「智也が浜咲だったら」   作:高尾のり子

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第20話

 

 深夜、智也はソファで眠っているクロエと、その背中を優しく抱いている鷹乃を見つめながら、どう反応していいものか、悩んでいた。嘉神川へ飛び込んだクロエを鷹乃が助けた後、濡れた身体を温めるために三上家で風呂に入り、その前後、ずっとクロエは啜り泣きながら鷹乃に突然帰ってきた母親のこと、初めて知った妹のこと等を話していた。聞きながら鷹乃も涙を零し、生き写しのような人生を送ってきた二人はソファの上で抱き合ったまま、今はクロエが眠りに落ちている。

「……許せないわ。なんて母親なの……」

「鷹乃……、………あ、また、鳴ってる」

 智也のケータイが鳴っている。嘉神川食品から貸し与えられているケータイが鳴り、その社長である嘉神川幸蔵からの着信だと液晶画面は告げている。

「これで五回目だ……。社長、クロエちゃんのこと、探してるんだろうな……」

「無視しておけばいいわ」

「いや……でも……、……警察とかに捜索願を出すかも。……オレら、シカ電も勝手に止めて逃げたし……」

「緊急事態よ。緊急停止ボタンを使って何が悪いの?」

「そりゃ……そうだけど……」

 智也のケータイが静かになり、今度は三上家の固定電話が鳴った。すでに日付がかわりつつある時間で、固定電話を鳴らすのは非常識なだけに、幸蔵が強く連絡を取りたがっていることが伝わってくる。娘の交友関係に手当たり次第に連絡を取っているとしても、家庭教師をしている智也の優先順位は高いようで、おまけに何度もケータイに着信があったのに一度も智也からかけ直していないので、放っておくと幸蔵が訪問してくるかもしれない。それは避けたいと、智也は立ち上がった。

「もしもし…」

(非常識な時間に電話をかけ、まことに申し訳ありません。私、嘉神川幸蔵と申します。お宅様の智也さんに娘が家庭教師を…)

「オレです。社長」

(ああ、智也くん。夜遅くにすまない。クロエを知らないか?)

 心配でたまらない、そして疲れきっている幸蔵の声を聞いて、智也はウソがつけなかった。

「娘さんは……ここに、います。オレと、……オレの恋人と、三人で…」

 智也は二人っきりでないことを強調し、幸蔵は安堵の吐息を漏らした。

(おおっ…そうか、智也くんのところに、そうか……よかった。無事で…)

「「……」」

(すぐに迎えに行く)

 幸蔵の声が受話器から漏れ聞こえていた鷹乃は否定的に首を振った。

「代わってちょうだい」

「鷹乃…、……」

「代わって、智也」

「………」

 智也は迫力に負けて鷹乃に受話器を譲った。

「はじめまして。鷹乃と申します」

(えっ…、あ、ああ。智也くんの恋人の…?)

「僭越ですが、どうして自分の娘が家を逃げ出したのか、わかっていますか?」

(……………。わ、…わかっている……つもりだ)

「では、今夜は、ここでお預かりします。迎えには、来ないでください」

(…………………、ご、…ご迷惑をおかけする。申し訳ない……)

 迎えに来る気だった幸蔵を黙らせた鷹乃は受話器を置いた。

「…………」

「鷹乃………ここに泊める気か? クロエちゃんを……」

「ごめんなさい。智也の家なのに……ごめんなさい、勝手に決めて」

「ぃ、いや、そーゆーことは、いい。ここは鷹乃の家でもあるんだから」

「智也……、ありがとう。そう言ってくれると、とても嬉しいわ」

「………。け、けどさ。鷹乃の方こそ、いいのか? ………この子は……一応、……オレのこと……そーゆー子を、なんて言うか……一つ屋根の下に泊めて、鷹乃は平気なのかなぁ……って」

「信じてるわ」

「ぅっ…」

「智也を信じてるから」

「………」

「今、この子は、とても不安定なの。だから、また智也を頼ろうとするかもしれない。縋るものが、智也しかないから、そーゆー風に行動するかもしれない。でも、そんな子に智也は何かしたりしないって、信じてるわ」

