「智也が浜咲だったら」
三上智也は自宅のベッドで目を覚ますと、顔を洗って高校の制服に着替える。ネクタイを締めないのは校則違反だったが、気にしていない。
「さてと」
カバンを持って玄関を出ると、今坂唯笑と桧月彩花が待っていた。
「おはよう、トモちゃん」
「ああ、おはよう」
「……。もうギリギリよ、やっぱり一人じゃ起きられないんじゃないの?」
女の子らしい仕草で腕時計を見ていた彩花が駅まで急がなくてはならなくなったことを批難すると、智也は肩をすくめた。
「そうなったら、オレを置いていけばいい」
「バカ。加賀君が朝練に三年間参加しなかったのは、智也だけだって愚痴ってたよ」
「トモちゃん悪いんだぁ」
「オレは悪だ♪ 近づくと悪知恵がうつるぞ」
「唯笑はバカだから平気だもん」
「バカなこと言ってないで、急ぐよ、唯笑ちゃん、智也」
「は~い♪」
藍ヶ丘駅まで走ると、いつもの電車に乗れる。彩花と唯笑は上りのホーム、智也は下りのホームに向かった。
「じゃあな」
智也は幼馴染み二人へ、手を振る。
「トモちゃんも唯笑たちと同じ学校にしたら、よかったのに……」
背後で何か言われているが、聞こえなかったことにして、滑り込んできた車両に乗り込んだ。
「高校まで幼馴染みとセットでたまるかよ」
独り言をこぼしてカッターシャツのボタンを一つ外した。浜咲学園の校章が刺繍されたカッターシャツがはだけて胸が見えるようになったので、そばに乗っていた一年生の女子が顔を赤くして目をそらした。その動作で女子が背負っていた薙刀のケースが智也の頭に当たる。
「痛っ…」
「ぁ………」
うっかり当ててしまった一年生と智也の目が合う。
「……。痛かったぞ」
「…………。そんなところに、立っているから悪いのです」
謝るべきところで、謝らなかったのは藤原雅。
「なるほど、……オレが悪いと」
怒ってもいいのに、怒らなかった智也は軽く微笑んで肩をすくめた。
「もったいないな」
「……? ……何がもったいないと言うのです?」
会話する気はなかったのに、雅が疑問と好奇心に負けて問いかけると、智也はポニーテールにしている雅の頭へ軽く手を乗せた。
「見た目は可愛らしいのに、もったいない、ってことさ」
「っ…」
雅の顔がリンゴのように赤くなっていく。男慣れしていない様子に、そばにいた別の薙刀部員が、薙刀のケースで今度こそ智也の頭を狙って打った。
「痛っ!」
「なんぼ先輩でも、気安う女子に触るもんやないです」
「痛ぅ……悪いな。つい…」
打たれた智也は自分の頭を撫でながら苦笑した。つい、唯笑の頭を撫でるように、雅の頭を撫でてしまった。同じ学校の後輩とはいえ、ほとんど面識のない相手にすることではなかった。
「こんなところにまで、幼馴染みの悪影響か……」
「ただの女ったらしやと、思いますけど?」
木瀬歩からの冷たい視線を受け流しているうちに浜咲駅へ到着した。学校へ続く道を一人で進んでいく智也を背後から、二人乗りの自転車が追い抜いていく。
「ハーイ♪ 智也」
自転車の後部に座っていた黒須カナタが智也の背中を叩いて笑っている。
「おい、カナタ! 動くなよ! バランス崩れるだろ! ハァハァ…」
必死で自転車をこいでいる加賀正午が文句を言って、息を荒げた。
「加賀も重い荷物を載せて大変だな」
「うるさい!」
「とっても重くて大切な荷物だからね。ジイヤの運転より気をつかってくりたまえよ」
三人の横をリムジンがすり抜けていく。その車窓から花祭果凛が優雅に手を振って会釈してくれた。
「「優雅すぎる……皇后陛下みたいだ……」」
「りかりんが皇后なら、アタシは女神ね」
「女怪だ」
学校前の勾配がある道に太腿が悲鳴をあげた正午が自転車を降りて押す。それでもカナタは降りない。
「おい、重いぞ」
「どうせ、妖怪ですから取り憑いたまま離れませんよ♪」
「たはーっ……」
タメ息をついた正午を追いついた智也が笑う。
「はははははっ♪ ずいぶんな妖怪に取り憑かれたな。中学からの腐れ縁」
「うるさいぞ。お前だって唯笑ちゃんと桧月さんがいるじゃないか」
「オレは、ちゃんと御祓いして、浜咲に入ったから、腐れ縁は切りつつある。部屋の窓にも悪霊退散の札を貼って彩花の浸入を阻止してるぞ」
「ふーん♪ で、智也は例の彼女とは、進展したの? 昨日、学校サボってマリンランド行ったんだってね」
カナタが興味深そうに智也の瞳を見透かしてくる。現役高校生のままモデルもしている彼女に見つめられると、ほとんどの男子はうろたえるが、同じ藍ヶ丘第二中学の出身だった智也は免疫ができていた。
「さあ? どうだろうな」
「はぐらかすってことは……、あ♪ 噂をすれば…」
カナタは後ろから速いペースで歩いてくる寿々奈鷹乃を見つけて、手を振った。けれども、鷹乃は手を振り返すことはなかった。まっすぐ智也に向かってくると、スカートのポケットから小銭を出した。
「これ、返すわ。600円」
「……。オレはあげたんだけどな、寿々奈に」
「あなたから物をもらう理由はないわ」
鷹乃が小銭を握った手を智也に突きだしているが、智也も受け取らない。カナタが楽しそうに鷹乃のカバンを飾っているマリンランドのマスコットキャラ白ドルピィ君を見つけて微笑む。
「いいもの買ってもらったじゃん。お気に入り?」
「………。……」
鷹乃は答えず、智也に小銭を押しつける。
「昨日は持ち合わせがなかったから、立て替えてもらっただけよ。だから返すわ」
「鷹ちゃん、硬いね」
「黒須さん、私のことを、そういう風に呼ぶのはやめてくれるかしら」
「やめてくれないかしら?」
「くっ…」
やっぱりカナタの相手をするんじゃなかったと露骨に顔をしかめている鷹乃から、智也は一歩離れて白ドルピィ君を指した。
「返すっていうなら、そっちを返すのが筋かもな」
「え………これを?」
「オレは寿々奈に金を貸したんじゃなくて、オレが買ったキーホルダーを寿々奈にあげたんだ。要らないっていうなら、金じゃなくて、そっちを返してくるのが、筋の通し方だろ?」
「……………………」
鷹乃がカバンに着けた白ドルピィ君へ、明々白々に別れ難そうな顔をする。その顔が普段の彼女からは思いもよらないほど子供っぽい表情だったのでカナタは笑いをこらえるのに、かなり苦労した。
「けど、オレは、その白ドルピィ君への興味は無くしたからな。返してもらっても困るな。捨てるか、黒須にでもやるか、だな」
「アタシにくれるの? ふふ♪」
カナタがカバンへ手を伸ばしてくると、鷹乃は素早く白ドルピィ君を守った。
「怖い怖い♪ で、昨日は白ドルピィ君に会えたの?」
「……。会えたわ」
「よかったね」
カナタが巧く話題をそらしたので、鷹乃は600円を押しつける機会を失った。
「まあ、平日の昼間だったからな。たっぷり白ドルピィ君とやらを堪能できたぞ」
智也が校門へ歩いていく。
「じゃ、寿々奈、賭けはオレの勝ちだからな」
「…………ええ、わかっているわ」
「白ドルピィ君に会えなかったら、智也は全裸でヤスキヨ節だったのにね。そっちのがアタシとしては見たかったかも♪」
「りかりん情報に感謝だな。出現ポイントと時間、普通は教えてもらえないらしいな」
「知っていたの?!」
鷹乃が驚いて追いかけてくる。
「待ちなさい! 知っていたなら賭けは不成立よ!」
「いや、成立だ。いかさまは見抜けなかった方が悪いし、そもそも寿々奈を白ドルピィ君に会わせれば、オレの勝ちだった。方法は問われないはずだ」
「でも…」
「デモは機動隊が鎮圧するし、孫子も言ってるだろ。情報戦は古代から現代まで、戦の勝敗を決するってな」
「…………卑怯よ」
「オレは卑劣な男だからな。勝利を得るために方法は選ばない。勝てば官軍、いい言葉だ」
「………………………………」
納得できない鷹乃も遅刻する前に校門をくぐるしかなかった。
昼休み、白河ほたると智也は音楽室で会っていた。
二人きりの音楽室で智也が真面目な顔をして告げる。
「好きだ!」
「っ…」
ほたるは言われるとわかっていたのに、少し顔を赤くして目をそらした。
「う…うん、…いいと思うよ」
「そうか。……けど、好きです、の方が寿々奈にはよくないかな?」
「うーーん……、……言ってみて」
「……」
智也が少し気を貯める。そして、ほたるの目を見つめて告げる。
「好きです」
「…………、ふ~っ…」
ほたるは赤くなりそうな顔をタメ息をついて冷やしている。
「うん、こっちも、いいかも。ちょっと丁寧だし……でも、好きだ、の方が三上くんらしいかな?」
「うう~む、難しいな」
「そんな難しく考えないで、そのとき自然に口から出てきた言葉でいいと思うよ」
「いや、しかし、やはり事前に最大限の準備はしておきたい。戦争も恋愛も準備こそが勝敗を決する。白河、どっちがいいか、もう少し練習するから答えてくれ」
