翌日の9月25日、智也は昼前になって二日酔いの頭痛で目を覚ました。
「ぅぅ……」
ワインとウイスキーの酒精が男子高校生を苦しめているのに、クロエは起きてシャワーを浴びている。とくに二日酔いしている様子はない。
「……ヨーロッパ人の遺伝子は酒に強いっての……本当か……頭痛てぇ……、もう、こんな時間か………」
すでに11時近い、智也は痛い頭を揺らさないように身体を起こすと、足元に散らばった一万円札を見下ろして昨夜のことを思い出した。
「……………………たはーっ………」
気が重いので、とりあえず、気持ちが軽くなる正午のタメ息をマネしてみる。
「……とりあえず、集めるか…。……スイートルームで札吹雪じゃぁ、頭もおかしくなるっての……」
智也は散らかった紙幣を集めてテーブルに置いた。クロエが浴室から揚がってきた。バスローブを着て、髪もバスタオルで巻いている。お金を集め終えた智也と目が合った。
「……おはようございます」
「ああ……おはよう」
「…………………」
「…………、オレもシャワー浴びてくる……そろそろチェックアウトだろ…」
何を言うべきか思いつかなかったので、智也は浴室に入った。ぬるめのシャワーを頭から浴びて冷静になろうと努める。
「……頭が痛いな……いろんな意味で…」
それでも次善策を考え、シャワーを終えると服を着てクロエに話しかける。彼女もバスローブを脱いで昨日と同じ服を着ている。
「………今日も暑くなりそうだな」
「そうですね。コーヒーをどうぞ」
「ああ……ありがと」
クロエの顔に表情は少ない、智也も口数少なく、コーヒーを啜ると、頭痛を覚えた。
「痛っ……、クロエは二日酔い、大丈夫なのか?」
「ええ、平気です。智也は苦しいの?」
「……ああ、ちょっとな。コーヒーが胃にこたえる……悪いけど、水をもらう」
智也は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してペットボトルごと飲む。
「呑みすぎでしたか?」
「……そうだな……」
ミニバーのウイスキーは全て空き瓶になっている。途中で記憶が怪しいけれど、クロエが性交しながら何度も口移しで呑ませてきた気がする。もっとも、空き瓶の半分はクロエの喉を通ったはずで、彼女が二日酔いになっている様子が一切ないのは軽い驚異だった。
「…………」
いっそ、記憶がないなら完全に、しかも二人ともメモリーズオフされていれば、どんなに楽か、智也は過ぎたことを後悔しながら、それでもテーブルの札束を持つと、クロエに返すことにした。
「これは返すよ。やっぱり、君の金だ」
「………。いいえ、智也の、ですよ」
「……………。じゃあ、これは口止め料ってことで、もらってくれ」
「………………………」
クロエが美しい眉をひそめ、意味がわからない外国語を聞いたというような表情をうかべた。
「夕べのこと、誰にも話さないでくれると、助かる………」
「…………それは私に対する侮辱ですね。私のバージンは、そんなに安くありません」
クロエは札束を払って、智也が飲んでいたペットボトルの水を勝手に一口飲むと、部屋を出ようとする。
「そろそろチェックアウトの時間ですよ。出ましょう」
「………」
「別に私は夕べのことを父に話したりしませんよ。智也が急に私の家庭教師を辞めたりしなければ、話しません」
「……………」
辞めたら話す、しかも、どういう風に報告されるか、わからないってことか、あの社長、仕事人間で娘のこと放置してるけど溺愛はしてるからな、オレが彼女いるのにフタマタかけたとか、遊ばれたとか、報告されたら激怒しそうだ、だからって鷹乃のことだってあるし、智也は札束をもったまま考え込む。クロエは時計を見て、まだ少し時間があったので机の引き出しからレターセットを取る。
「吉祥寺さんには私から、お礼状を書いてもかまいませんか?」
「…あ、…ああ」
気が回っていない智也の返事をえてから、クロエは礼儀にかなった文章を記していく、とても助かりましたと抽象的に書いた手紙を封じると、今度こそ部屋を出る。クロエが廊下に出ても、智也は考え事をしていてついてこない。
「出ないなら、もう一泊しましょうか? 二人で今夜も」
「ぃ…いや! それは…」
「なら、お部屋の代金はともかくルームサービスの精算は智也がしてくれないと困ります。今の私、無一文ですから。……電車代くらいの小銭は…」
クロエは財布を見て硬貨を数える。
「うん、電車代はあります。この部屋の精算もカードならできますけど、父に筒抜けになりますね。智也、払ってくれますか?」
「も、もちろん!」
昨夜のことを幸蔵に知られたくない智也は急いで部屋を出ると、カウンターで精算する。やはり部屋代は隼人が支払い済みで、ルームサービスの利用料は二人合わせて15680円だった。おもにウイスキー代が大きかった。智也は一万円札を二枚、ポケットから出した。ポケットは二枚抜いても、ほとんど厚みの変わらない札束で膨らんでいる。ホテルを出ると、クロエに話しかけた。
「………なあ、本当に、こんな大金、オレに………」
「いらないなら、慈善団体にでも寄付されたら、いかがですか? 孤児院とか、捨てられた子供を保護してる施設に」
「……………………」
「さしあたって、父に何と報告するか、考えてください」
「なっ…、…いや…、けど、オレには彼女がいるって…」
「ふふ♪ そうじゃないです。夕べ、連絡もなしに外泊してしまったことを、どうウソをついて父を誤魔化すか、考えてくださいと言っているんです」
「あっ……そ、そーゆーことか……、そっか……」
智也は額の汗を拭いた。まだまだ残暑が厳しい。クロエは涼しそうに微笑んだ。
「いつか、ちゃんと父に報告してくれる日が来ることは信じていますけど、今はウソで誤魔化しておきましょう。二人のために」
「……………………………。と、とりあえず、社長は昨日も接待が入ってたから帰宅は遅かっただろ。また、呑んでただろうし。だから、夜の時点でクロエがいないことには気づいてないと思う」
「そう思う根拠は?」
