「智也が浜咲だったら」   作:高尾のり子

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第18話

 

 

 数日後、いよいよ碧海祭当日となった浜咲学園ではルサックを模した模擬店が盛況だった。いろいろなトラブルもあったけれど、翔太の尽力でクラスは協力して作業にあたっている。

「翔太くん、お疲れ様」

「つばめ…先生こそ、ご協力感謝します」

 生徒と教師を演じながら、アイコンタクトでは恋人同士の通信をしている。翔太は厨房にいる誰もが自分たちに視線を向けていないことを確認してから、生徒なら見せないような微笑を恋人に送り、つばめも微笑み返した。

「翔太くん、他に問題はない?」

「ええ、なんとか、やれそうです」

「翔太っ! これ、どうしたらいい?」

「健、それは家庭科室で洗ってくれ! こっちは手一杯だ!」

「オッケー!」

 健は指示を受けて汚れた物を満載した洗い桶を家庭科室へ運び込む。

「ふーっ…ぁ…、…………」

 健は家庭科室にいた鷹乃と目があって沈黙した。鷹乃も目をそらして洗い物を続ける。健は家庭科室に誰もいないことを確認すると、鷹乃に声をかけることにした。ここ数日、ずっと避けられていて話をする機会がなかった。智也は実行委員の仕事以外は鷹乃のそばを離れないし、鷹乃も健を避けているので、この千載一遇のチャンスを逃したくなかった。

「寿々奈さん……」

「………………………」

 鷹乃は洗い物をする手を早めた。このパフェの容れ物を洗ってしまわないと次のオーダーに応えられない。早く洗ってしまいたいのに複雑な形をしているせいで、ルサックのような業務用食器洗い機がない今は、やたらと時間がかかる。

「ちょっとだけ、ボクの話を聞いてほしい」

「……………………」

 鷹乃は黙って洗い物を続ける。聞こえていないかのような反応だったが、健の声は届いているはずだった。

「君は本当に三上と付き合っていて幸せなの? ボクには…」

「飛世さんとは、どうしたの?」

 うるさい蠅を睨むように鷹乃が詰問した。

「……トトとは、……別れたよ」

「……………」

 鷹乃が深いタメ息をついて、健から視線を天井へ向けた。

「それで、伊波くんの話って何かしら?」

「………ボクは……寿々奈さんが好きだ」

「前に聞いたわ。それで?」

 鷹乃は洗い物を続けながら訊く。

「ボクと……付き合ってほしい。君を守りたい」

「…………。私のこと、本当に好き?」

「好きだよ。本気で」

「………………」

「寿々奈さんだって、ボクの気持ちは知ってくれてると思う」

「ええ、死ぬほど、死んでもいいくらい、私のことが好きなんでしょ? その気持ちが本物だってことは認めてあげるわ」

「……寿々……鷹乃」

 健が希望を見たように呼び方をかえると、鷹乃は冷たい視線を向けた。

「たしかに、今、この瞬間、あなたは私のことを本気で好きなんでしょうよ。自分が死んでもいいくらい。だから、自分への評価や周囲の状態なんて、さらに、どうでもいい」

「……そんなことは…」

「死んでもいいくらい好き? でも、その好きの賞味期限は? 来週? 来月? いつ、私にお別れを言いに来るのかしらね。告白した舌が、ウソを言ってないのが事実だとしても、今度のクリスマスやバレンタインまで私を好きでいることが、できるのかしら? 大いに疑問だわ」

「……………………それでも、ボクは鷹乃のことが好きなんだ!!」

「やっぱり、カゲロウね」

「カゲロウ?」

「あなたの命はカゲロウみたいに軽いのよ。そして恋も、まるでキャンディーバーの包み紙みたいに軽くて、すぐ要らなくなる。どうせ、私のことも何度か抱けば飽きてくるわ。そんな愛っ、まっぴら御免よ。私はドン・ファンにも光源氏にも用はないわ」

「………」

「永遠の愛が望むべくもない贅沢品だとしても、せめて夫婦になるなら子供が育つまでの20年は夫婦でいるべきよ。それに、私は翁の妻なりたいわ。子供を育てる自信がないもの。あの夫婦は子供に恵まれなくても、仲良く、ずっと、やっていたのよ。かぐや姫が来る前も、月へ帰った後も。ずっと、ずっと、夫婦でいたのよ。そういう愛がほしいの。あなたのカゲロウの愛を受けとめるほど、私の寿命は短くないの。どこか別の誰かに求愛してちょうだい。さようなら、伊波くん、好きになってくれて、とても迷惑でした。どこかへ行ってください。永遠に」

