翌年の一月、キュービックカフェへ営業に来た智也は、先客だった正午とコーヒーを飲みながら一太郎と話していた。
「あれはインドの北部だったよ。見つけたときには彼はもう死んでいたんだ」
「イナホ、シン……たしか、彩花が澄空を中退した生徒が、すぐに死んでニュースになったって言ってたな、先週。そっか、テンチョーさんが発見者か」
「でも、テンチョー、どうして、すぐ日本人の死体だってわかったんですか。パスポートも無い、身ぐるみ剥がされた状態だとアジア人って見分けがつかなくない?」
「ああ、それはね。ダイニングメッセージさ」
「遺書を?」
「いや、書いてあったんだ。地面に、ヘルプ・ミー・プリーズってカタカナで」
「「カタカナか……」」
「インドじゃ、死体なんて珍しくないけどね。そこらじゅう路上に転がってるよ。犬の死体と同じレベルで。少女売春も強姦も、強盗も。慣れたつもりだったけど、やっぱり日本人の死体は違ったよ。異境での同胞の死ってのはね。とくに大使館に連絡した後、駆けつけた彼のお姉さんが泣き出したときには……、あんな美人のお姉さんを悲しませるものじゃない」
「テンチョー、そのお姉さんと寝た?」
「みくびるなよ、少年。そんなシチュで女性を口説く男に見えるかい?」
「見えるような、見えないような♪ でも、やっぱ、死は重いかな……」
「時間と死だけは唯一絶対のものなんだ。誰にとってもね」
「なんか、難しい話………三上、どう思う?」
「光速や亜光速で移動できないレベルの知的生命体にとっては絶対的なものだろうな」
「はぁ?」
「たはっはっはっ♪ 三上くんが大学に行って、加賀くんが就職する方が順当だと思うよ」
「それは、どういう意味なんです?」
正午の問いに、一太郎ではなく通りがかった飛田扉が答える。
「そりゃ、てめぇがバカってことだ。そんなこともわからねぇからバカなんだ」
「なッ……なんだよ、お前はっ?!」
正午が立ち上がって扉を睨む。扉も鋭く睨み返した。孤児院の前に捨てられて玄関扉で怪我をしたから扉と名付けられ、小学五年生で初恋だった小学一年生のリナを事故で亡くし、ついでに無免許運転のバイク事故で片足を無くして、現在は不法露店と麻薬の密売で生計を立てている青年は、何の苦労もなく目的もなく大学へ行こうとする平和ボケした男子高校生への嫌悪感を押さえきれない。そして、正午の顔はバイク事故を遠巻きに面白がってみていた中学生に似ている。昔のことに強くこだわる性格の扉と、昔のことは忘れてしまい、とくにこだわらない正午との不幸な再会だった。
「いきなり失礼だろ」
「バカにバカって言っただけだ」
見れば見るほど正午はバイク事故を野次馬していた中学生と同じ顔つきで、扉は再会を確信したけれど、正午は思い出さない。
「それが失礼だって言うんだっ! 初対面でいきなり!」
「ちっ…」
舌打ちした扉に一太郎が警告する。
「ケンカなら外でやってくれよ」
「……、表に出ろ」
「ああっ!」
正午が外へ出るので智也も仕方なくついていくと支援を求められる。
「三上、ヘルプ・ミー・プリーズ♪ 戦略的優位を確保したい」
「そりゃ2対1の方が有利だけど、ちゃんと援軍料を払えよ。2万な♪」
「え~……」
正午は有料の援護を迷いつつも扉から強い敵意を感じるので油断しない。智也も油断せず、目くらましに使うためポイ捨てされている空き缶を拾おうとして、同じことを扉が狙っていることに気づいた。
「「…」」
扉と智也の目が合う。二人とも相手が同じ騙し討ちを考えていたことを悟り、油断のならない相手だと警戒する。
「…………………」
「…………………」
騙し討ちを諦めた智也は扉を前後から挟撃する作戦に変更し、正午から離れて扉の背後に回ろうとしたが、それを阻止するように扉は立ち位置を変える。無言のうちに激しい鍔迫り合いをしている二人に比べて正午は脳天気だった。
「援護料2000円なら、いいかな」
「加賀……」
「ちっ………2対1なら勝てると思うか?」
扉はポケットへ手を入れると、ナイフを出した。
「「っ…」」
正午と智也が戦慄する。敵意をもった相手が刃物ももったことで背筋が冷たくなる。それでも智也は冷静な判断をくだした。
「………。加賀、逃げるぞ!」
「ぉ、おう!」
正午と智也は踵を返すと全力で逃げる。あっと言う間に小さくなっていく二人の背中を義足の扉は見送りながら唾を吐いた。
「ちっ……逃げ足だけは一人前か。くだらねぇ。くだらねぇよ」
駐輪場に戻ってバイクで探し回る手段もあったけれど、今日は大事な約束があるのでナイフをポケットに戻すと、古い教会へ向かった。途中で花を買い、教会の墓場に入る。
「もう来ていたのか」
「うん」
いのりが待っていた。
「あいつは呼ばなかったのか」
「前にも言った通り、イッシューにリナちゃんのことは話してないから」
「………。ちっ……」
舌打ちした扉はリナの墓前に花を供えると、いのりを射るような視線で見つめた。
「…………」
「……。大事な話って、何ですか? 飛田さん」
「あいつとリナのことだ」
「イッシューと………」
「どうしても話さないつもりか?」
「はい」
「それでリナが浮かばれるとでも思うか?」
「思いません」
「だったら…」
「でも、話しません」
「ちっ……また、この平行線か…」
何度もリナの月命日に墓前で会ううちに親しく話すようになっていたけれど、一蹴がリナのことを忘れている点だけは扉にとって許せないことだった。
「飛田さん、お話は、それだけですか?」
「……いや。まだ、ある」
「…………」
「約束しろ。来月のバレンタインまでに、あいつにリナのことを話して、この墓に詫びさせろ」
「ですから、それは…」
「できないなら! オレがリナのことを、あいつに話すっ!」
「っ…、待ってください! 絶対にダメっ!!」
「………………………」
「イッシューにリナちゃんのことを話すのは絶対にダメです! やめてください!」
「……ちっ……、なら、別れろ。何も話さないなら、お前らは別れろ」
「え……? ……………………どうして……そこまで……」
「いいな。バレンタインまでに話さないなら、あいつとは別れろ。二度と会うな。この約束を破ったらリナのことを、あいつにオレが話す」
「………………」
いのりは執拗にこだわる扉の真意を計ろうとして、計り違えた。
「……そう……そうですか……そーゆーこと……」
「なにをぶつぶつ言ってやがる。条件は、わかったな?」
「わかりましたよ。飛田さんの気持ち………、汚い男」
「なに?」
「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…、飛田さんの気持ちは、どこにあるのでしょう?」
「なに、ふざけてやがる?」
「イッシューと別れろなんて、飛田さん、私のこと好きなんでしょ? 素直に言えないから、こんな遠回しに」
「何を勘違いしてやがる。自惚れるなよ」
「そっか。そうだよね。違うよね。本当に好きな相手に、相手が嫌がることはしないよね。やっぱり、汚い男。リナちゃんのことで脅して私を言いなりにしようなんて……。また…私の身体が目当て………大好きだったリナちゃんの身代わりに……似た境遇の私を性的な慰めに……。ただ、私を欲望の対象にしたいだけ。ホント……汚い男」
いのりはカナタと同じ脅しを受けていると思い込み、扉を蔑んだ。けれど、純粋にリナのことを想い続ける扉は激怒する。
「どういう思考回路してやがる? そんなんじゃねぇ!」
「もういいです。二度と私の前に現れないでください。話しかけないで」
「ふざけるな!! バレンタインまでだ! それまでにリナのことを思い出させないなら、オレが話す!!」
「……………………」
いのりが呪い殺すような目になった。
「許さない」
「っ?!」
「もしも、イッシューに話したら………私、何をするか、わからない」
いのりから禍々しいまでの殺気が立ち上った。一蹴のためになら、誰だろうと、何人だろうと殺して後悔しない、いのりの強烈な想いが殺気に転換されて発されると、その圧倒的な気圧に扉は後退った。
「……そ……そ、…そんな…く、くだらねぇ脅しに……オレが……び、……ビビるとでも……」
「私、何をするか、わからない」
いのりの目は本気だった。けれども、扉も譲れない想いがある。
「……り……リナの……ことを……」
「まだ、言うの?」
いのりは呪い殺すような目のまま、扉に近づいた。気がつけば扉は、いのりを見上げている。いつの間にか、腰が抜けて座り込んでいる。カチカチと義足が震えて鳴っていた。
「イッシューに話したら許さない」
「……ふ……ふざけるな!」
扉はポケットからナイフを出して、いのりに向けた。
「…ハァ…ハァ……」
「………」
いのりはナイフを見ても顔色も目の色も変えなかった。正午も智也もナイフを向けられて青ざめたのに、いのりは刃物に対しても何の恐怖も覚えていない。ただ、呪い殺すような目で一蹴を守ることしか、頭にない。
「ふにゅ♪」
いのりは超絶技工的な手さばきでナイフの切っ先を指で摘んだ。震える扉の手からナイフを奪うと、義足に突き立てる。
ガッ!
