「智也が浜咲だったら」   作:高尾のり子

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第24話

 

 

 

 一週間後の日曜日、鷹乃は朝食の後に鳴った電話を取って、相手が幸蔵だったのでノエルが遊びに来るのかと思ったけれど違った。

「三上君はいるかな?」

「はい。すいません、起こしてきます」

 夫が四月から正社員になる会社の社長からの電話なので、昨夜は三時頃まで遊んでいたらしい智也を起こそうとしたけれど、幸蔵は遠慮する。

「いや、いい。伝えておいてほしい」

「はい、うかがいます」

「大事な話があるから、昼の1時頃に訪問させてもらう。できれば、タカノさん、それにクロエも同席するように。かまわないかな? 予定の方は」

「はい、大丈夫です。とくに予定はありませんから。あ、ノエルちゃんは来ますか?」

「いや、ノエルは連れて行かない。大事な話なんだ」

「そうですか、わかりました」

 ノエルが来るならチョコレートケーキを焼こうと思っていた鷹乃は電話を置いてから、やっぱり焼くことにした。

「お土産にしてもらってもいいものね」

「鷹乃さん、電話、誰だったの?」

「嘉神川の社長さんよ」

「………。父は、何て?」

「大事な話があるからって。クロエにもいるように言っていたわ」

「…………」

 すでにクロエが三上家に住みはじめて四ヶ月になりつつある。さすがに連れ戻すという話をされて当然だとクロエも鷹乃も思いたる。クロエが不安そうにすると鷹乃は安心させるように微笑みかける。

「大丈夫よ。ずっと、ここにいてもいいわ」

「鷹乃さん……」

「でも、確かに向こうのお父さんとしては………、そうね、いい知恵がないか、智也にも考えてもらいましょう。起こしてきてちょうだい」

「はい」

 クロエは二階へあがって智也の部屋に入る。熟睡している智也はクロエの入室に気づかない。クロエはカーテンを開けて日の光を入れた。

「あ、彩花さん、おはようございます」

(おはよう♪)

 窓の向こうで目があった彩花が手を振ってくれる。四月から看護学校に入学する準備をしているようだった。クロエは日光を浴びて布団に潜り込んだ智也を起こす。

「起きてください。朝ですよ」

「ぅ~……彩花……頼む………夕べ遅かったんだ…」

「…………。これは、お仕置きが必要ですよね。鷹乃さんというものがありながら」

 クロエは幼馴染みと勘違いしている智也を起こすために辞書を持った。

「えいっ♪」

「うがっ?!」

 脳天を辞書で強打された智也が目を覚ます。

「痛ぇぇぇ……そんな起こし方しなくてもいいだろ、クロエちゃん」

「寝言で彩花って言ったこと、鷹乃さんに報告してきますね」

「まっ! 待て! 待ってくれ! 違うんだ!」

「どう違うんです?」

「鷹乃なら、オレを寝かせておいてくれるはずだと思ったんだ! 夕べ遅かったろ? 日曜だし、強引に起こすってことは、彩花なんじゃないかって!」

「へぇぇ……寝ぼけていて、そこまで考えられるんですか? ふーーん……」

 疑わしそうなクロエの視線を浴びて智也は苦渋する。クロエは笑った。

「クスっ…じゃあ、罰として、父が私を連れ戻しにくるみたいなんです。何か、いい作戦を考えてください」

「社長が? とりあえず着替えて降りるよ」

「二度寝したら彩花さんのこと報告しますからね」

「寝ないから!」

 智也は急いで着替えると顔を洗って、朝食兼昼食のオムライスを食べながら幸蔵からの電話の内容を二人から聞いた。

「なるほどなァ……たしかに、もう四ヶ月だから、アクションがあったのが遅いくらいかもしれないな。なんとなく社長の考えてること読めるし」

「どんなことなの?」

 鷹乃とクロエはチョコレートケーキを焼きながら話している。

「いきなり帰って来いだと、無理があるからさ。ちょうど、すぐに四月でオレも本格的に仕事に行かなきゃいけなくなるし、今のバイトって身分ほど気楽じゃないから夜も遅いだろうしな。クロエちゃんも受験の三年生になるし、それをキリに自宅へ戻ってこいとか。大人の交渉ごとってさ、いつまでにって、キリを予定するからさ」