「…………………………………」

 健は言われたとおり、家庭科室から去り、鷹乃はパフェの容器を洗い終えると教室へ戻った。ちょうど実行委員の仕事を終えた智也が正午と来店している。

「よぉ、中森。オレ様は客として来た。客として、もてなせ」

「オレ様も客だ♪」

「わかりました。お客様、窓際のお席へ、どうぞ」

 全体を仕切っている翔太が、智也と正午を案内しようとすると、智也は鷹乃を指した。

「あの一番、可愛い子に応対させろ♪」

「お客様、当店は指名制をとっておりません」

「硬いこと言うなって。お客様の要望だぞ」

「そうだ、そうだ♪ オレは、あの子がいいぞ!」

 正午はウエイトレス姿の果凛を指名する。果凛と鷹乃が目を合わせ、仕方がないので二人で水とオシボリを手渡しにいく。

「「いらっしゃいませ」」

 果凛が正午に、鷹乃が智也に水とオシボリを渡してメニューを示している。

「りかりん、可愛いな。似合ってるよ」

「ありがとう、正午くん」

「加賀、お前の目は節穴か。絶対、こっちの子の方が可愛いぞ♪」

「三上こそ節穴だな。この子は、きっとモデルとしても通用するくらい可愛いって♪」

 バカなことを言い合っている客に、ウエイトレスとして鷹乃が困った顔をしつつ、メニューの説明をする。

「ただいま、当店のオススメは浜咲鍋と碧海餃子になっております。お決まりになり…キャっ?!」

 鷹乃が智也に尻を撫でられて小さな悲鳴をあげた。

「や…やめてください。お客様、困ります」

 智也が客を演じているので鷹乃も店員を演じ続け、果凛も店員として冷たい対応をする。

「お客様、当店は、そのような店ではありません。下品な真似はお止めください」

「いいじゃないか♪ 減るもんじゃなし」

 鷹乃の尻を撫で続け、没個性的なキャラクターを演じることに妙な楽しみを覚えている智也の顔面が殴りつけられる。

「鷹乃から手を離せ!!」

「ぐはっ?!」

 智也がイスから転げ落ちる。翔太はタメ息をつきながらフロアに顔を出した。

「おい、健、いい加減に……誰?」

 てっきり健が暴発したのだと思って止めに来た翔太は上等そうなコートを着た紳士を見て、驚いた。少し前に一人で来店して教室内をキョロキョロと見ていた不審な紳士だったが、まさかトラブルになるとは思っていなかったのに、智也の次に正午まで殴っている。

「ぉ、お父さん?!」

「ハァ…ハァ…鷹乃…」

「……どうして、……ここに…」

「大丈夫か、鷹乃?」

「ぇ…ええ、……智也っ! 大丈夫?!」

 鷹乃が倒れた智也の心配をする。

「痛ぅぅ……伊波のアホに殴られたとこに入ったから、めちゃ痛い……くぅぅ…」

「鷹乃、どうして、そんな奴を……」

「誰だよ、このおっさん? 鷹乃の知り合いか?」

 立ち上がった智也は痛そうに殴られた頬を撫でる。

「私の……お父さんよ」

「っ?!」

 痛みが消し飛んだ。

「お…お義父さ…ん?」

「た、鷹乃、いったい、どういうことなんだ?」

「…………。娘の恋人の顔も知らずに、早とちりをした父親が、ここにいる。それだけよ」

 鷹乃の声には再会の喜びよりも、これまで放置していたことに対する不満が冷たさになって発されている。娘を守るつもりでの勇み足が鷹乃の冷たい視線で滑稽なものに変えられていく。

「恋人? …こ……こんな男と鷹乃は付き合っているのか?」

「ずいぶんな言い草ね。こんな父親より、ずっとマシよ。何年ぶり? 何の用? 再婚でもして報告にきたの? 腹違いの妹でも作ってくれた?」

「た………鷹乃……」

「鷹乃、言い過ぎじゃないか、実の父親なんだろ?」

「だって、智也……、こんな……いきなり……私だって…」

 鷹乃は感情が高ぶって涙を零した。智也が肩を撫でると、鷹乃は智也に抱きついて啜り泣く。その様子で二人が男女の関係にあることが、父親にもわかった。

「どうやら、私は、とんでもない。勘違いをしてしまったようだ」

「いえ、オレがバカな真似をしていたから、父親としては当然の行動だと思います。い…いつも、ああいう悪ふざけをしてるわけじゃないっすよ。今日は祭りだから」

 智也は背中にクラスメートたちの「いつも悪ふざけしてるし、祭りになると、さらに悪化するから自業自得だ。昨日だって店の名前をノーパン喫茶にしよう、ウエイトレスはパンツをはいててもいい、ノーパンというのがウソで、そのウソだけで客が倍になる、とか言い出して前夜の準備を混乱させるし」という視線を感じながらも無視する。殴られていた正午も立ち上がった。

