どこを、どう逃げてきたか、覚えていないけれど、鷹乃は嘉神川の河畔にいた。
「…ひっ………ひっく……」
泣きながら、あてもなく歩いている。
「……ひっく…ぅう………もう…ヤダ……、どうして……ぅぅ…」
涙が止まらない。頭が痛くて、胸も痛くて、何一つ、まともに考えられない。ただ、ただ涙が次々と溢れてきて、日の暮れた道を、どこへ行くともなく歩いているうちに、登波離橋に辿り着いていた。
「ぅぅ…ひっく…」
橋の真ん中まで来ると、鷹乃は水面を見下ろした。涙が暗い川に吸い込まれていく。
「ぅぅうう…ぅぅ…」
橋の欄干に顔を伏せて泣き、とめどもなく流れる涙で欄干を濡らしている。
「…ぅっ…ぅくぅっ…」
母のこと、父のこと、母が再婚していたこと、さらに父違いの妹まで存在していたこと、そんなことを今日まで知りもしなかったこと、そして智也のこと、智也と幼馴染みのこと、いろいろなことが頭の中を駆けめぐって涙になって溢れてくる。
「…もう……やだぁ…」
もう、やだ、私なんて、もう、このまま、この川に飛びおりたら、きっと、もう泳げない私は……………何もかも………なくなって………私なんて……産まれてこなかったことに……お母さんにも……お父さんにも……私は、要らない子だったから………智也だって私がいなくなっても……すぐに、あの二人の、どっちかと………もう私は……私にとっても、もう……いらない………、鷹乃は涙の止まらない瞳で暗い水面を見つめ、その暗さで息苦しくなり、恐怖を覚えて欄干から離れた。幼い頃の溺れた記憶が身体に染みついていて、飛びおりることなんて、できそうになかった。
「……ふふ……怖いんだ……意気地無し……」
自分で自分を嘲笑って歩道に座り込む。膝も鷹乃を笑っていた。
「寿々奈さんっ!!」
健の声がした。
「………」
鷹乃は泣いている顔を膝と腕で隠した。
「寿々奈さんっ! ハァ…ハァ! よかった、見つかった。…ハァ…ハァ…」
必死に走って探してくれていたことが息の乱れようでわかる。
「寿々奈さん、大丈夫?」
「………」
「寿々奈さん……」
健が肩に触れようとすると、鷹乃は怒った。
「なによっ! あなた、何しに来たのっ?!」
「ボクは……心配で…」
「ほっておいてよ! 私なんて放っておいて!」
「できないよ、そんなこと」
「……はっ? どうして? あなたは私にとって何っ? 何なの?! 勝手に人の家へ入ってくるカナブンみ…」
八つ当たりする鷹乃の唇がキスで塞がれてしまった。
「っ……」
「心配なんだ。寿々奈さんのことが………………………、好き、だから」
健は登波離橋の上で告白した。
「…ふ……ふざけ……」
「ボクは本気だ」
もう一度、健がキスをしてくる。鷹乃は肩を抱かれてキスをされると、淋しかった心が少しは癒されそうな気がして、思わず疲れ切った心と身体から力が抜けて、受け入れそうになったけれど、悪夢から逃げる。
「イヤっ!!」
健を突き飛ばして怒鳴る。
「信じないっ! あなたなんて!!」
怒鳴ると腹の底から怒りが湧いてくる。
「白河さんを裏切って!! また、女の子を裏切って!! 私が好きっ?! そんな好きカゲロウみたいに来週には消えてるのよ!!」
鷹乃は吐き捨てるように言って、キスをされた唇を手の甲でぬぐった。怒鳴られた健はひるみこそしたものの、もう突っ走るしかないと前に出てくる。
「ボクが信じられない? ……そうだろうね、けど、じゃあ、三上は信じられるの? 信じられないから、鷹乃は泣いてるじゃないの?」
「っ……、気安く私の名前を呼ばないでちょうだい。私の名前よ!」
「……………」
「いきなりキスしてくるなんて最低っ!」
「……。どう言っても、信じてもらえないと思ったから」
「当たり前でしょう? あなたの好きは白河さんで半年、その次は三ヶ月で終わってるのよ! どうせ、私への好きも、二ヶ月と続かないわ」
「そんなことない!! ボクは本気なんだ!!」
「本気? あなたの本気って、なに? どうやって、それを証明するの?」
「………証明って………、何だってする。それで鷹乃がボクを信じてくれるなら」
「そう。それなら、そこから飛びおりて海の底にいる海竜王から宝玉でももらってきてちょうだい」
「そんな……」
「ほら、無理でしょう」
鷹乃が得意のかぐや姫戦法で男の気持ちを断念させようとしたが、健は平安初期の男たちよりバカだった。どうせ、できないと高をくくっている鷹乃に背を向けると、橋の欄干を跨いで身を乗り出した。
「ボクは本気だから」
「ちょっ?! ………」