「うん……どうぞ…」
「好きだ!」
「っ…」
自分が好かれてるわけじゃない、これは演技だから、と思っていても顔が熱くなってくる。こういう気持ちのこもった言葉を演技で言える人間を、ほたるは二人、知っている。
「好きです」
「……」
カナタや飛世巴なら、もっと具体的な指導ができたかもしれないのに、ほたるは智也の目を見ないことで心拍数があがるのを抑えようとしたけれど、智也は練習に熱が入って、ほたるの両肩をつかんできた。
「好きだっ!」
「ひゃっ…」
「好きです!」
「だ、ダメだよ! ほたるにはケンちゃんという決まった人が…」
「好きだ!」
「ダメだって……困るよ…」
「好きです!」
「そ、そんな強引に言われても、ほたる困るから…」
「好きだっ!」
「み…三上くん…」
「好きです」
「………ほたるだって…」
見つめられて真剣に告白されるのが、こんなに心に効く、とは思わなかった。真剣に告白した経験はあっても、された経験はない、胸が熱くなって、このまま受け入れたくなってきた。
「好きだ!」
「…三上くん…」
「好きです」
「……、…………ほたるで……いいの?」
「……、いや、ダメだ」
「……………………、だよね」
すごく心が冷めた。なんだか、両肩をつかまれてるのが、とてもムカつく。そこへ、伊波健が現れた。
「何やってるんだよ」
「あ、ケンちゃん、こ、これはね、違うの!」
「ただの告白の練習だ。気にするな、白河の恋人A」
ほたるは慌てたけれど、智也は彼女の肩から手を離して冷静に説明した。健がムっとして智也を軽く睨む。
「なんだよ、Aってのは」
「ほら、よくあるじゃないか、通行人Aとか、兵士Aみたいな」
「意味わからない。ほたるから離れろよ」
「ケンちゃん、もしかして嫉妬してくれてるの?」
「ち、違うって!」
「よかったな、白河。嫉妬は恋愛で一番大切な要素だ」
「えへへ♪」
「ボクは、…ただ…」
「ごめんね、ケンちゃん。ちょっと三上くんの練習に付き合ってただけなの。ほら、前にも言ったけど、三上くんとは同じ中学だったから、ただの友達として相談にのってただけ」
「ほたるが、そういう…なら…、…けど、三上くんが告白って誰に?」
「それはね、…えっと、教えてもいい?」
「ダメだ」
「…………」
「本人がダメって言ってるから、ほたるも、いくらケンちゃんでも……」
「わかったよ。もうボクは邪魔みたいだから、お昼は翔太と食べてくる」
健が背中を向けて立ち去った。
「悪いな、白河」
「気にしないで。でも、三上くんが鷹乃ちゃんを好きになるなんて…ふふ♪ みんな驚くね」
「それは成功したらの話だけどな。なかなかにガードが堅くて苦戦してるよ」
「鷹乃ちゃんは、ちょっと男の子に壁をつくってるけど、それを突破できれば、あとは早いと思うけどなぁ……」
「壁か…」
「だから、ちょっと強引なくらいで、ちょうどいいかも。さっきみたいな告白されたら、どんな女の子でもドキドキすると思うよ」
「強引か……殴られそうだけどな……、けど、強引なくらいでないとダメかもな」
「愛は勝つ! 頑張れ、三上くん」
「うむ」
ほたるは背中を叩いて応援しながら、中学の友人のことを思い出した。
「彩花ちゃんと唯笑ちゃんは、もう気づいてる?」
「いや、たぶん、気づかれてないはずだ」
「そっか……」
「白河も、くれぐれも内密に頼むぞ。ほんの些細な手がかりで彩花は嗅ぎつけてくる。みょうな探りの電話とか、しないでくれよ」
「しないけど……」
「彩花に知られたら、絶対に邪魔されるしな」
「……、あのね、三上くん、彩花ちゃんが邪魔をするのは……それはね……理由があるんだよ。……気づいてないの?」
「気づいてない!」
「……気づいてるくせに…」
「あれは一種の悪霊だ」
「悪霊って、…ひどいなぁ」
「たしかに幼稚園のとき、婚約した。が、唯笑ともした」
「初恋の相手って、大切に想うよ、女の子は」
「男だって同じだ。いや、むしろ男の方が執着心は強いらしい」
「三上くんの初恋って、やっぱり鷹乃ちゃんなの?」
「いや、違う」
「……じゃあ、誰なの?」
「一応……彩花だと思われる、たぶん。……いや、もしかしたら、唯笑が先だったかもしれない……同時に好きになるってことはないから」
「なんか、いい加減……」
「白河だって、幼稚園から小学校低学年にかけて、誰を好きだったか、正確に思い出せるか?」
「ほたるは、ずーーっとケンちゃん一人だもん♪」
「伊波と出会ったの、高校に入ってからだろ?」
「うん♪」
「……………………」
「だいたい、幼稚園とかは初恋にカウントしないの。せめて中学に入って以降にしようよ。それなら、誰? やっぱり彩花ちゃん?」
「……………………みなも……あ、いや、……やっぱり…」
「やっぱり?」
「……、寿々奈だ」
「頑張ってね!」
ほたるが笑顔で背中を叩いてくれた。
放課後、大学の推薦入試に向けた水泳の練習を終えた鷹乃は、智也の家に招かれていた。
「ずいぶん、立派なところに住んでいたのね」
「そうか? 普通の家だぞ。むしろ、花祭とか、加賀、黒須に比べたら格段に劣る」
「………あの三人は別格よ」
「だな。だから、やっぱりオレの家は普通だ」
「詩音が言っていたわ。日本で普通の家に住めて、両親がそろっていることが、どれだけ奇跡的に幸せなことか、みんなわかってないって」
「シオン?」
「言ってなかったかしら、澄空学園にいる私の友人で双海詩音。父親の仕事のせいで海外を点々としているの。澄空学園にも転校生として入ったはずよ」
「ああ、そういえば、そんな転校生がいたって澄空に通ってる隣近所の子が言ってたかも。ちょっと愛想が悪くて友達にはなれなかったとか」
「それは詩音の一面しか知らないからよ。彼女の素顔を知れば、とても知性的で利発だってわかるわ」
「素顔か…、まあ、座って」
智也はリビングのソファに鷹乃を座らせて、台所に立った。
「紅茶かコーヒー、どっちがいい?」
「どちらでも……、いえ、紅茶を。……あ、やっぱりコーヒーをお願い」
「クスっ…意外と優柔不断なんだな」
「……、美味しい紅茶を飲みたい気分になったのよ。でも、あなたには望むべくもないと気づいたから、不味い紅茶を飲まされるくらいなら、不味いコーヒーの方がマシと判断しただけよ」
「なるほど、では、不味いコーヒーを淹れるとしますか」
智也はコーヒーを淹れると、戸棚から小さなガラス瓶を出した。中には黄色がかった粘液が入っている。カップに注いだコーヒーへ鷹乃からは見えない位置で大さじ一杯分、ガラス瓶から粘液を垂らし入れる。
「お待たせ、どうぞ♪」
「いただきます」
鷹乃がカップに口をつけた。
「……美味しい」
「お姫様の口に合うようで、なによりでございます♪」
「これ……ブラックではないでしょう、何か入れたの?」
「隠し味を少々」
「何を入れたの。少し甘いわ。それに、とてもいい香り」
「千羽谷のカフェで教えてもらったコーヒー専用シロップだよ。ヘーゼルナッツの」
「コーヒー専用……そんなものがあるの…」
「鷹乃姫におかれましては、お気に入りのご様子、おかわりは、いかがですか?」
「………、ええ、いただくわ」
少し甘くて香りのいいコーヒーが水泳で疲れた身体には美味しかったので、智也のふざけた物言いは気に入らないけれど、二杯目にも口をつける。
「三上くん、ご両親は?」
「双海さんと似たようなものかな。ほとんど家にいない」
「そう……ごめんなさい」
「なぜ、謝る?」
「………余計なことを訊いたからよ」
「いや、普通だろ。家に来て両親いなかったら、どうしてるのかな、帰ってこられて出会ったら、なにか挨拶しないといけないかな、とか、普通に思って、訊いたんだろ? 謝ることないって」
「…そうね。じゃあ、お母さんもお父さんも元気なの?」
「たぶん、連絡が無いあたり、元気なんだろうと思う。……………」
「どうかしたの?」
「寿々奈の本屋さ、……、訊いていいかな? あれ、オヤジさん?」
「違うわ。叔父よ。私は叔父夫婦に育てられたの。両親は私を捨てたわ。それだけ、他に訊きたいことは?」
「……………………。お腹、空かないか?」
「………話が飛ぶのね」
「他に訊きたいことは、って言われて、これ以上家族のことを突っ込むのは遠慮したからだ」
「…………遠慮したことを遠慮無く口にするのね」
「お腹、空いてることは遠慮しなくていいぞ?」
「……………………鯉の料理でも作ってくれるの?」
「リアル鯉のぼりの証拠写真は、あとで見せるさ。寿々奈のおじさんたち、今日から店を休んで温泉旅行だったろ? 町内の」
「ええ、それが三上くんに関係あるの?」
「寿々奈、夕食は?」
「……、まだ、考えてないわ」
「オレは今、考えた」
「………、で?」
「宅配のピザにしよう。何がいい?」