「オレは殴られ損かよ。痛ぅぅ…」

「す、すまない。悪漢の仲間だと思ったもので…」

「たはーっ……オレは、りかりんのお尻さわらなかったのに…」

 バカなことを言っている正午を無視して鷹乃が父親を睨む。

「それで、どうして、お父さんが、ここにいるの?」

「それは……鷹乃を迎えに来たんだ」

「迎えに………?」

「ようやくアメリカでの仕事が落ちついて、鷹乃を迎えられる準備もしてある。私といっしょに帰ろう」

「……帰る? ………」

「長く一人にしておいて、すまなかった。これからは何不自由ない生活を…」

「今さらっ?! 今さら何よ?!」

「鷹乃……」

「10年以上もっ! さんざん放っておいて今さら帰る?! アメリカにっ?! ふざけたこと言わないで!」

「寿々奈さん、取り込んでいるところ、申し訳ないんだが…」

 再びトラブルが発生しているようなので翔太が鎮火にあたる。

「とりあえず寿々奈さんは休憩ってことで、そこに座って。ゆっくり話し合ったら、どうだい? 少なくともお父さんは君のことを心配して、ここまで来たんだから、さ。とにかく、落ちついて」

 つばめの父親に比べたら……きっと、和解の余地はあるさ、翔太はウエイトレスの鷹乃に休憩を与えて席を用意し、智也たちと座らせる。智也と鷹乃が並んで座り、鷹乃の父は正午の隣に案内されたが、正午が遠慮した。

「オレはカウンターに行くよ。家族の話みたいだし」

「悪いな、加賀」

「いいって。じゃ、りかりん、こっちの席いい?」

「はい、どうぞ」

 果凛と正午が離れ、翔太も忙しいので全体を統括する業務に戻る。三人は着席したものの何から話せばよいものか迷い、気を利かせた果凛が紅茶をもってきてくれるまで何も話さなかった。

「…ぃ…いつまでも黙っていても、仕方ない。鷹乃、今まで放っておいたことは、本当に、すまなかった」

「………」

 鷹乃は父親に頭を下げられて返答に窮する。少しは気分も落ちついたけれど、簡単に釈然とするものでもない。けれど、会えて嬉しいという気持ちも、まったく無いわけではない。母親は完全に今の鷹乃のことを忘れ、新しい鷹乃と家庭を築いている。それに比べれば父は鷹乃を鷹乃として迎えようと言ってくれてもいる。ただ、何を言っていいか、わからず、言葉が出ない。

「……………………」

「オレが口を出すことか、どうか……」

 黙っている鷹乃を見かねて智也が口を開いた。

「少なくとも、鷹乃は、あと五ヶ月で高校を卒業するわけですし。アメリカの学校制度は知らないけど、高卒資格が無いよりは有った方が………」

 そこまで言ったときに、鷹乃が智也の腕を握ったので、父は娘の真意を悟った。

「そうか………今さら、アメリカに来てくれ、というのは、私の都合だな……。君は……みか…み?」

「三上智也です」

「私、この人と住んでいるわ」

「そっ…そうか……、そこまで……。それで、あの店に居なかったわけか……。だが、……同棲までして責任は…、いや、私が責任を言うのも、なんだが……やはり、娘の将来が…」

「智也とは……」

 鷹乃は智也へ視線で問いかけ、智也も頷いたので、父へ告げる。

「このことは学校にも知らせていないから、大きな声を出さないでほしいのだけど……。智也とは……結婚しているわ」

「なっ?! ………………本当かね?」

「はい」

 智也も肯定した。

「…………………………なるほど、……私に報告が無かったことを問えるような立場ではないな………。鷹乃は、大学には行かないのか?」

「ええ」

「………三上くんは?」

「就職します。すでに内々定をもらった会社があるので」

「そうか。……………私は、娘の晴れ姿も見逃したわけ……か。……」

「それは……式は、まだ、よ。する予定も……今は…」

「届出だけです。式は、まだ。鷹乃が望むなら、就職して落ちついた時期に式を考えてみます。そのとき……」

 智也は鷹乃の意向を探るように表情を覗く。その意図がわかった鷹乃は父を見つめた。

「もしも、そのときは、お父さんには連絡するわ。だから、アメリカでの連絡先は教えてちょうだい。でも、私はアメリカには行かないわ」

「そうか。……わかった。そうだな。そうしよう。そのときは、今まで放っておいた分、挙式の費用などは、しっかり応援しよう。だから、……就職したばかりで貯金に困るようなら言ってくれ。……バカな親だと思われるかもしれないが、こうなると娘の晴れ姿が早くみたくなってしまった」

「……。ホント、バカな親ね……」

 そう言いつつも鷹乃も悪い気はしていない。三人の雰囲気がなごやかなものに変わった頃合いを見計らって、翔太が料理を運んできてくれる。何年も食卓をともにすることがなかった親子が昼食をともに食べて、連絡先の交換や、別々になってから今日までのいきさつ等を話し合っているうちに時間が過ぎ、そろそろ鷹乃はウエイトレスとしての業務に戻らなくてはと、自分のせいで休憩の取れていない翔太たちを慮ったとき、教室にクロエが入ってくるのに気づいた。