「ひっ…」
「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」
「……」
「ナイフは、危ないフ」
「………」
それはナゾナゾではなく、オヤジギャグだと言う気力は扉にはなかった。いつの間にか、失禁していた尿がライダースーツの中を温かく濡らしている。防水性のあるライダースーツなので中に溜まって漏れてこないけれど、いのりは匂いで扉の失禁に気づいた。
「……汚い男」
いのりはナイフを抜いて自分のポケットへ入れると、扉の顔に唾を吐いてから背中を向けた。パシっと長い髪の先が扉の頬を打ち、毛先が目に入った扉は泣いた。
「ぅ…ぅぅ……ぅ…」
振り返ってリナの墓石まで這うと、謝る。
「ご……ごめんよ……リナ……ごめん……ごめん……オレ……ぅぅ…ぅぅ…」
扉の涙はリナの墓石に染み込み、真冬の寒さで氷りつくと、塩の結晶が美しく輝いていた。
二月一日、果凛は学校に登校したものの、三年生三学期特有の自由登校なので教室には智也と鷹乃しかいなかった。
「よぉ、りかりん。遅い登校だな♪」
「おはよう、三上くん、寿々奈さん。……朝から元気ね」
果凛が入ってくるまで二人っきりだった智也と鷹乃は教室で自由を満喫していたので手早く乱れた制服を直そうとしているけれど、果凛が遠慮する。
「お邪魔して、ごめんなさい。次からはノックするわ」
「いや、オレが悪いから気にしないでくれ」
「じゃ、ごゆっくり、どうぞ」
「用事があったんじゃないのか?」
「なんとなく登校しただけよ。気にしないで続けて。……あ」
果凛は踵を返して立ち去ろうとしたけれど、気が変わって振り返る。
「ちょっと訊きたい…」
「キャっ…」
もう果凛が出て行くとばかり思っていた鷹乃は再び智也を受け入れるため無防備に机上でM字に脚を開こうとしていたのを慌てて戻そうとしたのでバランスを崩して机から落ちた。
「痛っぅぅ…」
「ごめんなさい」
謝る果凛を鷹乃は怨みがましく睨みつつも抗議はしない。
「何かしら? ……ぅぅ…」
打撲したお尻をさすりながら鷹乃は立ち上がってスカートを整える。
「……、えっと、たいした質問じゃないの……」
「そう」
素っ気なく鷹乃はイスに座った。
「お邪魔して、ごめんなさい」
「何度も謝らなくていいわ。教室は私たち二人のものではないもの。間違っていたのは性欲を抑えきれなかった私たちであって、あなたではないわ」
「……そう言ってもらえると……、……」
「それで? 質問って何かしら?」
「えっと……その…」
「………」
鷹乃は乱れているポニーテールを手で少し整える。果凛は訊きにくそうに、それでも質問を口にした。
「二人は、…その……、……性交渉とか…、……どちらが求めてするの? やっぱり、三上くん?」
「あ? ああ、まあ、そうだけど?」
「そう、やっぱり。………。寿々奈さんから求めることはないの?」
「たまに……あるかな? 鷹乃」
「………。そうね。たまに、私から求めるけれど? それが何か? あなたは他人の繁殖行動に興味があるの?」
「はんしょ…く…」
「………。鷹乃、自分を客観視するために昆虫視するのは、やめようぜ。あと、りかりんは処女だから興味はあるさ。な?」
「否定はしないけど……。まあ、さっくと質問しちゃってるわけだからさ」
「おう、何でも訊いてくれ。トミー・クリニックは性の悩み専門だ♪」
「………。じゃあ、この際、さくさくっと訊くけど。たまに寿々奈さんから、求めるって、どのくらいの頻度で?」
「ん~………、どうだろ、鷹乃?」
「…………。他人に知られたくないことって、花祭さんには無いかしら?」
「ご……ごめんなさい……変なこと訊いて……」
「まあ、いいわ。私から求めるのは、そうね、月に一回くらいかしら。たぶん、生理周期と連動しているみたいで排卵日の前後か、逆に生理前に強い衝動を感じることはあるわ」
「そうなのか♪ 今後、それを狙ってみよう♪」
智也が楽しそうなので鷹乃はタメ息をついた。
「ご覧の通り、オスの方が性欲は強いから、私から求めるまでもなく寄ってくるもの」
「そう……、二人の場合、やっぱり、三上くんが主なのね」
「まあな♪ 鷹乃は可愛いからさ」
「惚れた方が求めるってことかな?」
「いや、やっぱり、男だからだろ」
「女の子から求めるのは変だと思う?」
「そんなことはないけど……、りかりん、もしかして…」
「私じゃないわ。たとえよ、たとえ。もしも、女の子の方から、いつも求めたり、一日に何度も求めたりするとしたら、変だと思う?」
「ん~………そーゆー女もいるかもなぁ、変でもないだろ」
「変というのが、いわゆる変態のことを言うなら、智也の言うとおり変でもないでしょうけれど、一般的でないという意味においては変、もしくは少数派であることは確かよ。繁殖行動の基本原則に反するわ」
「そうなの?」
「ええ、オスとメスが繁殖において支払うコストを考えれば、自然に答えは出てくるもの。子供を作ること、男と女、どちらが大変かわかる? 花祭さん」
「それは、もちろん、女性じゃないの?」
「そうよ。人間に限らず、多くのオスメスがある種で妊娠や育児期間のあるメスの方が生殖行動に慎重になるわ。逆に、オスは精子さえ提供すれば、あとは逃げてしまっても子孫は残るかもしれないから、繁殖行動に対するハードルが低いのよ」
「……」
鷹乃の男性観って父親の影響が強いよなぁ……まあ、言ってることは生物としては正解だけど……、智也は萎えてしまった男根をズボンに片付ける。
「もしも、メスが誰彼構わず繁殖行動を求めていたら、どんなオスの精子で妊娠してしまうか、わからない上に、メスにとっては一生の内に育てられる子孫の数は限られているから、よりよい子孫をえるためには、よりよいオスを慎重に選ぶ必要があるでしょう。オスは一生の内に無限と言っていい数の精子を放出できるのよ。その違いが行動や性欲の強さにも影響を与えるのは当然じゃないかしら」
「……そうね。でも、誰彼構わずじゃなくて特定の男性だけに強く求めるとしたら、どうかしら?」
「それなら……そのオスとの関係に固着しているだけだから、……そうね……、生物には個体差というものもあるし、人間は、とくに個体差、個性の差が大きいから、そーゆー個体というだけではないかしら? ……個性の中には同性愛というものさえ、あるのだから、そーゆー観点から見れば、メスの性欲過多は少数派であっても異常でも変異体でもないんじゃないの?」
「そう。……そーゆー症状を治すことはできないかしら?」
「異常でも変異体でもないものを治すのは無理ね。まあ、対象となるオスから隔離するか、去勢するかね」
「……寿々奈さん、人間の話に限定してもらえる?」
「ごめんなさい、つい、昆虫のレベルで考えると冷静に答えが出るから。じゃあ、人間で、なら……そうね、それは熱烈に彼のことが好きなのでしょうから、放っておけばいいんじゃない。何か問題があるの?」
「男の子の方が疲れてるとか、嫌がってるのは問題じゃない?」
「嫌がる女性に性行為を求めるのが間違っているように、嫌がる男性に求めるのも間違っているでしょうね。生物としては間違っていないけれど、人としては大きく間違っているわ。智也も私が疲れているときは遠慮してくれるし、逆もあるわ。相手のことを慮るのは当然のことじゃないの? それができないなら男女交際をする資格はないわ」
「そう……そうよね。やっぱり……」
果凛は二人に礼を言って教室を出ると、携帯電話でジイヤを呼んだ。すぐにリムジンが校門に停車してくれる。
「ジイヤさん、今日の予定は?」
「レッスンが17時から3時間入っております」
「他には?」
「他に予定は、ございません」
「そう」
そろそろ一年生も授業が終わる頃よね……一蹴くん、今日はアルバイトのはず…、果凛はジイヤに頼む。
「レッスンまでに少し骨休めしたいわ。紅茶の美味しいところ、そうね、ならずやに行ってください」
「かしこまりました」
すぐにジイヤは商店街へ向かってくれたが、渋滞の激しい地区なので授業が終わってシカ電でアルバイトに向かった一蹴の方が先に到着していた。車窓から掃除をしている一蹴が見え、いのりも来店して客としてケーキを食べている。他に葉夜と静流、詩音と香菜もいる。
「………………。ジイヤさん、ごめんなさい。少し混んでいるようなので、キュービック・カフェの方へ向かってください」
「はい、かしこまりました」
それほど離れていない店なので、すぐに果凛はキュービック・カフェの客となる。すでに店内には正午とカナタがいた。
「カナタ、日本にいたの?」
「まあねン♪」
「帰ってきてるのなら、帰ってきてると連絡くらいしなさいよ」
「また、すぐウイーンに帰るし♪」
「いつ発つの?」
「3時間後♪ 夜のフライトで」
「……、いつから、日本に戻っていたの?」
「三日前♪」