智也がメニューを見せてくる。鷹乃は戸惑った。
「宅配のピザって、バイクで配達しているアレのこと?」
「ああ、そうだけど?」
「………贅沢な生活をしているのね」
「お客がいるときくらいだぞ」
「そう」
「で、何がいい? 遠慮無く頼むがいい」
メニューを手渡されて、鷹乃は考え込み、そして食べたいものを決めた。
「じゃあ、これと……これ、それに、これのLLサイズ」
「……………………おい」
「遠慮無くって言ったのは、あなたよ」
「わかった。オレも男だ、二言はない。オーダーはしよう。しかし、ピザは冷めると不味くなる。本当に、これ、全部、食べられるんだろうな?」
「ええ」
「マジで?」
「ええ、三上くんだって引退試合は終わったみたいだけど、バスケ部だったでしょう。このくらい食べないの?」
「いや、LLなら半分が限度だ。つまり、オレは一枚の半分しか、食べない。あとは寿々奈が食べる計算になるけど、本当に頼んでいいんだな? 残して、明日も明後日もオレの飯が冷めたピザになるのは、怒るぞ」
「食べるわよ」
「わかった。じゃ、飲物は、これでいいな?」
「それって、ビールじゃないの?」
「ノンアルコールのビール風味飲料だ♪ ピザに一番、合う。コーラは甘いし、コーヒーも紅茶も食後だろ? 日本茶も麦茶も合わない。ピザと言えば、ワインか、ビールだ」
「……私たち、未成年よ」
「だから、ノンアルコール」
「…………」
「ホントに美味いぞ」
「わかったわ、それでいいわ」
鷹乃が了承したので智也は電話をかける。15分ほど待つと、大きなピザが届いた。
「おーい、お姫様、澄空幕府の将軍もビックリするくらいの夕飯が届いたぞ♪」
「どういう意味かしら?」
「双海さんが普通の家に住めることが奇跡的だって言ったのと同じ意味かな」
智也も持ったことがないほどの量のピザを抱えてリビングに運ぶ。
「かつて日本を統一した将軍でも、東北の鮭の味に驚くほど感動したそうだ。現代のオレらは、このピザ一枚に入ってる食材の豊富さ、輸入された範囲の広さ、食文化の豊かさに、それほど驚きもしないが、実はすごいことだと、思わないか?」
「…………そうね。何か手伝うこと、あるかしら?」
「じゃあ、リビングのテーブルに、これを並べて箱を開けておいてくれ。オレは皿と飲物を用意するから」
「わかったわ」
智也が置いたピザの箱を開けている鷹乃は、背後のキッチンで配達されたノンアルコールのビール風味飲料ではなく、本物のビールが冷蔵庫から出されてグラスへ注がれていることには気づかなかった。
「「いただきます」」
テーブル狭しと並べられたピザを二人で食べていく。
「たしかに、美味しいわね。ピザと合うわ」
「だろ♪ おかわり持ってくるよ」
もちろん、おかわりも本物のビールを注ぐが、鷹乃は気づかない。飲んだことのない本物のビールとビール風味飲料を判別することはできなかった。
「ホントに気持ちいいくらいの食べっぷりだな」
「そうかしら」
美味しそうにピザを頬ばっている鷹乃がチーズのついた指を舐めるのを、智也は愛おしそうに見ている。
「私の顔に、何かついているの?」
「昨日、帰りがけに寿々奈が、かぐや姫の話をしたろ」
「ええ、それが何か?」
「あの後、思ったんだが、かぐや姫自身は月へ帰る自分の運命を知っていたから、求婚してくる男たちに、基本的には諦めてほしかった、と思わないか?」
「……ええ、……そうね」
「竜の玉だとか、蓬莱山の玉の枝なんてのは、現代でいえば、ネッシーの尾ひれとか、日本狼の肝みたいなもんだ」
「ネッシーはともかく、日本狼の肝なら当時の貴族なら簡単に用意できそうね」
「そうだな。でも、現代じゃ不可能だ。となると、かぐや姫は不可能を可能にする男を求めていたか、もしくは男を拒絶していて無理難題を科したか、二つに一つ、もしくは、その両方か」
「両方?」
「不可能を可能にする男なら、月の軍隊だって退けてくれるかも、しれない」
「………」
「けど、やっぱり拒絶するための無理難題だったろうから、かぐや姫は貴族の皇子たちが命がけで海に出たりするのを、けっこう心中では焦って聴いていたかもしれないな」
「どうして、彼女が焦るの?」
「人間の恋心を知らない彼女は、普通なら諦めると思って不可能ごとを要求したのに、それに応じようとする人間の愚かさと情熱に驚くと同時に、自分の言ったことが原因で人が死ぬのは、後味が悪いからさ」
「………………、男の愚かさは、かぐや姫の想像を超えていたということね」
「別に恋のために、愚かなことをするのは男に限らないさ。白河を見てれば、わかるだろ?」
「……ええ……そうね……」
「けど、それも仕方なしだな」
「そうかしら? そんなくだらないことにエネルギーを費やすくらいなら、もっと有意義な人生があるはずよ。白河さんにだってピアノの才能があるわ」
「音楽や芸術は人間独特の重要事だけど、このピザが美味いのと同じで生物共通の重要事もあるだろ」
「………」
「そして、美しい音楽を奏でるのは、寿々奈の好きな昆虫の一部にも共通するし、ホタルだって幻想的な明滅をする」
「だから、なに?」
「さあ?」
「…………………」
結論のない話を聞かされたので鷹乃は不愉快そうにピザを頬ばった。けれど、その不愉快さもピザの味で、すぐに解けていく。
「こっちも美味しいわね」
「やっぱりシーフードが好きか?」
「基本的に好き嫌いはないわ」
「何でも喰う、と」
「………」
「悪いな。口が悪いのは、誰かと同じでね」
智也は少し笑ってグラスからノンアルコールのビール風味飲料を啜った。
「ごちそうさま」
「さすがに、満腹になったか?」
「そうね。あと一枚なら食べられそうよ」
「………、冗談じゃない感じなところが、すごいな」
「こっちは、あと一杯、もらっていいかしら?」
ピザの味が濃かったのと、アルコール独特の口渇感で鷹乃はグラスで6杯目になるビールを求めた。智也が注いでくれたビールを飲み干すと、鷹乃は腰を上げる。
「さ、リアル鯉のぼりとやらの、くだらない証拠写真を見てあげるわ」
「ああ、オレの部屋にある。こっちだ」
「なら、案内しなさ…ァッ!」
鷹乃は足をもつれさせて、転びそうになった。
「おっと!」
ある程度、予想していた智也は倒れそうになる鷹乃を支えて、立たせる。
「大丈夫か? 水泳で疲れてる?」
「平気よ。ちょっと、足がもつれただけ」
「平気といいつつ、フラフラしてるぞ」
「……、そうね、ちょっと今日は練習量が多かったかしら……、陸に上がると身体が重いわ」
「食べ過ぎだからじゃないか?」
「余計なことを言わずに、さっさと案内しなさい」
「わかったよ。けど、階段は危ないから、ほら」
智也が腕を支えてくるのを、ふらつきを自覚している鷹乃は拒否しなかった。お腹がいっぱいになったのと、初めて体験する酩酊感のおかげで、いつものような男性に対する拒否感が少なくなっている。まっすぐ階段を昇る自信がなかったので、智也に頼った。
「ほら、こっちに座って」
「…ええ…」
半ばうつろな目をして、鷹乃は案内された部屋のベッドに座った。
「ちょっと待っててくれよ。今、アルバムを探すから」
「…私が来るって……わかっていたんだから……用意しておくのが…」
ろれつと語勢が怪しくなってきた鷹乃は、座っていたベッドに寝そべった。
目を閉じると、心地いい眠気が襲ってくる。
「…今日は疲れ…たわ…」
「寝たいなら、ちょっとなら、寝てもいいぞ」
「……ええ……じゃあ、5分だけ……」
部活の後に、満腹になってアルコールまで呑まされて、今日は店の手伝いもないという安心感から、目を閉じていた鷹乃は一息で眠りに落ちてしまった。
「……………………」
智也はアルバムを探すのをやめて、鷹乃の寝顔を見つめる。
「…………………。オペレーションおろち、成功だな」
難攻不落に見えた対象を、ホームに誘い込み、古代から有効だった酔わせて仕留める作戦だった。今夜は、いつも通り両親はいない、彩花も予備校で帰りは遅い、鷹乃も叔父夫婦が旅行中、狙ったタイミングとはいえ、すべて計画通りだった。
夜中、智也はイスに座って、鷹乃の寝顔を見つめていた。もう何時間も飽きることなく穏やかな寝息を繰り返している彼女を見ている。部屋の照明はつけていないし、彩花の部屋へ面した窓のカーテンも閉めているので、かなり暗い。
「……………………」
起きたら口説こう、寝ぼけているところを一気に口説き落とそう、そう企んでいるけれど、まだ起きる様子はない。寝顔を見ていることに飽きるどころか、顔だけでも魅力的なのに、鷹乃のスカートは寝返りをする度に大きく乱れていって、智也は目のやり場と保養に不自由しない。
「んっ……ん~ぅ…」
制服のまま寝ているのが寝苦しいらしく、ほとんど無意識で鷹乃は胸のリボンをゆるめてブラウスのボタンを外してしまった。