「……わかった。オレは距離を置く」

「それはダメよ」

「ダメって……」

「言ったでしょ。とても不安定なのよ。なのに、智也に冷たくされたら……どうなるか、さっき嘉神川で見たでしょ?」

「………、じゃあ、オレに、どうしろと?」

「頼りになってあげて。でも、恋の相手はしないでちょうだい」

「それって……神業っていうか、二律背反というか、卵を割らずに目玉焼きを作れ、みたいな課題じゃないか?」

「智也なら、できるわよ。信じてるわ」

「……………………。とりあえず、もう遅いからさ。母さんと父さんの部屋ならベッド二つあるから。そこで、鷹乃とクロエちゃんが休めばいい。まさか、オレと寝ろ、とは言わないだろ?」

「当然よ。ありがとう、智也」

 鷹乃は夫に礼を言って、クロエを抱きあげると二階へあがった。

 

 

 

 翌朝、幸蔵は7年ぶりに妻が作ってくれた朝食を娘と食べていた。

「…ああ……この味……懐かしいな…」

 ほどよく焼かれたフランスパンにオリーブオイルかけて囓ると、強烈な既視感を覚える。

「……………………」

「チョコをチョコっと♪ チョコチョコと♪」

 7歳のノエルはフランスパンにチョコレートを塗りつけている。なぜ、フランス育ちなのに日本語の低レベルなジョークを身につけているのかは不明だけれど、そんなことより7年ぶりの団欒に胸が熱くなる。妻がいて、娘がいる、それも7年前と同じような光景で、それが眩しくて幸蔵は眼を細め、そしてクロエのことを思い出して熱くなった胸を重くした。

「クロエを迎えに行かないと……」

「クロエは安全なところにいるのよね?」

 エリーズは山盛りにチョコレートをパンに塗りつけたノエルの頭を小突きつつ、クロエの居所を確認する。

「ミカミ・トモヤだったかしら?」

「ああ、彼なら大丈夫だ。うちの従業員でクロエの家庭教師もしてくれている、まだ、高校生だが口も立つし行動力もある男だから。将来、有望だと見込んでいるんだ」

「口も立つし、行動力もある……ね。そーゆー男の子と一晩、過ごしたら、クロエも大人になるかもしれないわね♪」

「エリーズ………、彼に限って、それはない。それに、夕べは彼の恋人も居たんだ。間違いが起こるはずもない」

「そーゆーものかしら? ねぇ…」

 エリーズはオリーブオイルで光る唇で艶めかしく微笑み、夫の手に触れ、指をからめる。

「エリーズ?」

「こうして顔を合わせるのは、7年ぶりね………。ノエル、ママとパパは二階で大切な話をしてくるから、おとなしくしていなさい。いいわね?」

「はーい」

「それ以上、チョコレートを使ったら3分間、窒息させるわよ。ちゃんと全部、食べるのよ。食材を無駄にしないで」

「っ…、は、はい…」

 180秒の窒息が、どれだけ苦しいか知っているらしいノエルは青ざめた顔で朝食を残さずに食べ始める。エリーズは立ち上がって夫に目配せした。

「なんだ? ここで話せないことか?」

「あなたがノエルの前でも、してくれるなら、一階でもいいわよ」

「………、朝から、そんな…」

「だって、夕べは疲れていたでしょ。私もフライトが長かったから」

「いや、でも、まずはクロエのことを…」

「そう。7年ぶりに会った妻とのセックスは、どうでもいいってわけね。やっぱり、ストラスブールへ…」

「待ってくれ! こうやって仕事にも行かず、いっしょにいるじゃないかっ! ムリヤリに休んで大変なんだぞ!」

「何年ぶりの休暇なの? 社長さん」

「……このところ、事業が思わしくなくてな……社長といっても大変なんだ」

「社長業は務めても、夫としての業務はサボタージュばかりね。今日くらい、抱きしめてくれてもいいじゃない。っていうか、あなたの愛を確かめに来たのよ。もう愛がないなら本気でストラスブールへ戻るわよ」

