日本で後夜祭が始まる頃、7時間の時差があるウイーンで、ほたるは寮の食堂へランチを食べに来て、友人になったリンダにドイツ語で注意される。
「フロイライン・ほたる、また裸。せめて、前くらい隠そうよ」
「あっ、ごめん」
ほたるは楽譜を見ながら部屋を出てきて、全裸だった。課題曲の楽譜で前を隠して、笑って誤魔化す。
「つい、そのまま出てきちゃった♪」
「あのね、前にも言ったけど、ヌーディストはヨーロッパのスタンダードじゃないからね。むしろ、ごく一部の人だから。敷地内なら逮捕されないけど、そのまま公道を歩くと罰金300ユーロよ」
「300ユーロは、きついね」
ほたるは導入されてから、どんどん上昇しているEU圏の共通通貨での罰金をおそれ、大学から出るときは服を着ようと思いつつ、今は女子寮なのでランチプレートを持った。
「う~……どれもこれも、カロリー高そう……」
あまり美味しくないのに高カロリーな料理を見つめ、ソーセージとパン、トマトのサラダを選ぶと着席する。
「お寿司食べたいなぁ……」
「日本人って、みんな生の魚を食べるの?」
「う~ん、みんなじゃないけど、ほとんど、みんな食べるよ。90%くらいかな。うん、ヌーディストより多い」
「日本はヌーディスト、多いの? たしか、コンヨクって言って男も女も同じ公衆浴場に入るんだよね?」
「え~っと、……混浴は多くないよ。たいていの温泉は男女別でぇ……混浴は珍しい方だよ。あ♪」
ほたるが、ほたる的ギャグを思いついて、パンを半分に裂いてトマトを入れ込み、そこへソーセージを挿入する。
「ほらほら♪」
「……」
「ロスト・バージン・パン♪」
ソーセージを挿入されたパンの裂け目からトマトの赤い汁が滴り落ち、リンダはタメ息をついた。
「フロイライン・ほたるはモーツァルトと、いい友達になれたでしょうね。ううん、友達どころか、彼女に」
「ほたるはベートーベンの方が好きかな」
「ベートーベンは、こんな子が月光を校内一うまく弾いたと知ったら、聴こえなかったことにするよ。聴覚不良で」
「ほたるのお姉ちゃんの友達は、いろんなパンを作って高校で売ってるんだよ」
「その高校の生徒に、神の救いがありますように。アーメン」
リンダが食事を終えて席を立とうとすると、警察官が食堂に入ってきた。警察官は黒髪が目立つので一目で日本人を探し当て、ほたるへ真っ直ぐ歩いてくる。
「ほたる……ヤバそう。あんた、そのカッコで街を歩いたりしたんじゃない?」
「ほぇ? たぶん、してないよ。なんで?」
「警官が来てる。っていうか、後ろ」
リンダに指されて、ほたるが振り返ると警察官が立っていた。
「オーストリア国境警察です。フロイライン・ほたる白河ですか?」
「は…はい…」
ほたるは相手が男性だったので、さすがに楽譜で胸と股間を隠した。
「フロイライン、あなたの主義に反するかもしれませんが、服を着て表通りのパトカーまで来てくれますか?」
「……私、何か、しましたか?」
「いえ、会ってほしい人がいるだけです。黒須カナタという人物を知っていますか?」
「え? カナタちゃん? 知ってますけど……」
「では、外へ、お願いします」
「はい…、えっと、服を…」
ほたるが戸惑っていると、リンダが気づかってカーディガンを貸してくれる。ほたるはカーディガンを羽織ってボタンを留めた。
「これで、いいですか?」
「……、はい。今は……、今後、人通りの多いところでは、その姿も、やめてください。オーストリア共和国の法律に抵触する恐れがあります。では、こちらへ」
警察官は女子寮を出て、表通りに止めてあるパトカーへ案内してくれる。パトカーは日本の白と黒ではなく、緑と白の配色で、ほたるは教えられて初めて、これがパトカーだったのだと知った。