「「……」」

 鷹乃は智也が家庭教師をしているクロエの顔を知らなかったけれど、日本人離れした髪と瞳の色合いが目をひき、一瞬、詩音が来てくれたのかと思うほどだったので視線を注いでいた。クロエも鷹乃の視線を受け、さらに隣に座っている智也を見つけると、翔太が別の席へ案内してくれようとしているのを無視して、微笑みながら近づいてくる。

「Bonjour! 来ちゃった♪ 智也」

「っ?!」

 クロエの接近に声をかけられるまで気づいていなかった智也は飛び上がるほど驚いて振り返る。

「クっ……ロエ…………、………」

「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。ふふ♪」

 クロエは小悪魔然とした微笑みを浮かべ、鷹乃と智也を見て、聞いていた智也の恋人だと確信し、さらに鷹乃の父親を見て、鷹乃と似ているところから、実の父親だというところまで洞察した。硬直している智也に微笑みながら、困っている翔太に頼む。

「monsieur 彼は私の家庭教師なの。相席にさせてもらえないかしら?」

「え…ええ…」

 戸惑いつつも翔太は客の要望に応え、正午が座っていた場所を用意したけれど、クロエはイスを動かして智也の隣に座った。智也は左右を鷹乃とクロエに挟まれ、正面に義父をむかえて背中に汗が浮くのを感じた。

「…………………………」

 お……落ちつけ、……落ちつくんだ! オレ様、ピンチっ、大ピンチっ、どうする、どう対処する、とにかく無難に、自然に、穏便に、智也は水を飲もうとして動揺のあまりグラスを倒した。

「あっ…」

 冷たい水がズボンにかかった。

「何やってるのよ、智也。フキンを借りてくるわ」

「わっ、悪い。てっ、手が滑った」

 鷹乃は忙しそうなクラスメートに頼むことを憚り、勝手を知っているキッチンへフキンを取りに行く。クロエはハンカチを出して、智也のズボンを拭く。

「どうしたんですか? 顔色が悪いですよ♪」

「あ、…ああ…ちょっと、……寝不足で…」

「それは良くないですね。熱でもないといいですけど」

 クロエはズボンを拭いている手をそのままに、智也の額と自分の額を合わせる。

「熱は……ないみたいです。ちゅっ♪」

 額を合わせた後に、限りなく唇に近い頬へもキスをした。

「こういう西洋式の挨拶は、やっぱり彼女さんの前では遠慮しておきますね♪ ここは日本ですし」

「……………………」

 ……………………………あ……頭が……真っ白だ………ヤバイ! とにかく、ヤバイ、どうする?! どうする?! この場は逃げるか? いや、ダメだ、オレがいなくなった後、クロエが鷹乃に何を言うか、わかったものじゃない…………じゃあ、追い払うか……追い払えるわけない……それこそ逆効果だ、智也が硬直していると、鷹乃の父親がクロエに声をかける。

「お嬢さんはフランスの?」

 アメリカで現役ビジネスマンをやっているだけあって、わずかなフランス語から推測してクロエの素性をはかり、キスのことは見なかったことにしている。

「はい。といっても、ハーフですけれど」

「日本語がお上手ですね」

「ありがとうございます。日本での生活の方が長いですから♪」

「……。三上くんが家庭教師をしているのは、日本語を?」

「いいえ、全部です♪ 国語も数学も保健体育も、全部、私に教えてくださっています。ね? 智也」

 ことさら時間をかけて智也のズボンを拭いているクロエはフキンをもって鷹乃が戻ってくると、濡れた床を指した。

「すいません。ハンカチでは拭ききれなくて、そこをお願いしてもいいですか?」

「ええ。……それなら、雑巾をもってくるわ」

 鷹乃はフキンでテーブルを拭くと、雑巾をロッカーから出してくる。雑巾で床を拭き終わると、クラスメートたちの忙しさを見て、父親と智也に告げる。

「私、少し手伝ってくるわ。お父さんと智也、それにクロエさんは、ゆっくりしていってね」

「はいっ♪」

「可愛い生徒さんね、智也」

「ぃ…お、…ああ…」

 智也は意味不明な返事をしたけれど、鷹乃は皮肉ではなく本当にクロエを可愛いと思っている。逆に言われたクロエは子供として可愛いと言われたのだと悟り、敵愾心を激しくした。鷹乃がテーブルを離れると、クロエは腕を智也にからめて見上げる。

「高校の文化祭って、とても本格的なのですね。ずっと、準備に忙しいって言って私の家庭教師に来てくれないから、とっても淋しかったんですよ。でも、ちょっと納得です」

「あ…ああ…、…本格的だろ…、…だから、時間がかかってな…」

 なされるがまま穏便に話を合わせているだけの智也の腕にクロエの先月より少しは成長した乳房が押しあてられている。鷹乃がクロエの分の水とオシボリを持ってきて、さすがに皮肉を口にする。