「もしも、あの社長が娘さんが夜になっても帰ってないって気づいたなら、いろんなところに連絡をとって探すだろ? その連絡先の一つに、オレの家も該当する。社長が鷹乃と話していたなら、夕べの、あの鷹乃の反応は無かったはずだ」
オレって薄氷を踏んでないか、その下は地雷って薄氷を、智也は額の汗を拭いた。クロエが昨日と同じハンカチを出してくれる。
「だから、夜には気づいてない。ただ、朝になってクロエと顔を合わさなかったことで心配してるかもしれないし、学校に連絡してたら、対応が難しくなる。まだ、学校に連絡してないなら、まず会社に電話して社長に、今朝は海が見たくなったので朝から散歩していたと言い、その散歩が早朝で肌寒かったから風邪を引いたかもしれないので学校は休んだと話をつくる。もちろん、学校にも同じように風邪っぽいから休む。でも、すぐに治って平気だったってことにすれば、どうだ?」
「なるほど♪ ふふ♪ やっぱり、智也って頭がいいですね」
「まあ…な」
「で、智也は彼女さんに何て報告するんですか? 夕べのこと」
クロエが微笑みながら見つめてくる。可愛らしい笑顔だったけれど、智也には魔女に見えた。
「………どう報告するかは、クロエには言わない」
「言わないと、言っちゃいますよ?」
「おまっ…」
待て待て、怒鳴ると泣かれるかもしれない、ここは、もう少しだけ調子に乗らせておこう、なんとか気が済んでもらわないと鷹乃に何を言われるか、わかったもんじゃない、智也は熱くなりそうな頭をふった。
「痛っ…」
頭痛がした。
「オレは仕事で徹夜した。で、学校に行く気力がないから休んだ。そーゆーことだ。だから、オレもクロエも、そろそろ学校に電話しないと、やばい。わかるよな?」
「はい♪」
「……」
ストラスブールの魔女め、この子と付き合う男、よっぽど大変だぞ、マジで、智也はあえて他人事としてクロエの未来の伴侶を勝手に心配した。
午後、鷹乃は一人で登校し、四時間目になっても登校してこなかった智也が学校へ欠席の連絡を入れていたと知ったので、二人分のカラアゲ弁当を食べて、五時間目の授業を受けていたけれど、まさか、自分の身に、これほどの不幸が襲ってくるとは思ってもいなかった。
「おい、この問題。ぼーっとしてる寿々奈、お前やってみろ」
「はい」
夕べ遅くまで智也を待っていて寝不足だった鷹乃は、もう大学を受験することもないので数学の授業を聞き流していたけれど、当てられて教壇に立つと、問題が解けないことに気づいた。
「…………」
そんなに難しい問題じゃないはずなのに、すっかり頭から公式が抜けていて、まるで思い出せないわ、たしか、ごく単純な公式をあてはめれば、すぐに因数分解できて解が求められるはずなのに、鷹乃は自分の衰えと夏休みボケに驚きつつ、教師に頭を下げる。
「すいません。公式が思い出せませんので教科書を見ながら、解いてもいいですか?」
「いつまで夏休みボケしてるつもりだ? まあ、いい。早くしなさい」
「はい」
鷹乃が自分の教科書をもって、再び教壇に立ち、黒板に向かってチョークを持ったときだった。
ブチッ!
静かな教室に何かがキレる音がして、板書しようとしていた鷹乃のスカートが床へ落ちた。
「ぇ……?」
鷹乃は急に涼しくなった下半身を見下ろし、息を飲んだ。フックが壊れ、ファスナーが弾けたスカートは足元に落ちている。他の生徒たちの午後の眠気も一瞬で吹き飛んだ。
「なっ…」
「うおっ…」
「………ノーパン……」
男子たちと男性教師の視線が本能的な刺激をうけて固定され、思考も停止する。鷹乃も思考停止していたけれど、智也に求められて今週は下着をつけずに登校していたことを思い出して悲鳴をあげる。
「ぃ……イヤーーーッ!!」
慌てて下半身を隠して逃げようとしたけれど、足元のスカートが引っかかりバランスを崩すと盛大に転倒する。
「きゃっ! …痛っ!」
鷹乃は転んで頭と腰を打ち、片方の足はスカートから抜けて両足を大きく開いてしまっていた。
「ぅぅっ……」
激しく打った頭と腰の痛みに呻くけれど、目を開けるとクラスメートの視線が鷹乃の股間に集まっている。
「なっ…」
「うおっ…」
「………パイパン……」
男子たちと男性教師の視線が本能的な刺激をうけて固定され、思考も停止する。鷹乃も思考停止していたけれど、智也に求められて先週から剃毛していたことを思い出して悲鳴をあげる。
「ぃ……イヤーーーッ!!!」
慌てて脚を閉じ、立ち上がって逃げようとするけれど、片足に引っかかっていたスカートを反対の足で踏んでしまい、脚をもつれされると前のめりに転倒する。
「きゃっ! …うぐっ!」
鷹乃は転んで顔と胸を打ち、お尻をあげた状態で呻いた。
「ぅうっ…」
激しく打った顔と胸が痛いけれど、背後からクラスメートの視線を肛門に感じる。
「なっ…」
「うおっ…」
「………アナル調教中って…」
男子たちと男性教師の視線が本能的な刺激をうけて固定され、思考も停止する。鷹乃も思考停止していたけれど、智也に求められて一昨日から最後の処女も捧げ、マジックペンでイタズラ書きされたことを思い出して悲鳴をあげる。
「ぃ……イヤーーーッ!!!!!」
今度こそ鷹乃は立ち上がって悲鳴をあげながら、教室を飛び出した。破れたスカートを拾うことにさえ気が回らず、泣きながら廊下を走って女子トイレへ駆け込もうとしたけれど、運悪く早めに理科の実験が終わった一年生たちが理科室から出てきて鷹乃の前を塞いだ。
「イッシュー! 天野くん! まだナトリウムの片付けが終わってないよぉ~。これって発火するって先生が…」
いのりは一蹴と天野に追いすがり、二人が鷹乃を見て硬直していることに気づいた。
「イッシュー? どうし……っ?!」
いのりは下半身裸の同性を見ると、驚きとともに激しい嫌悪感を覚えた。
「へ………ヘンタイっ!!」
「ち……違っ…」
鷹乃は両手で股間を隠しながら一年生に言い訳しようとして何も言えなくなり、踵を返すと逃げる。もう、どこへ逃げたらいいのか、まともに考えることはできなかった。
「…い……いまの……なんだ……たんだ……? 天野……」
「オレに……聞かれても……、………もしかして……あのクスリの副作用とか…か…」