「そんなの……私は………」

「ずっと、クロエをここにおいてあげるわけにはいかないの?」

「…………………鷹乃が、向こうの両親の立場だったら、どう思うよ?」

「それは…………、でも、そんなの親の勝手じゃないっ! クロエが家を飛び出した理由は向こうにあるのよ!」

「それは、そうだけど………それは四ヶ月前の話だし」

「智也っ、あなた、どっちの味方なの?!」

「オレは考え方として、そーゆー立場もあるって言ってるだけで、できればクロエちゃんの味方をしたいさ」

「できれば? できなければ、味方をしないっていうの?」

 鷹乃に睨まれると智也はタメ息をつく。

「言い方が悪かった。絶対味方するから、まあ、落ちつけよ。考える時間をくれ」

「1時には来るのよ」

「わかってる。考えるから!」

 智也はソファに寝転がって考え込む。しばらくして閃いた。

「よしっ! これだ!」

「期待していいのね」

「おう。向こうが四月から生活を変えろって言うのに合わせて、受け流して抜け道を行くんだ」

「どうやるの?」

「向こうとしては、こっちに迷惑だからクロエを戻してもらう、って理屈もあるからさ。それを逆手にとって、とりあえず、クロエちゃんは、この家を出る。けど、嘉神川の家には帰らない。中学校の近くとかに部屋を借りて、そこで一人暮らしする。ちょっと贅沢だけど、クロエちゃんの家なら学費も生活費もくれるだろうし、でもって、一人暮らししてるなら、別にオレの家に出入りするのも、寝泊まりするのも、自由だろ? 部屋だけ確保しておいて、実質こっちに住む、これならクロエちゃんの自由だ。どうだ? オレを誉めろ?」

「天才よ、智也♪」

「すごいです! Bravo!!」

「悪知恵を考えさせたら、智也はホントに天才ね」

「はははははっ♪ 悪は勝つ♪ たとえ滅びても何度でも蘇るさ! 悪こそ人類の夢だからだ♪」

 智也が調子に乗っているうちに1時になり、幸蔵が現れた。ソファのあるリビングに通して、鷹乃がコーヒーを淹れた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 幸蔵は普段から仕事で使っているカバンの他に大きなアタッシュケースを持っていた。しばらくクロエの生活の様子や四月からの智也の仕事について無難な話をしつつも、幸蔵が本題を切り出すタイミングを計っているのは三人とも気づいていたけれど、本題の内容は予想外だった。

「…さ…さて。……大事な話があると、言ったが……いいかな?」

「はい、社長」

「ええ、お父さん」

 智也とクロエが応えると、幸蔵は深呼吸して気持ちを落ちつかせてから、真っ直ぐに二人を見つめ、アタッシュケースをテーブルに置いた。ケースを開くと、現金が大量に詰められていた。

「ここに一億円ある」

「「「………………………」」」

 クロエと智也、それに台所にいる鷹乃も意外な話の流れと、初めて見る一億円という現金に黙り込んだ。

「……お父さん? 何を考えてるの?」

 それでも豊かな生活をしてきたクロエは動揺が少なく、父親に真意を問うと、幸蔵は智也に告げる。

「この金を結納として三上君に渡す。だから、娘と結婚してほしい」

「「「っ……」」」

 智也がコーヒーを噴き、クロエがカップを落として紅茶を零し、鷹乃はチョコレートケーキを落としてしまった。

「ひゃッ、社長っ?!」

「お父さんっ?!?!」

「クロエは黙っていなさい!! これは男同士の話だっ!!」

 だが、クロエとタカノさんにも聴いていてもらう必要がある、すまないがタカノさんには貧乏くじを引いてもらう、クロエのためにっ! 幸蔵は社長としての威厳と迫力を発揮して智也に迫る。

「真剣な話なんだ。三上君」

 あえてアタッシュケースから札束を出してテーブルに置いていく。両手で一回に一千万円ずつ、それを十回、テーブルの上には札束で大きな立方体ができた。

「…………………………………………」

 智也は食い入るように現金を見つめる。噴いたコーヒーを拭くのも忘れて一億円に視線を浴びせている。

 パンっ!