どうせ、演技よ、飛びおりるフリをして気を引こうとしてるだけ、なんて姑息な男なの、ウソつきで、信用できなくて、すぐに女の子を裏切って、ホント最低、そうよ、いっそ飛びおりて死ねばいいのよ、この高さだけでも、高飛び込みの経験がなければ水面との衝撃で気絶するわ、流れも早くて最盛期の私でも泳ぎ切れるか、どうか、落ちれば99%死ぬわ、死んでしまえばいいのよ………、ちょっと、……まさか、……本気で……鷹乃が想定する何倍も健は真っ直ぐで情熱的で本気だった。
「じゃ…」
もしも、死んだら、それは、それだけのことさ、どうせ、ボクは、ほたるを裏切って、トトまで裏切って鷹乃に告白したんだ、神さまがいたら、罰を与えるだろう、でも、もしも、ボクが助かったなら、それは神さまが鷹乃への告白を許してくれたって考えられるから、だから、ボクは……ボクの運を試すっ! 健は日本人らしい軽薄な神観念で、リアルに清水の舞台から飛びおりた江戸時代の先人たちを追うように、欄干から手を離して体重を橋の外へ移した。
「やめてっ!!」
あわや落下する直前、鷹乃が飛びついて健を引っぱる。
「わっ?!」
「うううっ!!」
傾いていた健の腰のベルトに手がかかり力一杯に引っぱる。鷹乃の膂力は水泳をしりぞいても平均的な女子高生の何倍も強力だった。
「ぅぅ…えいっ!!」
「わっ?! ……っと!」
健は女子に投げ飛ばされたのは、後にも先にも静流以外に経験がなかったけれど、静流のときより強い力で持ちあげられ、欄干の内へ戻されたが、さすがに鷹乃が体勢を崩して倒れる。このままでは鷹乃の上に倒れてしまうと反射的に悟った健はサッカーで培った倒れながら体勢を変えて審判からフォイッスルをもらう特殊な技術を駆使して、体勢を入れ替える。
「くっ!」
「キャっ!」
うまく鷹乃を上にして健が下になり、アスファルトで背中を打った。
「ぐっ…………」
二人分の体重と勢いで健の呼吸が止まる。
「くぅ………………ハァ……ハァ……、よかった」
「………………………なにが………何が良かったよ?! このバカっ!!」
健の胸の上で鷹乃が叱った。
「あやうく死ぬところだったのよ! バカっ!」
「……うん……助けてくれて、ありがとう」
「っ、バカっ! あなたバカよ! 本当にバカよ! バカ……バカっ……こんなバカ、知らないわ」
鷹乃は何度か、拳で健の胸を打ったけれど、その力も抜けてしまい、起きる気力もなくて健の胸に頬をつけると、健の鼓動を聴いた。
「………本気で……バカよ……」
「自分でも、そう思うよ。鷹乃」
「………」
鷹乃と健が倒れたまま重なっているところへ、探し回っていた智也が駆けてくる。
「おいっ! 鷹乃っ?!」
「「っ…」」
呼ばれて鷹乃は飛び起き、健から離れたけれど、その取り繕うような動作で逆に疑惑を招いてしまう。
「鷹乃、そいつと何やってたんだ?」
「な……なんでも……ないわ」
「何でもないってことないだろ」
「………私が転びそうになって、助けてくれたの…」
「ウソは信じられるようにつけって、何度も教えたよな?」
だんだん智也の声に怒気が帯びてくる。責めるような口調になっている。健が二人の間に入った。
「助けてもらったのはボクだよ。川に落ちそうになったんだ」
「どんなバカやったら川に落ちそうになれるんだ? バカはウソも下手だな」
「ウソじゃない! 鷹乃が助けてくれなかったら今ごろ海の藻屑だったんだ!」
「鷹………っ?! お前、鷹乃とキス……」
「「っ?!」」
鷹乃と健が先刻の行為を見抜かれて驚愕する。
「なんで……それが…」
「どうして……知って…」
二人とも驚きのあまり、否定できずに智也が見抜いた理由を訊いてしまうと、智也は苦々しく言った。
「口紅が……ついてる……。このっ!!」
次の瞬間、健が殴り飛ばされる。
「うぐっ?!」
「伊波くんっ?!」
倒れた健を振り返る鷹乃の肩を智也がつかんだ。
「ムリヤリされたのか? お前はイヤがったんだよな?!」
「…………、私……不意を……つかれて……ムリヤリ…」
鷹乃は目をそらして答えたけれど、智也は信じたいように事実認識し、起きあがってきた健に殴りかかる。
「てめぇはっ!!」
「ぐっ! このっ!!」
今度は健も応戦して殴り合いになる。フェイントも騙し討ちもなく、頭に血が昇った二匹の獣がメスを巡って純粋なまでに殴り合う。
「や……やめて! やめて!」
あまりに激しい戦いに、止めに入ることができない鷹乃は泣き叫ぶことしかできない。
「お願いよ! やめて! 智也、伊波くんっ、やめて!」
鷹乃の悲鳴を聞きつけた翔太が走ってきた。
「やめろ! 二人とも!!」
翔太が殴られるのを覚悟で間に入ってケンカを止める。両腕を拡げて、なんとか健と智也を引き離した。
「離せっ!」
「離せよ、翔太!」
「落ちつけよ、二人とも! 何があったんだよ?! なんで、こうなってるんだ?!」
「こいつが鷹乃にムリヤリ襲いかかったんだ!」
「三上だってムリヤリ鷹乃を!!」