「なんだよ、あのクスリって?」
「天野くん?! まさか、早絵ちゃんに使ってないよね?!」
いのりが迫ると、天野も逃げた。
「だ…だって、中谷が使わなかったからってくれたからさ!」
「な……中谷くんまで持って…」
いのりは、すぐそこにあった危機を感じて戦慄しつつも、天野を追いかけず一蹴に抱きついた。
「もう私、わけがわかんない! こんな学校だったら入学しなかったのに!」
「いのり……落ちついて…」
一蹴が近頃、精神的に不安定になっている交際相手を慰めていると、全校放送がはじまった。
「とても大切なことを放送します。絶対に聞いて従ってください。これは訓練ではありません」
放送は葉夜の声だった。
「今から男子は一歩も動かず、その場で目を閉じ黙祷していてください。事情を知っている女子だけ、動いてください。早く保護してあげて。男子は絶対に動かないこと! もし、のんの言うことを聞かない人がいたら、………とても強いお仕置きをします。りかりんちゃんとカナタちゃんに手伝ってもらって、怖い怖いお仕置きをしますから、絶対に動かないこと。いいかな?」
放送の効果は絶大だった。三年生の花祭果凛と黒須カナタ、それに野乃原葉夜の名前が出て命令されたことに違反する度胸のある同級生はいなかったし、いわんや後輩におよんでは一糸乱れぬ服従ぶりだった。そして、心ある女生徒たちの捜索の結果、鷹乃はプールの女子更衣室の隅、ロッカーとロッカーの間に置かれた大きめの汚物入れの影で小さく丸くなって隠れて泣いているところを発見された。
夕方、泣き腫らした目をした鷹乃は葉夜と果凛に付き添われて三上家へ帰宅した。果凛のリムジンで送ってもらったけれど、お礼を言う気力もなく合い鍵で三上家へ帰る。
「寿々奈さん、本当に私の家に泊まってもらっても、いいのよ? 遠慮しないでくださいな」
「………」
かすかに頭を下げた鷹乃は一人で三上家へ入る。
「「……」」
果凛と葉夜は顔を見合わせ、複雑な空気を吸った。鷹乃が智也に強要されていたなら、かなり強硬な手段で智也を懲らしめようとも考えたけれど、下着をつけていなかったことや剃毛、イタズラ書きが強要ではなく智也の要求に応じて鷹乃が同意して行われたことだとわかると、二人の性的問題なので他人が口を挟むことでないような気もする。まして、果凛も葉夜も処女なので、鷹乃の気持ちは理解しきれているとは言えなかった。
「…寿々奈さん…」
「……」
鷹乃はドアを閉めると、玄関で靴を脱ぎ、リビングを通る。智也が夕食を作っていた。すいぶんと豪華な夕食で、かなりの材料代がかかっている様子だった。
「おかえり、鷹乃。遅かったな」
何事もなかったかのような智也の表情を見て、鷹乃は顔を歪めると、また大声で泣き出した。
「うっ、ううっ、うわああああん!!」
「た…鷹乃っ?!」
もうバレたのか、もう話したのか、あの魔女、智也は自分の悪行を忘れて、泣き叫ぶ鷹乃を抱きしめる。
「鷹乃っ! 鷹乃っ! オレは鷹乃が好きだから! 本当に! 鷹乃だけだからな!」
「うあああっ!! ああああっ!」
「鷹乃っ! 本当にオレ、お前が好きだから! 他のヤツが何を言おうと信じるな! 鷹乃だけだから! 鷹乃さえいてくれれば、いいんだ!! オレを信じろ! お前を好きなオレを信じろ! 本当に誰より愛してる! どんな女より鷹乃が好きだ!!」
「もうっ! もうイヤよ!! 私、お嫁にいけないわ!!」
「いける! いけるって! ここに来いよ! っていうか、今から今すぐオレと結婚してくれ! なっ? ほら!」
智也は最悪の場合にそなえて用意していた婚姻届を見せる。
「今すぐオレと結婚しよう。女子は16歳、男は18歳で結婚できる。別に卒業まで待たなくていいじゃないか? な、落ちつけよ? 鷹乃」
「っ……、……本当に……、……本当に、今すぐ………こんな私でも……?」
「こんなオレで、よければ、な?」
「………わたし……わたし……今日…ぅ…ぅううあ……うわあああ!」
泣きやみかけていた鷹乃が再び泣き始めるけれど、そこには嬉し泣きの要素が少し加わっている。智也は婚約者を抱きしめ、背中を撫でながらクロエに見当違いの怒りを向ける。
「………」
くそっ、こんなに鷹乃を泣かせやがって、あの女、絶対許さん、さんざん玩んだ挙げ句ボロ雑巾のように捨ててやる、智也は復讐を誓った。
婚姻届を市役所の時間外窓口に出した鷹乃と智也が最初の夫婦性活を終えて眠りにつき、日本では日付が変わる頃、時差のために、まだ9月25日の夕方であるウイーンで、ほたるはヒマそうに全裸でピアノを弾いていた。
「…はぁぁ……ヒマだなぁ……」
日本を離れて、はや一ヶ月、とてもヒマだった。課題曲は難しくて多い、授業もドイツ語で大変だけど、その分、まるで人間関係が無くなってしまった。まだ、ほたるの誕生日さえ知っている同輩はいない。
「ピアノ弾くしかすることないし……日本語で独り言いうくらいしか……はぁぁ…」
完全防音の寮生活で個室だと、だんだん服を着なくなる自分に驚きつつも、なに恥じることなく全裸でピアノを練習している。最初の一週間は、ちゃんとシャワーの後にパジャマを着ていたけれど、着ないで寝る同級生が多いことを聞くと、ほたるも着なくなった。すると洗濯物が少なくて一手間省けることにも気づいた。次の二週間でトップレスに、三週間目にはカーテンさえ閉めていれば全裸、一ヶ月経つと窓の向こうは教会の壁なのでカーテンを開けていても平気になった。
ほたるがピアノを弾く手を休め、一息つこうと立ち上がったとき、ドアがノックされた。完全防音といっても近代的な工事がされているわけではなく、学生寮の建物が何百年前に立てられた重厚な石造りでピアノの音さえ隣室へ通さない、ぶ厚い樫のドアも防音性が高いので、寮内で全員が好き勝手に練習しても差し障りないという状態だったけれど、ノックくらいは聞こえる仕組みだった。
「はーい! Kann ich Ihnen helfen?」
日本語を混ぜたけれど、それなりの発音で、何かご用ですか、と問いかけると、ドアの向こうから返事が響いてくる。