「………忙しそうね」
「ほたるとショーゴにフタマタかけてるから♪」
「ご苦労様。ここ、いい?」
「「どうぞ」」
正午とカナタがイスを引いてくれる。果凛が座ると、明日からバイトを始める予定の月岡海が初心者マーク付きで接客してくれた。
「ご注文がお決まりになりましたら、…ぉ、お呼びください」
「ありがとう」
三人とも海が同じ学校の同期生であることには気がつかず、果凛は紅茶とケーキを注文した。三人で高校三年間の想い出を話していると、すぐに時間が経ってしまい、果凛が席を立つ。
「もう、こんな時間。レッスンに行かないと。……そういえば、カナタ。KANATAは辞めるの?」
「うん、辞めた♪」
「そう……、もう半年も事務所に連絡してないものね。登録抹消を私から社長さんに伝えておいた方がいい?」
「どーでもいい♪」
「………あのね、カナタ、進学も就職もしないのよね。KANATAを辞めたら、どうするの?」
「ショーゴのお嫁さんになる♪」
「………………。へぇぇ♪ 白河さんは諦めるんだ?」
「ううん、ほたるのお嫁さんになるっ!」
「……。どーでもいいわ。じゃ、またね」
果凛が立ち去ると、入れ替わりに静流が来店してきた。その手に、ならずやからテイクアウトしてきたケーキ箱を持っている。
「ぃ、いらっしゃいませ」
「……」
海が慣れない接客で静流を案内しようとするけれど、妹の恋人になったはずの正午が以前の恋人だったカナタと同席しているのを見つけて顔を曇らせた。
「……」
「ぉ、お客様?」
「……」
正午くん……ほたると夏に……ほたるのバージンを……それなのに、また、カナタさんといるって…………健くんとも半年で終わってしまって、悲しんでいたのに……、静流は姉として一万キロ先にいる妹のことを想い、胸を痛めた。そして、妹のために正午の気持ちを確かめる。
「……。あら、正午くん、お久しぶりね」
「あ…、静流さん。どうもっす」
「ハーイ、静流」
カナタと正午は自分たちを見つけた静流が鬼気迫る顔を一瞬で包み隠して、かなり複雑な表情をしながら考え込んだ後、あえて近づいてきたことに気づいていたので、静流に合わせて平穏な対応をしてみる。
「オレ、静流さんと同じ大学に決まりましたし、よろしくお願いします」
「そう。合格おめでとう。これからは先輩としてビシバシっしごいてあげるわ」
「うっ…それは、勘弁を…」
「ここ、いいかしら? 一人は淋しいから」
静流はカナタたちのテーブルを指して探りを入れる。
「それとも、デートのお邪魔かな?」
「「…、どうぞ」」
正午とカナタは同時にイスを勧めた。やっと着席してくれた静流に海が声をかける。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
「今月の新作スイーツを三つ全部と、コーヒーをホットでお願い」
「三つ全部ですか?」
「ええ」
「はい、かしこまりました」
海はオーダーを書いて厨房へ戻っていく。静流はカナタと正午を観察する。カナタと正午は観察されていることに気づいているので平静を装う。さすがに、ほたるとの関係は、ほたる本人が家族に話すまで隠しているつもりだった。
「カナタさんは、四月から、どうするの?」
「さあ?」
「……、どこかの大学へ?」
「ううん、どこも行かない」
「じゃあ、就職?」
「ううん、就職もしないよ」
「……、それじゃあ、どうするの?」
「だから♪ さあ?」
「………、フリーターってこと? どこかでアルバイトを?」
「バイトもしないかな」
「それは、さすがに困らない?」
「大丈夫♪ お婆ちゃんの遺産があるから」
「遺産って……?」
「興味ある?」
「……そう言われると…」
「静流にだけ話してあげるから秘密にしてね。うちのお婆ちゃん、遺産を全部、アタシにって遺言を残してたの。いくつもアパート持ってたけど、うちのお母さんと仲悪くて♪ お母さんは、いわゆる社会活動家ってヤツでね。で、貧しい母子家庭とかにアパートをただで貸してあげたりしてたんだけど、そーゆーのお婆ちゃんは嫌いでね。あの人は猫でも自分の土地に入ってくるヤツは追い出すくらいの地主さんだったから」
「……嫁姑の不仲で孫に遺産を全部?」
「そう。だって、お母さんの代になったら慈善活動に全部使われそうって不安に思ってたみたい。で、アタシにアタシのために使いなさい、できれば、貯めて増やしなさいって全部くれたの♪ だから、就職も進学もしないの。自称アパート経営業ってヤツだけど、不動産管理会社に任せてあるから何もしなくてお金が入ってくるよ。羨ましい?」
カナタは妹の恋敵ではないかと探られるのを避けるため、静流の興味を引きそうな話をして陽動する。それは成功して、静流は働かないで生きていくつもりの18歳に年上らしい苦言を呈することにした。
「………、それを羨ましいとは思いたくないわ。私は大学を出たら働くつもりよ。カナタさんは、なにかやりたいことはないの?」
「ない♪」
「……、ほたるはウイーンに行ってまでピアノを頑張っているし、私も大学に入ってから遅まきながら料理に興味を持って、今は専門学校にも通ってるの」
「えらいね。誉めてほしい?」
「………」
さすがに静流がムッとして黙った。そこへ海が新作の洋菓子とコーヒーを運んでくる。
「ご注文のニューデリーゼリーとムンバイパイ、ヘルプミープリンズ、ホットコーヒーです」
「ありがとう」
「ごゆっくりお召し上がりください」
海が一礼して立ち去ると、静流は持参したケーキ箱を開けて、そっくり似ている洋菓子を出した。
「やっぱり……」
「何がやっぱりなの? 静流、六つも並べて、太る気?」
「食べ比べてみたいの。よかったら、二人も食べてみて。それぞれ少しずつ」
「「………じゃあ、いただきます」」
アイコンタクトで断るより得策だと確認し合ったカナタと正午は六つの洋菓子を静流と食べ比べてみる。
「やっぱり味も似せているわ。でも、レシピは違う……」
「ん~……似たような味だね。けど、何か一つ二つ、使ってる材料が違うのかな」
「この店は三上が就職する会社から仕入れてるって。まあ、でも、同じ様な味じゃないかな?」
「正午くん、こっちを食べてみて」
静流が持っているスプーンにプリンを載せて正午の口へ運ぶ。こだわらない男は、ほたるの姉と間接キスをした。
「ちょっと、甘いかな。持ち込んでる、これは、どこの店の?」
「ならずや、よ」
「ああ、あの、のんちゃんが働いてる店」
「ええ。でも、どうして……どちらかが盗もうとしたとしか……」
静流が食べ比べながら考え込んでいると、一太郎が近づいてきた。
「お客様、当店は飲食物の持ち込みはお断りしております」
「ごめんなさい。店長さんですか?」
「はい」
「ならずやというお店を知っておられますか?」
「知っていますよ」
「………。このスイーツ、あまりにも似ていると思いませんか?」
「当店のスイーツは全てオリジナルになっております。レシピは開示いたしません。次からは飲食物の持ち込みもご遠慮ください」
それだけ言うと一太郎は厨房に戻った。
「静流、何がやりたいの? 探偵ごっこ?」
「そうね、そんなようなものかな。気になってしまって……。正午くん、こっちは、どう思う?」
しつこく静流はスプーンを使った間接キスを繰り返してカナタの反応を試してみるけれど、正午も気にしないし、カナタも気にしていない。正午が甘味に飽きてきた頃、音緒が来店してきた。売れてきたモデルらしい鮮やかな私服を着ているので、店内でも目立っている。音緒は座る場所を探していてカナタを見つけた。
「あッ、KANATAさん? KANATAさんじゃないですか?」
「え? あ、NEOちゃん。ハーイ♪ お久しぶり」
「お久しぶりって、事務所、どうして来なくなったんですか? みんな心配してたんですよ」
「ごめんね、急に、いろいろイヤになって辞めちゃった♪」
「辞めたって……、……その人、彼氏さん? それで辞めたんですか?」
「ちゃうちゃう。これは元彼、今は……、ショーゴってアタシの何?」
カナタが覗くように正午の瞳を見つめる。静流がいるので果凛のときのような冗談は言えない。正午も少し考えて答える。
「ん~………モトカノかな」
「ということは……」
音緒は静流を見て問う。
「もしかして、今、修羅場? 私、とってもお邪魔ですか?」
「ちゃうちゃう。NEOちゃん、ぜんぜん違うから。まあ、落ちついて座りなよ」
静流との対決に嫌気がさしていたカナタは音緒にイスを勧める。一人で来ていた音緒は勧められたイスに座った。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
だんだん接客に慣れてきた海がメニューを音緒に渡してくれた。音緒はカロリーと気にして考え込む。とりあえず、紅茶だけ注文してからもメニューを見て悩んでいる。