「ずいぶん生徒さんになつかれてるのね。もしかして、クロエさんとも幼馴染み?」

「そっ、そんなわけ! 無いだろ!」

「なにを大きな声を出してるの?」

「い…いや…、はは♪ は♪ 幼馴染みは、ほら……あれだ……いや、…まあ…」

「「変な智也…」」

 鷹乃とクロエが異口同音する。鷹乃はクロエにメニューを渡した。

「注文が決まったら、呼んでね」

「はい」

 クロエはメニューを見ながら、甘えた声で智也に訊く。

「ねぇ、智也、この後、学校を案内してくれる?」

「お……オレは……実行委員だからな……い、いろいろ、忙しくて…」

「こうしてお茶してるのに?」

「や、やっと、休憩が取れたんだ。そ、そこに、たまたまクロエが来て…」

「そうなの? じゃあ、私、とっても運がいいんですね。運命が味方してくれてるみたい♪」

 クロエが確信犯的に甘えている様子を見て、鷹乃がテーブルへ戻ってきた。

「注文は決まったかしら?」

「ううん、もう少し。決まったらお呼びしますから、ウエイトレスさんは他の仕事をしていてください」

「そう、そうするわ。智也、ちょっと厨房でトラブルがあるの。実行委員の判断がほしいわ。来てちょうだい」

「…あ、ああ…」

 ……来た……そうだよな……来るよな……っていうか、鷹乃にしてはガマンした方だと思う、クロエが中学生だから、彩花や唯笑と違って、ちょっと反応が遅かったけど、そろそろ限界だよな、智也はクロエの腕から抜け出して厨房へ連行される。厨房を通り過ぎて廊下へ出ると、鷹乃は智也を睨んだ。

「あの子、いつも、ああなの?」

「…、い、…いや、…きょ、…今日は文化祭だからな。へ、変に、はしゃいでるんだろ?」

「ウソは信じられるようにつけ、あなたの格言ではなかったかしら?」

「…………。いつも、あんな感じ…で、……ちょっと苦労してる」

「でしょうね。智也は女の子の気持ちに、鈍くはないはずよね?」

「………」

「わかっているでしょうけど、あの子、智也のこと好きよ。単なる家庭教師としてじゃなく。中学生だからって子供だと思っていると、あとで困ったことになるわよ」

「………ああ…」

 今、困ったことになってるんだっ、ジャスト・ナウ! アイ・ハブ・プロブレム! ソー・メニー! ……とにかく、鷹乃の気持ちも考えないと……智也は鷹乃の肩を抱いた。

「悪い。イライラするよな。……この前、伊波のことでオレも思い知ったからさ」

「………。そーゆーことを言っているわけじゃないわ。いくら、私でも、あんな子供に嫉妬するはずないでしょ? 私が言ってるのは、あの子が可哀想だってことよ。私が恋人だってことを教えているのは、ギリギリ合格点といってもいいけれど、智也の曖昧な態度が変な希望をもたせているのよ? 家庭教師を辞めるとか、もっと、ちゃんと明確に伝えてあげなければ、ダメよ」

「……そ、…そうは言われても……、クロエは嘉神川食品の社長の娘で……オレは、そこに就職する予定だから…」

「それは………難しいわね。そーゆーこと……だったら、こうしましょう。私はストレートに嫉妬するわ。いつもみたいに嫉妬して、苛立って智也に迫ることにする。この子と私、どっちを選ぶのって。中学生相手に我ながら大人気なくて恥ずかしいけれど、そーゆー一芝居があれば、社長さんにも言い訳できるでしょ? これ以上、娘さんの家庭教師をしているとボクの彼女が何をするかわからないから、家庭教師は辞めて会社での仕事に戻してくださいって」

「……なるほど……」

 ……いや、その作戦が有効なのは、オレとクロエに肉体関係がないって前提が……ダメだ、この作戦だと最悪な結果に……なんとか、鷹乃にやめさせなければ……どう言って……、智也に考える時間は与えられず、クロエが廊下に出てきた。

「何を二人で、コソコソと話してるんですか?」

「あなたには関係ないことよ。智也は私と付き合っているのだから」

「………」

 クロエは急に剥き出しの敵意を浴びせられて鼻白むけれど、精一杯の虚勢を張って鷹乃を睨みつけた。

「関係なくはないですよ。だって、この後、智也は私に校内を案内してくれる約束をしてますから。ね、智也?」

「そんな約束は……」

「この子、何か勘違いしてるわ。自分が可愛いとでも…、…おもって…いる…の?」

 鷹乃は廊下に父親まで出てきたので、急に恥ずかしくなって語尾を弱めた。これから、嫉妬の激しい短気で疑り深い女を演じるのに、実の父親の視線があるのは苦しい。けれども、やめるわけにもいかず、クロエの方は完全に頭に血が昇ってきている。