「お前は殺すっ!!」
「いいから、やめろ!!! 二人とも!!」
翔太が二人を殴る。すでに耐久力が限界を超えていた二人は翔太の拳でアスファルトに膝をついた。
「うぐぅ……中森、てめぇ……」
「翔太……くぅ…」
「やめないからだ。とにかく、落ちつけよ」
そろそろ周囲に人が集まりかけている。
「警察沙汰になっていいのか? 二人とも」
「ちっ……」
「ボクは鷹乃を守りたかっただけだ」
「てめぇ、まだ言うか」
智也と健が立ち上がると、鷹乃が怒鳴った。
「私を守る?! 勝手なことを言わないでちょうだい! 迷惑よ! あなたは白河さん一人、守りきらなかったでしょう?! もう二度と、私に近づかないで!!」
「「鷹乃……」」
「三人とも、とにかく落ちつけ。ここを離れよう。っていうか、健、オレと来い。三上は……寿々奈さんと二人で大丈夫だな?」
「ああ」
「しょ、翔太っ?!」
「いいから、来いって、話はオレが、ゆっくり聞いてやる」
翔太が引きずるようにして健を連れて行くと、急に静かになった。集まりかけていた見物人も三々五々に散っていくと、クルマが通り過ぎる音だけが響く。
「…………」
「……………………」
「…………………………」
「……………智也……」
「……なんだ?」
「………ケガ、大丈夫?」
「平気だ」
「……………………ごめんなさい」
「…………………………何が?」
「……………………」
「………。帰るぞ」
「うん………」
智也と鷹乃は三上家へ戻る。その帰り道は何の会話もなく、玄関からリビングへあがると、智也が詰問した。
「で?」
「……………………で、って?」
「なんで鷹乃と伊波が倒れてたんだ? 襲われたなら、普通、お前が下だろ?」
「……それは………、あの……あのね。信じてほしいの」
「………なにを?」
「ほ……本当に、伊波くんが川に落ちそうになったの。それで、引っぱって、倒れるとき私をかばって下になってくれたから、ああいう体勢だったのよ」
「……で、ああいう体勢になったから、キスされたのか? お前が上だったのに」
「ちっ、違う! キスされたのは、その前よ!」
「前って何だ?!」
智也が苛立ってテーブルを蹴った。
「キャっ!」
鷹乃が小さな悲鳴をもらすけれど、智也はソファも蹴った。
「さっさと説明しろよ!!」
「……あ……あなただって、今坂さんと二人で……だから、私……わけが、わからなくなって……」
「っ!」
それは自白だろうがっ! 智也は怒りが溢れて鷹乃の顔を見ていられなくなり、キッチンへ行ったけれど、気持ちが治まらず、イスを持ちあげると力任せに投げた。大きな音がして背後の鷹乃が怯えたのがわかるが、さらに別のイスを持ちあげると今度は鷹乃へ投げつけそうになる。
「ひっ…」
「くっ!」
ぎりぎりのところで理性が働いて智也はテレビに向かってイスを投げつけた。
ボンッ!
ブラウン管タイプのテレビがイスの脚で割れ、真空だったブラウン管内に空気が入り込む圧壊音が響いた。
「ご…ごめんなさい……ごめんなさい…ゆ、ゆるして……」
「ハァ…ハァ…くっ!」
そうやって謝るってことは、謝らなきゃならないと思うようなことをしたって意識があるからだろうが、どうして否定しない、もっと、うまく誤魔化せよ、ウソつけよ、隠せよ、くそっ、くそっ! ああっ、ムカつくっ! 智也はソファにあったヌイグルミを鷹乃へ投げつけた。
「ひっ…」
鷹乃の足にドルピィ君のヌイグルミが当たった。
「オレは唯笑と彩花の三人で飯喰ってただけだ」
「ご、ごめんなさい! 私、……今坂さんと二人だと……思って…」
「だからって! 仮に鷹乃の誤解が真実だったとしても、早すぎるだろうがっ?! ええっ?! 誤解して一時間後には伊波とってよ?! どんだけ早いんだお前はっ?!」
「ごめんなさいっ…ごめんなさいっ…ごめ…ひっ…ひぅぅ…ううぅ…」
怯えきった鷹乃はソファの影に隠れて泣き出した。蒼白な顔で啜り泣いているのが、可哀想にも想えるのに、苛立ちは治まるどころか、ますます高まってくる。
「立てよ!」
「ぃや…」
本能的な恐怖で鷹乃は身を縮めているけれど、智也はポニーテールを引っぱってムリヤリに立たせた。
「オレに顔みせろ」
「ひっ…」
怯えきって鷹乃は抵抗しない。顔を見せて目をそらして涙を零している。
「…ひぃっ…ひっく……ひっ…ぅぅ…ごめ…ごめなさ…」
「くっ………」
だから、これ以上謝るなよ、余計に腹立つだろうが、くそっ! 嫉妬って、こんなか?! こんなにムカつくものだったのかっ?! オレの鷹乃にっ、伊波の奴がって、思うだけで、腹が立って、殺してやろうかってくらいっ! 鷹乃でさえ殴って……しまいそうなくらい……怒りが……爆発して……、智也は右手をあげて拳を握った。
ガッ!