「ぁ……あい、…愛して……いるさ。……もちろん……だが、クロエのことも…」

「安全なところにいるんでしょ?」

「だが、迎えに…」

「もう少し、あの子の気持ちが落ちつくまで、そっとしておく方がいいわよ」

「……それは……そうかも……しれないが…」

「早く来てちょうだい」

 煮え切らない夫をベッドに誘い、エリーズは裸になった。

「……エリーズ……、変わらないな。……ホントに七年も経ったのか……」

 幸蔵は崩れていないエリーズのプロポーションに驚きつつ感動し、男として血が騒ぐのを久しぶりに感じた。

「あなたは、少し老けたわ。仕事のしすぎよ。身体を壊す前にワークライフバランスを考えた方がいいわ」

「ぅ、うむ…」

「来て」

 エリーズが脚を開いて誘う。大胆でありつつも、乳首と股間は手で隠して日本人男性に好まれる恥じらいを装いながら上目遣いに見つめる。

「ェ…エリーズ…」

 幸蔵は抱きしめてキスをすると、妻を押し倒した。ズボンを脱ぐのも、もどかしく身体を重ねようとする。

「エリーズっ…ハァ…ハァ…エリーズっ…」

「ちょっ、ちょっと待って! いきなりしないで! ホントあなたって変わらないわね! ちゃんと愛撫してよ! 犬のセックスじゃないんだから!」

「す…すまん…、つい、興奮して…」

「興奮する寸前までは紳士を装うくせに、火がつくと完全にケモノね。そーゆーセックスも、たまにならいいけど、前戯も覚えてよ。いきなり挿入されると痛いのよ」

「……すまない…」

 申し訳なさそうに幸蔵は乳房に触れる。張りのある乳房は二人の娘に母乳を与えてきたとは思えないほど瑞々しく、幸蔵は再び血が滾るのを覚えたが、自重する。エリーズが求める丁寧なセックスを心がけ、やや抵抗感があるもののオーラルセックスにも応え、ようやくノエルを作ったとき以来の合体をする。