「ずいぶんと失礼なことを言う人ですね。こんな人が智也の彼女だなんて智也が可哀想」

「余計なお節介はやめてくれないかしら? ひょっとして、あなた智也のこと、好きなの?」

「っ…、だ、だったら、どうだっていうんですかっ?!」

「可哀想ね。好きになった人に、すでに彼女がいたなんて、とっても可哀想よ」

「…っ…っ…っ…」

 クロエが顔を真っ赤にして両手を握って、ブルブルと震えた。鷹乃は心配そうな父親の視線が心苦しくて悲しい。

「……」

 これじゃ……私、……お母さんと同じじゃない………仕事ばかりのお父さんを疑って……家庭に不協和音を………あの人と同じ……でも、今は、この子が傷つかないためには、この方法しか……ないのよ……鷹乃は智也の右腕を抱いた。

「智也、こんな子は放っておいて、どこかへ行きましょ」

「ぁ……い……いや、でも……鷹乃はウエイトレスの……、オレも実行委員の仕事が…」

「そんなの、どうでもいいわよ」

「智也は私の案内をする約束ですっ!」

「智也は、そんな約束してないって言ってるわ。勝手なこと言わないでちょうだい!」

 なんて……恥ずかしいの………高校三年生にもなって、こんな子を相手に廊下で痴話ゲンカして………花祭さんが睨んでる………こんな子にバカな嫉妬をしてる女だって、また軽蔑されてるわ………でも、仕方ないのよ、こうするしか……鷹乃は羞恥心で顔を真っ赤にした。

「私の案内をしないなら、父さんに家庭教師としての仕事ぶりっ、言いつけるから!」

 クロエは言外にロストバージンのことを漂わせた。それは智也には伝わり、その虚をついてクロエは智也の左腕に抱きつく。

「早く案内しなさい!!」

「…しゃ……社長に……、そ、それは困るなァ……た、鷹乃、悪いけど、ちょっと…」

「イヤよ!」

「アルバイトの邪魔をするの?! 子供みたいな人っ!」

「あなたこそ父親の権威を借りなければ何もできないなんて小学生みたい!」

「っ! わっ、私はっ………」

 クロエが涙を滲ませて鷹乃を睨む。その様子で鷹乃はクロエにとって親のことが禁句だということに気づいたので、この方面の発言は控えることにする。

「智也も智也よ! 家庭教師の時間とプライベートの時間は分けてよ!」

「…わ…悪い…、……オレ……そろそろ……実行委員の時間が…」

「私の案内が先ですっ!」

「あなたは黙ってなさい!」

「あなたこそっ!」

 とうとう右と左に智也を引っ張り合うという戦史以来、何度となく繰り返されてきた典型的な陣形になったので他の生徒たちは楽しそうに見ている。クロエは周囲の視線が認識できないほど興奮しているけれど、鷹乃は恥ずかしくて顔から火が出そうで、その赤面が他人には嫉妬の炎にも見える。

「智也から手を離しなさい!」

「あなたこそ離しなさい! unnnn!!」

 クロエは本気で引っぱっているけれど、鷹乃は本気を出すと体格でも膂力でも上回っている分、簡単に勝ってしまうので、手加減して拮抗させつつ、最後の段階に入る。

「智也っ! 私とこの子、どっちを選ぶのっ?!」

「……鷹乃………クロエ、……ちょっと……冷静に、さ…」

「三上くん」

 鷹乃の父親が見かねて口を出してきた。

「こうなってしまった以上、男として結論を出すべきじゃないかね」

「…………………………そう……ですね」

 引導を渡せってか………鷹乃も……お義父さんも……クロエとのこと……知らないからな………そうなるよな……………クロエ………………………クロエのオヤジさんも、鷹乃のオヤジさんも……仕事か、女か、その二択で仕事をとった……その結果が……この二人だろ…………オレが、選ぶのは………クロエを壊すことに……なる道………けど、オレは知ってる、嫉妬ってのが、どんだけムカつくか、イライラするか、本気で鷹乃を殴りそうになるくらい、許せない感情だってことを知ってしまったから、だから、鷹乃はオレがクロエを抱いたってことを知ったら、鷹乃も壊れる………………………鷹乃を壊すか、クロエを壊すか、その二択だったら、オレは選ぶまでもなく答えは決まってる、そのくせ、クロエを壊してしまう残酷さに耐えられるか……いや、逃げているだけだ、耐えられる、きっと、耐えることはできる、ただ、最低に後味が悪い結果になるってだけだ、一夜の過ちが……この結果だ……オレが招いて、オレがクロエを壊す、そーゆーことだな………、智也は決断した。