鷹乃の泣いている顔、その真横を拳が通り抜け、ドアのベニヤ板を簡単に貫いて大きな穴が空いた。鷹乃は腰を抜かしてズルズルと座り込むけれど、ドアから手を抜いた智也は抱き止めて支えた。
「オレはっ、お前が好きだっ! 大好きだっ!」
「っ…」
「だからっ、二度と! オレを裏切るなっ!」
力一杯に抱きしめながら、智也は涙を零した。
「くっ…」
「…………」
泣いてるの、智也? 鷹乃は息もできないほど抱きしめられながら、肩に落ちてくる汗とは思えない滴を感じて、胸が締めつけられている以上に痛くなった。
「……ごめ…ごめんなさ…」
「もう、謝るな。もう、いい」
「だって……私…」
なんてバカなことをして、この人を怒らせて、悲しませて、私は……私は……鷹乃は込み上げてくる嗚咽のままに泣いた。
「ぅうっ…ぅううっ…」
「………」
言えないな、絶対に言わない、クロエのことは何があっても鷹乃には言わない、認めない、謝らない、嫉妬が、こんなにも苦しいものだってわかったからには、絶対に隠し通してやる、墓までもっていく、彩花にも墓までもっていかせる、智也はクロエのことを今後も絶対に知られないようにしようと決め、鷹乃へキスをする。
「お前はオレの女だ。この唇も、この目も、髪も……悪かったな。引っぱったりして……痛かったろ?」
「ううんっ…ううっ…ううっ…」
「ごめん、怖かったよな」
「うう…ううっ…智也…」
首を振って泣きながら鷹乃は抱き返して頬を擦りよせた。
「もう二度と……絶対……智也を裏切ったりしない」
「鷹乃……」
無意識と本能で智也の手は鷹乃の衣服を脱がせ、裸にしていく。まだ泣いている鷹乃も抱かれることを望み、半裸にされると脚を開いて、智也のズボンをさげた。
「「…痛っ…」」
ほとんど愛撫もなしに接合したので二人とも痛みを覚え、見つめ合って笑った。
「悪い、焦りすぎた」
「ううん、私も、だから」
そう囁いてキスをしていると、玄関から遠慮がちに彩花が入ってきた。
「すいませーん……桧月彩花ですけどぉ。玄関あいてたし……すっごい音がしたから、ちょっと心配で来ました。……えーーっと……三上さぁん、大丈夫ですかぁ? あ、あのぉ、寿々奈さん、いる? 私ね、智也と唯笑ちゃんで、ご飯食べてただけだからぁ……そんな怒らないでね。やましいこと、なんにも……あっ…」
責任の一端を感じている彩花は気をつかって変に他人行儀な言い訳をしながらリビングまで来ると、性交している智也と鷹乃を見つけて、げんなりとした顔になった。
「……夫婦ゲンカは……犬も食わないっていうけど……。なに、この部屋……智也の顔、痣だらけ……いくら何でも暴れすぎよ、寿々奈さん」
「「……………………」」
「テレビ壊れてるし……」
「「くっ…くくっ…」」
彩花の誤解が可笑しくて、智也と鷹乃は声をあげて笑った。
「な、なによ? なに笑ってるの?」
「いや、何でも。っていうか、テレビ壊したのも、暴れたのもオレだ」
「私が悪いケンカだったからよ。気にしないで」
「気にしないでって……」
彩花は抱き合ったままの二人から視線をそらしてタメ息をつく。
「…たはーっ……つける薬が無いみたいね」
「お前こそ、新婚夫婦の家庭に上がり込んで邪魔をするなよ、無粋な奴だな」
「はいはい」
「言ってなかったが、リアルに新婚夫婦だからな」
「………リアルに?」
「リアルに♪」
「…………ホントに?」
「ああ、黙っていたが入籍している。唯笑にも言っておいてくれ」
「ちょっ?! マジでっ?!」
「ああ。な、鷹乃?」
「ええ、結婚してるわ。正式に。……式は、まだ、だけど、届出は出したわ」
「智也の親とか、オッケーしたの?!」
「……いや、…まだ報告してない。っていうか、オレたち二人以外で知ったのは、お前が最初だ。で、次が唯笑になる。他には秘密にしておいてくれ。ややこしくなる」
「……どうして、私と唯笑ちゃんにだけは報告してくれるの?」
「今日みたいに鷹乃が嫉妬するだろ? オレとお前らが親しくすると、な。けじめつけておかないと、これからは不倫になるからな♪ ということで、彩花、見ていたくないなら帰れよ?」
そこまで言って智也は鷹乃との性交を再開する。彩花は帰ることにした。