「あ~ん……このヘルプミープリンズには好奇心を刺激されちゃうなぁ…」
「美味しかったよ♪ ね、ショーゴ」
「そうだな。けっこう美味かった。ネオちゃんってカナタの友達?」
「元同僚です。私のこと、見たこと無いですか?」
「えっと………初めて会う気がするけど…」
正午がモデルとしてのNEOに気づいてくれないので、音緒はプライドを刺激されて、お決まりのポーズを取ってみる。
「おりょりょ♪」
「……何それ?」
「………」
「ネオさん、って、もしかして、あの荷嶋音緒さん?」
静流が気づいた。
「正午くん、知らないの? ほら、田原食品のCMにも出てるじゃない」
「え~…っと…」
タモル以外のテレビを重視しない正午は地方チャンネルなど見ていなかったけれど、音緒は好評だったフレーズをやってみせる。
「ねっちと♪ 粘る、田原のマカロニ♪ 粘って粘って粘りゴシ♪ ねっちとな♪」
「……。ごめん、わからない」
「ごめんね、NEOちゃん、こいつバカだから。ほら、ショーゴ、あれ見て」
カナタは窓の外を指した。商店街の街頭に張り出されたポスターがあり、音緒が大きく写っている。さすがに正午も理解した。
「おおっ…すげぇ、君、もしかしてモデル?」
「はい、今度、CDも出るの宜しくお願いします♪」
音緒は買ったばかりの高級ハンドバックからCDの先行予約受付券を出して正午に渡した。
「へぇぇ…インモラル・インパクトか。売れるといいね」
「アタシ、そろそろ飛行機の時間があるから」
カナタが席を立った。予定では空港まで送らせるつもりだったけれど、静流がいるので控えておく。
「じゃ、静流、バーイ♪ NEOちゃんも頑張ってね」
「さようなら。気をつけてね。……飛行機って、どこに行くの?」
「ひ、み、つ♪」
カナタは手を振って姿を消した。
「「「…………」」」
急に静かになってしまい、残された三人は話題を探した。
「ネオさん、ここにはよく来るの?」
「そうですね、最近、いろいろスイーツの美味しい店を探検していて、ここは3回目かな。いつも新作のスイーツが斬新で楽しいし」
再び音緒はメニューを見つめて悩む。そこへ、海が紅茶を持ってきてくれた。
「ご注文の紅茶です。他にご注文はございますか?」
「う~ん……、あと100グラムはダイエットしておかないといけないから…」
「…………………」
黙って待っている海に、音緒は悩み続けて答えが出せない。
「ごめん、あとで、また呼ぶかも」
「かしこまりました。ごゆっくりおくつろぎください。こちらはお下げして、よろしいですか?」
「ええ、お願い。こっちも、もう、いいわ」
立ち去ったカナタの食器と、静流も食べ終わった食器を下げてもらう。静流は腕時計を見て身支度を始めた。
「ごめんなさい、そろそろ専門学校の時間だから」
静流が自分の分の伝票を持とうとすると、正午が止めた。
「いいですよ。オレが払います」
「あら♪ 可愛い子がいるからって見栄を張らなくていいのよ」
「そーゆーんじゃなくて、静流さんには大学に入ってから、いろいろとお世話になる予定だから。楽な単位の取り方とか♪」
「まあ、それを狙うには、少し安すぎない?」
「たはっ♪ ま、とりあえず、先行投資ということで。それに、ならずやのも御馳走になったから」
「そう、そーゆーことなら、おごってもらうわね。ごちそうさま」
機嫌良く静流が帰っていくと、音緒はハンドバックから伊達眼鏡を出した。
「困っちゃったなァァ…」
「どうかしたの? ネオちゃん」
「だって、これじゃあ、デートみたいじゃないですか? NEOが男の子と喫茶店にいたなんてネットに流れたら大変だもん」
音緒は伊達眼鏡をかけると簡単に髪をまとめてゴムで束ねて三つ編みにする。
「これなら、バレないかな」
「そうだね」
「………」
って、この人、NEOと二人っきりって状況を理解してないのかな……KANATAの元彼だけあって、顔はいいけど、頭は悪いのかな……普通さ、このNEOといきなりツーショットなんて、もっと動揺してしかるべきじゃないかな……、音緒は女性慣れした正午が動じていないので不満だった。
「てへっ♪ 私、最近、学校でも騒がれて大変なの」
「ふーん」
「イッコーじゃあ私のこと知らない生徒はいないかな」
「へぇぇ…」
「………」
何このバカ……、音緒は苛立って食欲が湧いた。今さら紅茶を持って席を立つこともできないので、せめて甘い物を食べようとメニューを睨む。不意に正午が口を開いた。
「君、可愛いもんな。きっと、人気出るよ」
「っ…………」
おりょ……りょ……そういうこと……さっくと言える? けっこう不意打ち……心臓にドキっと……きたかも……って、まさか、こんなバカそうな人に、このNEOが……ありえないって………でも、……このドキドキは……、音緒は否定したかったけれど、逆らいがたい運命的な衝動を覚えてしまい、顔が赤くなるのを抑えるのに苦労した。
「…………」
「………」
正午はヒマそうに外のポスターの音緒と実物の音緒を見比べている。音緒が売れているモデルだと知っても、果凛やカナタに長く接してきた経験もあって、とくに思うことはなかった。
「……えっと、…しょーご…さん? って、それは下の名前なんですか?」
「あ、うん。ごめん、君の名前だけ聞いてオレが、まだ、だったね。オレ、加賀正午。加賀は普通の加賀、正午は昼間、ちょうど12時、真っ昼間の正午♪ 浜咲の三年だけど、すぐに千羽谷大学の一年」
「千羽谷大学に行くんですか。見かけによらず賢いんですね」
「たはっ♪ まあねン♪」
「………」
あっ、やっぱりKANATAの元彼なのは本当なんだ……名残がある……私ってKANATAの抜けた穴でチャンスをつかんだけど……彼氏まで、おさがりってのは……けど、なんで別れたのかな……さっきの感じだと、KANATAの方が、まだ未練ありそう……ヨリを戻したいって感じ………フフ……もし、未練ある元彼を私がゲットしちゃったら、あの人、どんな顔するかな? 仕事も彼氏も、全部私に持っていかれたら……あの余裕ぶった態度も………フフ……切羽詰まった泣き顔に……捨てられた仔猫みたいに…フフ…、音緒は恋心に加えて暗い気持ちを抱いた。
「とりあえず、何か、オーダーしよっと。今月は新作が三つもあるよぉ~」
「テンチョー、インドで充電したからね。張り切ってるな」
「このヘルプミープリンズは決定として、あと、……ニューデリーゼリーも気になるけど、二つは絶対カロリーオーバーだし…」
「大変だね、モデルさんは」
「大変なんですよ、自己管理♪ あ、そうだ。もし、よかったら、私、プリンとゼリーを頼むんで、半分、食べてもらえませんか? もちろん、スプーンは別々で」
「うげっ…」
「……………………」
うげっ……って、……今、……うげっ、…って言った? このNEOの食べ残しをいただける光栄を…………イッコーの男子だったら、落ちてたとしても拝食するはずの……実際、ゴミ箱に捨てた空き缶の飲み口を舐められる事件まであったくらいの……それを、うげっ……って……どういうこと……、音緒は無表情を装うのに、かなりの苦労をした。
「てへっ♪ うげっ、なんて、ひどいなァァ。傷ついちゃったかも」
「あ、ごめん。そーゆー意味じゃなくて、さっき、かなり食べたからさ。カナタたちと六つも試食して、もう甘い物はいらないって気分なんだ」
「なんだ、そういうことですか」
そういうことでも、けっこう失礼な人………まあ、許してあげる……六つは、確かにきついでしょ、音緒は気を取り直して海にプリンを注文して正午と雑談を続ける。話題がバスケットボールの話になり、音緒は感心した。
「へぇぇ♪ じゃあ、中学で全国優勝したんですか。すごいなぁ」
「まあねン♪」
「中学で、けっこうモテたんじゃないですか? 正午さん」
みょーに女の子に慣れてる感じなのは、そういうことかな……全国優勝ともなれば、そりゃ女子の憧れの的になるし、きっと、バスケ部内で一番ハンサムって感じで、学校のアイドルって風に……ある意味、今の私と釣り合うかも……、音緒は海がテーブルに置いたプリンを一口食べて唇を舐めた。
「優勝して学校でモテモテだったり?」
「そうでもないよ、っていうか、カナタがいたし」
「ああ、なるほど。……KANATAさんとは、いつから付き合ってるの?」
「あいつとは中学に入ったとき……いや、オレは忘れてたけど、あいつは幼稚園の頃からオレを好きだったらしい」
「へぇぇ♪ じゃあ、KANATAさんの初恋の人?」
「まあ、カナタが幼稚園に入る前に誰かを好きになってないなら、そーゆーことになるかな」
「それで、ずっと想い続けて、中学から付き合ったなんてロマンティック♪ でも、どうして高校まで続いたのに別れちゃったんですか?」
「ん~~……まあ、ケンカ別れかな」
「おりょりょ♪ 普通ですね。でも、さっきの感じだとKANATAさん、ヨリを戻したいんじゃないですか?」