「二人とも手を離してくれ」

「「……………………」」

 鷹乃とクロエが引っ張り合っていた手を離した。

「オレが……選ぶのは…」

「「…………………………………………」」

「オレが選ぶのは……」

 ゆっくりと智也は鷹乃を抱いたが、その耳元に小声で早口に囁く。

「鷹乃は社長が納得するって言ったが無理だ。たぶん、オレの就職はない」

「ぇ…?」

「落ちついて聞いてくれ。返事はしなくていい。クロエは思い込みが激しいだけじゃすまない子だ。こうやってオレが鷹乃を目の前で選んだ以上、社長にあることないこと、ぶちまける。セクハラされたとか、抱かれたとか、とにかく有ること無いこと」

「……そんな…」

「本当に可哀想な子なんだ。社長は仕事ばっかで娘を放置して、オレに任せてるし、オレに任せる前は完全放置だったし、母親なんか7歳の頃に出て行ったきり、手紙一通なしって家庭で育ったんだ。自分にかまってほしくて有ること無いことウソつくくらい普通にやるさ。しかも、そのウソを自分では真実だと思ってしまうんだ。いつか、オレが鷹乃を捨てて自分を選ぶ、なんて妄想がクロエの中では希望的観測を超えた確実に約束された未来として頭に入ってる。そんな子なんだ」

 智也は言い終わると、鷹乃を離して振り返りクロエを見つめた。

「…っ…っ…っ…」

 クロエは真っ青な顔をして震えている。失恋に傷ついた少女の瞳だった。

「…っ…どうして? …っ…どうしてなの?」

「どうしても、こうしても、オレは鷹乃が好きだし、クロエのことは何とも思ってないからだ」

「っ…、ひ…ひどい…」

「ちょっと、智也、もう少しマシな言い方…」

「鷹乃、今さら同情するな。白黒はっきりって言ったのはお前だし、そうしないとダメなんだ」

「でも…」

「クロエ、もう帰ってくれ。正直、迷惑だ」

「っ…、…ひどい…っ…、……私に……そんなこと……言うの?」

「二度も言わせないでくれ」

「……。……っ…、私に、……そんなこと……言って……いいの?」

 クロエの目が狂気じみた脅迫者の目になった。碧海色の瞳が暗い海の色になる。

「ねぇ、智也、私に……そんなこと……言って、いいの?」

「撤回はしない」

「………。本当に……いいの? あの夜のこと、私も言うわよ?」

「あの夜? 何のことだ?」

 智也は完全にとぼけてみせた。クロエが吠える。

「私を抱いたでしょっ!!」

「は?」

「あの夜! 私を抱いて! 私のヴァージンを奪ったのは誰っ?!」

「誰なんだ、それは?」

「あなたよ! 智也っ!!」

「ない」

「え?」

「そんな覚えはない」

「……、ふっ、ふざけないで!! 私を抱いたことっ! 覚えてないなんて言わせない!」

「だから、覚えてない」

「………」

「まったく身に覚えがない」

「ウソっ!!」

「いい加減にしてくれ」

「………」

「そーゆー妄想とか、もう、うんざりなんだ。時給がいいから付き合ってきたけど、もう限界だ。クロエちゃん、どっか病院に行った方がいい。もう君の妄想には付き合いきれない」

「……なに、それ? ……トボけて、やり過ごそうってわけ? ……卑怯者っ!!」

「卑怯者でもいいからさ、もう帰ってくれ」

「っ…………、…………してるわ」

「は?」

「私、妊娠してるわ! あなたの子供よ!!」

「ふーん、じゃあ、産めよ」

「っ……」

「産んでDNA鑑定でオレの子供だったら、責任とるからさ。でも、ぜんぜん、どこの馬の骨ともわからない男のDNAじゃダメだからな」

 女の専売特許な、このウソには鷹乃のおかげで免疫ができてるんだ、それに、クロエは月経きてるだろ、チェックしたからな、智也は鷹乃と同棲するようになってから、自宅のトイレの汚物入れが交換されるようになったこと、トイレの隅に智也は使わない生理用品が詰められたドルピィ君のポーチが置かれるようになったことで、保健体育で習ったことが実際に少女たちに起こっていることを実感していた。今まで母親とは別居で、彩花や唯笑は三上家のトイレを借りることがあっても、乙女のプライドから三上家に使用済みナプキンを捨てたりしなかったけれど、同棲している鷹乃は汚物入れを使っている。そして、家庭教師として嘉神川家のトイレを借りることもあった智也は母親不在の家でクロエしか汚物入れを使わないことを知っていたし、鷹乃の狂言妊娠で懲りていたこともあり、しっかりとチェックしていた。そのおかげでクロエのウソには一瞬の動揺もみせず、二人の間に妊娠しそうなことなど一度もなかったという態度を貫いた。

