───────夢をみる。
それはあまりに平凡な夢。
背の高い建造物の並ぶ地上で、当たり前の日常を過ごす、そんな夢。
いつだって隣にはアーチャーがいて、学校の教室に行けば慎二がいて、リンがいて、ラニがいて─キリトがいて、アスナがいて。生徒会室では、桜がいて、レオがいて、ユリウスがいる。
そこでは、誰もが英雄ではなく、勇者ではなく、強者でも、弱者でもない。
決して特別ではないそんな風景を。
夕陽を浴びて燃える草花のような、そんな美しさを。
──────私は今も、夢に見る。
※
草原を走る風が、私の頬を撫でる。
夜闇を照らす月の光が、辺りをキラキラと輝かせ、ただ一人で立つ孤独を、まるで美しいもののように錯覚させられる。
75層のスタート地点。アインクラッドの構造上、星空を見るにはその円周まで赴かねばならない。
せっかくだからと、私こうして月を見上げていた。
「どうかしたのか?白野」
ふと、背後からそんな声がした。
そちらに振り返り、背後で腕を組む。
遠くへと想いを馳せていたこともあり、その挙動がいやにゆったりとしたものになったことを、私自身もなんとなく感じていた。
──月を見ていた。こちらに来てから、まだ一度も見ていなかったから。
見上げていた月の光は、反対に私の背を照らし、私の表情に影を落とす。目の前に立つ少年の立ち位置では、おそらくシルエットしか見えていないだろう。
その少年─キリトが小さく息を呑んだ。
「──ここは、MO……じゃない、モンスターがいつ現れてもおかしくないんだ。早く戻ろう。」
──あぁ。今いくよ。
一歩前へ踏み出す。惜しむ気持ちはまた次へ。76層へと上がる時までとっておこう。
キリトの横まで10メートル弱。たったそれだけの距離で、空は鉄に覆われ、月から私を隠してしまう。
──キリト?
キリトとすれ違って尚も、その場から動かないキリトを不審に思い、私は声をかける。
「いや…。なんでもない」
その言葉とは裏腹に、キリトの足が踏み出すことはない。
──先に行ってるよ。
私は短く返す。きっと、先の戦いでキリトも思うことがあるのだろう。なら、一人の時間も必要だ。
「白野」
宙に浮かせた右足を、元の位置へと戻す。城の外から吹き込む風に、髪を乱されないよう抑えながら、キリトの方を向き直った。
「悪かった。俺のせいで、辛い思いをさせた」
はて、と私は首を傾げる。先程の戦いで、キリトの落ち度は無かったように思う。どちらかと言うと、コーバッツの謝罪が欲しいのだが。
むしろ、私はキリトに命を救われている。感謝こそすれ、憤りを感じる道理はない。
そう言うと、キリトは首を横に振った。
「いや…、あれだけの間、一人で戦って生き残っていたことの方が奇跡に近い。俺達はもっと早くに助けに行かなきゃいけなかった。それに……、左腕のことも…。」
肘から先が黒く染まった左腕を掲げる。自分の失態の結果を見られるのは少々気恥ずかしかったが、今さら無理に隠す必要も感じなかった。
《アトラスの悪魔》。あの時、私が使用したコードキャストだ。命名の経緯までは知らないが、その魔術の原理は、所謂『ラプラスの悪魔』に近い。『ラプラスの悪魔』は、地球上の全てを分子単位で把握すれば、完全な未来予知が可能であるという学説だが、《アトラスの悪魔》は、そこに、現実の変換の要素が加わる。標的の攻撃を構成する要素を観測・解析し、その中枢を強制的に変換させることで、その現象をそのままに、こちらのダメージ数値を0にするコードキャストだ。
言うまでもなく大魔術。それを片腕の犠牲だけで発動できたのならば、それは幸運という他にない。
───それに、この結果を悔いるには忍びないほどの、命を救う事ができたから。
肘の断面から伝わる鈍い痛みも、その先の、ジェットコースターに括り付けられているような妙な不安感も、今は誇らしく感じていた。
ふと、横を見れば、未だ罪悪感に濡れた表情をするキリトに、思わず笑ってしまう。
あぁ。そういえば、私も最初はそうだったな。
キリトの前髪をそっと撫でる。キリトの方がやや身長が高いから、少し間抜けな構図だ。
──私の方が、先輩だから。
「え?」
私の方が先輩だから、キリトが私に迷惑を掛けるのは、全然構わないのだ。まぁ、逆が余りにも多いから、私は気にしなくちゃいけないのだが。
「先輩って…。あんた…、そんなガラじゃないだろ」
キリトの額の前の髪を一房、ネジネジと弄っていた私の手を払い、こちらをじっとりと睨み付ける。
──そんな事はない。これでも私は保健室の後輩からよく慕われていて──。
あっそんなことより、左腕が使えなくなったせいで両手剣が使えないから、余ってる片手剣を恵んで欲しいんだけど。
「それは、先輩後輩以前の問題だろ!!」
冗談だ。そういってキリトの肩を叩く。皆の所に行こう。キリトはいいが、コーバッツには謝罪させねば。
「白野」
宙に浮かせた右足は、止まることなく前へと踏み出された。既に、キリトも歩き出している。
「──いろいろ、助かったよ」
どういたしまして。
その返事は呑み込んで、ただ笑ってみせた。