「………………………………」
よく見えるようになった胸元が智也の理性を危うくしてくる。
「くっ……情熱を……持て余すぜ」
燃えあがりそうになった情熱の炎が、彩花の部屋が明るくなったことで、一気に鎮火した。
「っ…」
彩花が部屋の照明をつけている。ぼんやりとした光がカーテンの向こうから差し込んでくる。
「気づくなよ……」
予備校から帰ってきた彩花は制服を脱いでいる様子だった。両方の部屋のカーテンが閉じたままでも、長年の経験で彩花がブラジャーも外して、パジャマ姿になっているのが判るけれど、鷹乃に感じたような情熱は1ピコケルビン度も覚えない。
「……………………」
彩花はパジャマのまま一階へ降りていき、入浴を終えると、再び部屋に戻ってきた。
「寝ろ、そのまま眠れ、悪霊」
祈る智也に気づかず、彩花は自分の部屋のカーテンを開けると、こちらを覗いてくる。
「智也ぁ~?」
彩花は窓も開けると、身を乗り出して智也の部屋のガラス窓に顔を近づけてくる。
「……………………」
オレは寝た、もう寝たんだ、だから、お前も寝ろ、智也はカーテンの向こうに映る彩花の影が本当に悪霊に見えてきた。今この状況で彩花が闖入してきたら、とても鷹乃を口説くところではなくなってしまう。鷹乃のような難易度の高い女性を、彩花のような悪霊を背負ったまま口説き落とせるものではない、智也は必死に祈り始める。
「……しずまりたまえ、眠りたまえ…」
「智也、もう寝てるのぉ~?」
寝ていた場合に配慮して、やや小声で彩花が問いかけてきている。こちらの様子を窺おうと、カーテンの中央や端から覗き込もうとして、影法師がフラフラと漂っている。
「悪霊退散、悪霊退散、おんばさらさらそわか、いつくしみふかき友なるイエスよ、成仏させたまえ、願わくばみなをあがめさせたまえ、くにとちからとさかえとは、かぎりなくアラーのものなればなり、アーメン、ハレルヤ、ピーナツバター」
三種混合の祈祷が奏功したのか、悪霊の影は遠ざかり、向こうの部屋も窓とカーテンが閉められた。
「ふーーっ…」
「んんっ…」
鷹乃が大きく寝返りを打って、仰向きになった。
「…………………………」
スカートが完全にはだけて、水玉模様のショーツが見えている。胸元もあらわになっていて男子高校生の知性を失わせ、痴性に溺れさせるのに十分な刺激だった。
「……寿々奈…」
智也はベッドにあがり、鷹乃へ身体を重ねる。その気配で鷹乃の眠りが浅くなった。
「ん~っ…」
「寿々奈…」
「………」
眠っていた鷹乃が目をあけた。
「……………」
「寿々奈」
「……み…かみ……くん?」
すっかり状況を忘れている寝ぼけ眼で鷹乃は智也の顔を見上げている。
「……私……、ここは…?」
「オレは寿々奈が好きだ」
「………」
鷹乃は自分が寝ぼけて夢を見ているのかと、目を擦った。けれど、智也は消えない。
「だから」
智也が鷹乃へ唇を重ねた。
「っ!」
さすがに鷹乃が驚いて、押し返そうとしたけれど、起き抜けの身体が十分な力を出してくれない。不本意なキスが数秒続いて、智也が離れる。
「何するのよ、ヘンタイっ! 叫ぶ…ううっ!」
抗議しようとした鷹乃の口は智也の手で塞がれた。
「大きな声を出すなよ、頼むからさ」
「ううっ!」
怒った鷹乃が手を噛んだ。
「痛っ…」
噛まれる程度のことは覚悟していた智也は手を離さない。鷹乃の口に血の味と匂いが拡がった。
「うううっ!」
ひっぱたいてやろうとした鷹乃の手も虚しく受けとめられて、手首を握られベッドに押しつけられた。
「オレは鷹乃が好きだし、ヘンタイじゃない」
「ううっ…」
「オレが男で、お前は女だろ。お前を好きになって、どこがヘンタイだよ?」
「…ぅぅ…」
逃れようと試みても、体格が違う。まるで押し返すことができない。息苦しくて、暗くて、身体が自由にならない。
怖い。
「好きだ、鷹乃。オレの女になれ」
「……ぅ…ぅ…」
うまく息ができない、暗い、怖い、子供の頃に池で溺れたときと同じだった。怖い、恐ろしい、もうイヤ、鷹乃の身体が抵抗をやめて、されるがままになった。
明け方、鷹乃が抵抗をやめたのは身をゆだねたのではなく、恐怖で抵抗できなかったのだと、智也が悟ったのは啜り泣く鷹乃の震えが何時間も止まらなかったからだった。
「……鷹乃…」
冷静になった智也が優しく頭を撫でても、鷹乃は身震いして余計に泣いてしまう。布団をかけてやり、そばで見守ることしかできない。そのうちに日が高く昇り、誰かが家のチャイムを鳴らした。
「彩花か……、こんなときに…」
チャイムが鳴る30秒前に彼女の部屋から人が降りていく気配がしたので、まず間違いなく彩花だった。最悪の場合、唯笑を連れているかもしれない。一応、チャイムは慣らしているけれど、彼女たちは、この家の合い鍵を持っている。ほっておくと起こしに来るのは、地動説なみに揺るがない事実だった。
「………チェーンロックもかけておくべきだった……」
布団の中で啜り泣いている鷹乃を置いて、智也は階段を降りて玄関に立った。
「休日の朝から、何だよ?」
ドアを開けずに話しかけると、やっぱり彩花と唯笑がいた。
「トモちゃん、おはよう♪」
「智也、いつまで寝てるのよ。夕べ、早く寝たんじゃないの?」
「オレの生活に干渉するな」
「そうはいかないわよ、私と唯笑ちゃんは智也のお母さんに息子をよろしくお願いしますって、頼まれてるんだから」
「……チッ…」
「舌打ちしない」
「いいから帰れ! オレは頭が痛いんだ。リアルに!」
「リアル頭痛なの? トモちゃん」
「そうだ! リアル頭痛だ! だから、ほっといてくれ!」
「お薬、買ってこようか?」
「智也、仮病は認めてあげるとしても、どうして、部屋の窓、鍵までかけてるかな?」
「悪霊が入ってくるからだ」
「…………今まで、悪霊退散の札は貼っても、鍵まではかけなかったのに……、夕べ、鍵かかってた…」
「お前が夜討ち朝駆けするからだ!」
「遅刻しないように親切に起こしてあげたり、いつまでもゲームしてるバカを早く寝かせてあげる親切な妖精さんが入れなくて困ってるよ?」
「妖精とか、妖怪とか、そーゆー人外の存在にオレの生活に干渉されたくないんだ!」
「「……………………」」
「いいから、帰れよ!」
「顔くらい見せたら? ドア開けてよ」
「………」
「それとも何か、開けられない事情でもあるの?」
「……………」
ある、玄関には鷹乃の靴があるし、ドアを開けたら済し崩し的に部屋まであがられるかもしれない。それは、まずい、実に、まずい、智也はドアを蹴ってチェーンロックをかけた。
「オレに関わるな!! 幼馴染みとかいって、お前らウザすぎんだ! 休日くらいオレの好きにさせろ!!」
「「…………………………」」
「…………」
「………………トモちゃん……唯笑たちのこと、嫌いになったの?」
唯笑が半泣きになっている声が響いてきたので、智也は後悔した。
「悪かった。………とにかく、今日は一人でいたいんだ………ほっといてくれ、頼む」
「……トモちゃん…ぐすっ…」
「智也、最悪。唯笑ちゃん泣かした」
「………後で、埋め合わせするから、今日は勘弁してくれ」
「ふーーん、よっぽど、都合が悪いことでもあるみたいね。死体でも埋めに行くの?」
「……………、オレは彩花が嫌いになってきた」
「…………。ま、いいわ。今日は許してあげる。ちゃんと埋め合わせはしてもらうから、お小遣い、残しておきなさいよ。じゃ」
彩花と唯笑の気配が消えた。
「ふーーーっ……、どうなることかと…」
ドアを開けたら、あの二人に隠し通せるわけがなかった。鷹乃の靴は隠せるとしても、リビングには何人で食べたのかってくらいのピザの残骸と、飲酒の跡、そして部屋には布団の中で泣いている鷹乃、見つかったら彩花が懲罰の天使ミカエルに変身しそうな状況だった。
「さて、……マジでリアル頭痛だな…」
玄関の施錠を確かめて、もう一度、部屋に戻った。やっぱり鷹乃は布団の中で啜り泣いている。
「……………………」
もう少し、そっとしておこう、智也は一階に降りると台所でグラスを洗ってピザの箱を捨てて、夕べの証拠を隠滅していく。勘のいい彩花に気づかれないくらい、きちんと証拠を片付けてから、二階へあがると、もう昼過ぎになっている。そっと鷹乃に近づいて、声をかけてみる。
「……お腹、空いてないか?」
「…………」
「何か、飲むか?」
「……………………」
鷹乃は返事をせずに布団の中で身じろぎすると、一言だけ答える。
「……帰る…」
泣きつかれた喉のかすれた声だった。
「……わかった」
送るよ、とは言わずに智也は帰る鷹乃に同行する。送ると言えば拒否される気がしたけれど、黙って同行すれば断る気力もない様子で、とぼとぼと歩いている。昼過ぎなので必ずしも危険ということもいえないけれど、気持ち的に本屋まで送っていかないと落ちつかなかった。