「どーも! 白河さんのお宅ですか? 宅配便でーす! 判子をお願いします!」
「あ、はいはい。ちょっと待ってください」
ほたるは場違いな日本語が響いてきたのに自然な反応で判子を探しつつ、まずは全裸のままではドアを開けられないという常識を覚えていたので、ワンピース一枚を頭からかぶって裸体を包む。
「判子、判子と…」
ほたるは荷物を開けて判子を探す、基本的にオーストリアへ入国してから、すべてサインで済む社会習慣になっているが、慣れ親しんだ印鑑社会の習慣から、とくに疑問も持たずに久しぶりに三文判を取りだした。
「パパが一応もって行け言ってくれてよかった。……あれ? ウイーンなのに、判子…」
「判子がなければ、拇印でもいいっすよぉー♪」
「この声……まさか…」
ほたるは聞き覚えのある声に引きよせられ、ドアを開け放った。
「正午くんっ?!」
「よぉ♪」
正午がプレゼントの箱を持って立っていた。
「よぉ、って、ここをどこだと思ってるの?!」
「……………。地球♪」
やや考えたわりに、くだらない答えだったので、ほたるは肩を落としてタメ息をつく。そうしないと正午に抱きついてしまいそうなほど、嬉しくて涙が滲んでくる。
「もう……急に来るなんて……」
「サプライズの基本だろ?」
「………、……覚えてて……くれたんだ。ほたるの誕生日」
「まあねン♪」
「……」
ここで先月まで付き合ってたカナタちゃんのマネを平然とやれちゃう正午くんの罪深さってキリストにも救えない気がするよ、ほたるは多くの学生が信仰している宗教の影響をうけて心の中でアーメンと唱えてみた。
「ハッピー・バース・ディ♪ ディア・ほたる」
「……ありがとう。正午くん。入って」
ほたるは寮の規則で禁止されている異性の連れ込みを何の罪悪感もなく実行した。ドアを閉めると、正午からプレゼントを受け取る。
「開けてもいいの?」
「どうぞ、どうぞ♪」
ほたるが箱を開けると、中には日本製の女性向け腕時計が入っていた。ほたるも知っているセイコウという一流企業で、ヨーロッパでも高性能なのに安価ということで評価が高い。EU内で買おうとすると、かなりの関税と付加価値税を課せられ、日本で買う何倍にもなる品物だった。
「いいの? こんな高そうなもの……、うれしい♪」
ほたるは喜びながらも、胸の奥に針で刺されるような痛みを覚えた。恋人に腕時計を送るという行為は、過去の記憶を強く刺激してくる。今も正午の左手首で時を刻んでいるスピードモンスターは、以前は健のものだった。
「あと、これもお土産、というか逆お土産かな」
正午はコンビニの袋を、ほたるに渡してくれる。中を開けると、日本製の漬け物が入っていた。
「Qちゃん! Qちゃんだ♪」
「恋しいだろ?」
「うん! Qちゃん、Qちゃん♪」
ほたるは懐かしい味を思い出して喜ぶ。けれど、正午が持ってきたビニール袋がウイーンには存在しないコンビニチェーンだったことに気づいて、さらに気になって正午の持ち物へ目を向けた。
「正午くん、……荷物は?」
「これだけ」
「………日帰りする気なの?」
「いんや、せっかく来たから、何日か、いるつもりだけど?」
「…………着替えは?」
「こっちで買えば、いいかなって。重いしさ。Tシャツくらいなら安いだろ?」
「……………。航空運賃は、どうしたの?」
「母さんに頼んで用意してもらった♪ この小旅行の後は受験勉強に専念するからって拝み倒した」
「………やさしいお母さんなんだね……ほたるのパパくらいに…」
「どうかな? 普通じゃないか?」
「…………。それで正午くんは、お金とパスポートと、ほたるへのプレゼントだけ持って、空港に行ったら、コンビニでQちゃんを見つけて出発前に買い占めてくれたって状況?」
「おおっ♪ よくわかるな!」
「…うん……手に取るようにね…」
開けっぴろげというか、無鉄砲というか、これだけ気軽にウイーンに来る人って正午くんくらいかもしれない、ほたるは呆れるのと嬉しいのを半分ずつに感じた。
「ほたるの部屋、すごいシックだな。ピアノ習いに来てるより、魔法を習いに来てるみたいじゃん。すげぇカッコいい部屋♪」
正午は石造りの個室に感心している。壁といい、テーブルといい、歴史的趣きを感じる古風な造りで映画のセットのようだった。
「うん、ほたるもびっくりしたよ。ほら、冬になったら、このオイルヒーターで暖房するんだって。映画みたいだよね」
「へぇぇ…。それで、どうよ? こっちの生活には、慣れた?」
「うん、まあまあ、かな。ちょっとホームシックになりかけてたけど、正午くんが来てくれたから、もう治ったよ♪ うーーんっ、やっぱり日本語で会話するって、いいね。脳が漱がれる気分! この頃、思考まで半分がドイツ語になってきてたから、日本語気持ちいいぃ♪」
ほたるが伸びをして正午から感じる日本の空気を吸い込むと、正午は彼女がノーブラなことに乳首の凸で気づいた。
「ほたる、ノーブラ?」
「っ…」
ほたるは開けっぴろげな質問で赤面して胸を隠した。
「だ…だって、正午くんが、いきなり来るから!」
胸を隠しつつ、もっと大切で恥ずかしい股間の事情も思い出して、ほたるが身じろぎすると、正午は男性的な本能に突き動かされ、ほたるを捕まえるとキスをする。
「はふっ…んっ…いきなり…」
「ほたるが可愛いから♪」
正午は抱きしめながら、ワンピースの背中を撫でおろし、お尻も撫でると下着をつけていないことに気づいた。
「ノーパン?」
「っ…」
ほたるが真っ赤になって涙ぐむ。
「だから、正午くんが…いきなり来るから…」
恥ずかしさのあまり、しなくていい言い訳が唇から零れる。
「ふ…普段から、裸で部屋にいるわけじゃないよ…」
「………。普段から、裸で部屋にいるんだ? 一人暮らしってフリーダムなんだなぁ」
「っ…、しょ、正午くんのバカ正直が伝染してるよぉ……ぅぅ…」
「オレはバカ正直なのか?」
「うん、超バカ」
「………、じゃあ、オレが何を考えてるか、わかる?」
「……………………。……ほたると……エッチなこと……したい……?」
「正解♪」
ほたるのワンピースへ手を入れて、キスをしながら股間をまさぐる。