「いいか?」

「ええ。…あんっ♪」

 エリーズは正午と別れて以来の男根に悦び、自分も腰を振るけれど、幸蔵は射精しそうになって悩む。

「ェ…エリーズ、避妊は? しないのか?」

「ん~………」

 エリーズも悩むが、すぐに答えを出した。

「ま、いいんじゃない? ちょうど、クロエとノエルも7つ離れてるから、三人目を作るにはいい時期かも。それに、日本もフランスも少子化だから私たちが頑張らないとね」

「それは……そうだが……、そうだな。三人は欲しいな」

 幸蔵も、その気になる。

「できれば、男の子が欲しい」

「そうね。でも、あなたみたいな会社人間はイヤよ。跡取りにして嘉神川食品のことばかりの人生なんて」

「うむ………わかっては…いるが……」

「あなた、なかなか射精しなくなったわね」

 エリーズは長いピストン運動を楽しみながら夫を誉めるけれど、幸蔵は額に汗を浮かべて息を荒くしている。久しぶりの激しい運動に体力がついてこない。

「ハァ…ハァ…くぅうっ…」

「あんっ♪ んんっ♪ いいわっ、来て! イかせて…」

「くっ! くううっ……ぐわっ?!」

 突然、幸蔵はうずくまると、苦痛に呻いた。

「うううっ…うううっ…」

「どうしたの?! 大丈夫?!」

 エリーズが起きあがって夫を心配する。脳梗塞か、心筋梗塞でも起こしたのかと、呼吸や脈をみるけれど、幸蔵は腰を押さえて呻いた。

「こ…腰が…うう……ぎ、…ギックリ腰に……」

「………。ギックリ腰? って、どういう日本語? 病気の名前なの?」

「うう…ハァ…ハァ…ぐうう…、腰が突然、……痛くなる病気だ……急な運動とか、重い物を持ったりとか…ぐう…うう…」

「失礼ね。私は重くないわよ」

 エリーズは夫の腰を押してみた。

「ぐああっ!! さ、触らないでくれ! 痛すぎる!」

「………ぎっくり腰ね。ヨーロッパでは魔女の一撃っていうのよ、それ」

「な、なんだ、それは…」

「魔女がイタズラしたみたいに、急に動けなくなるから、そういう表現をされてるわ。魔女の木靴で蹴られると立てないくらい腰が痛くなるっていう言い伝えよ」

「ううっ…、そ、そんなことは……どうでも…いい……な、…なんとか……助けてくれ」

「そうね。どうしましょ? すごい汗……」

 とりあえずエリーズは幸蔵の汗を拭いてやり、それから悩む。

「救急車を呼んだ方がいい?」

「…だ、…ダメだ! 絶対にダメだ!」

「そうよね」

「くぅ……ハァ…ハァ…しっ、湿布が一階の救急箱にあるから、頼む! あと、痛み止めの薬を!」

「わかったわ」

 エリーズは一階に降りて救急箱を探す。

「ノエル、救急箱を探すのを手伝ってちょうだい」

「うん」

 ノエルは母親が全裸なことに驚きは覚えなかったけれど、救急箱の利用対象については不安を覚えた。

「……パパに怪我させたの?」

「ノエル、その日本語は少し違うわ。パパが怪我したの。させた、と表現すると私が悪いみたいでしょ? パパが勝手に怪我したのよ」

「パパ、どうしたの?」

「腰が痛いんだって。あっ♪ あったわ」

 エリーズは救急箱を見つけて二階へ戻る。ノエルが心配そうに見上げてくる。

「ママ、ノエルも見に行っていい?」

「ん~……大丈夫よ、心配しなくても、命に関わるようなことじゃないし、血も出てないわ。それより、ちゃんと朝ご飯を食べきっておきなさい。お仕置きするわよ」

「はっ、はいっ………」

 ノエルは返事をしつつも父親の身を案じて心配そうに天井を見上げた。

「パパ………ノエル、いい子にするから……みんなで暮らしていきたいです」

 幼女は胸元で十字をきって、神と星と父に祈った。

 

 

 

 同じ頃、智也は疲れていたので昼前まで眠り、目が覚めても、なかなか一階に降りずにいた。すでに一階からは鷹乃とクロエが朝食の片付けをしている気配がしている。智也も朝食に呼ばれたが、狸寝入りで起きずにいた。

「……………」

 どんな顔して、あの二人に…………、智也は寝返りをうって三度寝しようと布団をかぶったが、鷹乃が起こしに来た。

「智也、そろそろ起きたら?」

「…あ……ああ…」

 仕方なく布団から出て顔を洗い、キッチンに入った。

「「ぁ……」」

 智也とクロエの目が合い、お互いに目を伏せる。

「…………」

「…………」

「…お……おはよう……」

 智也が挨拶の後に「元気か?」と付けようとして、やめた。クロエも挨拶を返す。

「おはようございます。……」

「…………」

「………」

 二人が会話できずにいると、布団を干した鷹乃が一階へ降りてくる。

「朝ご飯……いえ、もう、お昼ご飯になるわね。智也は朝ご飯もまとめて食べてちょうだい」

「ぉ…おう…」

 用意されていた朝食は冷めている。すでに鷹乃とクロエは何時間も前に食べ終えた様子だった。鷹乃はレンジで智也の朝食を温め直しつつ、昼食の用意を始める。

「お昼はパスタにするわね」

「あ、手伝います」

 クロエが立ち上がって鷹乃の隣へ歩みよる。

「ありがとう。じゃあ、お湯を沸かしてちょうだい」

「はい」

 クロエは適当な鍋に水を入れている。智也は温め直された朝食を食べながら、キッチンで料理をしている鷹乃とクロエの背中を見て軽い既視感を覚えた。鷹乃と付き合う前は、彩花と唯笑が並んで料理をしている姿を見ることが多かったけれど、今の状況は似て非なるもので、内在する問題は重くて難解だった。

「…………………………」

 オレに、どうしろと………、いや、まあ……オレの責任なんだが……、智也はタメ息をつかないように意識して朝食を終え、さらにパスタを鷹乃とクロエの三人で食べる。

「クロエの口に合うといいけれど……」

 鷹乃が作っている段階で好き嫌いの激しいクロエの嗜好を知り、嫌いな物は入れずに作ったけれど、やや心配していると、クロエは一口食べて微笑んだ。

「美味しいです。鷹乃さん、お料理上手なんですね」

「口に合って、よかったわ」

 鷹乃とクロエは普通に会話を楽しみながら食事をしている。智也は居心地の悪さを顔に出さないようにしてパスタを啜る。

「………」

 パサパサパスタと違って食べやすいけど、落ちついて喉を通らないな……、食べ終わったら散歩にでも出ることにするか……、智也は昼食が終わると、逃げるように席を立った。

「ちょっと散歩に出てくる」

「いってらっしゃい」

 鷹乃は何も言わずに送り出してくれ、クロエは皿を洗い始めている。智也は外へ出ると、あてもなく歩きだそうとして、隣家の二階からの視線に気づいた。

「……彩花……」

「………智也…」

 視線が合い、彩花が静かに手を挙げ、そこで待っているように伝えてくる。彩花は鷹乃に気づかれないよう物音を立てずに玄関を出ると、すぐには智也と会話せず、仕草で近所の公園へ行くよう指示した。