「ん~…………まあ、そうかも……まあ、カナタの話、もういいじゃん」
「そうですね」
あっ…誤魔化した…なるほど、正午さんはビミョ~で、KANATAはヨリを戻したいわけね……子供の頃から大好きだったなんて……あの人の一番大切なもの……、音緒は食べ終わってしまわないよう時間をかけてプリンを食べる。いろいろと正午の話を聞いていると、急に正午が顔を曇らせた。
「どうしたんですか?」
「……いや、何でもない。……っていうか、ごめん。苦手な人が来た。隠れさせて」
正午は小柄な音緒の影に身を潜めて、出入口から死角になるよう移動した。急に密着された音緒は心臓が高鳴るのを感じて、恋に落ちてしまっていることを強く自覚したけれど、それを練習中の演技力で押し隠す。来客に海が挨拶した。
「いらっしゃいませ」
「Bon soir!」
フランス式の挨拶をしたのは、エリーズだったけれど、対象は正午ではなく一太郎だった。
「いらっしゃい。mademoiselle」
商売上手な一太郎は、お嬢さんとフランス語で正確に発音した。エリーズが嬉しそうにカウンターに座る。海がお冷やとオシボリを置く。
「ご注文がお決まりに…」
「白ワインをお願い」
エリーズは海にではなく一太郎に頼む。
「かしこまりました」
「ねぇ、終わったら呑みにいかない?」
「たはっ♪ 生粋のフランス人にはかないませんよ」
客からのナンパを一太郎は巧みにかわしている。海も今日一日で何人かの男性客に声をかけられたので後学のために一太郎の回避術を見習うことにしてエリーズの接客は任せる。一太郎がグラスワインをエリーズの前に置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
エリーズは一口呑んで微笑した。
「イタリア産ね」
「さすが」
「赤はフランスに限るけれど、白はイタリアもいいわね。何か合う物をちょうだい。それと、一太郎にもグラスで同じワインを」
エリーズは上機嫌で一太郎を口説きながら、グラスに映った正午と音緒の様子を観察する。エリーズが気づかなかったと思っている正午はホッとして音緒から離れている。
「ふふ♪」
正午ちゃん、また可愛い子を♪ ……でも、彼って年下趣味なのかな……私から隠れるなんて、まあ、こっちとしてもクロエを預かってもらってる三上さんちと関わりのある正午ちゃんに、これ以上深入りするのは危ないし、その子のことは、見なかったことにして、ホタちゃんには報告しないであげる、だから、私のことも見なかったことにするのよ、エリーズは地中海的な楽観で正午のことは忘れる。正午も楽観して音緒に礼を言った。
「ありがとう。見つからなかったみたいだ」
「あの外人さん? 正午さんが逃げてるの?」
「うん、まあね」
「どういう関係なんですか?」
「たまたま旅先で知り合ってさ。それ以来、つきまとわれて困ってるんだ」
「モテるんですね」
「たはーっ……勘弁してくれよ」
「てへっ♪」
まあ、勘弁してほしいよね、あの外人、美人だけど三十路……もしかして40歳かな……テンチョーさんとなら、いいバランスかも……テンチョーさん、かわそうとしてるけど、だんだん、追い込まれてる感じ……あ、とうとうデートの約束まで……あの外人さん、強引だけど、上手な攻め方、ベテランって感じ、さすがヨーロッパの人は違うなぁ~…プロバンスぅ~♪ 音緒は最後のプリンを口に運んだ。
「美味しかった♪」
「そろそろ帰ろうか? ネオちゃん」
「そうですね」
音緒が身支度をしていると、正午は自然に伝票を持った。
「あ、私の分、払います」
「いいよ、どうせ、ついでだし」
「でも…」
へぇぇ♪ こういうところは、いい男……私がモデルだから高収入あるだろうって思わないで、男らしい見栄を張ってくれるなんて♪ 音緒は可愛らしく頭を下げて礼を言った。
「ありがとうございます、ごちそうさま」
「どういたしまして」
正午は海を呼んで会計を終えると音緒と店を出る。
「じゃ」
「ぁ…、はい、じゃ」
ケータイ番号とか、訊いてこないんだ……いきなり私からってわけにも………このお店が、行きつけなら……また出会えるかな……とりあえず、今日は深歩にお土産を買お、音緒は踵を返して再入店する。
「すいません、ムンバイパイをお持ち帰りお願いします」
「お持ち帰りですか…、はい、訊いてきます」
海は初めての注文を受けて、エリーズと過去の旅行先やフランス製のバイクについて話し込んでいる一太郎に問い合わせる。すぐに戻ってきて困った表情で頭を下げた。
「すいません、お持ち帰りは、やってないそうです」
「そうですか。……なんとか、お願いできませんか? 箱代なら払いますし」
「えっと……もう一度、訊いてきます」
海は再び一太郎に訊ねる。また、すぐに戻ってきた。
「やっぱりダメだそうです。すいません」
「………。割増料金でもいいですよ。お金ならあるから」
音緒は一万円札を出して海に押しつける。海は一万円札を持って困った顔で一太郎のところへ駆けつけた。少し話して、今度は一太郎が出てきた。
「うちはお持ち帰りはやってないんだ」
「お釣りはいらないです」
「たはっ♪ いいね、そーゆーの可愛いよ。でも、ダメ」
「どうしてっ?」
「こだわり。うちの菓子は、うちで食べてもらう。お持ち帰りだと温度や湿度、いろいろ提供する前提が崩れるからね。また、来てよ」
「………ここに、来られない人に食べさせたいのに」
「どうして、来られないの?」
「その人は脚が悪いの。車イスだから」
「なるほどね。それは盲点だった」
一太郎は少し考え込む。
「じゃあ、こうしよう。来週までに、ここの段差にスロープを作っておくよ。テーブルも置き方を工夫する。それで、どうだい?」
「…………。………」
そんなこと言われても、今の私が深歩を連れ歩いたりしたら、NEOの妹が身体障害者なんだって偏見と差別を受けてネットで………、音緒はタメ息をついて諦めた。
「もう、いいです」
音緒は背中を向けて去っていく。その背中に一太郎は声をかける。
「スロープは作っておくよ! ぜひ、お越しを♪」
「…………………」
音緒は振り返らずに帰宅する。家について玄関に入ると、見慣れない靴を見つけた。
「深歩にお客さん……?」
男物の靴だったのを意外に思いながら音緒は二階へあがると、深歩の部屋へ入る。
「深歩?」
「「っ…」」
室内には深歩と扉がいた。不意に音緒がドアを開けたので、深歩の膝に顔を伏せていた扉は慌てて起きると、涙を手で拭いてバツが悪そうに視線を斜めに流す。深歩が怒った。
「お姉ちゃん、ノックくらいしてよ!」
「ごめんね。誰かいるとは思わなくて」
音緒は謝りながら妹が連れ込んだ男を観察する。真っ黒なライダースーツに赤いラインが入った姿はヒーローものの実写番組を思い出させる。靴を脱いでいるので扉が片足義足なことにも気づいた。
「……」
ガラの悪そうな人……あ、でも、義足なんだ……なるほど、それで深歩と接点が……泣いてたみたいだけど、きっと、障害のことで落ち込んで、それを両脚不自由な深歩に励ましてもらったり、慰めてもらったりしてたのね、まあ、障害者は障害者同士、慰め合うのは精神的にもいいことだよね、モデルはモデル同士、身障は身障同士、お互いのレベルに合わせて生きていく方がいいし、音緒は納得して扉に声をかける。
「深歩と仲良くしてあげてくださいね」
「……ちっ…」
扉は舌打ちしただけだった。リナのことを深歩に告白して感極まって泣きついていたタイミングで音緒が現れ、その姉の視線と表情で何を考えていたのか、大方の察しがついただけに腹立たしい。
「……」
「じゃ、ごゆっくり」
笑顔を作った音緒は部屋を出てドアを閉めた。
翌々日、日曜日なのに仕事へ行く幸蔵に、エリーズは小言を言った。
「結局、あなたは私たちより仕事を取るのね」
「大事な用件なんだ。午後には戻るから、見逃してくれ」
幸蔵はスーツを着て身支度をしている。
「ちゃんと平日も二日に一回は夕食をともにできるよう帰ってきているじゃないか」
「そうね。夕食を食べて、ノエルとお風呂に入って、それから、また会社に戻って仕事をして深夜に帰宅。また、早朝に出勤。これじゃあ、私に欲求不満が溜まると思わない?」
「お前の相手は、今夜にでもするから」
「お前?」
「……エリーズ、子供の前で、夜の話はやめないか?」
幸蔵はノエルが朝食のチョココロネを食べながら二人の会話を聞いていることを気にしたけれど、エリーズは頓着しない。
「赤ちゃんはキャベツから産まれるわけでも、コウノトリが投下してくるわけでもないでしょ。誤魔化して、どうするの?」
「それは、そうだが、欲求不満だとかだな……ああ、もう、こんな時間だ。とにかく、行くよ」
「日曜日に仕事をするバツとして、私とノエルに欲しい物を買ってちょうだい」