 智也が自分で自分の顔を叩いた。

「………………………」

 落ちつけっ、オレ、落ちつけよ、おちつくんだ……一億……一億だぞ……いや、だから、落ちつけって……要するにイエスか、ノーか、イエスならクロエと一億、ノーなら鷹乃、それだけの話……いや、違う、ノーなら鷹乃と失業だな……ここまでの話を蹴ったんだ、社長だってオレだって、オレが嘉神川食品で働くって線は消える……いい会社だと思ったんだけど……けど、イエスなら一億とクロエ………ノーなら鷹乃と失業………、智也は脂汗なのか冷や汗なのか、よくわからない汗が目に入って視界が歪んだ。一億円が歪む。

「……ハァ…………ふぅ………」

 パンっ!

 また、自分で自分を叩いた。

「落ちつけ、オレ」

 落ちつくんだ……でも、一億………一億だぞ……クロエと関わってから金運が良くなって……秘かに貯めてるのは約500万……でも、せいぜい一年遊んで暮らせるだけで……一億なら一生遊んで暮らせる……一年と一生じゃ、ぜんぜん……、智也は再び頬を叩いた。

 パンっ!

「……………………」

 落ちつけ……オレ、……でも、一億……一千万の10倍……いや、だから落ちつけって……数でも数えて落ちつこう……一の次は二、二の次は三……いや、素数を数えよう……1……2……3……5………7……9は3で割れるから……11……13……17……よし、落ちついた、智也は座り直して幸蔵を見る。

「………」

「………社長、本気ですか?」

「無論だ」

「……………………」

 イエスかノーか……イエスならクロエと一億……ノーなら鷹乃と失業……イエスか、ノーか……………………イエスか……ノーか……いや、抜け道だってあるじゃないか、この一億をもらっておいて、鷹乃と……いったんは離婚届を出して、それからクロエと結婚して離婚して、鷹乃と再婚すれば……けど、当然、社長は報復行動に出るだろうな、娘と自分をコケにされたんだ、オレだったら絶対に復讐する……一億もって鷹乃と逃避行……それもいいな……けど、追いつめられて殺されたりとか……一億あれば人殺しを引き受けるヤツだっているだろ……………やっぱり、ノーで鷹乃と失業……この就職難の時代に、もう三月だってのに……浪人して大学……それも面倒だし………だったら、イエスでクロエと一億か? ………ありえないだろ、この段階で鷹乃を裏切るなんて……でも、一億だぞ、一億………どうするよ……オレ………頭痛くなってきた……なんか、泣けそうだ……いや、考えろ……逃げるな……金と鷹乃と、ほしいものを手に入れてこそ、人生だろ……金と鷹乃………社長からの報復を防いで………報復を防ぐ……防ぐ……いや、攻撃こそ最大の防御……………だったら………よし、決めた、智也は一億円の立方体から視線をあげ、立ち上がった。部屋の中を歩いて幸蔵の死角に入ってから鷹乃へ視線を送る。