「「…………………」」

 二人とも黙って公園に着くと、彩花が第一声をあげる。

「智也っ?! どういう魔法を使ったら、あの嫉妬魔神に一夫多妻制を認めさせられるわけっ?!」

「待って! 彩花、それは誤解だ!」

「だって、さっき…」

「どこから話すか……と、とにかく、昨日のことから聞いてくれ!」

 智也は順をおって、碧海祭に来た鷹乃の父親のこと、クロエも来てしまい、そこで鷹乃が嫉妬したフリをすると言い出し、その結果、逆に鷹乃は刃物を振り回したクロエを説得したこと、さらに嘉神川家に帰ってきた母親と見知らぬ妹のことで登波離橋からクロエが飛び降り、それを鷹乃が助けたことを彩花に話した。

「……長い話ね……」

「だろ?」

「おまけに、まだまだ、続きそう」

「………勘弁してくれ……」

「まあ、クロエちゃんとの肉体関係を否定しきったのは立派というか、ずるいというか……賢いというか……つまり、ズル賢いから、ようするに、智也らしいわ……。なのに、寿々奈さんの方がクロエちゃんの境遇に同情して……、たしかに、二人の境遇は似てるところもあるから、そーゆー同情って、当然なのかも。痛みを知ってるだけに、共感してしまう」

「…………オレも彩花も、幸せな育ちだからな……平和ボケの…」

「そうね。なにか重い病気をしたり、両親がいなかったり、事故に遭ったり、そんな境遇って、なった人間にしか、わからない部分ってあるでしょうしね」

「そうだな………」

「まあ、でも、智也としては無難に様子を見ていくしかないよ。とりあえず、クロエちゃんの家のことは、やっぱり、クロエちゃんが乗り越えていくべきことで、私たちには何もできないし、すべきじゃないし。寿々奈さんは相談にのってあげるでしょうし、それが助けになって、なんとか、なると思うよ」

「……ああ……そうだな……。悪いな、毎度、毎度、彩花に話すと楽になるから、つい甘えて……」

「智也もママがいないから、淋しいのね♪」

「お前なぁ……」

「私が智也のママにも、お姉ちゃんにもなってあげる」

「姉かぁ……、鷹乃、そんな感じだなぁ………。あの香菜ちゃんにだって……」

「寿々奈さんも一人っ子だから、兄弟がほしいのかも」

「それを言ったら、オレも彩花も一人っ子だろ?」

「私たちは三人兄弟みたいなものだったでしょ。三つ子かな」

「そうか。そうだな」

 智也は少し気持ちが軽くなったので、三上家に戻った。リビングに入ると、クロエが縫い物をしていた。昨夜、嘉神川へ救助のために飛び込んだ鷹乃の制服が破れてしまったのを器用に縫い直している。その姿が、もう何日も三上家にいるような錯覚を与えてくるので、智也は二人に告げる。

「そろそろ、社長さんに連絡して、クロエちゃんは家に…」

「智也、私、考えたんだけど」

「ん?」

「しばらく、この子を、ここで預かりたいの。いいかしら?」

「あ、ああ、それは別に…って?! なにっ?! ここに? また、泊めるのか?!」

「大きな声を出さないでちょうだい。……そんなにダメな、こと? ……ここは、智也の家だけど………私の家だと思っていいって、言ってくれたから……ダメかしら?」

「ダメってことは……ない、というか……ダメダメというか、ダメダメダメ同棲な気がするというか。あと一泊、二泊くらいなら、いいけど、しばらく預かるって、どのくらいだよ? それって、ちょっと問題がある気が……」

「智也のことは信頼してるわ。それに、この子も」

「………」

 そりゃ家庭の境遇には少なからずオレも同情するけど、この子は昨日、包丁振り回すくらいにオレと鷹乃のことを…………、智也が困っていると、クロエが立ち上がった。

「やっぱり、ご迷惑ですよね。いいんです、鷹乃さん。もう十分ですから」

「家に……帰るつもりなの?」

「……。ここにいるのは、とても迷惑ですし、鷹乃さんに迷惑をかけるのは、私としても不本意ですから」

「でも、それで、どこへ行くつもりなの? 帰る気はないんでしょう?」

「………。行く当てくらい、ありますよ」

「ウソは信じられるようにつくものよ」

「…………」

 クロエが困った顔で微笑した。その顔を見て鷹乃は切なさで胸が痛んだ。

「智也っ」

「な……なんだよ…」

「あなたが、こんなに器量の狭い男だとは思わなかったわ」

「ぅ………だけど…」

「自分のことを好きだと言ってくれた女の子が困っているのを、少しくらい助けてあげられないの?」

「いや……他に好きな女がいて、……同棲してたりするし…、やっぱ、その三人が一つ屋根の下っていうのは…」

「私ならいいわ。私が、いいって言ってるのよ? それなら、問題ないでしょう?」

「……そうなんだけど……さ。………ああもう! わかった! でも、一回は社長さんに説明しろよ。説明するのが、イヤならオレから言うけど……言いにくいし……、やっぱり、娘から言うのが筋というか……しばらく家出しますとか、……行き先の説明というか…。オレはバイトで会社に顔を出すわけだし……」