「叔父さんたち、旅行から何時くらいに帰ってくるんだ?」
「……夕方…」
「そっか。……どこかで何か食べないか?」
「………いらない…」
「……………」
会話が続かない。鷹乃は歩きながら目に涙を浮かべて、それを指で拭いていた。これだけ泣いていれば喉が渇くだろうと、智也は自動販売機で水を買うと、黙って鷹乃に差し出した。
「………」
「…………」
いらない、とは言えないくらいに喉が渇いていた鷹乃は受け取って、一口ずつ、水を飲んでいく。水分を補給すると、すぐに涙へ変わってしまうようで、また目元が濡れた。
「……………」
「……………………」
黙って歩くうちに、叔父夫婦が経営する自宅兼店舗の前に着いてしまった。店には臨時休業の貼り紙がしてあったけれど、店の前に人影が二つ、智也と鷹乃に気づいて、手を振ってくる。
「鷹乃センパ~イ!!」
舞方香菜と双海詩音が店の前で待っていた。
「鷹乃センパイ、どうして待ち合わせの場所にいなかったんですか?」
「珍しいですね、鷹乃が約束を忘れるなんて。少し心配だったので押しかけてしまいましたが、どうやらデートの約束でも…ぇっ?」
詩音は近づくなり鷹乃に抱きつかれて驚いたけれど、その鷹乃が大声をあげて泣き出したので、さらに驚いた。
「うわあああん! わああああっ!」
「鷹乃……、いったい…どうしたと…」
「鷹乃センパイ?!」
「わああああっ…」
後輩もいるのに路上で号泣している鷹乃を詩音は何もわからないまま抱きしめて、智也に問いかける視線を送った。
「………」
智也は返答に窮してバツが悪そうに目をそらした。それで詩音に推理のきっかけが生まれる、あとは休日なのに鷹乃が昨日と同じ制服を着ていること、いつも乱れのないポニーテールを整えているのに、今は昨夜から櫛を通していない様子の乱れ髪になっていること、それらの状況から大まかな事情を察して、もう一度、鷹乃を強く抱きしめた。
「三上センパイ! 鷹乃センパイに何があったんですか?!」
「………香菜ちゃん……」
答えに困っている智也を詩音が鋭い視線で睨みつけた。
「はじめまして、鷹乃の友人、双海詩音と申します」
「あ……ああ、……鷹乃から少し…聞いてる…」
「私も、あなたのことは鷹乃から少しばかり伺っております」
詩音の言葉は丁寧なのに智也は日本刀を向けられているような戦慄を覚えて後退る。
「……」
「鷹乃と何があったのか、お答えになれないならば、この場はお引き取りください」
「ぅっ……」
切り捨てられたような錯覚を受けて智也はグラついた。
「………オレは……、……」
「お引き取りを」
「………」
何も言えず、智也は立ち去った。
夕方、彩花は隣家から聞き慣れない女子の叫ぶ声と、陶器が割れるような音が響いてきて、気になって智也に関わるなと言われたけれど、動かずにはいられなかった。
部屋の窓を開けると、やっぱり智也の方は鍵をかけている。
「ちょっと危ないけど……よっ!」
窓から窓へ飛びうつると、さらに智也の部屋の隣の窓へ、雨戸に体重を預けて移動する。
「くぅ……小学生のときと違って、……きつい…」
手足は伸びたけれど、その分だけ体重も増加しているので雨戸が戸袋ごと落ちないかと、かなり不安になり、しかもスカートのまま実行したことに強い羞恥心を覚えたけれど、途中でやめるわけにはいかない。桧月家と三上家の間は、わずか60センチ、手足を伸ばせば、壁と壁の間を空中移動できる。じりじりと彩花は壁と壁の間を動いて、隣の窓へ到着した。
「ふふふふふ♪ ここには悪霊退散の札も忘れているようね。耳なし法師くん」
窓には札もなければ、鍵もかかっていない。智也に弟か妹でもいれば使っていただろう空き部屋に彩花は滑り込んだ。
「ふーっ! 浸入成功♪」
ガッツポーズを取ってから、少し虚しくなった。
「……………なんとなく悪霊扱いされる理由がわかるような……」
それでも一階からは、女子の泣き声混じりの怒鳴り声が響いてくるので、やはり気になる。静かに階段を降りてリビングの様子を探る。
知らない女子が智也を怒鳴りつけている。眼鏡をかけた小柄な子で、年下のような雰囲気があった。かなり興奮していて肩で息をしている。
「センパイのしたことは強姦ですよ!!」
「香菜ちゃんがしたことは器物損壊と傷害罪だな」
「っ……、卑怯者っ!」
「それは否定しないが、物を投げるのもやめてくれないか。もう少し冷静に…」
投げつけられたティーカップで智也は手を切ったらしく血が滴っている。
「智也っ!」
思わず彩花は飛び出していた。
「な…彩花、どうやって?!」
「何よ、この子は?!」
彩花は智也を守るように香菜との間に割り込んだ。香菜は冷静になるどころか、ますます気色ばむ。
「ど…どういうことなんですか?! 鷹乃センパイだけじゃなくて他にも!! ひどい! ひどすぎる!!」
「智也、説明しなさい!!」
「もう信じられないっ!! 鷹乃センパイが可哀想っ!!」
「くっ………」
智也が苛立って、テーブルを叩いた。
「うるさいっ! 黙れ!!」
「「っ……」」
男の怒声に二人が本能的な怯えを感じて黙り込む。
「彩花には後で説明するし!! 彩花とは幼馴染みで鷹乃とのことには無関係だっ!!」
「…ほ……本当ですかっ?!」
「本当だ!!」
「っ……、アヤカさん? 三上センパイとは、ただの幼馴染み、なんですね? それでいいんですね」
「えっ……、何で、あなたに、そんなこと確認されなきゃいけないわけ?!」
彩花の頭にも血が上って顔が赤くなる。
いきなり初対面で失礼にもほどがある、怒りで顔が真っ赤になった。
「あなたこそ、いったい何なのよっ?! 何様のつもりっ?!」
「私は鷹乃センパイが可哀想だからっ!!」
「誰よ、タカノって?!」
「三上センパイとっ! と……付き合って…る? 人です? よね?」
断言し損ねて、かなりハンパな疑問形で終わってしまった香菜を、彩花は鼻で笑った。
「なにそれ? じゃ、あなたは、いったい何? 何しに来てる人?」
「私は……、だから……その…」
「彩花、あとで説明するから、とにかく黙っててくれ。香菜ちゃん、もう帰ってくれ。話なら、また明日にしよう。な、頼む」
「……………………、……」
香菜は智也と彩花を見比べて、最後に念押しをしてくる。
「一つだけ答えてください」
「ああ……何だ?」
「三上センパイは、本当に鷹乃センパイのこと、好きなんですよね?」
「………。好きだ」
「いい加減な気持ちで鷹乃センパイのこと、抱いたわけじゃないんですよね?」
「だっ、だいっ?! 智也っ?!」
「香菜ちゃん、最初に一つだけって言っただろ。もう終わりだ」
「っ! 卑怯者っ!!」
「もう帰れ、舞方」
年下への親しみを込めたチャン付けから、苗字の呼び捨てに変えて、智也は玄関を指した。
「……………………」
香菜は涙を溜めた目で智也を睨むと、帰っていった。
急に静かになったリビングで智也はソファに座り込むと、タメ息をついた。
「ふーーっ……」
「……………………」
彩花は黙って立っている。
「………………」
「……………………」
説明を待っている彩花は、散らばったティーカップの破片を拾い集めると、掃除機も出してきた。
「すまん、悪いな」
「…………………」
彩花の背中が掃除が終わったら説明してもらいますから、と語っている。片付け終わった彩花は救急箱から絆創膏を出して智也の傷口に貼った。
「それで?」
「…………………………だいたい……さっきの会話から推測できるんじゃ、ないか?」
「ええ、でも、きちんと説明してくれる約束よね?」
「…………………、隠してたわけじゃ……いや、隠してたんだが……」
言い辛そうに智也は言葉を選んでいる。
「……つまり……その……オレは、……オレには、浜咲で……興味のある女の子がいるんだ。……そーゆーこと、だ」
「そーゆーこと。で、抱いたって?」
「…………今は話したくない」
「……………………、こんな怪我までさせられてね。私に相談してくれないの?」
「彩花……」
悲しそうな顔をされると、智也の胸が痛んだ。
「ね、智也。私や唯笑ちゃんに話せないようなことなの? あの子は何か誤解して暴れただけでしょ?」
「…………………………」
「でも、私は誤解だとしても智也が強姦なんて言葉をぶつけられるのは、幼馴染みとして許せない。それに、あまりいい誤解じゃないから、ちゃんと解いておかないと智也の将来に禍根を残すかもしれないよ? だから、ちゃんと相談してほしいの。一人で悩まないで話してくれたら、いいアイデアが浮かぶかもしれない。ね、智也」
「……………………」
「智也?」
「………、悪い、彩花には相談できない」
「……智也…」