「っていうかさ。つわりは? 吐かないのか?」

「…っ……っ……」

 クロエも自分が妊娠していないことは熟知している。トボける智也の動揺を誘おうと、勢いでついたウソを看破され、どうしていいか、わからなくなってくる。

「ウソばっかりだな。君は」

「っ…ち、……違う! に、妊娠はしてないけど! 智也、私のこと抱いてくれたもん!」

「わかった。それでいい。いい夜だった」

「ウソじゃないもん!!」

「そうだな。クロエは可愛かった。いい想い出をありがとう。でも、悪いけど鷹乃を選ぶよ。じゃ、そーゆーことで」

 もう智也とクロエ以外の誰も二人の間に性行為があったとは信じないので、あえて智也は否定せず、クロエも周囲からの視線で信じてもらえないことを悟った。痛々しい虚言癖のある女子中学生が高校の文化祭に乱入して狂気の一幕を披露していると悼まれている。

「…っ…、…卑怯者っ!!」

「そうだな」

「卑怯者っ!! 卑怯者っ!!」

「嫌ってくれていい。というか、嫌ってくれ」

「っ……、………罠よ! これは罠!! 智也が私を陥れるために仕組んだ罠よ!!」

「計画通り、とでも言えばいいか?」

「罠なのよっ!! 私が妊娠してないことをチェックして確信してる!! それが罠だという証拠!! 私をおとしめるために智也が考えた罠よ!! 罠なのよっ!!」

「誰か、救急車を呼んでくれ。いや、病院が来い。オレも受診する。頭が痛くなってきた」

「……………………」

 どう言っても智也が認めないことを悟り、クロエは絶叫をやめ、うなだれて諦めかけたけれど、タイミング悪く家庭科室での洗い物を健が運び込みにきて、その洗い桶に刃物があるのを見つけ、クロエが動いた。洗い桶から包丁を奪い、智也へ向ける。

「……認めない…なら……」

「くっ…伊波、余計な物を…」

 智也は想定内で最悪の事態に至り、クロエの目を見つめる。

「クロエ………」

「……智也が……認めないなら……」

「………………………。わかった。認める。……確かに、オレは君を抱いた」

「………………………」

 違う……こんなことじゃダメ………でも、他に、どんな方法が……クロエは完全に拒絶している異性を自分のものにする方法を考えるけれど、このまま刃物で脅して24時間監禁する以外に、いい方法が浮かばない。今、智也が認めた初夜のことも、もう、ウソとしか誰も思わない。それに、認めてほしいのは初夜のことではなく、クロエそのものを認めてほしいのに、智也は否定している。

「クロエ………それを離してくれ」

 智也は油断無く身構える。もしも、クロエが激昂して自分や鷹乃の刺殺を試みてくるなら、包丁ごと手首を蹴れば、どちらも大きなケガはしないはずと、腰を落として構えつつ、説得する。

「クロエ、今なら、まだ事件には…」

「今なら? ………ふふ……今さら…」

 今さら………もう……何もない……智也を脅しても………智也を殺しても………もう、私には、何もない………どうせ………父も母も私なんか…………クロエは智也へ向けていた刃を自分の喉元へ向けた。

「よせっ!」

「やめなさいっ!」

 鷹乃が智也の前に出た。

「来ないでっ!!」

「死ぬつもり?」

「どうせ、私には、もう何もないものっ!」

「そう。そうでしょうね」

「っ!」

 クロエが自分に向けていた刃を鷹乃へ翻した。鷹乃は身構えずに一歩、クロエに近づく。

「来ないでっ!!」

「私にも、何もなかったわ」

「……」

「母は私を捨てて、別の男と結婚して子供を作ってる。ご丁寧に私と同じ名前をつけて、失敗作だった家庭を作り直してる。私のことは、すっかり忘れてね」

「………」

「そこにいる父も、今日、10年ぶりに会ったのよ。ある日、私と母を捨てて、アメリカに行ったっきり、ようやく10年して様子を見に来たって。ずっと心配してた、そうよ。勝手なこと言ってくれるわ」

「…………だから、どうだって、いうのよ」

「半年前まで、私には何もなかった。でも、今は智也がいて父も戻ってきた」

「……自慢したいの?」

「いいえ、あなたも待つべきだと言っているの。世の中、つらいことばかりじゃないわ。待てば、いいことがあるかもしれない。あるって保証は何一つないけれど、死んでしまえば、あるはずのことも無くなるわ。つらいことも無くなってくれるけれど、何も無くなる。自分さえも。今、あなたの周りに、誰もいなくても、でも、あなたがいる。自分が自分を見失ってしまったら、もう、誰も、あなたを見なくなるわ。それでもいいの? 悔しくないの? 産まれてきたのに、産まれてこなかったことにして、いいの? よく考えなさい」

「………私は……私はっ!」

「よく考えなさい」

 鷹乃はクロエに近づき、そっと抱きしめた。

「…私はっ……」

 クロエの手から刃物が滑り落ち、幼い泣き声だけが廊下に響いた。

 

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