「とりあえず……おめでとう、……かな? じゃ、お幸せに。……っていうか、近所迷惑だから、あんまり派手な夫婦ゲンカしないでよ。おやすみぃ~」
彩花は最後に玄関の戸締まりをするように言ってから、隣家へ帰った。
翌日の午前0時、いのりは両親と大喧嘩していた。
「イッシューが泊まっちゃダメなら! 私がイッシューのところに泊まる!」
「なにを言ってるのっ?!」
「いのり、ワガママを言うんじゃないっ!!」
いのりと両親が口論しているのを、一蹴は何もできずに座っている。何度か、帰ろうとしたけれど、いのりが離してくれない。智也に断って文化祭の準備を休んで帰宅してから、いのりと過ごし、夕方になって帰ってきた両親に紹介して、夕食をいただき、そこまでは和やかな彼氏紹介だったけれど、いのりが一蹴を帰さない、私の部屋に泊める、と主張しだしたときから、不協和音が始まっていた。
「どうしてっ?! 夕べはカナちゃんを泊めてくれたのにっ?!」
「カナタちゃんは女の子でしょっ?!」
「イッシューは私の彼氏なのっ!!」
「ボクは……そろそろ…」
一蹴は帰ろうと腰をあげたが、いのりが抱きついてくる。
「ここにいてっ! イッシューが帰るなら私も帰る!」
「ぃ……いのり……」
「いのり、いい加減にしなさい。鷺沢君も困ってるじゃないか!」
「困らせてるのはパパとママでしょっ?!」
「いい加減にしないとパパも怒るぞっ!」
「どうして怒るの?! 私がイッシューと仲良くするのは、そんなにいけないことっ?!」
「いけなくはないが、節度というものがある。いのりは女の子で、鷺沢君は男子だ。そんなこと、もうわからない年齢じゃないだろう? 親にこんなこと言わせないでくれ」
「パパこそ、娘に言わせないでよ。イッシューとは、してるよ。ちゃんと愛し合ってるから」
「「「っ……」」」
両親が驚き、いのりと一蹴へ視線を送る。いのりは視線を受けとめて肯定し、一蹴は目をそらして否定できなかった。父親が座り込み、深いタメ息をついた。新聞で読む調査では初体験の平均は高校二年生、自分の娘は一年早かっただけ、そう自問自答している背中は悲しそうだった。母親が娘を睨んだ。
「そんな子に育てた覚えはないわっ!」
「どうして? 女と男が愛し合うのは当然だよ?」
「いのりは高校生でしょっ! 節度をもちなさい!!」
「節度? ……………わかった。イッシューとしか、しない。私はイッシューが大好きなの! だから、イッシューとしか、しない。一生! この一生も! 次の一生も! ずっと、ずっと、何回生まれ変わってもっ! 永遠にイッシューとしか、しない!!」
「「……………………」」
両親が黙り込み、いのりから一蹴へと視線を移した。
「さ…鷺沢君」
「は、はい…」
一蹴は正座して聞く。
「どうやら、いのりは本気のようだ。……それは……まあ……そういう時代なのかもしれない。………だが、いのりが本気なら本気なだけ……いのりが傷つくところは、父として見たくない」
「……はい…」
「いのりを傷つけたりしないでくれると、約束してくれるかね?」
「は……はい……」
「そうか………。それなら、話は終わりだ。明日も会社が早いんだ。もう、寝る」
父親は一蹴を泊めていいとも、悪いとも言わず、逃げた。残った母親は娘を見つめる。
「……………………」
「……………」
母と娘が黙って対峙し、いのりは絶対に譲らないという風に一蹴の腕に腕をからめる。絶対に守る、そういう気配を漂わせる娘の異常な熱意に、母親は既視感を覚えた。
「……鷺沢……………………一蹴くん……」
母親は古い記憶を探り、一蹴という珍しい名前に聞き覚えがあることを思い出した。
「まさか……あの、イッシューくん?」
「え?」
「お母さんっ! ちょっと来て!! イッシューは、そこにいて!!」
いのりは母親の手を引き、庭まで出る。
「イッシューは、あのときのこと忘れてるから思い出させるようなことは言わないで!」
「やっぱり……あのときのイッシューくんなの?」