「お前はオレに近すぎる。相談できない、したくない……すまん」
「智也……………………、………」
「この件では、白河に相談してるんだ。………悪い」
「ほたるちゃんに?」
「ああ」
「そう………そっか、……………やっぱり、学校が違うと、………うん、わかった。智也を信用する。もちろん、ほたるちゃんも。藍ヶ丘第二中学の魂は最強だもんね」
「……そうあってほしいな……」
つぶやいた智也が疲れている様子なので彩花は静かに立ち去った。
翌日の昼休み、智也は静かに廊下を歩いて鷹乃のクラスを覗いてみた。
「………」
意外にも鷹乃は出席していたけれど、昼食も摂らずに下を向いている。その隣には香菜がいて、智也の視線に気づくと呪い殺さんばかりに睨んできた。
「……………」
あいつは一年生で夏期講習は無いはずなのに、わざわざ鷹乃のフォローをしてくれてるのか、智也は少し安堵したけれど、香菜の視線は智也を焼き殺しかねないほど灼熱している。
「………」
智也は香菜から目をそらして、教室を見回したが、ほたるの姿はない。
「やっぱり、音楽室か……あのバカ彼氏も、いっしょだろうな…」
智也が音楽室に移動すると、予想通りに健と弁当を食べている。智也は開いていたドアを軽くノックして声をかける。
「白河」
「あ、三上くん!」
「悪いが、放課後、ちょっと付き合ってくれないか?」
「うん、いい……あ、ケンちゃん、いいよね? ほたる、三上くんの相談に乗っても」
「いいよ」
「悪いな、彼氏。じゃ」
智也は音楽室を出ると、あてもなく歩いた。食欲はない。パンを買う気にもなれず、歩いているうちに屋上へ着てしまった。
「ふーーーっ…」
タメ息をついた智也に斜め上からカナタが声をかけてくる。
「ハーイ♪ うかない顔して黄昏れてるね」
「よ、三上。あがってこいよ」
「………」
断るのも面倒だったので智也は屋上の立ち入り禁止になっている屋外出入口の屋根に登った。貯水タンクとアンテナが数本ある狭い屋根は、学校側は立ち入り禁止にしているが、生徒の中では三年生だけが占拠していいという不文律がある空間で、よく正午とカナタが占領していることが多い。今日も弁当を広げていた。
「……音楽室だけじゃなくて、こっちにもバカップルがいたか…」
「バカ一人より、バカ二人の方が幸せよ?」
「………。黒須、疲れてるから、手加減してくれ」
「ふーん♪ 智也にしては、ずいぶん神妙ね」
「カナタの相手をするのは誰だって大変だからな」
正午が箸を置いて笑った。
「その様子だと、寿々奈さんの攻略に手こずってるな?」
「……まーな」
「いかんな」
「いかんね♪」
「ハモるなよ、バカップル」
「女に手こずるなんて三上らしくないぞ。さくっとゴール決めてやれよ」
「そうそう♪ アタシの見たてだと、鷹ちゃんも智也にからまれて、まんざらでもないって感じだよ? 顔と言葉には出さないけど、あーゆー子は、ちょっと強引に攻めるくらいじゃないとね。何回か断られても、気にしないで攻め込まないと」
「……攻め込んではいるんだがな……」
「ツメが甘いんじゃないか? あーゆー女は、ときには強引なくらいでないとダメだぞ。いちいち文句なんか聞かずに、男ならダーッと攻め込めよ」
そう言って正午は隣に座っているカナタを押し倒した。
「ちょっと、バカショーゴ」
「三上に手本を見せてやってるだけだ」
「もう…」
「カナタ♪」
「バカショーゴ、ふふ♪」
文句を言いながらもカナタは押し倒されて嬉しそうにしている。これなら音楽室の方がマシだったな、智也は寝転がって空を見上げた。
午後の夏期講習が終わった後、智也が音楽室を訪ねると、ほたると健が待っていた。おまけに中森翔太までいたので智也は仔猫の首を掴むように、ほたるの耳を引っぱると音楽室の外へ連れ出した。
「おい、白河。なんで外野がいるんだ!」
「ぅ~ぅ……ごめんなさい」
それほど痛くなかったけれど、ほたるは引っぱられた耳を撫でつつ、謝る。
「ほたるの話、怒らないで聴いてくれる?」
「もう怒ってる」
「ぅっ……」
「正直に話さないと、もっと怒る」
「……怒ると、……どうするの?」
「リアルソウチンニャン人形にして、登波離橋から吊す」
「ううっ……」
ほたるが呻いていると、音楽室から健と翔太が出てきた。
「ほたるに何してるんだよ!」
「相談してるんだ」
「そういう風には見えない!」
「お前の目が節穴だからだっ!」
「なっ…」
「よせよ、健。三上君も。二人がケンカしたって仕方ないだろ」
「ボクは別に…」
「オレは売られたケンカを買い叩いただけだぞ」
「買い叩くくらいなら、買わなくていいから。わかってるだろ、ほたるちゃんに相談するって名目は認められても、健も男だからさ。ほたるちゃんが三上君と自分の知らない話をするのが不愉快なんだ」
「翔太……ボクは別に…」
「あと、三上君の悪い癖だな。簡単に女の子の身体に触るなよ。しかも、彼氏の前で」
「白河とオレは中学からの知り合いだが、三年生で同じクラスになったとき、何て言いやがったと思う?」
「……なんて?」
「クラスに暮らす、ってことはクラスメートは同棲してる? それはマズいよ、クラスに暮らすめぇーと」
「「……………………」」
「えへへ♪ 会心のほたる的ギャグなのだ」
「お前は改心しろ」
「むむっ、三上くんもデキる」
「アホか。まあ、そーゆーわけで、あのとき教室の温度を氷点下にした白河をオレは女と思ってない。オヤジギャグを言うヤツは女子じゃなくてオヤジだ」
「うーん……ある程度、気持ちはわかるけどさ。ほたるちゃんを三上君は女の子と思ってなくても、健は女の子として付き合ってるわけだ。だから、やっぱり健の前で猫の子を掠うみたいに、ほたるちゃんを引っぱり出すのはマナー違反だと思わないか?」
「正論だな。じゃあ、オレも正論を言うが、人に聴かれたくない相談を白河にする。それに立ち会うのはマナー違反だから、お前らは去れ」
「……。それって、やっぱり寿々奈さんのことか?」
「っ……おいっ! 白河っ!!」
「ひゃいっ!」
怒鳴られて、ほたるは珍妙な返事をした。
「お前っ、この二人にっ!!」
「ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ!」
ほたるが何度も謝っているのを見かねて、健と翔太が彼女を守る。
「ほたるちゃんは悪くない。オレがカマかけて聴き出したんだ」
「そうだよ、寿々奈さんの様子がおかしいし、ほたるが何か知ってる感じだったから」
「……チッ……」
「ごめんなさい、三上くん」
「……………もう、いい」
智也は三人へ背中を向けて歩き出した。ほたるが追いかける。
「待ってよ、三上くんっ!」
「もういいって言ってるだろ」
「でも、話がまだ…」
「オレは相談する気、無くした。オレの人選ミスだった。忘れてくれ」
「三上くん……ごめんなさい…、…ほたるが簡単にしゃべったから怒って…」
ほたるが泣き声になると、健が憤った。
「おい、そんな言い方無いだろ!!」
「じゃあ、どんな言い方ならお気に召す?」
「だから、二人ともやめろって! 健はストレート過ぎるし、三上君はひねくれ過ぎだ!」
「「……………………」」
「三上くん、お願いだから、怒らないで。ほたる、鷹乃ちゃんと三上くんのこと応援したいよ。二人がうまくいってないなら、ほたるにできることなら何だってするから」
「…………………」
「オレらも協力したくて、ここにいるんだぜ」
「ボクは寿々奈さんが心配なだけで、応援したいわけじゃない」
「ケンちゃん……」
「健。それ、彼女の前で言うセリフじゃないぞ。お前の悪い癖だな」
「ボクは………」
「……。白河、できることなら何だってする、って言ったよな?」
「…うん…」
「伊波と中森が邪魔だ。帰らせろ」
「「「……………………」」」
「オレが白河に相談したい内容は、こいつらに知られたくないことが多分に含まれてる。きっと、鷹乃もクラスメートの、それも男子になんて知られたくないはずだ」
「…………」
ほたるが対応に困っていると、翔太がタメ息をついた。
「横暴だな」
「それは理解が不足してるな。横暴なのは、そっちだろ? 勝手に他人の事情に踏み込んできてる。違うか?」
「………正論ではあるが……、けどな、今日の寿々奈さんの様子、尋常じゃなかった。あんな彼女を見たのは初めてだ。だから、オレも健も心配になったんだ」
「だが、オレが相談を持ちかけたのは白河一人だ」
「「「……………………」」」
「もう、いい。やっぱりオレの人選ミスだ」
智也が立ち去ろうとすると、翔太が肩を握ってとめた。
「待てよ。わかった。オレと健は消える。だから、ほたるちゃんには素直に話せよ」
「……ああ」
「おい、健。行くぞ」
「ぇ……けど、翔太…」
「いいから」