「はい…父には私から……。智也さんの立場もありますから……」

「言いにくいなら、私が代わりに…」

「鷹乃は社長さんと面識ないだろ」

「でも…」

「いいんです。ちゃんと父と話します。……あの人の顔は見たくないけど…」

「なら、私もいっしょについていくわ」

「鷹乃さん……」

 すがるような目でクロエに見つめられた鷹乃は優しく微笑んで香菜にしていたように頭を撫でて抱きしめる。クロエも抱き返した。

「………。オレも、一応、ついていくよ。一応……」

「そうね、そうしてちょうだい」

 話が決まると、三人で嘉神川家に向かう。近所なので、すぐに到着した。クロエが緊張していると、その手を鷹乃が優しく握った。

「大丈夫よ。私がいるわ」

「鷹乃さん……」

「帰ってきなさいって言われても、私のところで預かってあげるから。迷惑とか、遠慮とか、考えなくていいのよ。帰りたくないなら帰らなくていいんだから、ね?」

「…はい…」

 クロエは頷くと、自宅のチャイムを鳴らした。

(はーい♪)

 ノエルの声が響いてくる。

(どなたですか?)

「………」

(パパとママは留守にしてます。宅配の方なら、そこのボックスに…、あ! お姉ちゃん! 今、開けるね!)

 ノエルがドアフォンのカメラで姉の姿を確認してドアを開けてくれる。

(お帰りなさい、お姉ちゃん!)

「っ……」

 クロエは妹を見ると、何も言えなくなり、微笑を作ろうとして失敗した。この妹は、あまりにも外見が7年前のクロエ自身に酷似していて、直視できない。一人、置いて行かれた日のことを思い出してしまう。なのに、この妹は両親がそろった家に屈託無く存在している。それが、なんだか、わからない大きな感情を呼び起こしてきて、泣き出しそうなクロエに代わって鷹乃が尋ねる。

「お父さんと、お母さんは、どちらへ?」

 二人の娘を放り出して、どこへ行ったというの、まったく、なんて両親なの、鷹乃の批判的な雰囲気がノエルに伝わったようで、幼女は申し訳なさそうに告げる。

「パパが、ぎっくり腰になって整骨院に行くからって……ごめんなさい」

「そう。あなたは留守番をしていたのね。えらいわね」

「えへへ♪」

 無邪気な手柄顔をするノエルを可愛らしく思った鷹乃は軽く頭を撫でてやり、言付けることにした。

「じゃあ、お父さんとお母さんに伝えておいてくれるかしら。しばらく、私の家でクロエさんは預かります、って。伝えられそう?」

「はいっ。……お姉ちゃん、帰ってこないの?」

「心配しなくても、私が預かるから、大丈夫よ」

「おばさんのところで暮らすの?」

「ぉ、……、ぇ、ええ。そうよ。だから、お父さん、お母さんに伝えておいて」

 ほのかな殺意を押し留めた鷹乃は脳内でノエルの首を絞めつつ、笑いをこらえている智也を後ろ足で蹴った。

「痛っ…」

「笑うところじゃないわ」

「悪い、悪い♪ つい。鷹乃は私服が地味だからな、そーゆー風に見えるんだろ。くくっ」

「おじさん、どうして笑ってるの?」

「……。君も大人になれば、わかるさ。じゃ、社長さんに、よろしくな」

 あまり長居したくない智也が背中を向け、泣き出しそうなクロエを支えた鷹乃も続いて嘉神川家を去ると、また、ノエルは一人になった。

「……お姉ちゃん……ノエルのこと、嫌いなのかな……ノエル、嫌われたのかな…」

 自分の顔を見て苦しそうに顔を歪め、立ち去るときは泣いているように見えた背中を思い出すと、ノエルも悲しくなった。

「ノエル……お姉ちゃんに……嫌われるようなこと……したのかな……」

 淋しくつぶやき、テーブルに置いてあるティーカップを見つめる。一人で日本茶を淹れて、さらにチョコレートを入れた緑黒い碧海色の液体が怪しく湯気をあげている。

「……これ、…ちゃんと飲まないと……ママに……」

 食材を無駄にすることを許さない母親のことを思い出してノエルが身震いする。

「…ロシアンティーみたいに……美味しいと思ったのに……」

 とても飲めたものではない液体を、一口啜って身震いし、さらに飲み込んで吐き気を覚え、ノエルは休憩する。そこへ、玄関のドアが開く音がして、エリーズと幸蔵が帰ってきた。よろよろと幸蔵は玄関をあがる。