「フロイライン、後部席に乗っている人物に見覚えはありますか? 拙い英語で、あなたの友達だと言っています」
「ぇ……」
カナタちゃんは英語で詩の創作ができるくらい英会話は得意なはず……、ほたるは訝しく思いつつもパトカーを覗く。後部席には汚れた浜咲学園の制服を着た少女が一人、ケータイ電話をいじっている。
「あの人は黒須カナタですか?」
「………はい……そー思います……。あのっ! カナタちゃん、何かしたんですかっ?! 血を流してる!」
ほたるはカナタとは思えないほど虚ろな顔をして血まみれの服を着ている姿を心配して警察官に問いかけた。
「いえ、彼女は何もしていません。パスポートも正式のもので、入国されようとしただけですが、あのような姿をされ、我々の質問にも不明瞭な答えしか返してくれませんでしたので、保護しています。彼女は、あなたを訪ねてきたと言っていますが、身元引受は可能ですか?」
「はいっ! すぐにっ! 話をさせてください!」
ほたるは警察官の返事を待たずにドアを開けようとしたが、さすがにパトカーらしく鍵がかかっている。
「フロイライン、ここにサインを」
「はいっ」
ほたるは走り書きで警察官が出してきた書類に署名する。それで、警察官はドアを開けてくれた。
「カナタちゃん?! どうしたの?!」
「……あ……ほたる……、……やっと……会えた……」
ケータイ電話から顔を上げたカナタは乾いた血で汚れた顔を少しだけ笑顔にする。
「カナタちゃん、どうしたの? どうして?」
「………ほたるに……会いたかったから…」
「我々は、これで。これが、彼女の所持品です」
警察官はパスポートとクレジットカードを渡してくれる。
「これだけ……ですか?」
「はい」
「…………カナタちゃん…」
ほたるは汚れた制服とパスポートとカードしか持たずにウイーンまで来たカナタを、どう扱っていいか困るけれど、警察官は事件性はないと判断して帰ってしまう。
「カナタちゃん………この血……どうしたの? ケガしたの?」
「っ…………ぅっ………ぅぅ…ぅっ」
カナタが傷の痛みを思い出したように啜り泣きはじめたので、ほたるはますます困ってしまう。
「とっ、とにかく、ほたるの部屋に来て」
ほたるは寮の部屋へカナタをあげ、何日も着替えていない様子のカナタへ自分の下着と衣服を貸した。汚れた身体を拭いて、暖めたミルクを飲ませると、少しだけ落ちついてくれる。
「……ほたるに………会えた♪ ………ほたるに……」
「………………………」
おかしい……絶対に、変………カナタちゃんの目、ぜんぜん現実を見てない……これじゃ警察官だって怪しいと思うよ………、ほたるは心配で胸が痛くなってくる。そして、痛くなった自分の胸に訊いてみる。
「…………」
カナタちゃんが、こうなった原因………………ほたるにあるよね………だから、ここに来たんだよね………きっと、ほたると正午くんのこと………ほたるの口から訊くために………でも、ほたると正午くんのこと知ってるのは、私と正午くん……そして、いのりちゃんだけのはず……正午くんが、うっかり喋ったか……いのりちゃんが……、ほたるはカナタに気づかれないようメールを打つ。気づくどころか、カナタはミルクの入ったマグカップに話しかけている。ほたるは正午へメールを打つ。
(ほたるとのこと、カナタちゃんに教えた? それとも、知られちゃった?)
送信して、しばらく待たされるのが正午の反応が遅いからなのか、ウイーンから神奈川という距離によるシステム上の都合なのか、わからないけれど、五分ほどで返信が来た。
(教えてはない。っていうか、あいつ、学校でも見かけないよ)
「…………」
そりゃ見かけないよね、ここにいるもん、ほたるは再びメールを打ち、いのりと連絡を取る。
(ちょっと、ごめんね。カナタちゃんのことで相談したいんだけど、いいかな?)