幼い頃、病気がちだった娘を見舞ってくれた施設の子供が二人いた。二人とも変わった名前だったので記憶に残っている。一人は一蹴、もう一人は扉、どちらも変わった名前だったし、どちらも見舞ってくれた理由は娘ではなく、同室のリナという少女が目当てのようで、母としては残念にも安心にも思っていたのだが、同室の少女は一蹴と交通事故に遭い、亡くなっている。その後、いのりは回復して退院してからも病院に通った。事故で負傷して入院していた一蹴を見舞うために、あのときの異常な熱意と今の娘の切迫した様子は重なって見える。
「絶対にイッシューには言わないで。言ったら、お母さんでも許さない。私、何をするか、わからない」
「いのり……。………イッシューくんとお付き合いするのは、いいわ。やめなさいとは、言わない。……関係、……身体の関係が…あるのも……、……でも、あなたの身体は………もう少し成長してからでないと、妊娠や出産には耐えられないかもしれないわ。そうでなくても、高校生なのよ。……避妊はしてるの?」
「してる」
「そう…………それなら……、もう、いいわ。お母さんも疲れたから寝るわね」
母親も諦め、いのりが勝利した。親公認で彼氏を泊めるという荒技を成し遂げ、一蹴とベッドをともにする。一蹴は落ちつかない心地で、身体を横たえると、すぐに目を閉じた。もちろん、すぐに寝付けないけれど、いのりに呼ばれても起きない。
「イッシュー? イッシュー? もう、寝ちゃったの?」
「………」
「…イッシュー? しようよ?」
「……………………」
無理っす、ご両親、隣の部屋にいるのに、娘さん抱く度胸はないっす、一蹴は狸寝入りでやり過ごそうとしたが、いのりは納得できない。
「う~……疲れてるのかなぁ……ふにゅっ♪」
「っ……」
一蹴は男根を摘まれたが、寝たふりを続ける。
「……イッシュー……」
「………………………」
「……じゃあ、せめて…」
いのりはパジャマを脱いで全裸になると、添い寝する。狸寝入りをしている一蹴へ何度もキスをして、男根に触れ、ゆっくりと勃起させると脚をからめて一つになる。
「……イッシュー? 下は元気になってくれたのに、上は寝てるの?」
「……………………」
「じゃあ、夢の中で私と会ってね♪」
いのりは眠っている一蹴にかまわず腰を使い、一蹴が射精してくれるまで動いた。
「ハァっ…ハァっ…」
「…………」
オレは夢精ってことになるのか、一蹴は狸寝入りを死守する。いのりがキスをしてきた。
「ふふ♪ イッシュー、愛してる。おやすみ」
「…………」
一蹴は寝付きにくい環境だったけれど、今日は何度も射精して疲れていたので、いつのまにか眠った。朝、先に目が覚めたのは一蹴だった。
「……疲れた………………………」
一つのベッドで二人で眠ったので身体が硬くなっている。起きあがって伸びをして、一階に降りた。
「養子生活には慣れてるけど……こういうのは……」
トイレを借りて、洗面所も借りる。鷺沢家にいても、そこが完全に自分の家ではないという感じはしていたけれど、いのりの家で寝起きするのは、また、別ものだった。顔を洗ってキッチンへ行くと、いのりの母親が朝食を作っている。
「お……おはよう、ございます」
「あら、おはよう。早いのね」
昨夜のことが無かったように振る舞ってくれる母親をありがたく思い、一蹴も自然体を取り繕う。
「なにか、手伝います」
「いいのよ。……そうね。一つだけお願いしていい?」
「はい、何でも!」
「いのりを起こしてきてちょうだい。それが一番大変な仕事だから」
「はい…」
確かに………あのネボスキストを起こすのは大仕事だ、おまけに夕べ遅かったから、ちょっとや、そっとじゃ、起きないかも、一蹴はタメ息をつきながら二階へ戻り、恋人の寝相を見る。いのりは幸せそうに枕を抱いて可愛らしく寝ているけれど、全裸だった。
「…………………………あれだけ、出してると朝立ちもしないんだな…」
一蹴は全裸の恋人を見ても無反応な分身に感心しつつ、いのりを起こしてみる。
「おい、いのり! 起きろよ! 朝だぞ!」
「ん~っ……」
「起きろって!」
「……しゅ~……」
「起きないと、そのまんま学校に背負っていくぞぉ!」
一蹴が冗談を言っても起きない。いのりはうるさそうに寝返りをうった。
「ん~………」
「まったく」
結局、遅刻ギリギリになって朝食もそこそこに登校することになったけれど、いのりの意識が戻ったのは、通学路にいたカナタと出会った瞬間だった。
「ハーイ♪」
「っ…」