「はっ…はうっ…、もう、…い、…いきなりすぎ……一ヶ月ぶりなのに…」
身体を許した仲とはいっても、先月まで処女だったし、この一ヶ月は性的なことが一切なかったのに、昔なじみのカナタを抱くような遠慮の無さで陰部に触れられると、ほたるは目まいがしそうなほど、恥ずかしかった。下着をつけていれば、省略されなかったプロセスが無くなり、会って五分もしないのに性器へ触れられていることが淫靡すぎて困ってしまう。
「ぁ…ああ…」
それでも淋しかった身体は本人の羞恥心に比例して強く興奮してくるので、ほたるは身もだえしながらベッドへ倒れる。正午は優しく支えて寝かせてやると、股間への愛撫を続けて、ほたるを濡らせていく。
「ぁ…ハァ…ハぁ…」
「………」
そろそろ入れてもいいかな、それともクスリを試そうかな、でも、ほたる十分に興奮してるし、最初の一発は実力でいこう、正午は青少年らしい自尊心から、実力のみで性交相手をオルガスムへ達させることにして、ズボンをゆるめ、ほたるへ入る。
「ぁっ! あうんっ!」
「痛い?」
「だ…ハァ…大丈夫っ…んっ!」
ほたるの可愛らしい鼻にかかった喘ぎ声は正午を興奮させ、ほたるも恥ずかしさより性的興奮と快感に身をまかせていく。正午はシャツを脱ぎ捨て、ほたるのワンピースも脱がせる。
「脱いで」
「うんっ…」
ほたるは素直に全裸へ戻るけれど、ワンピースを脱ぐために腕をあげて、頭を通したとき、子宮の前まで突いてくれていた正午が萎えて小さくなるのを感じた。
「……」
あれ、正午くん、先にイっちゃったのかな、でも、射精された感じ無いのに、ほたるが不思議に思って性交相手を見上げる。
「正午くん…?」
「ほたる……腋毛、伸ばしてる?」
「っ…、こ、これはっ!」
ほたるはあげていた腕をおろして腋を閉じる。
「だ、だって、こっちに来たら、みんな伸ばしてるんだもん! 生えてないと成長まだなのって心配されたりして! 剃ってるって言ったら、こっちの人って音楽会でドレス着るときくらいで、普段から剃ってるのは女優かナルシストくらいだって笑うんだもん!」
ほたるは涙目で言い募って、ひどい侮辱を受けたような気分に抗議した。
「シャワーも共同で! みんなが剃ってないのに一人だけって変な気がして! だから、だから、仕方なくだよ! だ、だいたい正午くんが、いきなり来るから悪いの! 聞いてたら、ちゃんと準備するもん!」
「そんな泣いて怒るほどじゃ……」
「だって正午くん、おちんちん小さくなって…」
ほたるは最後まで言い切れずに顔を伏せた。正午も自分の変化に気づいた。
「うお? ……萎えてる……情けねぇ」
「………情けないのは、ほたるだよ…」
「たはっ♪ 思わず、男っぽいとか思ってさ。大丈夫、ほたるは可愛いって」
「…今さら…」
ほたるは拗ねて顔を背けたけれど、可愛いと言ってくれた言葉がウソでないことを正午が体内で証明してくれ、再び子宮まで突いてくれたので気を取り直した。
「ぅ~……今度から、サプライズしないで予告してよ。すっごい恥ずかしい…」
「見慣れれば、これは、これで悪くないかもよ?」
そう言って、ほたるの閉じている腋を舐める。
「やんっ、くすぐったい…」
「もう一回、見せて」
「…イヤ…」
「いいじゃん」
「絶対ヤダ」
「こっちは毛が生えてるの、見せてるじゃん」
正午が陰部を指で撫でた。
「そっちは伸びててもいいの!」
「ふーん…」
正午は自然に伸びている陰部に触れながら、ほたると一つになっていた身体を離して、胸を吸い、お腹へキスを繰り返しながら、陰部までくだって舌を這わせた。
「はうっ…うんぅっ…」
「………」
ほたるのよがり方って可愛いなぁ、よーーし久しぶりだから、このまま一人で何回もイかせてクスリも使ってヘロヘロにしてからフィニッシュしよう、正午は性交方針を決めると激しく巧みに舌を使った。
「ぁあっ! はあんっ!」
「……」
まず、一回、次は乳首も刺激して、よし、二回、今度はアナルも、正午は次々と、ほたるを攻め立て快感を高めていく。
「やっ…そんなとこ…ぁ、…ああっ!」
「………」
そろそろクスリも試してみよ、正午は密輸入したクスリを陰部に塗っていく。これを舐めると不味いことはカナタとの行為で経験していたので、塗った後は指での愛撫をしつつ、ほたるの胸を吸う。
「あ、熱いっ…んっ…なんか…熱いよ…」
「そーゆー媚薬なんだ♪ 東洋の神秘♪」
「んぅ…ハァ…ハァ…あぅんっ…」
ほたるは熱くなった股間を指で翻弄され、よがって閉じていた腋を見せていることにも気づかないほど興奮している。ほたるの腋には陰部の三分の一くらいの毛量で腋毛が伸びて、それが汗で肌へ貼り付いている。正午が舐めると、ほたるは喘いでオルガスムを深めた。ほたるが蕩けた声を漏らしている。
「ハァぁあ……ハァ…あぁあ…」
「………」
女子のオルガスムって一発二発じゃなくて波の連続なんだよなぁ、ほたる、とろけてるし、そろそろオレも入れたいな、正午は正常位でフィニッシュすることにした。ほたるは快感の波に身をまかせていて、もう陰部や腋を晒していることを恥じる様子もなく、ただ幸せそうに息をしている。
「いくよ」
「…ん…」
ほたるが一応は返事らしい声を出してくれたので、正午は身体を重ねる。すんなりと、ほたるの膣は男根を受け入れ、内壁は摩擦されて悦んでいく。やっぱり指より男根がいいと確かめるように吸いついてきて、正午も高まってきた。
「ほたる…ハァ…ハァ…」
「あっ…あああっぁあ…」
「い……いくよ?」
「ん…」
ほたるは正常位で抱かれながら、両腕と両脚を男の背中へからめて、感極まった声をあげ、正午の背中と肩に爪と歯を立てた。
「はぁああああっんんんぅ!」
「ハァ…うっ! うっ…ハァ…うっ…」
「あっ…ハァ…ああっ…」
ほたるは目蓋をかすかに痙攣させ、幸せそうに脱力すると、キスを求めるように唇を動かし、声をもらした。
「……ケンちゃ…ん…」
「………」
「…あッ…」
ほたるは快感の海を漂っていた心地から一気に、氷海へ落ちたようなショックを受けて自分の発言を認識し、目を開け、愕然として怯えた。
「ち……違っ…」