送信して五分、返事が来る。
(ほたるさんの頼みでも、それはお断りします。考えるだけで吐き気がします。私は関わりたくありません。加賀先輩とのことには、ほたるさんに責任があるんじゃないですか。ごめんなさい、言い過ぎかもしれませんけど、でも、そう思います)
「…………………………………………」
そっか……そうだよね、ほたるに責任があるよね……それに、いのりちゃんはカナタちゃんのこと、ほたるに相談して電話してきてくれたのに、先に断ったのは、ほたるだもんね、カナタちゃんを裏切って正午くんと付き合ったくせに、そのフォローを、いのりちゃんに押しつけて………怒って当然………でも……吐き気って……、ほたるは思い起こしてみる。日本にいた頃、カナタは何度も、ほたるへキスを迫ってきたことがある。耳や頬にはキスをされたことは数え切れない。正直、困ってしまうほど抱きつかれたり見つめられたりした。巴や他の女友達とは明らかに異質の感情を、ほたるに向けてきていた。
「…………………………」
「……会えた♪ ……ほたるに……会えた……」
「……………」
正午くんとのことを教えたのは……いのりちゃん………かも………いのりちゃんは、ほたるの身代わりに………それに耐えられなくて………カナタちゃんがショックを受けるのを承知で………、ほたるは事態の推移を推し量り、ますます胸を痛めた。
「ねぇ、カナタちゃん?」
「……ん?」
「ほたるのこと、好き?」
「好きっ♪」
「じゃあ、正午くんのこと、好き?」
「っ………っ…ぅ…ぅっ…ううっ…」
何かを思い出したように泣いてしまい、不安そうに瞳を揺らせて身震いしている。ほたるは優しく震えている肩を抱いた。
「カナタちゃん、聞きにきたの?」
「…っ…ぅぅ…ぅぅっ…」
「ほたるが正午くんと付き合ってること、ほたるに確かめに来た。違う?」
「……」
カナタは身を縮めて両耳を手で塞いだ。聞きにきたのに怖くて聞けない様子に、ほたるは覚悟を決める。
「………………」
カナタちゃんは、ほたるのことも、正午くんのことも好きなんだよね、それも、ほたるがトトちゃんを好きって気持ちとは、まったく違う、ほたるが健ちゃんを好きだったような気持ちで好き、なのに、正午くんが別れて、ほたると付き合ったら、カナタちゃんの心は壊れちゃうよね、こんな風に……………………健ちゃんが、ほたると別れて、トトちゃんと付き合ったことの痛さより、きっと、ずっと、ずっと痛い、ずっと、ずっと痛いから、こんな風に……………………全部、ほたるの責任………、こうなったことの責任は、いのりちゃんの言うとおり、ほたるの責任だよ………だから、ほたるは自分の責任から逃げないよ………、ほたるはカナタを正面から見つめた。
「カナタちゃん」
「…ぅっ?」
「ほたるもカナタちゃんが好き。大好き」
ほたるはカーディガンを脱いで全裸になり、カナタをベッドへ押し倒した。
「カナタちゃんが大好き」
こうして癒してあげないと、壊れたカナタちゃんの気持ちは治らない……ごめんね、カナタちゃん、いのりちゃん、ほたるのせいで、こんな風になって……ごめん……、ほたるは押し倒したカナタを抱きしめてキスをした。
同じ頃、エリーズは7年ぶりに帰ってきた嘉神川家の玄関を開ける。何度か、チャイムを鳴らしたけれど、誰も出てこなかったので、ずっと持っていた鍵で開ける。
「ぉ…お母さん、勝手に入っていいの?」
連れてきたノエルが心配そうに問いかけてくるのに、微笑みを返した。
「自分の家なんだから大丈夫よ」
エリーズは玄関を通り、キッチンに入った。
「ほとんど、何も変わってないわね。ま、その方がやりやすいけど。ノエル、手伝ってちょうだい」
「うんっ♪」
ノエルとエリーズは買い込んできた材料で料理を始めた。
「お父さんとお姉ちゃんに早く会いたいなぁ」
「どうせ、今夜も仕事でしょうから、サプライズしようと思っても夜中の正午になるかもしれないわ」
幸蔵さんが相手してくれないなら、正午ちゃんに会いに行ってもいいんだけど♪ エリーズは得意料理を作りながら、電話機を持った。
「クロエは黙っていても帰ってくるでしょうけど、お父さんには連絡しておくわ。ノエル、お父さんと話してみる?」
「うんっ♪」
「じゃあ、はい」
エリーズは社長室直通の登録番号を押して子機をノエルに渡した。すぐに幸蔵が電話に出る。
「もしもし、パパっ!」
(クロエ、どうしたんだ?)