「ふーっ…ハァー……な、なんとか、歩けるようにしてもらえた…。一時は、どうなることかと…」

「腰は一週間もすれば治るって言われたけど、あなた、肝臓も悪そうだから内科医にも診てもらえって言われたのを忘れないでよ。私、まだ、未亡人にはなりたくないわ」

「あ、ああ、わかってる。すまない」

「パパっ、おかえりなさい。もう、大丈夫なの?」

「心配かけて、すまなかったな。なんとか歩けるようには、なったよ」

「よかった。あ、クロエお姉ちゃんが帰ってきたんだけど、…また…行っちゃったの」

「クロエがっ?! いつっ?! ぅ…ぐぅ…」

 幸蔵は急に動こうとして腰に痛みが走り、呻いた。ノエルが心配して父に寄り添う。

「パパ…」

「そ…それで、クロエは、いつ…」

「つい、…さっき……、でも、すぐに行っちゃったの」

「クロエは、また、どこへ行ったんだ?」

「いっしょにきた、おばさんと、おじさんのところで預かるって、おばさんが大丈夫だからって。………ノエルは、お姉ちゃんに嫌われてるのかな……嫌われちゃったのかな」

「ノエル……それは、違う。嫌われてるのは、私とエリーズなんだ。……ずっと、クロエを放っておいたから。ノエルは嫌われてないよ。そんな顔をしないでくれ、少なくとも私はノエルが大好きだ。な、ノエル」

「パパ……」

 ノエルが抱擁を求めて父に近づき、幸蔵も腰痛に耐えつつ迎え入れようとしたけれど、エリーズがノエルの髪をつかんだ。

「ノエル、これは、なに?」

「っ…、これは、…こ、これは、…わ、和風ココアなの! す、すぐ、飲むから!」

 ノエルはチョコレート入り日本茶を母親に発見され、慌てて飲み干そうとしたが、その激しい不味さで目まいを覚え、飲みきれない。

「ぅぅう…ハァ…うう…ハァ…」

「また、無駄にチョコレートを使ったわね」

「ぅぅ…だって…、紅茶にジャムを入れたらロシアンティーになるし…、…ココアとチョコは似てるから、日本のお茶と混ぜたら美味しいかなって…」

「いいのよ、ノエル。ちゃんと責任をもって口に入れるなら、怒らないわ。チョコレートを作ってくれたブラジルのみなさんと、静岡のみなさんに、申し訳が立つように自分で責任を取りなさい」

「は…はい…」

 ノエルは覚悟を決めて飲み干そうとするけれど、やはり決定的な不味さが障害になって半分も飲めない。幸蔵が可哀想に思い、エリーズに口添えする。

「もう許してやれ。子供のしたことじゃないか」

「あなたは甘いわ。ノエルは私が育ててきたのよ。口出ししないでちょうだい」

「だが、ノエルの味覚がおかしくなってしまう。お腹を壊したら大変だぞ」

「別にチョコレートを食べた後にお茶を飲んでも、お茶を飲んだ後にチョコレートを食べても何の問題もないわ。いい加減、何にでもチョコを入れようとする癖を直さないと、いけないのよ。さ、ノエル、飲みなさい」

「…はい………」

 ノエルは長く苦しみたくないので一気に飲もうとしたが、強烈な吐き気を覚えて、よろよろとふらつきティーカップを落とした。フローリングの床に緑黒い碧海色の液体がグロテスクに拡がった。