「……」

 オレを信じろ! お前を愛してる! 絶対裏切らない! だから信じろ! 智也は人生最大のアイコンタクトを送って、すぐに幸蔵へ視線を戻した。

「鷹乃に慰謝料を三億円。オレには今の倍、二億円の結納をキャッシュで。それが条件です」

「なッ……ご、五億も払えというのかね?!」

「無理な額ではないはずです。会社のビルには抵当がかかってますけど、自宅はキレイですよね。家を抵当に入れてもらえば、現金で五億、用意できるはずです」

「………このワシに向かって、そこまで言うのか?」

「義理の息子になるなら対等な立場で。それとも、おとなしい言いなりになる婿養子でクロエさんが満足するような人だと?」

「見込んだ男に手を噛まれるわけか……」

「飼い犬じゃないですから」

「…………………………………」

 まさか……そう来るとは……五億も………たしかに、ワシが悪い……仲のいい恋人と別れて娘と結婚しろというのは、悪役の仕事だ、それは、わかっている、わかっていて、悪役に徹するつもりだった………だが、五億……上乗せを要求するのは彼だって悪役というわけか……いや、彼が金に執着する男だというのは予想通り……しかも、我が社の財務状態まで把握している……帳簿は棚においてあるだけだから、職員なら誰でも見られるが、それをチェックしていて、さらに限度額いっぱいに要求してくるとは……だが、それだけデキる男が嘉神川食品に入ってくれるなら……実際、バイトの立場で営業しているときから、口のうまさで新しい取引先をつくってくれた……この男なら田原の女社長とも渡り合ってくれる……ワシと協力すれば、より大きい嘉神川食品の将来を………五億…ぎりぎりの額だが、借りて返せない額でもない……それに、もしも会社が傾いたら、ワシが引退して、社長の座を譲れば、二億を持った男が社長……嘉神川食品は、続く……いや、この男はワシの早期引退を望んでいるのかも……それは、それで、今までエリーズやノエルに何もしてやれなかった分、ワシも会社から解放されて………五億か……わかった……この男を五億で買おう……だが、一つだけ心配もある、それは取り除いておかなければ、幸蔵は智也を睨むように見つめた。

「わかった。五億円、用意しよう。だが、条件がある」

「どんな?」

「クロエと三年間、暮らしてもらう。セントヘレナ島で。あそこはエリーズと新婚旅行にいった想い出の土地だが、そこで三年、その間に二人には家庭教師をつける。三上君には経営学、クロエには高校の学習を、クロエが帰国することは許すが、三上君が帰国することは許さない。到着後パスポートは預からせてもらう。三年、修行してほしい。それが条件だ」

「っ…………………………」

 智也が息を飲み、顔色を変えた。

「どうだね? …………」

 やはりな、五億を渡したら、形だけクロエと結婚して、のちにタカノさんとランデブーするつもりだったか………怪しいと思わせたのは、別れる相手に三億も渡せと言うから……自分が二億でタカノさんに三億、欲深い君にしては不似合いじゃないかね……だが、その線も消えた……三年あれば人の気持ちはかわる……クロエだって三年後には17歳の女盛り、しかも、君は英語が苦手だ、内定を出す前に学校からもらった内申書は見ているんだ、国語と社会は得意だが、英語と数学は苦手なようだね、ならば、セントヘレナではクロエとしか会話できまい、何をするにもクロエの助けがいる、その環境で二人で生活すれば情も生まれる、タカノさんだって三億もって自由になるなら、はたして三年も異性と暮らす男を待っていられるか、信じていられるか、お互いを信じられるか、幸蔵は悪役に染まる自分に少し酔った。

「イエスか、ノーか。君が出した条件は飲んだ。さあ、答えを聞かせてもらおうか? ファイナル・アンサー」

「ぅっ…………………………………………」

 三年……三年だぞ…………しかも、セントヘレナ島って、あのフランス皇帝ナポレオンが流された島じゃないか、パスポート無しで脱出は絶対無理だ……アルプス超えた男でも不可能だったんだ……オレの辞書には不可能は多い……それに三年……三日や三週間なら、オレも、鷹乃も信じていられる……けど、二年、三年となったら……人間の気持ちに絶対なんてないだろ……いっしょに暮らす三年と……顔を見ない三年…………セントヘレナって日本規格のケータイだって通用するか、どうか……そもそも鷹乃との連絡は家庭教師という名の監視者に………ダメだ………じゃあ、どうする……結局、……鷹乃と失業か……せめて一億だけでも……いや、もう……無理……いっそ、クロエと五億……いや、三年後に鷹乃……三年……三年………頭が…痛い……気分が悪くなってきた、気持ち悪い……吐きそうだ……、智也は息苦しくなって顔を伏せた。

「…ハァ……ハァ……」

「答えは?」

「ぅっ……くっ……うっ!」

 急に立ち上がった智也は台所に走ると流し台に嘔吐した。

「ごほっ! げほっ!」

 鷹乃が作ってくれたオムライスが未消化のまま無駄になる。

「…ハァ……ハァ……ぅぅ…」

「お父さん」

「クロエは黙って…」

 幸蔵の顔に空のアタッシュケースが飛んできた。

 ガッ!