「わかった、わかった、何がいい? ノエル」
「チョコレート♪」
「バイク♪」
「……エリーズ、……」
「だって、日本での足がないのよ、私」
「………バイク免許あるのか?」
「もともと国際免許証だから、クルマしか乗れない免許だけど、警官に出会ったらフランス語しか話さないから大丈夫よ」
「それは大丈夫のうちに入らないが……」
「買って」
「………わかったよ。じゃ、もう行くからな」
会話を切り上げて幸蔵は家を出て、会社に入る。日曜なので他の社員は出勤しておらず、智也も呼んでいない。約束していた興信所の職員だけが、静かに待っていた。
「おはようございます。嘉神川社長」
「ああ、おはよう。それで調査の結果は?」
「はい、こちらに」
秘かに内偵させていた結果を知り、幸蔵は眉をひそめた。
「そうか………やはり…」
クロエと智也のことを調べるよう依頼された興信所は、すぐに学園祭でクロエが乱心したことを突き止めていた。高校の文化祭に中学生が現れて、思いつめて包丁を振り回すまでに至ったことは生徒の間では広く噂になっていた上、カップルとして智也と鷹乃は有名だったので、調査は難しくなかった。さらに、現在は三上家に住んでいるクロエは智也への気持ちを押さえ込み、妹のような関係で智也や鷹乃と接し、鷹乃も恋敵が同棲していることを受け入れ、嫌がらせをしたりせず、むしろ親切と言っていいほど優しく接していることも調べ上げ、さらに、二人はクロエがいる家では性行為を避けて、自由登校になっている学校で若い情熱を処理していることも突き止めていた。
「…………」
浮気調査を引き受けることが多い興信所のレポートは文書だけでなく写真もあり、決定的な瞬間を撮影することに長けているので、超望遠レンズで撮影した教室で交わる智也と鷹乃を映している。数枚の写真の中で、鷹乃は制服を半裸に脱がされ、智也に乳首を吸われながら、クリトリスを指でなぞられ、快感によがっていたり、机の上で四つん這いになって智也に陰部を向けて自分で指で拡げたりしている。
「……………」
他にも自由登校の教室で二人っきりなのをいいことに、全裸になって机に寝た鷹乃の身体に手作り弁当のオカズを置いて女体盛りをしたり、口移しで食べ合ったり、鷹乃の胸やお尻でオカズを挟んで智也に食べさせたり、掃除用バケツに犬と同じポーズで放尿していたり、体育でもないのにブルマや水着を着用して縄跳び縄で股間や胸を縛られたり、およそ男子高校生がやってみたいと思うことを毎日着実にこなして高校最後の想い出を二人でつくっている。もちろん、オーソドックスに鷹乃が男根を舐めている写真もあれば、鷹乃がクリトリスを吸われて喘いでいる写真もあった。どの写真も鷹乃が嫌がっているのを強制している素振りはなく、鷹乃も教室でも智也にしか見られていないなら恥ずかしいとも思っていないようだったが、さすがにお尻に挟んだピーマンの肉詰めを食べさせるときには真っ赤に赤面していて、かなり興奮した様子で、その後の写真ではアナルセックスで乱れてヨダレを垂らしている。智也も鷹乃も若くして覚えた性行為の快感を追求し合っているようだった。
「…………………」
この調査員……優秀なのは確かだが……ここまで撮りまくる必要は……あったのか、……だが、三上君もワシの前ではおとなしそうな顔をしているが、こういう側面があるのか………たしかに、これなんかはエリーズに試したら喜びそうだが……ワシは、そーゆー趣味がないし……案外、同じ時代に産まれていたらエリーズはワシより三上君を選びそうだな……ワシとのセックスは、そんなに退屈なのか……………オーラルセックスにも二人とも抵抗ないようで時代の差を感じるな……それにしてもタカノさんキレイな身体をしている……はっ、いかんいかん! 目的はクロエを幸せにすることで二人の生活を盗み見ることじゃないはずだ、幸蔵は勃起しかけている自分に気づいて、写真を伏せて机においた。
「………。ところで、タカノさんは本当にクロエに悪感情をもっていないのかな? 一度はクロエも三上君に告白したということじゃないか、そんなクロエと一つ屋根の下に暮らすことにタカノさんは心平穏でいられていると?」
「少なくとも調査中には、目に見えて嫌がらせをしたり、同居を迷惑がるような素振りは一度もありませんでした。三上宅の台所は磨りガラスなので、ぼやけた写真しか撮れていませんが、いつも二人で台所に立って料理をしていますが、仲の良い様子に見えることはあても不仲という印象は、一度も。これなどを拝見していただければ」
調査員は新たな写真を幸蔵に見せる。換気のために窓を少し開けているときに台所にいた鷹乃とクロエが談笑したり、包丁で指を切ってしまったクロエの傷口を鷹乃が吸っている写真だった。
「うむ………仲がいいように……見えるな。では、三上君はクロエを、どう想っているのだろう?」
「心の中までは調査できませんが、お嬢様とは距離を置いて接し、それでいて冷遇することもなく節度をもって同居生活を送っている様子です。これなどが例かと」
クロエと智也が映っている写真では二人は兄と妹のように振る舞っていた。楽しくテレビゲームをクロエに教えている写真では鷹乃とは密着することがあってもクロエとは15センチほど離れている。他の写真でも距離はうまっていない様子だった。
「………。クロエが女性として彼に、どう想われているか、わかるか? 推測でいい」
「申し上げにくいことながら、やはり、お嬢様は、まだ中学生、彼でなくとも、こちらの彼女を選ぶのが自然かと。………何年か先には、お嬢様の方がより美しくおなりでしょうが、今は同じ土俵で勝負するのは無理ということではないでようか。このように…」
冬休みにクロエと鷹乃、智也の三人で屋内プールに遊びに行った写真で水着姿の二人が映っている。クロエは中学二年生にしては立派な身体になりつつあるものの、まだまだ、鷹乃には及ばない、比べるのが可哀想という状態だった。
「………………………クロエ……いつのまにか、こんなに成長して…」
エリーズに似るなら……タカノさんを恐れることもないが……時間だけは……四歳の年齢差は20代なら釣り合うが、10代では別世代か……、幸蔵は腕組みして娘の身を案じる。
「クロエは今の生活を、……どう想っているだろう?」
「お嬢様は、よく耐えておられますが、やはり、おつらいのではないでしょうか。お一人になると、このような表情を…」
鷹乃たちと別れて中学へ登校するクロエの写真だった。どこか、淋しそうで儚い、成績が優秀なので生徒会の仕事を受けもっているが、年齢にしては大人びたクロエは他の生徒から頼られることはあっても、頼る相手はいない様子だった。今は三年生を送る会の準備に追われていることも調査員は補足した。
「クロエ……。……」
「調査結果は、以上です」
「わかった。ありがとう。請求書を送ってくれ」
「ご利用、ありがとうございました」
頭を下げた調査員が立ち去ると、幸蔵は社長室の金庫をあけた。
「…………」
三上君は確かにタカノさんを愛しているだろう……だが、彼は………金に弱い……今の若者らしいというか、らしくないというか……かなり現金への執着は強い…………そんな彼は大金を目の前にしても……愛を貫けるかな……クロエが望むものは今まで何でも与えてきたんだ、何でも………、幸蔵は何年も続けてきた間違った愛情の注ぎ方を、まだ続けるつもりだった。チョコレートとバイクと智也、どれも買うつもりだった。
鈴は泣きながらバイクを走らせていた。
「…うぅ……くっ…」
もう何日、走っているのか、忘れてしまった。たぶん、北海道と沖縄以外の全ての都道府県を走った気がする。
「……ここは…神奈川…? ……戻って…きたの……私は……、あいつは戻れなかったのに…」
いつのまにか、住み慣れた故郷に帰ってきている。
「………………………どうしよう……」
先月、弟を亡くした鈴は衝動的にバイクを走らせて全国を巡っていたが、その旅も体力的な限界に近づいている自覚はあった。バイクにガソリンは補給しているが、自分は何も食べていない。
「………信……」
死んだ弟の名前を口にして鈴はバイクを停めた。
「お前は、もっと……苦しかったんだろうね……」
インドの荒れ地で、無一文で餓えて倒れ、そのまま他界した弟が、どんな思いだったのか知りたい。
「もうガソリンも買えやしない……」
財布にあった現金は、すべてバイクに飲み込ませて自分は水道水くらいしか口にしていない。鈴は給油ランプが点滅しているバイクを路肩に駐めた。
「……さあ、……どうしよう……。そうだ…あの子とメールでも……」
鈴は電源を切っていたケータイを出して数日ぶりに電源を入れる。編集者からのメールが何通も届く中、カナタからのメールもあった。ひょんなことから知り合ってメールだけを続けている関係だった。
(最近、どうしたの? 生きてる?)