「いのっち、ひどいよ。何度もメールしたのに一回も返してくれなかった」
「……ごめん。夕べは、いろいろあったから」
「へぇぇ……いろいろって?」
「……。カナちゃんには関係ない」
「…………そう……」
冷たくされてカナタは淋しそうにしたけれど、いのりが腕を組んでいる一蹴へ視線をやり、微笑をつくった。
「そんなこと言って、いいのかな? ね?」
「…………」
「ちょっと、アタシに付き合ってよ。お願い」
「……………」
「いのり? オレは別に一人で登校しても…」
「イッシューは黙ってて!」
「……いのり…」
「ごめん、イッシュー、先に学校へ行っていて。私は………遅れると思う」
「わかった。じゃ」
一蹴が学校へ向かい、いのりはカナタを見つめる。
「………」
「どこ、行こうっか? いのっち♪」
「…………ついてきて。カナちゃんに見せておきたいものと………話があるから」
いのりが歩き出した。カナタは、どこへ行くつもりなのか、何度か訊いたけれど、いのりは答えず、一時間ほどして、とある教会の裏手にある墓地についた。
「ずいぶん、独特の雰囲気があるところだね。アタシ、リアルに西洋式の墓地を見たの、はじめてだよ」
一般的な日本人らしく祖母の墓も仏式であるカナタは連れてこられた教会の墓地を物珍しそうに見ている。いのりは慣れた足取りで真っ直ぐに一つの墓石まで進んだ。
「ここが、目的地?」
「リナちゃんのお墓」
「…そう………、ふーん……」
カナタは居心地悪そうにリナの墓石を一瞥すると、他の墓石やエクステリアを見回している。どの墓石も西洋式で十字架や石版型で、いわゆる日本式の某家先祖代々之墓という墓石はない。いのりが呪文のようにつぶやいた。
「最初から好きじゃなかった」
「え?」
「最初から好きじゃなかった」
「……リナさんのこと?」
「違う」
「……………」
「もう二度と私に近づかないで」
「ぃ……いきなりだね…、いいの? そんなこと言ってさ♪ アホイッシューに言っちゃうよ?」
「イッシューはアホじゃない」
「……言っちゃうよ?」
「言わないで」
「じゃあ、アタシと…」
「二度、私に近づかないで」
「……………………」
「約束、できる? イッシューにリナちゃんのことは言わない。私に二度と近づかない。この二つ、今ここでリナちゃんのお墓の前で約束して」
「…………」
「して」
「…………ヤダ♪」
「そう………」
いのりは肩を落として震えた。
「いのっち……アタシはね。いのっちがいてくれないとダメなの」
「………………………」
「だからね、いのっち」
カナタがキスをしようと、いのりの肩を抱いた。
ガッ!
いのりが強烈な頭突きをした。
「ひぐっ?!」
ガッ! ガッ!
さらに二度、三度、いのりが頭突きを続ける。逃げようとするカナタの頭をピアニストらしい強力な握力で捕まえ、二人の頭が割れそうなくらい強烈な頭突きをしてくる。
ガッ!
カナタの額が割れ、血が流れた。
「ううぅぅっ…いの……ち…」
ちょうど、幼い頃に沙子によって傷つけられた場所と同じところの皮膚が割れ、血が流れて視界が紅く染まる。カナタは脳震盪のためにフラフラと倒れた。
「ぅうう…っ……いのっち…痛いよ…」
「……………………」
いのりは倒れたカナタを呪い殺すような目で見下ろすと、蹴った。
「ぅうっ!」
「……………………」
蹴る、蹴る、蹴る、いのりは丸くなって呻いているカナタを蹴り続ける。
「…ひぅっ…ううっ…ゴホッ…ゴホっ……痛いっ…痛いよ…」
カナタは抵抗を試みる機会もなく圧倒され、啜り泣いた。
「……………………」
いのりは何も言わず、墓地に落ちている子供の頭ほどの石を持ちあげ、振りかぶった。
「ひぃっ…ヤ…ヤダ……そんなの死んじゃう! ごめんっ、ごめんっ、いのっち、ゆるして!」
「……………………」
「ごめんっ、ごめんっごめんっ!」
「……………………。リナちゃんにも謝って」
「ごめんっ、ごめんなさいっ!」
殺意の滲む本気の暴力を受けたカナタは、リナの墓石に土下座しているけれど、いのりは殺す気だった。
「そんなところじゃリナちゃんには聞こえない。リナちゃんは空の高いところにいるんだから。そこに行って謝ってきて!」
いのりは振りかぶっていた石をカナタめがけて叩きつけた。
ザッ!