「………」
「違うの!」
「……」
「ま、間違えたんじゃなくて……ま、まだ、忘れられないわけじゃないの! 違うの! ご…ごめん……ごめんなさい! ほたる…、ほたるは…」
「たはっ…、いいよ。まだ、忘れられないんだろ?」
「っ…」
ほたるは叩かれると思ったのに、優しく頭を撫でられて身震いした。
「どう……どうして? ……ほたるを……叩かないの?」
「まだ、忘れられないから、つい、うっかり、だろ? 叩くようなことじゃないしさ」
正午は微笑みをつくって、ほたるを慰める。
「そのうち忘れるさ」
「……、……た……叩いてよ! ほたるを叩いて! こんなひどい! こんな失礼なヤツっていないよ?!」
「ほたる……」
「正午くんは何千キロも離れたウイーンまで来てくれたんだよ?! ほたるの誕生日に! なのに、ほたるって最低だよ! 一番大切なときにケンちゃ…、……昔の男の…」
「昔って言うほど、昔じゃないしさ。たはっ♪ 実はオレも、ときどきだけど、ほたるのことカナタって呼びそうになってヤバイヤバイってこと、あるから♪」
「………。ほたる……最低だよ。……お願い、……お願いだから、ほたるを思いっきり、ひっぱたいて……でないと……、ほたる自分で…自分が許せない……」
「オレが許す♪」
「……、正午くんが許してくれても……、ほたるが……正午くんを好きになってきてる……ウイーンに来てくれて、プレゼントくれて、優しくしてくれる正午くんを好きになってるほたるが、さっきのほたるを許せないの……いまだに……未練たらしい……ほたるを許せないから……」
「こだわるなって。そんな細かいことさ、こだわったところで仕方ないよ。それに、あんまり女の子を叩きたくないし」
「でも……でも、正午くんだって本当は怒ってるでしょ? さっきの一瞬、こいつ最悪って思ったでしょ?!」
「いや、別に……そこまでは…、ちょっと、たははっ…って脱力はあったけど、まあ、しょーがないじゃん。ほたるが伊波と別れたの、先月だし」
「…………っ…ぅッ……ぅぅ……ぅ~…」
ほたるは嗚咽が込み上げてきて、もう言葉にならず泣き出した。
「う~ぅっ…ぅぅ…」
正午くんは、ここで怒らないくらいにしか、ほたるのことも好きじゃないんだよ、もしも本気の本気で大好きだったら、ここで笑って許せないよ、苛ついてムカついてイライラして、ほたるを叩かなくても椅子を投げるくらい、壁を殴ったりするくらい、そんなくらいの独占欲を見せてくれないなら、ほたるはカナタちゃんと同列で、今はケンちゃんに捨てられた可哀想な子だから同情されてるだけだって、わかるよ、ほたるはベッドに泣き伏した。
「うううっ…うううっ…うう…」
「ほたる……。まあ、いっぱい泣けば、そのうち忘れるって。りかりんが言ってたけど、失恋から立ち直るには六ヶ月から十七ヶ月くらいかかるってさ。とくに初恋って忘れにくいらしいよ」
「ううっ…ううっ…」
「たはっ♪ 実は、オレも小学校で好きになった子、いまだに軽く夢に見るし」
「……」
それはイサコちゃんだよ、カナタちゃんに愚痴られたことあるから知ってる、ショーゴのイサコちゃんって寝言を何度も聞いたって、ほたるは背中を撫でられながら少し怒った。
「その子は引っ越して婚約はチャラになったんだけどさ。……あの子、どうしてるかなぁ」
「………」
そーゆーことを、今現在付き合ってるほたるを抱きながら言いますか普通、カナタちゃんが苦労した理由がホントわかるよ、たはーっ、ほたるは泣くのがバカらしくなったので涙を拭いた。
「お、泣きやんだ」
「…………ぐすっ…」
泣きやませるために、わざと言ってたなら、すごく賢いんだけど、正午くんのは天然っぽいよ、ほたるは全裸でいるのが恥ずかしくなって、脱がされたワンピースを着る。
「あ……服、着るのか」
「正午くんも服着て!」
ほたるはズボンを投げつけて、洋箪笥からショーツを出して穿く。ブラジャーはワンピースを脱がないと着られないので今は諦める。
「まあ、脱がせる楽しみもあるしな♪」
「………」
「今度、裸でピアノ弾いてくれよ。見たい♪」
「っ…」
ほたるが真っ赤になった。さっきまで裸でピアノを弾いていたことが、ものすごく恥ずかしくなってくる。
「なぁ、一回でいいからさ」
「ヌーディストビーチにでも行ってよ! バカ正午っ!」
ほたるは叫びながら枕を投げつけた。
翌日の朝、三上鷹乃は夫が悦ぶので裸エプロンで朝食を作っていた。いつも朝寝坊する智也だったが、結婚初日だからか、朝食を作るのを手伝っているけれど、ときどき妻のお尻を触ったりするので、むしろ時間がかかってしまった。
「そろそろ着替えないと遅刻だな」
「……私、…今日は学校に行きたくないわ」
「そっか。……じゃあ、風邪でも引くか?」
「ええ、そうするわ」
すっかり夫の虚言に慣れている鷹乃は風邪という口実に違和感を覚えなかった。逆に智也が声をあげて何かを考え込む。
「あ……」
「どうしたの?」
「いや、結婚して三上鷹乃になったことを学校に報告しなくて、寿々奈鷹乃のまま卒業しても大丈夫かなぁ……って」
「どうかしら……報告しないといけないかしら?」
鷹乃が消極的な様子なので智也も面倒になった。
「別に、いいんじゃないか? 卒業証書に寿々奈鷹乃って書いてあっても、普通は結婚したら姓がかわるものだし、もう半年もないからな」
「そうね…」
「んじゃ、鷹乃は風邪ってことで先生に報告しとくぞ」
「ええ、お願い」
鷹乃は玄関まで夫の出発を見送る。
「じゃ、行ってくる」
智也が不用意にドアを開けたので、裸エプロンのままだった鷹乃は廊下からリビングへ飛び込んだ。
「バカっ! 急に開けないでよ!」
「悪い、悪い。じゃ、いってきます」
「……いってらっしゃい」
智也がいなくなると裸エプロンでいることが落ちつかないので鷹乃は下着をつけ、ジーンズを穿こうとして、穿けないことに気づいた。
「……きついわ…」
ファスナーが閉まらず、ボタンも留められない。別の大きめのジーンズを持ってきたけれど、それも穿けない。結局、ジャージしか着られなかった。
「………少し太ったのかしら…」