カナタから心配するメールだった。
「…ふふ……どうしたんだろうな……私は……、まだ生きてるぞ…」
鈴はメールを返信しようとして指に力が入らないことに気づいた。
「あれ……? ……」
足からも力が抜けていく。気がついたら地面にキスをしていた。
「……痛いなぁ……」
路上で倒れた鈴は壊れなかったケータイを握る。ゆっくりと指に力を入れてメールを入力した。
(弟が死んだ。私は生きてる)
送信して待つ、お互い何日も送受信しないときもあれば、チャットのように頻繁にやりとりするときもあり、今はすぐに返事が来るような気がした。
(アタシもお婆ちゃんが死んじゃった。会えなかった)
「……………………そっか……」
(私も会えなかった)
(アタシには支えてくれる人がいたから。今、助け、必要? どこ?)
「…………いや、いいよ……信だって、一人だったんだ……」
(ヘルプは必要ないよ。ノーサンキュー)
鈴はメールを終えた。
「……ああ………死にそうだ……」
さっきから視界が暗い。空は明るいのに、よく見えない。
「…………」
信……お前は……こんな風に………怖いな………このまま死ぬって………誰も助けてくれなかったんだよな……信……、鈴は倒れている自分を横目に見ながら、関わりを持ちたくない様子で去っていく通行人を見るとは無しに見ていた。
「…………死ぬかな…」
餓死なのか、脱水なのか、過労死なのか、とにかく、このままだと死んでしまう気がした。心のどこかで、もう少し臨死体験を味わったら生きようと思いつつ、このまま死んでしまってもいいような気分でもあった。
「……………………………やばい……かな……」
ただ、生きようと思っても身体が動いてくれない。通行人は誰も鈴を助けようとはしない。このまま意識を失ったら死んでしまう、そんな危機感が大きくなってくると、初めて怖いと思えてくる。
「……怖いな………淋しいな……信…………」
意識が遠のいてくる。何度か、意識が飛んでいる気がする。眠るように失神している気がするけれど、それが数秒のことなのか、実は何時間も意識を失っていたのか、それさえわからない。何度目かの意識喪失で鈴は尿を漏らした。ライダースーツの中が温かくて、まるで羊水に漂う胎児のような気分になる。
「……………」
いよいよ死ぬ……失禁までして…………しょせん……人間も生き物……私も轢かれた猫や犬といっしょ……誰も振り返らない……さすがに三日もして腐り始めたら事件に……なるかな……おもらしだって、この歳なら大事件なのに………生理なら……生理……来ないなぁ……田中一太郎なんて偽名としか思えない……大事にしてたバージン………バカなお母さんで……ごめんよ……こんなところで……お前まで巻き込んで……最低の母親だな、私は……、鈴はこの世にいられるうちに、いるかもしれない胎児に声をかける。
「……信……一…………では……ダメか? ………女の子かも……、ごめん……ごめんな…父親も、どこの誰だか……ごめん……最低のお母さんで…」
もう涙を流す体力もないようで、鈴は弟の最後のメッセージを思い出した。
「………へるぷ…………みー……ぷりーず……」
「どうしたんですか? 大丈夫?」
「…天使……?」
鈴は金髪の愛らしいノエルを天使ではないかと錯覚したけれど、羽は生えていない。
「help meって聞こえたから」
鈴と違って、流暢な発音をしたノエルは小さな身体で倒れている鈴を起こしてくれる。
「どうして、こんなところに倒れてるの? 交通事故? でも、バイクは無事みたい……」
「……す……いた……」
「え? ごめんなさい。日本語とフランス語、英語が少しわかるだけで……、えっと、Qu'est-ce que vous avez? Can I help you?」
「………おなか………すいた……」
「………。これ、食べますか?」
ノエルは持っていたチョコレートを鈴に渡した。
「っ…はぐっ…はぐっ…ぅぅ…」
食べ物を見るなり本能的な衝動が爆発して鈴は板チョコをバリバリと食べ、喉が痛いくらいだったけれど、あっという間に飲み込んだ。
「もう一枚、食べますか?」
さらにノエルがチョコレートをくれる。結局、五枚もの板チョコを食べてから鈴は落ちついた。
「ハァ…ハァ…生き返った…」
「よかった」
「すまない……君のチョコを全部……、今は、持ち合わせもなくて弁償も…」
「気にしないで。ノエルにはパパがいくらでも買ってくれるから。でも、日本でも行き倒れになる人っているんですね。いないと思ってた」
「……はは……面目ない…」
「どうして、行き倒れたの?」
「う~ん…………まあ、話せば長くなるけど……ノエルちゃんには世話になったから…」
鈴は言いたく無さそうに、けれど、話し始めると誰かに聞いて欲しかったのだと自覚して喋った。
「そうですか、frere…弟さんが…」
「正直、あいつが家を出たときは、たいして心配もしてなかったんだ。どうせ、その辺をうろついて金に困ったら帰ってくるだろう。そのときは蹴り出してやる、って。でも、あいつがインドで遺体で発見されたって連絡を受けたときは…………………兄弟の情ってのが、こんなに強いものだとは思わなかった。まるで身体の半分を無くしたみたいな喪失感で……なのに、あいつが死んだとき、私は日本で暖かい部屋の中にいて美味しいものを食べていたんだ。その瞬間に自分の弟が死んでいくなんてこと、考えもしないで……信が死んでから私は自棄になって、さっきみたいな無茶をしたり、信を見つけてくれた行きずりの旅行者に身体を許したり、あれから生理も来なくて…っ、ごめん、子供にする話じゃなかった」
「…ううん……ノエルにもお姉ちゃんがいるから…」
ノエルが涙目になると、鈴は涙を耐えられなくなり、しばらく泣いた。
「せめて、あいつが感じた餓えくらい知ってやりたかったから……バカな姉だな、私は」
「ノエルも、お姉ちゃんが、どんな気持ちで日本にいたか…」
ノエルの小さな背中を撫でると、鈴は気持ちが温かくなるのを感じた。
「本当に助けてくれてありがとう」
「ノエルは当然のことをしただけ♪ ………うん、決めた。もう一度、お姉ちゃんに会う!」
ノエルは子供らしい唐突さで立ち上がると、礼を言い足りないでいる鈴に手を振って走り出した。今なら、うまくいく気がする。何の根拠もないけれど、神さまが応援してくれてるかもしれない、ノエルは駆けつけた三上家のチャイムを鳴らした。
「あら、ノエルちゃん。いらっしゃい」
エプロン姿の鷹乃が出迎えてくれる。鷹乃の身体からは甘い料理の匂いがして、ノエルは日本人の母親というのは、こんな感じかもしれないと思った。
「どうしたの?」
「おばさん、お姉ちゃんに会いたいの!」
「そう。呼んでみるわね」
幼女にオバサン扱いされることに免疫ができてきた鷹乃は微笑を崩すことなく台所にいるクロエに声をかける。
「クロエ、お客さんよ。ノエルちゃん」
「…はい…」
あまりいい返事は響いてこないけれど、ノエルが緊張して待っていると、鷹乃と同じエプロンをしたクロエが玄関に出てきた。
「………………………」
「………あ…あの、お姉ちゃん…」
「何の用?」
冷たいクロエの対応にノエルは足がすくんだけれど、勇気を振り絞る。
「ぇ………っと………、……ぁ……ぁ…」
「あ?」
「…あ……会いたくて……、……お姉ちゃんに…」
「………。そう」
「ご……ごめんなさい……急に来て……迷惑なら…」
「……………それほど迷惑でもないわ。鷹乃さんとケーキを焼いていたの。用事がないなら食べていく?」
「うんっ!」
子供らしい遠慮の無さをクロエもこころよく思った。智也は遊びに出ているので三人でケーキを食べて、なるべく他愛のない話題を選んで話していくうちに、少しは打ち解けた気がしてくる。
「おばさん、料理うまいんですね」
「そんなことないわ。この程度なら、生活していくうちに身につくものよ」
「ノエル、鷹乃さんにオバサンなんて失礼なこと言わないの」
「ご…ごめんなさい…、…鷹乃、…お姉さん?」
「いいのよ、おばさんでも。どうせ、あと一ヶ月で女子高生でもなくなるから」
鷹乃はケーキを持ち帰れるように紙箱に入れる。
「次に作るときはチョコレートケーキにしてあげるわ。そのときは呼んでもいい?」
「うんっ」
「クロエ、そこのケーキナイフとフォークを取ってちょうだい」
「はい、ママ」
「「……」」
「ぁ……」
クロエは、うっかり鷹乃をママと呼んでしまったことに気づいた。ノエルが不思議そうな顔をして鷹乃とクロエを見ている。鷹乃は笑顔を作った。
「たまに、クロエって、私をママって呼び間違えるのよ。まあ、学校でも先生をうっかりお母さんって呼んじゃう子もいるから、そーゆーものかもしれないけど」
「クロエお姉ちゃん……」