翔太が健を連れていく。二人になると、ほたるは音楽室へ智也を促した。
「ごめんなさい、三上くん……」
「それは、もういい。悪かったな、オレも苛ついてるんだ。すまん」
「ううん、謝らないで。好きになった人と、うまくいってないなら苛ついて当然だもん。それに、やっぱり勝手に話したほたるが一番悪いよ。本当に、ごめんなさい」
「もういいよ、白河。遅かれ早かれバレることだったし、彩花と唯笑に隠したかっただけなのに、彩花には夕べバレたから、もういいんだ」
「そっか、彩花ちゃんにはバレちゃったんだ。さすが、彩花ちゃん」
ほたるは音楽室のドアを閉めると、鍵もかけた。これで密室になるし、話し声くらいなら外へは漏れない。
「それで、鷹乃ちゃんとのこと……どうなのかな?」
「ああ、……………………」
智也が話しにくそうに黙り込むけれど、ほたるは気長に待った。それで、智也が口を開く。
「まあ、予定通りオレの家に呼んだんだ。白ドルピィ君に会えたら、オレの家でリアル鯉のぼりの写真を確認するって罠で誘い込んだ」
「…罠で誘い込んだって……そーゆー言い方しなくても…」
「いや、結果から考えると、そーゆー表現が正しくなる」
「………。結果?」
「結果として……二人で夕飯にして、で、そのときビールも呑ませて…」
「意外……鷹乃ちゃん、そーゆールール破りそうにないのに」
「オレが欺したんだ。ノンアルコールだって言って」
「………悪いんだ」
「もっと、悪いこともした」
「…………………」
「酔って鷹乃が寝込んでしまったから、そこを………」
「…………」
「襲った」
「……………………ウソ…」
「リアルだ」
「………ウソだよ、三上くん、そんなことする人じゃないよ」
「オレも自分に失望してる」
「……………………」
ほたるは否定したい気持ちで首を振ったけれど、今日の鷹乃が鬱ぎ込んでいた様子を思い出すと否定しきれなくなってくる。気の強い彼女が後輩に心配されても作り笑いさえ返さなかった。今にも泣き出しそうな顔を無表情に取り繕っていた。勘のいい翔太だけでなく、ちょっと鈍い健でさえ気づくほどだった。
「オレは……、……鷹乃を、…襲った。それが結果だった」
「……襲ったって、……何をしたの? ……鷹乃ちゃんはイヤがらなかったの?」
「イヤがったさ。けど、押さえつけて……強引に……、そしたら、鷹乃は抵抗しなくなったから……オレはオッケーなんだと思って……。けど、鷹乃は怖くて抵抗できなかっただけなんだ」
「…………。……………………」
ほたるは反応に困ってしまった。
「…………鷹乃は……朝まで泣いてた……」
「…………………」
「……白河……オレは、どうしたら、いい?」
「それは……………………」
「……………」
「………ほたるにも、…わからない……。……」
「……そうだよな……」
「……………………」
「悪かったな、とんでもない相談を持ちかけて」
「………」
「できれば、忘れてくれ」
智也が話を終わろうとしたので、ほたるは止める。
「待って! 三上くんは、どうするつもりなの?!」
「……。とにも、…かくにも、……もう一度、鷹乃と話がしたい。今からでも鷹乃の家の本屋に行って……会ってもらえないかもしれないが…」
「…………、……ほたるも、行くよ」
「それは……、女子の同伴でいくのは、……よくないんじゃないかな…」
「どうして?」
「夕べ、彩花がオレの家にいたのを、香菜ちゃんが誤解したんだ。もちろん、すぐに誤解は解いたけど……今の状況で、ちょっとでも疑わしいと思われることは避けたい」
「それなら、大丈夫だよ。ほたるにはケンちゃんっていう決まった人がいることを鷹乃ちゃんも、よく知ってるもん」
「……なるほど……たしかに…」
「それに、襲ったって三上くんが表現するくらい強引に鷹乃ちゃんへアプローチした後だと、男の子と二人っきりになるの、避けようってするかもしれないから、ほたるがいる方が鷹乃ちゃんも安心するんじゃないかな」
「……………………、わかった、頼む」
二人は音楽室を出ると、鷹乃の家へ向かった。しばらく歩いて、国道沿いの小さな本屋に着く。
「三上くん、ケータイ持ってないんだよね。鷹乃ちゃんは?」
「鷹乃も持ってない」
「じゃあ、まず、ほたるが行ってみるよ。それで、どこか話せるところに鷹乃ちゃんを呼び出してみるから。それで、いい?」
「頼む」
「うん」
ほたるは本屋に入ると、店番をしていた鷹乃の叔父にクラスメートとして名乗り、二階へあげてもらった。狭くて急な階段を昇ると、台所兼事務所になっているスペースと、その奥に8畳一間の和室があった。
「あ、鷹乃ちゃん」
「……白河さん……どうして?」
鷹乃は詩音と二人で座っていた。
「うん、ちょっとね。今日の鷹乃ちゃん、様子が変だったから心配で…」
すぐに本題には入らず、詩音との関係を窺う。澄空学園の制服を着ている詩音に、ほたるは見覚えがなかったけれど、どことなく雰囲気は鷹乃に似ていると思った。
「はじめまして、鷹乃ちゃんのクラスメートで白河ほたるです」
「はじめまして、鷹乃の友人で双海詩音と申します」
「………………」
「…………」
名乗り終わった二人は無言になってしまう。仲介してくれるべき、鷹乃が鬱ぎ込んでいるので場の空気が重くなって息苦しい。ここは一発ほたる的ギャグで場の空気を変えようかなとも考えるけど、鷹乃の悲痛な表情を見ていると、変なギャグを言うと詩音から空気の読めないバカなクラスメートという烙印を押されそうなので、遠慮する。
「……えっと……その、…詩音ちゃん」
「……、はい」
一瞬、いきなりチャン付けとは馴れ馴れしい人、という目線を送られたけれど、ほたるが微笑むと許してくれた。
「詩音ちゃんは……鷹乃ちゃんが落ち込んでる理由……、知ってる?」
「………、ご質問を返すようで僭越ですが、白河さんもご存じなのですか?」
二人ともデリケートな問題なので言葉を選びつつ、お互いの立ち位置を手探りする。
「うん、まあ……ある程度……三上くんから聞いたよ」
「「………」」
智也の名前が出ると、鷹乃が無表情だった顔を歪めて身震いした。それを詩音が抱くように支える。その動作で、ほたるにも詩音が事情を知っていることがわかった。
「それで、白河さんは、どのようなご用向きですか?」
「ご用向き……? あ、うん……えっと……その…、三上くんが鷹乃ちゃんと会って話したいって……それで、…」
「様子を探りに来た、というわけですか?」
「………」
うう、ほたる、この人、苦手かも、ほたるは意味のない作り笑顔で誤魔化したけれど、詩音は批判的な目を向けてくる。
「お引き取りください」
「でも…」
「鷹乃は昨日のことを必死に、叔父さん方に悟られないよう取り繕っているのです。これ以上、鷹乃を動揺させるようなことを言わないでください。まして、狼藉をはたらいた本人に会わせるなど、もっての他です」
「……、……」
やや芝居がかった物言いをする詩音に、ほたるは反発を覚えて、鷹乃へ直接に語りかける。
「あのね、すごく強引で、ひどかったかもしれないけど、三上くんは本当に鷹乃ちゃんのこと好きだから、それだけはわかってほしいの」
「っ…っ…」
ほたるの言葉を聞いて、鷹乃が泣き声を押し殺して涙を零した。
「昨日のことは三上くんも、すごく反省してるって。三上くんとは中学からの友達だから、よくわかるの。ホントに真剣に鷹乃ちゃんのこと好きで、その気持ちが先走って…」
ほたるの言葉は詩音の殺気に近い睨みで止められた。色白な詩音の頬が怒りで赤くなっている。
「白河さん、こちらで二人で話しましょう」
「でも…」
「いま、鷹乃を動揺させるのは、よくないと理解してください」
「……、…うん…」
「こちらへ」
詩音は立ち上がると、ほたるを一階へ戻る階段へと導いて、その階段の途中で後ろを振り向くと、ほたるのみぞおちを軽いけれど、とてつもなく素早い肘打ちで突いた。
「ぅっ!」
まったく予想もしていなかった打撃を受けて、ほたるは息が止まり、脚から力が抜ける。ほたるが座り込みそうになるのを、詩音は肘打ちした右手で喉仏ごと首をつかんで狭い階段の壁へ押しつけてくる。
「ぅぅ…」
息ができないし、声も出ない、階段の途中なので一階の叔父夫婦も、二階の鷹乃も気づいていない。
「白河さんは想像力の欠落した人間なのですね。本当に女性ですか?」
「ぅぅっ…」
「だから、自分で思い知るといいのです」
「っ…」
ほたるのスカートが詩音の左手でめくられ、下着の中に指が入ってきた。
「不本意に身体を蹂躙されることが、どれだけ苦痛か」
「ぅぅ…ぅぅ…」
突然のことに、やっと状況が理解できて、ほたるは両目から涙を流して、声が出ないなりに必死に首を振った。詩音の腕力は強くて、とても押し返せない。
「あなたはバージンですか?」