鷹乃は風呂場へ行くと、洗濯機の横に突っ込まれて埃をかぶっている体重計を取りだして埃を掃除してから、乗ってみた。
「……68……、ウソよ、壊れるわ」
ほとんど使われていなかった三上家の体重計を信頼できず、台所から20キロの米袋をもってくると体重計に載せてみた。
「…20キロ……、でも誤差あるのかも…」
鷹乃は2リットルのペットボトルを数本もってきて水道水を入れると、載せてみる。
「……24……26……28……正確に計ってる……」
鷹乃は米袋とペットボトルを片付け、もう一度、体重計の前に立った。
「………ふ、服を着ているから、重いのよ」
ジャージとTシャツ、ブラジャーを外して下着一枚になると、そっと体重計に乗ってみる。ゆっくりと体重をかけると針は30キロ、40キロと進み、あっさりと50キロ代を超えると、67.9キロで止まった。
「………そんな……先月まで55だったのに……、12キロも…」
フラフラと体重計をおりると、脱衣所の鏡を見た。
「っ?!」
顔は変わっていない。けれど、二の腕、太腿、そして何より腹部に明らかな脂肪が見てとれる。
「…………」
お腹を撫でると、先月まで腹筋だったはずの感触が、柔らかい脂肪に変わっていた。
「……す……水泳、辞めたから……。……でも、食べる量も半分にしたのに……」
身体から筋肉が落ち、脂肪が増えている。当たり前の現象だったけれど、認めたくなかった。
「そ……そうよ。夕べ、智也がお肉とか、贅沢なものをいっぱい買ってきたから……、そ、それに、お昼も、その前の夕食も智也が食べてくれなかったから二人分、食べたから…」
鷹乃はリビングに戻ってソファに倒れ込み、自分への言い訳を考える。先月まで体重で悩む同級生たちを、つまらないことで騒いでいるバカな子たちと思っていたことも忘れ、鷹乃は真剣に思い悩み始めた。
「……ふ…、太ったなら痩せればいいのよ。そうよ。あんな思いするくらいなら、もう食べないわ」
昨日、スカートのフックが壊れ、ファスナーが弾けた原因も、よくよく考えれば思い当たる節は、二学期が始まってから、あった。制服のスカートは数センチくらいならサイズをレールで調節できるようになっているけれど、日に日に調節してウエストをゆるめていたし、先週から調節できる限界まで拡げてもフックを留めにくかった。強引に腕力で留めてファスナーをあげていた。おまけにスカートに足をとられたとはいえ、何度も無様に転んだのは、体重が増えたのに加えて、運動神経がなまっていたからだと、自分でもわかってしまった。
「……あんな思い……二度とイヤよ」
涙ぐみ、痩せると決意した鷹乃は、とりあえず昼食を抜くことにした。
昼休み、智也は教室で愛妻弁当を食べ終えて、明日の午後にあるクロエへの家庭教師で何を言うべきか、どう対処していくべきか、考える。朝から、ずっと考えているのでクラスメートたちの自分を包む空気が奇妙であることには気づかないでいる。鷹乃の身におこった事件については葉夜と果凛が協力して対処したことで、校内では箝口令を敷かれたような扱いになっていて、誰もウワサさえしていない。おかげで知っている人間は、それほど多くはなかったが、それでも智也を包む空気は複雑だった。
「……クロエかぁ…………」
智也が頭を抱えていると、果凛が前に立った。
「三上くん、ちょっと」
「ん?」
智也が顔を上げた瞬間、果凛の右手が強かに智也の頬を平手打ちした。
「ぐっ……痛~ぅ…、いきなり何するんだ?!」
「言わないと、わかりませんか?」
果凛が女の敵を見るような冷たい目で睨んでくる。智也は瞬時にクロエのことだと勘違いした。
「くっ………」
クロエか、あいつ、りかりんにまで、そうか、吉祥寺に礼状を書くとか言ってやがったが、それに何か書いたな、くそっ、検閲しておくべきだった、なんて油断のならない女なんだ、今のところ先手を打たれてばっかりじゃないか、なんとか挽回しないと、いや、とりあえず鷹乃と入籍はしたから、先の先は取れているか、ここからが正念場だな、智也は頬を押さえて痛みに耐える。クラスメートたちが注目しているので場所を変えようという視線を果凛へ送ったけれど、無視された。
「……りかりん、……色々と事情があってだな…」
「聞きたくありません」
「………口出しするなら、事情も把握してくれないと…」
「あなたが寿々奈さんと、どんな関係になっていようと、わたくしは一切知りたくありませんわ。口出しはいたしません。それはお二人の問題ですから。ただ二つ、今後二度と、金輪際、一切、わたくしのことを、りかりんなどと親しげに呼ばないでください。二つめ、叩いたのは、わたくしの不愉快を晴らすための暴力です。甘んじて受けなさい」
「……………………」
そこまで激怒しなくてもいいじゃないか、とりつく島もないな、ほとんど絶交宣言されてるし、いろいろクロエについては弁解したいことがあるんだが、今はおとなしく従おう、智也は顔を伏せて黙った。
「………」
「………………」
果凛は手首を振ると、智也に背中を向け、立ち去る。入れ替わりに、つばめが教室に入ってきた。
「三上智也くんは、ちょっと生徒指導室まで来てください」
「え? オレ? いったい何のようですか?」
「………。黙って来なさい。クラス委員は三上くんが五時間目に遅れたら、担当科目の先生に生徒指導室へ呼ばれていることを伝えてください」
「げ……そんな長引くような話かよ……」
智也が教室を連れ出されるのを見て、クラスメートたちは、やっぱり呼び出されるのか、そりゃ呼び出されるよな、と市場へ送られる牛を見るような目で見送る。つばめは普段は見せない厳しい表情のまま、生徒指導室へ智也を連行すると、冷たい目で睨んだ。
「…ぅ……で、南先生。何の話ですか?」
「自分の胸に訊いてみなさい」
「…………」
この先生にしては珍しく没個性的な説教の入り方だな、けど、ここ最近はオレ、何もしてないぞ、学祭も今年は何も企んでないし、そもそも鷹乃とクロエのことで忙しくて学校でまでトラブルかかえる気ぃ無いからな、智也は自分の記憶に訊いてみたが、思い当たることはなかった。それで、つばめは苛立った様子で智也に近づいてくる。