「ノエル、落としたわね。わざと」

「ひっ…ち、違うっ…、ぅ、うっかりっ! ひぐっ?!」

 ノエルは母親に喉元を掴まれ呻いた。

「ううぅ…ぅ…ゆ…許して……ママ、ごめん…」

「謝る相手が違うでしょ」

「ごめんなさい、静岡県のみなさん、ブラジルの…」

「三分間よ」

「ひっ…ううっ?!」

 ノエルは壁に押しつけられ、母親の手により、鼻と口を塞がれて呼吸ができなくなった。

「ぅぅ……ぅぅ…」

「10秒……………………15秒……」

「おっ、おい?! 三分間って、なんだ? どういうことだ?!」

「反省タイムよ。三分間、苦しい思いをして反省させるの。叩くより、ずっと理性的なシツケでしょ?」

 エリーズはフランス製高級腕時計の秒針を見ながら平然と答えた。

「しっ、しかし! 三分は長いっ! ノエルが死んでしまう!」

「45秒…。大丈夫よ。死ななかったから」

「死ななかったって、やったのか?」

「50秒…。ええ」

「ぅぅ……」

「苦しそうだぞ?!」

「そうでなければ罰とはいえないわ。はい、1分♪」

「…ぅぅ…」

 ノエルの小さな肺にある酸素は残り少ない。あと、120秒の時間が、とても長いものに感じられる。

「1分20秒…。ねぇ、ノエル、反省してる?」

「ぅぅ…」

 苦しくて顔を真っ赤にしたノエルは口元を覆う母の手に涙を零して答えたけれど、その手は微動だにしない。

「…ぅ…………ぅ………」

 あまりの苦しさにノエルは息を塞ぐ母の手を両手でつかみ、逃げようと足掻いたが、腕力が違いすぎて何もできない。小さな爪がエリーズの手首に食い込む。

「ノエル、私の肌に傷をつけたら、怖いわよ」

「っ……」

 強烈な恐怖を感じたノエルは両手の力を抜き、もう抵抗するのをやめた。なるべく酸素消費を抑えるために、ダラリと脱力して何もしない。けれども、苦しくて手足が小刻みに痙攣し始める。

「2分10秒…」

「ェ…エリーズ……もう、許してやらないか? 十分に反省していると…」

「2分15秒…」

「ぅぅ……………………」

 あと………………ちょっと………あと、………ちょっとで………神さま………、ごめんなさい……もう……食べ物を無駄に………ぁ……天使様……、ノエルは朦朧とする意識の中、天井の方が明るくなり、天使が舞い降りてくるような錯覚を見る。

「2分20秒…」

「……………………」

 ノエルの目が力を失い、涙を流しながら、白目を剥いた。同時に、太腿の内側に失禁した尿が流れをつくり、靴下を濡らして床を汚した。

「ノエル、あとで拭くのよ」

「…………」

 完全に意識を失ったノエルは何も答えない。幸蔵が焦った。

「ノエル?! ノエル?! おいっ! 死んでるんじゃないか?!」

「心臓は動いてるわ。2分50秒」

「ノエルっ! 気をしっかりもってくれ!」

「2分55秒。56、57…」

「………」

 もうノエルは苦しみもせず、意識を失って、糸の切れた人形のように手足を弛緩させている。涙も止まり、小水も勢いなく滴っている。

「59、はい♪ 反省おしまい」

 エリーズは手を離した。

 どさっ…

 死体のようにノエルは床に崩れ、軽く頭を打ったけれど、意識は戻らない。

「さっさと起きて床を拭いて、濡れた服を洗濯しなさい」

「の……ノエル? ………ノエル?! ノエル?!」

 幸蔵が抱きあげて、揺するけれど反応がない。息もしていない。幸蔵は腰の痛みも忘れて蒼白になった。

「ノエルっ?! 目を開けてくれ、ノエル?! 息が、止まってる?!」

「そんなにガクガクと揺すったら、首を傷めるわ。ちょっと、貸して」

 エリーズは動かないノエルの後頭部と首の間へ、したたかにチョップを入れる。

「目を覚ましなさい」

 ドッ!

「…ひゅ…」

 後頚部を打たれて延髄に衝撃を受けたノエルが息を吹き返した。

「…ハァ…………ハァ…ハァ! ハァ! ハァヒィっ! ハァヒィっ!」

「ノエルっ……よかった」

「ハァハァ…パパ……ハァ…」

「一瞬、どうなることかと……ううっ!」

 呼吸を回復した娘を見て安心した幸蔵は腰痛が再燃して呻いた。

「ううぅ…ぐうぅう…」

 猛烈な痛みで上体を起こしていられない。その場に倒れると、チョコレート混じりの緑茶とノエルの尿に浸った。

「ぅううぅ…ううぅ…」

「パパっ! パパ、大丈夫?!」

「バカね。安静にするよう言われていたのに。ノエル、パパを介抱しなさい。あなたの責任よ。あと、床も拭いて、洗濯も」

「はい、ママ。パパ……」

 ノエルは父親を心配しながら、これ以上、床を汚さないようにスカートとショーツを脱いだ。

 

 

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