いのりのコントロールが悪かったのか、カナタが寸前で動いたのが、よかったのか、石はカナタの鼻先をかすめて墓地にめり込んだ。
「ひぃッ…」
カナタは身震いすると、泣きながら小便を漏らしてスカートを濡らした。
「ゆ…ゆるし……ゆるして…」
「……………………」
いのりは謝り続けるカナタを踏みつけ、憎々しげに呪った。
「もう、うんざりなの。汚いっ! 気持ち悪いっ!」
「うぅうっ…ぅううっ…」
「死んでよ! ねぇ、死んで!」
「ひぅうぅっ…」
「私の前から消えて!!」
いのりの中で不本意な性行為を強要されてきた怨念が爆発し、もうカナタへの同情も友情も微塵も残っていなかった。一蹴を守るため、一蹴以外と交わらないため、いのりはカナタを消すと決めた。さっきまでは殺すつもりだったけれど、殺すと逮捕されるという社会的ルールを思い出し、いのりは身動きできないほど呻いているカナタの髪を引っぱって座らせた。
「いいことを教えてあげる」
「ぅ…ぅぅ…ごめ…ごめん…」
「加賀先輩、カナちゃんを捨てて、ほたるさんと付き合ってるよ」
壊れるよね、これを知ったら、カナちゃんは壊れる、壊れて、壊れてしまえ、いのりは呪いを込めて囁いた。
「ほたるさんと加賀先輩、付き合ってること、カナちゃんには言う気ないって。ふふ♪」
「……ウ…ソ……?」
「ウソじゃないよ。ほたるさんに訊いてみたら?」
「………………ウソっ?!」
カナタの瞳が病的なまでに動揺する。まさか、と思いつつも、心の奥で気づきつつあった。正午はカナタと人間関係がある女子を新しい彼女にしたと言った。けれど、果凛も、葉夜も、彩花も、唯笑も、鷹乃でさえも、該当しない。もう、考えられる可能性は、ほたるしかなかったし、ほたるの誕生日の前後に正午は長期間学校を休んだ。認めたくなかった、否定していたかった、それを、いのりは肯定してカナタを絶望の底に叩き落とすことで壊していく。
「加賀先輩、ほたるさんには優しいって」
「……………………」
「誕生日にウイーンまでプレゼントをもっていったらしいよ」
「……………………」
「負けちゃったね。うん、カナちゃんは、ずっと敗者だよ。イサコちゃんに負けて。忘れられて。やっと取り戻しても、また捨てられて。でも、私は違う。イッシューを守る。だから、カナちゃんは、敗者らしく、ずっと墓場にいればいい。ずっと、ずっと、絶望していて。何もかも、失ったんだから」
「……………………」
「カナちゃん?」
いのりが反応を確かめるようにカナタの目前で手を振ったけれど、何の反応もない。もう瞳は現実を見ていない。
「……壊れてるね♪ さようなら」
いのりは踵を返して立ち去ろうとして、他の弔問客に気づいた。墓場に似つかわしい黒ずくめの男が立っている。
「そこで何してやがる?」
「………」
いのりは目撃者をつくってしまったことを、どう処理するか、考える。カナタを殺してはいない、けれど、かなりの暴行をして殺人未遂くらい追いつめている。
「そこを荒らすんじゃねぇ!」
「………もしかして、…トビにぃにぃ?」
「お前は……いのるん?」
二人とも昔懐かしいアダ名を口にして古い知り合いであることを確認したけれど、今の年齢で恥ずかしすぎる呼び方だったので、忘れてしまった本名を名のる。
「飛田扉だ」
「陵いのりです。あの、飛田さん、いつも、ここに?」
いのりの視線が扉の手元にある花束と手作りのてるてる坊主へ注がれ、扉は慌てて背中に隠した。いのりは何度か、リナの墓前を訪れたとき、てるてる坊主が供えられていたので不思議に思っていたのだが、その理由が氷解した。
「飛田さん、だったんですね。いつもリナちゃんに」
「……ちっ………、リナだって、晴れてる方が下界が見やすいだろうよ」
「そうですね」
「ところで、それは、何だ?」
扉はカナタを指して訊いた。血まみれで泥まみれ、涙を流しながら現実を見ていない女子高生が墓前に倒れているのは扉でなくても大きな疑問を抱く状態だった。
「これは……えっと…」
「イジメとか、そういうの?」
「………イジメ…」
「見かけによらねぇんだな」
「い、いえ! 違います! って、いうか、イジメられてたのは、むしろ私で。それで、その仕返し……決着をつけて」
「ほぉっ♪ 立派じゃねぇか。ますます見かけによらねぇ」
「あの、すいません。今日、ここで会ったこと、誰にも言わないでもらえませんか?」
「いいぜ」
「ありがとうございます」
「オレは、またの機会にするからよ。リナによろしくな」
扉はクルリと背中を向けて立ち去ろうとしたが、少し歩いて振り返った。
「おい、いのり」
「はい…」
いきなり呼び捨て……、いのりは思ったことを表情に出さず返事した。
「こいつだけは、またの機会じゃ萎れちまう。いのりがリナにやってくれ」
扉はカッコよく花束を投げてよこし、駐車場に駐めてあった軽トラで去っていった。
「魚力……今は魚屋さんなのかな……カラスが乗ってたけど…」
軽トラの荷台にはカラスが乗っていた。
「……………………。とりあえず、これを」
いのりは投げ渡された花束をリナの墓前に供えると、カナタへ視線を落とした。死体か、人形のように倒れていて、回復する兆しはない。
「リアルふにゅっ!」
いのりは顔を踏みつけ、最後に唾を吐きかけてカナタと別れた。