「うっ?!」

 娘が投げたアタッシュケースを顔面に受けて幸蔵はソファから転げ落ちた。さらにクロエは仕事用のカバンも投げつける。中身が入っていたカバンは重く、幸蔵に当たると書類を撒き散らして転がった。

「ぐぅぅ…クロエ……なぜ…?」

「それが、わからない人だから……、もう、あなたをお父さんとは思わな…っ?!」

 クロエは散乱した書類の中に、鷹乃と智也の写真を見つけて驚愕した。写真の二人は教室で半裸で抱き合っていたり、全裸でさえあった。

「この写真…」

「っ?! み、見ない方がいい!」

 幸蔵は何かの交渉材料に使えるかと思って持参した興信所のレポートを慌てて隠そうとしたが、二度目にカバンが当たった胸が痛み、動けない。クロエだけでなく、台所にいた鷹乃も自分の写真を見てしまった。

「っ……イヤっ!!」

 夫にしか見せていないつもりの淫らな自分の姿を、他人、それも幸蔵のような年かさの異性に写真という形で見られていたショックで鷹乃が悲鳴をあげて座り込んだ。

「イヤぁあぁ……」

「……鷹乃さん…………っ!!」

 クロエは父親を睨みつけた。

「ちっ、違う! 誤解しないでくれ! クロエ! これは三人の生活を調査させた者が勝手に!」

「……………………」

 クロエの瞳は不審を通り越して確信的に父親を性犯罪者だと思う色になった。

「クロエ……ち……違うんだ……これは……調査を……」

「……………………」

 碧海色の瞳が、幸蔵を冷め切った視線で見下ろした。

「……………………」

「クロエ……違うんだ………誤解なんだ……頼む、話をきいてくれ…」

「ほしいものがあります」

「…お…おおっ! 何だ?! 何でも買ってあげるよ、クロエ!」

「この一億円、私にちょうだい」

「わッ……わかった、あげる! あげるよ! クロエに!」

「もう一つ」

「ああっ、何でもいい! 言ってくれ!」

「鷹乃さんに慰謝料、三億円あげてください」

「………クロエ……」

「エリーズとかいう人や、ノエルとかいう小さな子に、この写真を持っていたこと黙っています」

「……………クロエ………ワシを脅すのか……、……お前のために…」

「あなたは娘を一人、無くしました。この上、妻と、もう一人の娘も無くしたいですか?」

「……だが、三億もの……」

「私が嘉神川の家に着くまでに結論を出してください。警察にも行きます」

 クロエは拾った写真を持って歩き出そうとする。慌てて幸蔵が娘の足首を握った。

「待ってくれ!」

「答えは?」

「…………………………払う! 払うから! 頼む!」

「手を離してください。二度と、私に触れないでください」

「……クロエ……」

 幸蔵が手を離すと、クロエは一億円の立方体を鷹乃と智也に向けて置き、床に手をついて深く頭を下げた。

「お願いします。このお金で私を育ててください。私のお母さんとお父さんになってください。今の私には親がいないんです。お願いします、ママ、パパ」

「「…………………………………………」」

「お願いです。鷹乃さん」

「……ええ、わかったわ。でも、そんなには、いらない。残ったら返してあげるわ。だから、お金は大事に扱いなさい。あなたの育ち方は間違っているわ。だから、私が正しい生活を教えてあげます」

「はい、ママ」

 クロエは母親になってくれると言う鷹乃に抱きついた。そして、かつて父親と思っていた者に冷厳と言い放つ。

「いつまで、いるの? 早く帰ってください。警察を呼びますよ」

「………………クロエ………」

「私は三上クロエです。あなたに親しげに呼ばれる覚えはありません」

「……………み……か…………………」

 できれば、智也を嘉神川智也したかったし、一人息子なので譲歩して三上クロエになることがあったとしても、今のような意味ではないつもりだった幸蔵は、うなだれてフラフラと立ち上がると三上家を去っていった。