「…み…南先生?」
レモンの香りが智也の鼻腔をくすぐった次の瞬間、つばめは思いっきり智也の頬を平手打ちした。
「うっ! …………痛~っ…、いきなり何を…」
「あなたは最低です。こんな指導、教師としてしたくはありませんが、せざるをえません」
「…………………」
クロエのやつ、いったい、どこまでオレとの関係を広めてやがるんだ、本気で憎らしくなってきたぞ、智也はやぶ蛇にならないよう黙って嵐が過ぎ去るのを待つことにしたが、つばめは黙り込む智也の態度に苛立って、また手をあげた。
「痛っ! ……てめぇ…、それ体罰だろ?」
「そう言って校長にでも訴えますか? けれど、あなたのした最低の行為も白日の下にさらすことになるのですよ?」
「…………。……」
「女性をなんだと思っているのですか。あなたは最低の男です」
「……うっ、うるさいな! 教師にいちいち口出しされたくねぇんだよ! 伊波だって似たようなこと白河にしてただろうが! いや、あいつの方が、もっと最低だ!」
「伊波くんが……、……そう……そうなのですか…」
つばめは意外だと目を見開き、驚きと恐怖を感じた様子で、持っていたレモンの香りを吸い込み、気分を落ちつけている。その様子が智也の癪に障った。
「ボケ教師っ! 人の顔をパンパン気軽に二度も三度も叩きやがって!」
「気軽に叩いたわけではありません。叩くほかに指導の方法がないようなことを、あなたがしたからです」
「ざけんなっ! あんたは他の教師と、ちょっと違うかと思ってたのによ! 結局はオレらの都合なんか知ろうともせずに理想論だけ言いやがって! 余計にムカつくんだよ! 色ボケ教師っ!」
「………聞き捨てならない讒言です」
「そーかよ、そーかもな♪」
智也は生徒指導室のドアに内側から鍵をかけた。これで二人っきり、教師と生徒でも女と男、つばめは身の危険を覚えて後退った。
「……………………………」
どうして新任の私が、こんな指導をしなくてはいけないの、現場にいた先生か、生徒指導担当の先生がすべきなのに、デリケートな問題とか、男性教諭が担当すると寿々奈さんへのセクハラと言われたとき立場が弱いとか、私の経験を積んだ方がいいとか言って、こんな汚らわしい問題を私に押しつけて、つばめは交際相手を性的に虐待していたと疑われる生徒に密室状態にされた生徒指導室で逃げ場を探すけれど、狭くて、どこへも逃げられない。内線電話も智也が引き抜いている。
「ど…、どうしようと…いう…のです…」
教師の威厳を保とうとしたけれど、うわずった声を出してしまったので、智也が嗤った。
「怖いか?」
「………退学に…なりますよ」
「脅しは、もっと効果的にするもんだぜ」
「……………………」
確たる証拠がなかったので職員会議で不問になったものの、この生徒は同級生を強姦したというウワサがあった。そのせいで後輩にイスで殴られ、短期の入院をしたとも囁かれている。結局は強姦の被害者と言われる女生徒と交際している様子なので問題化していないけれど、今回の事件をふまえれば単に性的虐待が継続しているだけかもしれない。つばめは教師として毅然として対応しなければと、自分を奮い立たせようとするが、胸の奥と下半身に渦巻いてくる嫌悪感と汚辱感に囚われはじめる。
「…っ……こ……来ないで……」
「………」
オレは中森じゃないから年増に興味はない、けど、中森の件は最大限に利用させてもらうぜ、色ボケ教師、智也は冷笑しながら、つばめを脅迫する。
「退学って言えばよぉ。教師と付き合うと生徒も退学になるのか?」
「っ!」
つばめの顔が凍りついて蒼白になった。
「まあ、退職は確実だよな。四月に就職できなかった色ボケ教師が、やっとありついた働き口なのによぉ。就活と婚活いっしょにするなよ、バカじゃねぇの?」
「……………………」
つばめは俯いて黙り込む。智也が舌打ちした。
「ちっ……だんまりかよ。ま、いいや」
「……」
「ちょっと失礼して」
智也が近づくと、つばめは胸と股間を押さえて身を引いた。けれど、智也は興味なさそうにタメ息をつく。
「そっちじゃないから、期待するな。色ボケ」
「………」
「あと半年、バレなきゃいい。オレが黙っていれば、二人とも天国。けど、校長に知れたら、あんたは退職、中森も将来お先真っ暗だな? 曽根崎心中でもするか?」
「…………。………」
つばめは翔太の名前を聞いて覚悟を決めたように智也を睨み返して、両手を拡げた。
「…好きに…すれば…いい……、気の済むように……、どうせ…私の…」
身体は、すでに父によって汚されたのだから、一度も二度も変わらない、翔太くんまで巻き込むくらいなら、私が黙って耐えればいい、大丈夫、私は耐えられる、大丈夫、大丈夫、つばめは震えながらも智也を睨んだ。智也は深いタメ息をついた。
「だから、人の話を聞けよ。そっちじゃないから」
「……?」
「財布、出せ」
「……誰の?」
「お前のに決まってるだろ?!」
「あっ…」
つばめはポケットから財布を奪われ、奪われたことより不快の念をもっている異性に衣服へ手を入れられたことに身震いした。智也は財布を開いて驚いた。
「お前、金持ちの子か? なんで、こんなに……」
智也は抜き取った紙幣が、ざっと20万円以上あったので驚いた。
「教師の給料って、そんなに高くないだろ? 競馬にでも勝った? 意外にパチンコとかやるのか?」
「昨日、給料日だったから」
「……全部、おろしたのか?」
「返して」
「中森が退学になるのは、オレも見たくない♪」
智也は自分のポケットに現金を入れると、つばめに軽くなった財布を投げつけた。
「慰謝料だ。二回叩いたから、一発10万で、夜露死苦♪」
「……あ……ああ……」
つばめは立ち去る智也の背中を見送ると、床へ崩れた。
「……………………浴衣……」
一回目の臨時講師としての給料は高価な浴衣に消えた。二回目の正規採用としての給料も、また衝動買いに使おうと思って全額おろしたのに、消えてしまった。
「………、……食べるものが……ない……」
つばめは来月まで、どうやって生き延びるか、真剣に悩み始めた。