「ううん、お姉ちゃんじゃないよ。ノエルだよ」
(ノエルか♪ ……いや、しかし、この番号は……自宅の…)
「えへへ♪ ただいま。この家は初めてだけど……ただいま、で、いいのかな?」
(ノエル……まさか、一人で…)
「ううん、ママも、いっしょ」
ノエルがエリーズへ子機を渡す。
「ちょっと気が向いたから帰ってきたの。とりあえず、夕食は作ってあげるわ。冷めないうちに帰ってきたら、しばらく日本に滞在してもいいわ」
(ぃ、いや…しかし、今日は接待が2件も……いきなり今日の今で…)
「あらそう。じゃあ、冷めた料理をクロエと二人で食べるといいわ」
(わっ! わかった! 帰る! すぐ帰る!)
電話を切った幸蔵は言葉通り、会社から15分で帰ってきた。ノエルが歓声をあげて抱きついた。
「パパっ!」
「ノエルっ! おおっ、ノエルっ!」
「会いたかったっ! パパぁ♪」
「ああ、会いたかった。やっと、会えたな。ノエルっ、ノエルぅっ…ぅぅ…っ」
「パパ…泣いてるの? パパが泣いたら……ノエルも……嬉しくて…ぅっ…ぅぅ…」
産まれてから7年、電話でしか、お互いを確認し合えなかった父と娘が強く抱き合い、初対面の喜びにひたっている。
「パパっ…パパぁ…」
「ノエルっ…ノエルぅ…」
幸蔵はフランス育ちのノエルからのキスを受け、今まで仕事を優先してストラスブールへ出向くことをしなかった自分を深く悔いた。
「もっと、もっと早くに、行けばよかった……すまない、ノエルっ…」
「いいの。ちゃんと、パパに会えたから、もう、いいの」
「ノエルぅ…」
「クロエは、まだなの?」
エリーズが問うと、幸蔵はノエルを抱きあげて答える。
「部屋に、いないか?」
「そーゆー気配はなかったけど…」
「お前、日本語の発音が変わったな。そーゆー、ではなく、そういう、だ」
「お前っていう日本語、嫌いよ。ノエル、やっぱり帰りましょう。フランスに」
エリーズが父親に抱かれているノエルを抱き取ろうとすると、娘は必死に父のシャツにしがみついた。
「やだっ! やだやだやだ! パパと暮らすのっ! ここに住むの!! わーーんっ!」
「冗談なのに、大きな声で泣かないの」
「お前が…ぃ…いや、…エリーズが、泣くようなことを…」
幸蔵は愛おしくノエルの頭を撫で、頬ずりする。
「パパぁ…」
「ノエルぅ…」
「それで、クロエは?」
「部屋を見にいこう」
幸蔵はノエルを抱いたまま階段をあがる。幸蔵が部屋のドアをノックする。
「クロエ、いるのか?」
「「………」」
エリーズとノエルは少し緊張したけれど、返事がない。
「クロエ、開けるぞ」
「………。いない、みたいね」
「お姉ちゃん、どこぉ?」
ノエルが産まれてから一度も言葉さえ交わしたことのない姉に会いたくてキョロキョロと部屋の中を探すけれど、誰もいない。部屋は珍しく散らかっていて、衣類がベッドに何着も並べられ、鏡台には化粧道具が出たままだった。
「クロエ……出かけてるのか…」
「これはデートね。絶対」
「わかるのか?」
「そんなこともわからないから、男親はダメなのよ。どう見てもデート、しかも、攻めの気分で出かけてるわ。けっこう背は伸びたのね。この服なんか、大人でも…」
エリーズは娘のファッションセンスをチェックする。
「趣味は悪くないわ。でも、香水が、ちょっと強すぎる香りの…」
「おい、勝手に触るとクロエは、ものすごく怒るんだから…」
「お姉ちゃん、いつ帰ってくるのぉ?」
「少し遅いな。だが♪ こんなこともあろうかと携帯電話をもたせてある」
幸蔵が電話しようとすると、エリーズが止める。
「待って」
「ん?」
