───聞きたいことがあった。
───聞かなきゃいけないことがあった。
きっと、岸波白野は、アスナと話をしなければならなかった。
アスナが攻略から離れる意味を。現実を諦める訳を。何故、この醜くも美しく、有意義な停滞を選択し、そして──何故に今になってなのか。
だってこの世界はどん詰まりだ。先のない泡沫の夢。機械仕掛けの幻想で、死に際に見る理想郷。どこかの大馬鹿者が見た星の裏側。
ずっと昔に決意した筈なのだ。この世界を終わらせると。自らの命を天秤にかけ、それでも、地上にはそれ以上の価値があるのだと。
この世界は、この世界に生きるものにひどく優しい。
圏内にさえいれば人は死なない。切られたってダメージは受けないし。病に伏せることもなければ、飢えて死ぬこともない。
生存競争を強いる月とも、ふとした不運で命を落とす地上とも違う。
ただ穏やかな安寧と緩やかな終末がこの世界にはあって。
それでも、前進にこそ意味はあると。なんとしてでも生きるのだと。
鉄の城を捨て、地上にこそ価値を見出だしたのなら。
なら、立ち止まることはできないはずだ。これまでの何千という欠損は、やっぱりいいやで済ませられるほど安くはない。
──その筈だ。そうでなくてはならない筈だ。
そうでなければ、私は────。
───ただいま。
がちゃりと、玄関の扉を開ける。"合鍵"を持つ私は、アスナの返事を待つこともなくそこに入ることができた。
木目の玄関。フローリングの廊下を越えて──リビングへ続く扉を潜れば、そこにはきっとアスナがいる。
光の漏れる扉の前で一息の逡巡。それでも止まることなど出来はしない。
───アスナ。
想像よりも勢いよく開いた扉に、自分の身体を滑り込ませる。
リビングに置かれた机に腰かけるアスナの姿は、今朝よりもずっと小さく見えた。
「……白野さん」
チラリと、アスナの対面に座るキリトに一瞥した後、帰宅が遅くなったことを謝罪する。
「……。」
アスナからの返事はない。俯いたままの表情は、立ったままの私ではうかがい知れなかった。
「…あー、こんな時間まで何してたんだ?」
私の謝罪を受けてなお口を引き結んだままのアスナに代わるように、キリトが問いを投げた。
アスナは先日の一件以来ずっとこの調子だった。いつも最低限の相づちだけを打ち、早々に寝室に籠ってしまう。
だが、今日はそれでは困るのだ。故に、私は取り繕うこともせず告げる。
私が遅くなったのはヒースクリフと一緒にご飯を食べていたからだ。
ピクリとアスナの肩が跳ねた。恐らくはヒースクリフという単語に反応したのだろう。何故なら、私がヒースクリフと共に居たということは、つまり──。
「───じゃあ、もう知ってるのね」
アスナの戦線離脱を既に知っていることに他ならない。
とはいえ、それ以上の経緯を私は知らない。アスナが、何故その結論に至ったのか、知ってか知らずか、ヒースクリフは教えてくれなかった。
だからこそ、私はアスナと話をしたいと思って──。
「それでまた茶化すの?」
───え?