「…………私……ここにいてもいい? ………ま…ママ?」

 クロエが不安そうに問うと、鷹乃はタメ息混じりに微笑んだ。

「当たり前のことを訊かなくていいのよ。子供を追い出す親が、どこにいると……まあ、世の中には、そんなロクでもない親も、たまにはいるかもしれないけど、私は、そんなことしないわ。ね、智也?」

「………あ………ああ…」

 智也は流し台の前に座り込んでいる。虚脱状態だった。

「智也、大丈夫?」

「……パパ、大丈夫?」

「………ああ……たぶん………」

「私とお金を天秤にかけて、さぞや疲れたことでしょうよ」

 鷹乃が鼻を鳴らして指摘すると、智也は慌てて言い訳する。

「ち、違うぞ! オレは…」

「お金も私も手に入れる? まったく、ひどいことを考えるわ。クロエ、私のことは信じてもいいけれど、智也のことは、あんまり信じない方がいいわ。男なんて、父親なんて、ちょっと疑っておくくらいでちょうどいいのよ」

「はい、ママ♪」

「…鷹乃ぉ……オレは、お前を裏切るつもりは……」

「お金欲しさに私と三年も会わないでいるつもりだったでしょ?」

「いや、だから、それは決断できないっていうか、それは…」

「まあ、いいわ。あの男が言っていた通り、私に自分より多い三億って言ったことで許してあげる」

「鷹乃」

「それに、もう二度と智也は私を裏切らないわ。女性面でもね」

「……? オレは……お前以外の女とは…」

「裏切るときは私とも、三億円とも、お別れよ?」

 鷹乃は自分の痴態が映った写真をポケットに入れて叩いた。

「それに、もう一つ」

「………?」

「もう二度と、教室とか公園とかで変なことしないでちょうだい」

「……ああ……わかった……すまん……」

「じゃ、悪いけど、明日から就職活動、頑張ってね。パパ♪」

「うぐっ………けど、……金なら…」

「働かないで生きていくなんて間違ってるわ。この一億も、三億も無いものとして智也の収入だけで生活するのよ。だから、働いてちょうだい」

「………………たはーっ……」

 タメ息をついた智也は、そのまま床に寝た。激しい葛藤で疲れきっていた身体は重く、明日からの急な就職活動を思うと、さらに重くなった。

 

 

 

 翌日、重い足取りで浜咲学園の進路指導室に入った智也は内定していた嘉神川食品への就職が、ほぼ絶望的になったことを進路指導教員に告げ、新しい就職先を探すため資料の棚へ移動すると、何人かいた同じ三年生の生徒たちが、グッと親指を立ててガッツポーズを送ってくれた。

「お前らもか……」

 智也と同じく内定が取り消しになった生徒や、まだ一つも進路が決まっていない生徒たちだった。

「今年は内定あっても安心できないらしいなぁ……たはーっ……、だからって、受験勉強はイヤだし…」

 仲間がいたことが、少し励みになった智也は不動産会社を中心に就職先を物色していく。昼休みになって教室に戻ると、鷹乃が手作り弁当をもって待っていてくれた。

「どう? どこかに就職できそう?」

「どうだろうな。今年は就職難らしいからな。まあ、頑張るよ」

「お疲れ様」

 鷹乃が拡げてくれた弁当を食べていると、教室の戸を誰かがノックした。

(入っていいかな?)