「あなたは電話しないと夜中まで帰ってこないから伝えたけれど、クロエにはサプライズにしたいのよ」
「ああ、なるほど。それでキッチンで、いろいろと」
「そうよ。あなたも手伝って」
「わかった。食品会社の社長として、腕をふるおう♪」
「ノエルも手伝うぅ♪」
親子三人で夕食の用意をすると、テーブルいっぱいの料理ができあがった。エリーズがホールケーキを飾りつけながら時計を見る。
「ケーキも間に合って、よかったわ」
「ああ。……だが、少し、遅いな。デートなら……」
幸蔵が心配そうに時計を見る。
「やはり、電話をしてみた方がよくないか?」
「そうね。でも……私たちが帰ってることを知ったら、あの子、余計に、二の足を踏まないかしら…」
エリーズは7年間、会っていない、言葉も交わしていない、14歳の娘との対面に緊張している。
「あの子だって変に覚悟しているより、いきなり私たち三人で明るく出迎える方が……」
「そうだな……、この頃、気難しいからな…」
「デートの相手に心当たりは?」
「……三上……いや、彼は別に付き合っている相手がいるとか…」
「娘の交際相手くらい知っておくべきよ」
「そうは言っても……会話が……、あっ、たしか、今日は三上くんの高校の学園祭、それかもしれないな。ワシだって、ちゃんと少しは会話してるんだぞ」
「不確かな情報ね」
「今回から嘉神川食品としても広告をかねた寄付をして…おっ」
幸蔵は玄関にクルマが駐まる音を聞きつけた。
「お姉ちゃんかなっ?!」
ノエルが玄関へ走っていく。玄関のドアを幸蔵が開けると、クロエがタクシーから降りてくるところだった。
「お姉ちゃん!」
「………」
クロエは呼びかけられても、お姉ちゃん、という二人称に親しみがないので自分のことだとは思わず、タクシー代を払うと静かに降りてくる。その顔は泣きつくした後の疲れきった表情だった。幸蔵が心配して声をかける。
「クロエ、おかえり。何か、あったのか?」
「……何も…、……この子、どこの子?」
クロエは足元で、お姉ちゃん♪ お姉ちゃん♪ と、はしゃいでいるノエルを不思議そうに見る。
「お姉ちゃん♪」
「……ごめんね、お姉ちゃん、疲れてるから。遊んであげられないわ」
「……お姉ちゃん……」
ノエルは本当に疲れた様子の姉を心配しつつ、姉から肉親ではなく他人として扱われた悲しさを声に滲ませた。幸蔵はノエルを抱きあげ、クロエに告げる。
「この子は、クロエの妹だ」
「そう。…………いも…うと? ………soeur?」
「ああ、スールなんだ。ワシから見れば、フィーユ。みんなでファミーユなんだ」
「……fille……娘……famille…家族………ああ、そう………そうなの。とうとう再婚するのね。勝手にすればいいわ」
「ちっ、違う! クロエ、そうじゃない!」
幸蔵は状況を勘違いしているクロエに説明しようとするが、疲れた様子で靴を脱ぐとキッチンへ入っていく。クロエとエリーズが7年ぶりに対面した。
「………………………」
「………、ただいま、クロエ……」
「……………………」
クロエは母親の顔を見つめ、記憶と照合する作業に30秒以上かかってしまうほど、脳が働いてくれない。エリーズも今のノエルと同じ時期に別れた娘が、立派な14歳のレディに成長してくれている姿に感動して言葉が出てこない。ノエルを抱いた幸蔵が微笑んだ。
「帰ってきてくれたんだぞ。母さん」
「……お母さん……maman……」
「クロエ、まだ、フランス語を覚えていてくれたの」
「……………………」
反応の乏しいクロエの背中を幸蔵が押した。
「さあ、座って。みんなで夕食にしよう」
「そうね。ノエル、お姉ちゃんにグラスをあげなさい」