一瞬、何を言われているのか理解できず、口から中途半端な声が漏れる。
「白野さんからすれば誰と一緒に戦っても同じなんでしょ?私の想いも全部、冗談で笑い飛ばせる程度のものなんでしょ?」
それは、徐々に沸騰していく水のような、そんな感情の発露だった。
「ならもういいじゃない。そうやって大切に思ってるよなフリをして、本当はなんとも思ってないくせに!貴女は…貴女達は──!!」
「アスナ!!!」
何か、決定的な言葉を発しようとしたアスナを、キリトがそれ以上の声で上書きする。
私はただ、呆然と聞くことしか出来ない。
きっと、そこには認識の違いがあった。確かに、真面目な場で冗談を言うことはあった。
でもそれは、この上なく結論が決定的だったからで。
先日の一件だって、同じパーティーではなかったとしても、場所は違えど、攻略に向けて共に戦うことが出来るなら、そう悲観することではないのだと、─そう、私は思ったからで。
価値観の違いとでも言うべきか。私とアスナでは、同じ体験をしても、全く違う感想を持つのだ。
そんなこと、わかっていた筈だった。
「──私ね。白野さん」
何も言えない私に、アスナは言う。
「今日、人を殺したの」
アスナが、攻略から離れる理由はそこにあった。
本日の昼、圏外の安全エリアで食事をとっていたアスナ達は、数名のプレイヤー集団に襲われたのだと言う。油断した隙をついてくるような計画的なPKで、敵は3人。中には見知った顔も混じっていた。
初撃でキリトは行動不能になったらしい。物陰から放たれた麻痺毒付きのナイフから、アスナを庇ったからだ。
敵の襲撃を理解したアスナは、すぐに武器を構えた。だが状況は3対1。相手は同じ攻略組も混じっていて、何より、アスナは人に刃を向けることに戸惑いを覚えないほど、剣の世界に囚われてはいなかった。
それでも、自分が負ければキリトも死ぬのだと、アスナは懸命に戦った。
驚くべきことに、戦況は拮抗したらしい。敵の連携が拙かったことが功を奏したのか。或いは、誰かを守らんとする想いが、アスナに力を与えたのか。
どちらにせよ、敵からすれば、耳をつんざく金属音が、キリトに与えた毒の効力が切れるまでカウントダウンに聞こえたことだろう。
故に、その拮抗は長く続かなかった。解毒作用のあるクリスタルやポーションを使わせまいと動いていた男達の内の一人が、キリトに止めをさそうと振り返ったのだ。
そしてその背中を、アスナの細剣が貫いた。
クリティカルヒットだった。
アスナの一撃は、大切な者を守らんと必死になって放った一撃は、その思惑を容易く超え、一人の男の命を食い破った。
そこでアスナの剣が折れなかったのは、やはりキリトの存在があったからだろう。
元々拙かった男達の連携は、ただお互いの足を引っ張り合うだけに成り下がる。
それでも、決して退くことをしない男達が、無機質なポリゴンになるまで、そう時間はかからなかった。
「──私ね。なんだか疲れちゃって。どうすれば良かったのかわからなくて。もう限界で──」
アスナは、頭痛を堪えるように髪をかきあげながら私を見上げた。
──そして、くしゃりと、その表情を歪める。
言葉にそれば泣き笑いのようなその表情は、諦めたような、失望したような、アスナには似つかわしくない表情だ。
「──あぁ。やっぱり……」
その声は、まるで泣き出す直前のようで。
「──貴女、"それがどうした"って顔してる」
遊び気分の友を殺した。
人生の先達を殺した。
無邪気な子供の夢を終わらせて、理解出来ない狂人を殺して、恩人を殺して、暗殺者を殺して、地上の王を殺して、人類の発展を望んだ男の願いを終らせた。
仕方のないことだ。否、一つも仕方がないなんてことはないけれど、それでも、お互いに譲れないものが有ったから。
だから、誰かの命を奪った事実が足を止める理由にはなり得なかった。
慎二を殺したかった訳じゃない。その他の誰だって殺したかった訳じゃないけれど、その先には譲れない願いが確かにあって。
だからこそ、奪った命は、果たされなかった誰かの願いは、足を止める楔ではなく、立ち止まれない理由だった。