ノエルは実の姉が母親以外の女性をママと呼称してしまうことに違和感を覚え、それがクロエにも伝わる。クロエは顔を背けて言い捨てた。
「………。あんな人より、鷹乃さんの方が、よっぽど、お母さんらしいもの。あんな人、母親じゃないわ」
「クロエ、よしなさい。ノエルちゃんの前で」
「だって…、………………………っ!」
思春期の中学生らしくクロエは気分を損ねて二階へ駆けあがっていく。鷹乃はケーキを入れた箱をノエルに渡して帰らせる。
「ごめんね、ノエルちゃん。また、来てね」
「鷹乃お姉さん……、…クロエお姉ちゃんに……ノエル嫌われてる?」
「そんなことないわ。でも、まだ、少し時間が必要なの。ゆっくりね。だから、また、来てね」
「はい」
ノエルは肯いて帰宅した。
翌日の月曜日、ならずやの閉店時間までバイトをしていた一蹴は掃除が終わっても帰宅せず、逆に茶器の用意をしていた。葉夜が不思議そうに問いかけてくる。
「一蹴くん、何してるの?」
「秘密♪」
「え~っ……教えてくれないの?」
「そりゃあ、秘密だからさ。ヌシには許可とってあるし」
一蹴は楽しそうにお茶と菓子の準備をしている。
「……。じゃあ、のん、帰るね」
「あ、うん、お疲れ様」
「お疲れ様」
葉夜は帰るふりをして店を出たと見せかけるため、ドアを開閉して着いている鐘を鳴らしつつ、夢中で準備している一蹴が自分を見ていないのを確かめてレジ台に隠れた。
「ミッション・スタート♪」
秘密を探るのが大好きな葉夜は息をひそめて時を待つ。少し眠たくなってくる頃に、ドアの鐘が鳴って来客があった。
「こんばんわ」
「ようこそ、秘密のお茶会へ♪」
一蹴と果凛の声が響いてくる。葉夜は飛び出して驚かそうかと思ったけれど、他にも秘密のお茶会に参加するメンバーがいるかもしれない、どんな秘密パーティーなのか、内容を探ることにした。
「…でね、そのときカナタが言ったの…」
「…あの人らしいな…」
一蹴と果凛は二人で楽しく会話しているだけで、とくに変化はない。思い出話をしたり、学校のことや家のこと、気さくに何でも話し合っている。
「三年生の修学旅行で京都の地主神社に行ったの」
「あの縁結びの?」
「そう。けっこうね、みんな意識しちゃうのよ。安定してるカップルは別として、片想いなんて、とくにね」
「へぇぇ……りかりんも?」
「アタシは、そのときは好きな人、いなかったから」
「じゃあ、今は?」
「……。さあ♪」
微妙な沈黙をつくった果凛はハンドバックから写真を出した。
「ほら見て、そのときの写真」
「あれ? これ、澄空の制服? どうして浜咲の修学旅行に」
「毎年、いっしょなのよ。なぜか」
「ふーーん」
「地主神社は世界文化遺産なのよ。おかげ明神って言うの。ほら、見て」
● おかげ明神 どんな願い事も、一つだけなら必ず「おかげ(ご利益)」がいただけるという一願成就の守り神様。特に女性の守り神として厚い信仰を集めている。また後方のご神木は「いのり杉」とも「のろい杉」ともいわれ、昔、女性の間で流行した「丑の刻まいり」に使われた。白の衣に頭はローソク、顔は真白に化粧をし午前二時「丑の刻」に相手にみたてたワラ人形を人知れずこのご神木にくぎで打ちつけのろいの願をかけたという。その五寸くぎあとが、現在も向かって左後方に無数に残っている。世界文化遺産 京都 地主神社
一蹴は写真を見て、恋人のことを思い出した。
「いのり杉か………」
いのり杉……呪い杉って……なんか、いのり過ぎ、呪い過ぎ、って感じで……いのりのことみたいで……、一蹴はタメ息をついた。
「ふぅ…」
「陵さんと、行ったら話のネタになりそうね」
「まだ、二年も先の話だから。……そのころ、いのりと付き合ってるとは限らないし」
「一蹴くん……」
「りかりんだって二年先、誰と付き合ってるかなんて、わからないよね?」
「それは、そうね。未来は、いつも未定。明日のことだってわからない。今、この瞬間のことだって一人の人間に認識できていることなんて限られてる」
二人はお互いの一挙手一投足に意識がいっているので、まるで葉夜の存在に気づく気配はない。いきなり登場して、おどかしたくなった葉夜は静かに靴を脱ぐ。足音を消してレジ台から出ると、静かに二人に近づきながら「ピーース♪」と大声で叫ぶか、「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」と声色を真似て演じるか、かなり迷ったけれど、前者を選んだ。
「ピーース♪」
「「っ?!」」
果凛と一蹴は目を丸くして飛び上がった。
「ハァっ…ハァっ…の、のん」
「のんちゃ…ん…ハァっ…ハァ…び、ビビったぁ…」
「びっくりさせないでよ。心臓が止まるかと思っちゃった」
「二人で何してたの? 秘密お茶会って何かな? のんにも教えて」
「これは……その……私も一蹴くんも忙しいからさ。ね?」
「あ、うん。ちゃんとヌシに許可とって、使わせてもらってるんだ」
「知ってるのはヌシだけなの?」
「ま、まあ……のんちゃんに見つかったけど……」
「いのりちゃんにも秘密?」
「そ……それは……なんていうか……いのりのことを、りかりんに相談してたわけだからさ」
「そうよ。のん、変な誤解しないでね。一蹴くんの相談に乗ってただけ。りかりんクリニックよ。いつもルサックだと他人もいて落ちつかないし」
「ふーーん……」
葉夜は、ほぼ密室といっていい貸切状態の喫茶店で、とくに相談話も無く、アルバムを見ながら談笑していた男女の自己欺瞞について、さして興味は覚えなかった。
「じゃあ、のんは帰るね。りかりんちゃん、一蹴くん、バイバーイ♪」
葉夜は立ち去ると、果凛と一蹴は黙り込む。
「…………」
「………………………」
「………、一蹴くん、今夜は、そろそろ…」
「そうだね。後片付けはしとくから。りかりんは帰って」
「ごめんなさい。ごちそうさま」
果凛もリムジンで帰り、一蹴は使った食器を片付けると店に鍵をかけて帰宅する。アパートに着くと、部屋に明かりは灯っていた。
「いのり……いるのか……。毎週月曜は遅くなるって言ってあるのに…」
いることの方が多いので意外に思うことなく、ドアを開けた。
「おかえり♪ イッシュー」
「ただいま…」
「ご飯にする? それとも、私にする? えへっ♪」
いのりは裸エプロンで夕食を作っていた。裸エプロンといっても髪の量が多いので露出部分は少ない。
「ご飯で頼むよ。軽くでいいよ、まかない食べたから」
「は~い♪」
いのりが用意した夕食を食べながら、一蹴はタメ息をついた。
「月曜日は遅くなるからさ。いのりも待ってなくていいよ」
「アルバイト、大変なんだね。ご苦労様です」
いのりは愛妻がするように一蹴の労苦をねぎらってくれる。ならずやの閉店後に果凛と会っていたので、すでに日付が変わりかけている。シカ電も終わっているので、いのりが宿泊することになるのは一蹴だけでなく、向こうの両親さえ認知している。一週間のうち四泊は一蹴の部屋で過ごしているので、ほぼ同棲といっていい状態だった。
「ごちそうさま」
「お粗末さまです。お風呂にする? それとも、私にする? えへっ♪」
「お風呂で頼むよ。一人で入りたい」
「え~っ…でも、背中を流してあげたいのに…」
「疲れてるんだ。仕事が長引いたから。頼むよ」
ってか、背中だけじゃなくてフェラされるから……疲れるんだよ……早く寝たいなぁ……でも、いのりはエッチしたそうだし……早めにイってもらって寝させてもらおう…、一蹴は服を脱いで裸になった。
「いのり、いっしょに入ろう。たまにはオレが背中を流してあげるよ」
「イッシュ~~♪ 大好き♪」
「……」
一蹴は抱きついてくる恋人を抱き返してキスをして、風呂に入って背中を流した後に、そのまま愛撫を始める。いのりが感じる腋や乳首を舐めて、クリトリスを擦って高めた後に挿入して絶頂を迎えてもらう。
「…ハァっ…ハァっ…イッシューぅ…」
「のぼせるから先に揚がってて」
「うん…」
いのりは幸せそうに頷くと、脱衣所で髪を拭く。髪の毛の手入れに時間がかかるので終わる頃には一蹴も揚がってきた。二人で部屋に戻って布団に入る。当然のこととしてセックスを期待している恋人に一蹴は応えて、なるべく早く眠れるようにリードして、いのりが感じるのを主眼におく。いのりは真冬の一月、二月でもノースリーブで腋だけは露出しているだけあって、そこを攻めると敏感に反応するので愛撫は楽だった。すぐに蕩けた顔で一蹴を見上げてくるので正常位で交わるために布団に寝かせた。
「イッシュー…ハぁ……来て…」
「ああ。………」
布団に組みしいた恋人の顔を、いのりではなく果凛だったらと一瞬考えてしまった一蹴は首を振った。
「イッシュー…?」
「ごめん、何でもない。ちょっと疲れてるみたいで。もう大丈夫」
一蹴は近いうちに決断しようと思いながら、いのりに入った。