 果凛の声だった。

「「どうぞ」」

「今日は、いかがわしいことしてないみたいね。今は、かな?」

「もう、しないわ。少なくとも、うっかり人に見られるようなところでは」

「それは感心な心がけね」

 果凛は窓際まで歩くと、立ったまま昼食代わりの肉まんに齧りついた。

「あ~っ、美味しい♪」

「お嬢様なのに、お行儀が悪いのね」

「この教室も、あと何日も無いのね……一回くらい人目を気にせず、立ち食いしたっていいでしょ? 美味しそうなお弁当。お料理、上手なのね」

「オレの嫁は宇宙一だぞ」

「はいはい。バカップルぶりは食傷気味なの。もう卒業なんだし一年生じゃあるまいし、もう少し落ちついたら?」

 果凛は窓の向こうに見える一年生の校舎で、いのりと一蹴がランチボックスを囲んでいるのを見るつもりはないのに、見ていた。

「…………。あっ……」

 考え事をしているうちに、よく味わうのを忘れて、肉まんを食べ終わってしまったことを後悔する。

「……たはーっ……」

 タメ息をついて果凛は窓の向こうで笑っている一蹴へ再び視線を送る。急に強い既視感を覚えた。

「…ぁれ? …デジャビュ? ………そっか……最初と同じ……」

 初恋だった一蹴のことを孤児院で遠くから見ていたときと同じだと気づいた。

「私って進歩してないのね……最初から…」

「好きなのか? りかりん、あの一年のこと」

「うん、…んんっ?! はっ? どうして、そうなるの?!」

 果凛は慌てて否定したけれど、その様子で智也と鷹乃は確信した。

「顔を見れば、わかるわよ」

「ぅ~……油断したぁ……。お願いっ! 絶対秘密にしてちょうだい! 彼女持ちに片想いなんて人に知られたくないの!」

「言われなくても、人に言いふらす趣味はないわ」

「オレは見返りを要求したい♪」

「はいはい、何でも言ってちょうだい。ラーメン? それともフランス料理のフルコース?」

 投げやりな果凛に、智也はまじめに求める。

「昨日さ、内定してた企業がダメになったんだ。りかりんに頼るのも気が引けるんだけど、そうこう言ってる余裕もなくてさ。頼むっ! どっか、紹介してくれ! できれば不動産関係で!」

「三上くん………そーゆーことは、私……」

「わかってる! それに見返りじゃなくていい! っていうか、りかりんが、あの一年を好きなことは無条件で黙ってる! でも、気に留めておいてくれ! どっか、いい企業がないかさっ! 頼む! オレは家庭持ちなんだ! 妻子を喰わせていかないと!」

「わかったわよ。子供はともかく妻はいるものね。……けど、どうして内定ダメになったの?」

「オレが嘉神川食品に就職する予定だったことは言ったよな?」

「ええ」

「あそこの娘さん、嘉神川クロエとのことも知ってるよな?」

「大方ね」

「昨日、オヤジさんが来て、娘と結婚してくれって言われた」

「それで受けたの?」

「受けたら内定ダメになるかよ」

「フフ♪」

「笑うなよ! 笑うとこじゃないだろ!」

「ごめんごめん、ちゃんと愛してるんだなぁ、って思っただけよ。お金に負けない愛でよかったわ。うん」

 果凛は微笑んで頷いた。

「わかった。気に留めておくわ。確約はできないし、紹介はできても、そこに合格するか、どうかまでの影響力を私に期待しないでね?」

「悪いな、りかりん」

「いいわよ、さんざん、お父様とお母様の仕事に付き合わされてきたんだもの。たまには、おねだりしてもバチは当たらないわ」

 果凛は教室を出て午後から都内でレッスンを受けるため、ジイヤのリムジンに乗り、その道すがら智也のことを伝えておいた。レッスンが終わって、雪がちらついている夜道を、ならずやへ向かってもらう。閉店の5分後に到着すると、看板の照明は消えているけれど、中には人の気配がして明かりも灯っている。入口も含めて全体にロールカーテンが降りていて店中の様子はわからないけれど、果凛は静かにドアをあけた。

「遅くに、ごめんなさい」

「いらっしゃい、りかりん♪ 時間通りだね」

 一蹴は疲れていても笑顔で果凛を迎えた。二人で過ごす時間は楽しくて、気がつけば二時間が経っている。

「そろそろ帰らないと、いのりさん、心配するよ」

「遅くなるって、言ってあるから。それに、これも仕事のうちだしね」

 果凛は飲食した分の代金を支払っている。一蹴も福利厚生費で半額を補助してもらい、もう半額はバイト代から天引きという条件で店を借りている。仕事だという方便は完全なウソでもなかったけれど、実質的には二人で口裏を合わせた言い訳だった。