それが責任だった。奪ったことには意味を与えなければならないと。私は私の願いのために貴方を殺したのだと、そう言えなくてはならないと。
だって、そうじゃなくちゃダメだ。そうでなくては納得が出来ない。奪った方も、奪われた方も。──成果のない犠牲など、認める訳にはいかないのだから。
「…なら、白野さんは何があっても攻略を離れるべきではないと、そう言うのね」
そうは言っていない。アスナやキリトが地上を志す理由を見失ったのなら、それは仕方のないことだ。命をかけるのだから、最終的には自由意思の下で選択されるべきだろう。
ただ、地上を目指す過程で失われた命を想うのであれば、それはやはり前に進むべきなのだと思う。
「そんなのおかしいよ…。人を殺しておいて、貴方の想いを背負うからなんて。納得なんてできるわけない。そんなの──人殺しの勝手な理論じゃない」
例えそうだとしても。そもそも、誰かを殺した人間が正義を語ること自体が間違っているのだ。
だから、結局は自己満足でしかなくとも、醜悪な悪と罵られようとも、その在り方だけは損なうわけにはいかない。
それこそ、何を背負うこともせず、何を果たすこともないのなら、それはただの人殺しだ。
キリトは黙ったまま、じっと私を見つめていて。アスナはカチカチと音を立てる歯を食い縛りながら、自分のカラダを抱き締めるように腕を回した。
「…白野さんは。白野さんは、人を殺したことを後悔していないの?」
無論、後悔などしていない。するはずがない。できる訳がない。
負ければ死んでいたのは私で、尋常にぶつかり、そうして上回ったことを、私は誇りこそすれ、後悔することなど到底あり得るものではなかった。
それは、今回の一件も同じだと思うのだ。
キリトが今も生きているのは紛れもなくアスナの功績で、迫り来る敵を打ち倒し、今の生存を勝ち取った事実は、きっと誇るべきものだと──。
「──やめてよ。おかしいよ!誰かの命を奪ったことが誇るべきだとか!そんなわけないじゃない!」
いや、誇れることだ。誇るべきことだ。アスナが救ったのは、キリトや自分の命だけじゃない。
アスナ達を襲った連中が、次に襲う可能性があった人間の命。或いは、アスナ達が居なくなったことによる戦力低下で危険にさらされるかも知れなかった人達の命。
それだけの命を救ったアスナが、それを誇れない訳がない。
────私とアスナは、きっと全然違う生き方をしてきた。
「なにも殺さなくて良かった!黒鉄宮に送れば、それで良かったのに!」
黒鉄宮だって、絶対に出られないわけではない。なにより、この世界が終わるとき、彼等は無事に現実に帰還することになる。そしたら、きっと同じことをする。手段は変わっても、目的は変わっても、きっと彼等は人を殺す。
それは防げる犠牲で、貴女が防いだ犠牲だ。
────それでも、きっと理解し合えるのだと。
「そんな顔のない誰かを助けるために!"もしかしたらあるかもしれない"犠牲を防ぐために!目の前の人間を殺めるなんて、そんなの狂ってる!」
いいや狂ってなどいない!時にはそれが正しさで、時には成さねばならぬ正義だ!
───全て共感することは出来なくても、お互いの価値観は、共存し得るのだと。
「───貴女は!!!」
貴女は!!!
───私は、確かにそう思っていて。
「命をなんだと思ってるの!!」
命をなんだと思っているのか!!
───奇しくも重なったその声が。その根底が。私達は決して分かり合えないのだと告げていた。
「───っ!」
アスナも同じことを感じたのだろう。ガタリと大きな音をたてて立ち上がったアスナは、私とすれ違うように、リビングから外に出ていってしまう。
「──アスナ!!」
それを追うようにキリトも立ち上がり──リビングから出る直前で、その足を止めた。
「俺も…、きっとアスナも、あんたの言ってることが分からないわけじゃないんだ。でも──少しだけ時間をくれ」
そう言って、キリトは返事も待たずに走り出す。
立ち尽くす私は、何を言うことも、何を伝えることもできなかった。
───私だって、アスナの言うことを理解出来ないわけではないのだ。
でも、それでも…それなら───。
───私は何のために、死ぬのだろうか。