「はーい♪」
ノエルがシャンパングラスを渡してくれ、エリーズが子供用のシャンパンを二人に注ぎ、夫婦もグラスを持ってドンペリを注ぎ合い、7年ぶりの晩餐を祝う。
「「乾杯」」
「かんぱーい♪」
「……」
クロエはグラスを鳴らしてくるノエルを見下ろして、何も言わない。
「………」
「お姉ちゃん?」
「……………………」
「さあ、クロエ、食べよう。ママンの味を覚えてるか? エリーズの料理は美味いんだぞ」
「今まで、ごめんなさい、クロエ。食べて…くれる…かしら?」
エリーズが料理を取り分けてくれる。クロエは受け取った皿を見つめ、大嫌いになった色々な野菜たちを数える。パプリカ、ピーマン、ナス、セロリ、白アスパラ、ムラサキキャベツ、どれもこれも、嫌いなものばかりでフォークを持つ気になれない。
「……………………」
あれも……これも……嫌い……大嫌い……だって、私は、このテーブルいっぱいの料理がきっかけで、全部、嫌いになったんだもの……、クロエは嫌いになった料理を、それでも口に運んだ。隣ではノエルが幸せそうに頬ばっているから、そうしないといけないのだという気がして、大嫌いになった料理を味を感じないように喉を通して飲み下していく。その様子に三人が心配してくる。
「クロエ、どこか、痛むのか?」
「クロエ、顔色が悪いわ」
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「………………ねぇ」
クロエはノエルを指して、母に訊く。
「コレは、何?」
「………クロエの妹よ。コレ、という代名詞をあてるのは正しい日本語ではないわ」
「……………………。誰との子供?」
「クロエ………食事中に、そーゆーことは……」
「誰との子供っ?!」
クロエが叫び、エリーズが説明する。
「幸蔵さんとに決まっているでしょ。7歳になるわ」
「………………」
クロエは幸蔵に視線を巡らせる。幸蔵は頷いて肯定した。
「ノエルは正真正銘、二人の子供で、クロエの妹なんだ」
「………そう………」
言われてみれば、自分とそっくり、日本人の幸蔵とフランス人のエリーズの間にしか、この顔は産まれない、幼い頃の自分の写真を見るまでもなく、ノエルが自分の妹だということは疑う気になれない。疑いたいことは、もっと、他にある。
「………父さん、いつから、知っていたの? この子の、こと」
「うっ…、……うむ……まあ……最初から…」
「……………………」
「…な、何度も、……言おうと……思ったんだが……きっかけが…」
「今まで、ごめんなさいね。クロエ」
「……………………」
「お姉ちゃん…」
「…………………………………………っ…」
クロエは猛烈な吐き気をもよおして口元を押さえた。
「「クロエっ?!」」
「お姉ちゃん?!」
「…っ…ぅっ……………」
耐えようとしたけれど、胃の中の料理が逆流してくる。
「うえっ! ううっ…」
よく噛まずに飲み込んだ野菜が食道を逆流する痛みと苦しさで涙が滲み、流し台まで走ることもできず、皿に嘔吐した。
「ハァっ…ハァっ…ぅぅ…」
「クロエ、風邪でも引いたんじゃないか。薄着で出かけるから」
「熱はありそう?」
エリーズが額に触れようとすると、クロエは手を払った。
「……クロエ…」
「ハァっ……ハァっ…」
まだ吐き気が治まらない様子で、クロエは流し台へヨロヨロと歩き、口を漱いで顔も洗った。
「…ハァっ…ハァっ…」
「「……………………」」
両親は娘の突然の嘔吐に、考えたくない心配をしてしまう。娘はデートに出かけたのに帰ってきた顔は泣いた後のような暗く疲れきった表情だった。選び抜いた可愛らしくて大人っぽい衣服と、もう流れてしまった化粧、そして嘔吐、つわりはフランス人にも日本人にも共通の妊娠初期症状で、考えたくないのに想起してしまう。