「ぅぅぅ…」
「鷹乃も、そうだったのですよ」
詩音が低い声で、ほたるの耳元に囁きかけてくる。けれど、それはときどきカナタがふざけて、ほたるの耳や頬にキスをしてくるような甘い雰囲気ではなくて、ただ単に、ほたるの大切なものを奪ってしまおうとする破壊的な声だった。
「っ…ケンちゃ………ケン…、……助け…」
「恋人がいるのですか?」
「はぅ……」
「………。やめてあげましょう」
詩音が力を抜いて身体を離してくれた。ずるずると、ほたるは階段に座り込む。
「…ひっ…ハァ……ひぅ…」
「泣くなら、静かに泣きなさい。人に気づかれないように」
「…っ……ぅ…ぅ…」
「こんなことをされたなんて、誰にも言えないでしょう。せいぜい一人で苦しむといいのです。被害者の痛みなんて、加害者にはわからない。人をイジメても笑っていられるように、イジメた人間にはイジメられた人間の気持ちなんて推し量れるはずがない。でも、白河さんは違いますよね。もう、私にイジメられたんですから、鷹乃の痛み、少しは理解できますよね?」
「…っ…」
ほたるが声を殺して泣いていると、詩音はハンカチで涙を拭いてくれる。
「一応、誤解の無いように言っておきますが、私は香菜さんと違ってレズビアンではないですから、そのあたりもよろしく」
ほたるが立てるようになると、詩音は本屋の外へ連れ出してくれた。外には待っていた智也と買い物袋を持った香菜がいた。香菜は怒鳴りたいのを我慢して、智也を静かに睨んでいる。
「香菜さん、騒いではいけませんよ」
「はい……、詩音センパイ…あ、白河センパイまで、どうして?」
「あとで説明します。白河さんには私から灸を据えておきましたから。三上さん、しばらくは鷹乃を、そっとしておいてくれませんか?」
「……白河に何かしたのか?」
「ええ」
「何をしたんだ?! 泣いてるじゃないか!」
「あなたは鷹乃に何をしたんですか?」
「っ…」
「お引き取りください」
詩音は二人を追い払うと、香菜に声をかける。
「香菜さんのお怒りは当然ですし、私も同感です」
「詩音センパイ……」
「ですが、あまりことを騒ぎ立てると鷹乃にとっても悪いことになってしまいますよ」
「はい……それは、気をつけます」
香菜は素直に返事をした。
一週間後、香菜は詩音の家で鷹乃のことを相談していた。
「鷹乃が泳げなくなった?」
「はい、きっと精神的なショックだと思うんです。水に入ること自体、怖いみたいで……これを私に…」
香菜は退部届の用紙を詩音に見せる。用紙には鷹乃の字で必要事項が書き込まれていた。
「鷹乃が水泳部を辞める………でも、鷹乃は推薦入試で進学するはずでは?」
「はい。……私も止めてるんです。でも、鷹乃センパイ……プールに入ることもできないで……本当に脚が震えて……あんなに可哀想なの見ていられなくて……」
「けれど、ほんの一週間前までは誰よりも速く泳いでいたではないですか。精神的なショックなら日が経てば回復する可能性は大いにありますし…」
「推薦入試まで、もう日が無いんですよ!」
「………、でも、だからといって退部までしなくても…」
「鷹乃センパイが……泳げないキャプテンなんて……これ以上、みじめな思いしたくないって……だから、私が退部届を預かって……、詩音センパイ、どうしたらいいですか?」
「……………。すぐに答えが出せるような問題ではないですね。でも、もう日がない……、鷹乃は、どうしているのです? 部活に参加しないなら家に?」
「あまり早く家に帰ると叔父さんたちにバレてしまうからって、ここ数日は市立の図書館で時間を潰してから帰っておられます」
「………。わかりました。たぶん、あそこの図書館でしょう。私が会ってきます」
「お願いします。私は水泳部の先生に、なんとか鷹乃センパイが練習に参加してないことを容認してもらえるよう頼んでみます」
香菜は頭を下げると、浜咲学園へ向かった。詩音も家を出ると、市立図書館へ行く。図書館内で、すぐに鷹乃は見つかった。鷹乃は図書館で本も開かず、自習用の机に座っていた。
「ごきげんよう、鷹乃」
「……詩音…」
張りのない沈んだ声だった。詩音は手近な本棚から、昆虫関連の本を引っぱり出すと、鷹乃の隣へ座って、ページをめくった。
「このトンボのことを、教えてくれませんか?」
「え……ああ、これはムカシトンボよ」
トンボの写真を見せられた鷹乃は反射的に答えてくれる。
「とても珍しい種類でね。とまるときには羽を半開にするか、まったく閉じてしまうの。ほら、よく見かけるトンボは羽を休めるときにも、水平にしているでしょう?」
「そういえば、そうですね」
「日本で見られる他は、ヒマラヤに1種現存するだけで、欧米からは化石しか発見されないのよ」
「それは、ずいぶんと貴重な種ですね」
「ええ、渓流にしか住まない上、成虫になるまで7年~8年を要するの。ムカシトンボという名前の通り、今では簡単に見ることはできないわ」
「……。羽を水平にしてとまるトンボたちもいるのに、どうして閉じてとまるという選択をしたのでしょうね?」
「さあ? ……そうね、鳥などの捕食者に見つかりにくい。雨や風を受けにくい。そんな理由かしら」
「風に揺れる……」
「横風には閉じてとまる方が弱いでしょうね」
「そうですね」
「………………」
「どうかしましたか?」
「……どうせ、香菜から私が泳げなくなったこと……聞いているのでしょう?」
「はい」
「なら……」
「なら?」
「なら、どうして関係ないトンボの話なんて訊いてくるの? 詩音は、これまで昆虫には興味を持たなかったはずよ」
「クモは嫌いですが、トンボは情緒があって好きですよ」
「それでも、生態にまでは興味をもったことはないわ」
「鷹乃、泳げないことで一番悩んでいるのは、あなた本人でしょう。私が無理にプールへ行くよう勧めても何か改善するとは思えません。いっそ、別の好きなことでも考えている方が、ずっと健康的だと思いませんか?」
「…詩音……」
「ほら、こっちのトンボは? こんな大きなトンボ、どこの国にいるのですか?」
「それは原トンボ目のメガネウラよ。最大で75センチにもなるけれど、石炭紀に栄えただけで、もう滅びてしまったわ。発見されている中で最大の昆虫よ」
鷹乃は次々と詩音が質問してくるのに答えているうちに、気が楽になった。
「ありがとう、詩音」
「いえ、こちらこそ。講習料を払わなくてはならないほど、教えていただきましたよ。二階の喫茶店へ行きませんか? 講義のお返しに、紅茶とケーキを御馳走します」
「悪いわ……、そうでなくても、私のことで色々と…」
辞退しようとする鷹乃の唇を詩音が指で押さえた。
「友達じゃないですか、当然です」
「でも…」
「だから、いつか、私が困っているときは助けてくださいね」
「もちろんよ」
「では、今は私が鷹乃に、ささやかな協力をするときです。ここは紅茶は二流ですが、ケーキはなかなか美味しいのですよ」
「詩音にかかったら一流の店なんてミシュランの星ほどもないわよ。ふふ」
鷹乃と詩音は市立図書館の二階に併設されている喫茶店で紅茶とケーキを楽しみ、落ちついてから、詩音は水泳のことではなく智也のことを切り出した。
「鷹乃は揺れているのでしょう。彼を許すべきか、否か」
「………そうなの……かしら? わからないわ……自分でも…」
「彼は、ひどい男です。本当に、ひどい」
「…………」
「けれど、あのことさえ無ければ、あのことがあるまでは、鷹乃も少しは彼のことを見るべきところもあると想っていた。だから、彼の家へも行った。けれど、それゆえに、その信頼を裏切ったことが許せない。かわいさ余って憎さ百倍と言いますが、信頼を裏切るのも百倍の嫌悪を生む」
「………………」
「けれど、鷹乃は泣きこそすれ、警察へ訴えようとはしない。それは自分の不名誉と叔父さん方への配慮だけでなく、彼をそこまでは憎みきっていないから」
「……………私のことが……私以上にわかるのね……詩音」
「ときには本人よりも俯瞰をとれる他者の方が、道の先が見えるものです」
「……………………。なら、私が泳げないことは、どう思うの?」
「二つに一つ」
「?」
「また、泳げるようになるか、このまま泳げないか。でも、泳げないことで鷹乃の人生が終わってしまうわけではないでしょう」
「でも、私は推薦入試で…」
「もともと鷹乃は推薦での進学にさえ、後ろ向きだったではないですか。叔父さん方に負担をかけたくないと言って」
「…………」
「才能を伸ばして何かを成すのも素晴らしい人生ですが、無理をしないのも人生だと、私は思います。無理をして壊れてしまうより、平凡な暮らしの方がずっと大切だと思うのです」
「…………………………。ありがとう、とても参考になったわ」
鷹乃が微笑んでくれたので、詩音も嬉しかった。