「クロエ、誰と会っていたんだ?」
「………………」
「ねぇ、身体の具合は、大丈夫なの?」
「……………………」
「まさか……クロエ…」
「……………………」
「クロエ、お母さんと二人で話をしましょう」
「……………………………もう、いいわ。…………さようなら……」
それだけ言ったクロエは家を出る。追おうとする両親と妹を走って振り切る。
「ハァ…ハァ…」
一人になって夜道を歩き、気がつけば登波離橋にいた。
「……………………」
嘉神川………私のファミリーネームと同じ名前の川………………ここから産まれて、ここに還るなら………ちょうど、いいわ……………………、クロエは迷うことなく欄干を跨ぎ、靴を脱ぎ捨てた。
「………」
欄干から手を離してクロエは、その身を嘉神川へと投じる。
ひゅっ…
真っ逆さまに落ちていく。暗い水面が迫ってくる。
「………………」
これで終わり………おしまい………もう、考えたくないから………、ごめんなさい、鷹乃さん、もう考えたくないの……何も考えたくないの……、クロエは最期に、よく考えなさい、と叱ってくれた鷹乃のことを思い出したけれど、水面に叩きつけられた衝撃で意識を失った。
クロエが嘉神川へ身を投げる少し前、智也は浜咲駅で無料のホットペーパーを手に取っていた。駅の窓口に置かれているホットペーパーには就職面接の心得特集が組まれていたので目を引いたのだった。
「………」
嘉神川食品の正社員って進路は消えたからな……学祭も終わったし明日から就職活動だな……、智也が就職活動に関する情報を熱心に読んでいる様子に気づいた鷹乃は頭を下げた。
「ごめんなさい。私が勝手なことをして、智也の内定を…」
「ん? ああ? あれか、あれは内々定だからな。そんなアテにしてなかったし」
「ウソは信じられるようにつくものよ」
「ホントだって。あ、これか? これは、ほら、花祭市議の記事が面白そうだったからな」
たまたま載っていた花祭香憐に感謝しつつ、智也はホームに入ってきたシカ電に乗り、鷹乃と座る。もう終電に近い時間なので乗客は少ない。智也たちと同じように学園祭の後片付けをした後、さらに恋人や友人と語り合って遅くなった生徒が、ちらほらといるくらいで、智也と鷹乃もクロエがタクシーに乗るところまで見送った後、しばらく静かに過ごして帰路についている。
「花祭議員がさ、毎年この地域の文化や福祉に貢献した若い新人を表彰して後押ししてるらしいぞ」
「そうなの。……でも、議員が個人に何かを送るのは禁止されていなかったかしら?」
「そこが賢いところでさ。花祭香憐は特集の中で取り上げるだけで正式に表彰するのは、バックの花祭財団が用意した文化財団。しかも、花祭香憐が取り上げた人物以外にも何人か足して表彰する仕組みだから、公職選挙法に触れないらしい」
「お金持ちって、ずるいのね」
「知は力なり。知恵と財力は悪用しないとな♪ けど、最近、花祭香憐が後押ししてる孤児院への財団からの寄付が問題になってるから、そろそろ苦しいかもしれないな。浜咲学園にピアノや、金の鈴つきの芸術品なんかを校長に送ったのは節税らしいけど。節税して寄付って変だよなぁ、オレなら残しておくのに」
「そうね。私も寄付をするくらいなら残しておくのに賛成よ」
「まあ、あの家は、たっぷり残してるだろうからな。孤児院への寄付もオレにとっての初詣の小銭くらいの感覚なのかもな」
智也はクロエの話題にならないように話しつつ、ホットペーパーを眺める。
当地の期待の新人特集
映画監督 雨宮耕作
リアリティを追求する姿勢から危険な撮影にも果敢に挑む若き監督…
小説家 鈴代黎音
出版社の新人賞で佳作に入選後、少女雑誌に連載小説を開始し毎号大人気の…
写真家 一条秋名
アートディレクター 二階堂達郎
14歳の少女が抱えた心の闇、をコンセプトに最年少の写真家と、それを支えるディレクターとして…
「……14歳か…」
クロエも14歳だよな……心の闇とか、ゆーなよな、感じ悪いなぁ……智也は二階堂達郎の写真にラクガキする。
「ほら、鷹乃。ヒゲ魔神になったぞ♪ どうだ?」
「………その絵に対して、私はどんな感想を言えばいいの…」
「率直な感想を頼む。よし、この女も…」
さらに智也は稲穂鈴の額に、肉、と書き込みつつ、どこかで見た顔だと思うけれど、思い出すことはなかった。
「…………疲れたわね……今日は…」
鷹乃は大人かと思えば、子供みたいなことをする恋人のしていることに興味を無くし、車窓を見つめた。ちょうど、シカ電は嘉神川を渡る鉄橋を走っている。海の方には登波離橋が見えた。
「…………あの髪……っ?!」
視力のいい鷹乃は登波離橋から何かが落ちるのを見つけることができた。
「あの子っ!」
「鷹乃? どうした?」
「落ちたの!」
鷹乃は座席から立ち上がり、窓を開ける。
「鷹乃、何が落ちたって? 何も見えないけど…」
「あの子よ! きっと、そう!」
鷹乃はシカ電の扉まで走ると、緊急停止ボタンを押した。乗客たちが鷹乃の行動に驚いている。シカ電は失速すると停車し、運転手が鷹乃に声をかけてくる。
「何かありましたか?」
「人が落ちたの!! ドアを開けて!」
「人が?! …し、しかし、ここは鉄橋で…」
「早くっ! ……もう、いいわっ!」
運転手の対応を待たずに鷹乃は窓へ手をかけると、くるりと身を翻して車両から線路へ飛び降りる。さらに、靴と制服を脱ぎ捨てると、迷うことなく鉄橋から飛んだ。
「鷹乃っ?!」
智也の声が遠くなり、水面が近づく。
ざっ…
高飛び込みの経験もある鷹乃は水面との衝撃を最小限にし、さらに落下の加速度を水中で方向転換して前進力に換えると、まっすぐ登波離橋の下まで泳ぐ。
「…」
暗い、でも、月明かりが少し、鷹乃が泳ぐ嘉神川は真っ暗な闇で水中は何も見えないほど暗い。けれど、登波離橋は海の方向なので川の流れに乗って泳げば、方向を見誤ることはない。
「…ハァ…ハァ…」
どこ………あの髪の色なら、この暗さでも……早く見つけないと…、鷹乃は登波離橋の下まで到達すると立ち泳ぎして周囲を見渡すけれど、何も浮いていない。
「…」
川底なら……少し流されて……このあたり…、いたっ! 真っ暗な水中でもクロエの髪は月明かりを反射して鷹乃に居場所を伝えてくれた。潜り、その手を握って水面を目指す。
「ハァっ! ハァっ…ハァ…」
鷹乃はクロエの肩を担ぎ、川岸へ辿り着いた。
「しっかりっ! しっかりしなさい!」
クロエの心臓は動いているけれど、呼吸はしていない。鷹乃が二回、人工呼吸をするとクロエは息を吹き返した。
「ごほっ…ごほっ…ぅぅ…」
「よかった」
安堵する鷹乃と、目を開けたクロエ。
「大丈夫? どこか、痛くない?」
「……、……どうして…」
「あなた、登波離橋から落ちたのよ。たまたま見えて…」
「……私……飛びおりたのに……、……死のうと……思って。……どうして……助けたの?」
「あなた………」
「……余計なことを…」
「っ!」
鷹乃はクロエの頬を叩こうとして、やめた。
「なら、どれだけ余計なことをしたか、私に聞かせてちょうだい」
叩く代わりに抱きしめると、クロエは涙を零した。