「りかりんは、大丈夫?」

「うん。……でも、そろそろ遅いし…」

 まだ帰りたくない、それは二人とも同じだったけれど、さすがに後片付けを始める。

「………また、来週かな?」

「そうだね、りかりん………」

「…………じゃ…」

「待って、りかりん!」

 一蹴が叫んだ。

「来週までに、もう一回っ! 会えないかな?!」

「ぁ……会えなくは、ないけど……今は自由登校な分、融通がきくから」

「じゃあ! 木曜日にっ! 今度の木曜日にっ!」

「木曜日って……」

 14日……次の木曜日は……2月14日……バレンタイン……、果凛が日付の意味に思い至っていると、一蹴は真剣な眼差しで見つめてきた。

「りかりんにっ、果凛に伝えたいことがあるんだ。今は、まだ……ボクには、それを言う資格はないけど。その日までに、必ずっ! だから!」

「一蹴くん……」

 ほぼ告白されたに等しい果凛は胸が熱くなるのを感じた。

「必ず会ってほしい、果凛」

「…………。うん……会うだけ、ならね。……はやまったことしちゃダメだよ。じゃ、もう帰るね」

 いたたまれなくなった果凛はロールカーテンをあげて外に出ようとして、ガラスドアの向こうに、いのりが居たので心臓が飛び出るほど驚き、少量の尿も漏らした。

「っ?! っ………」

「りかりん? どうかし……いのり?」

 一蹴も交際中の恋人を見つけて驚いた。いのりはガラスドアの向こうで淋しそうに立っている。その頭に少量の雪が積もっていた。一蹴はドアの鍵をあけて、いのりを中へ入れる。

「いのり、どうして、ここに?」

「あんまり遅かったから心配で……雪、積もってるし……事故にでも遭ったんじゃないかって……よかった。ふにゅっ♪」

「冷たっ?!」

 一蹴は鼻をつまむ指が氷のように冷たいので驚いた。

「何か温かい物でも淹れるよ。何がいい?」

「いいの? お店、もう終わってるのに」

「それなら大丈夫、月曜は……、月曜はオレが閉める役目だからさ。遅くなる分、自由がきくんだ。オレの、おごりにしとくなら平気なんだ。で、何がいい? 遠慮するなよ」

 一蹴は潜在する大きな罪悪感を一杯の飲物で誤魔化そうとし、いのりは嬉しそうに注文する。

「ホットココア♪ ………、今日は終わるの遅かったんだね……閉店9時だよね?」

「あ…うん…まあ…」

「ごめんなさいね、いのりさん。私が遅くに来て迷惑かけてたの。閉店時間に気づかなくて」

 ビックリしたァァ……悲鳴あげそうなくらいビックリして………っていうか、チビっちゃったかも……チビってるよ……二人に気づかれてないよね? ナプキン無かったらヤバかったかも……、果凛は内腿をつたう滴を感じて、微笑したままトイレへ向かう。

「ぅっ……」

 トイレの個室でパンティーをさげると生理前だったので念のためにしていたナプキンに失禁した尿が染み込んでいる。ナプキンの吸収量だけでは足りなくて、内腿も濡れていた。幸いにして靴下までは至っていない。

「我ながら……高校三年にもなって……、でも、ホントびっくりした……聴かれてなかったよね。あの様子なら……」

 果凛はトイレットペーパーで内腿と股間を拭く。痴毛に染み込んだ尿が多くて手が汚れた。手も拭いて、今度は脱いだ下着を見る。しっかり濡れていて、もう一度、身につける気にはなれない。レッスンの後に新しい下着に替えたばかりなので予備はなく、レッスン中の汗に濡れた下着はリムジンに置いたままだった。

「……これ、どうしよ。……仕方ない。帰るだけだし、ノーパンでも大丈夫でしょ」

 濡れた下着を汚物入れに投入して、果凛はロングスカートの裾を確かめてからノーパンでトイレを出た。いのりと一蹴が、さっきまで果凛たちがしていたようにテーブルで談笑している。

「おい、いのり、まだ頭に雪がついてるぞ♪」

「やん、違うよ。それは髪飾りなのぉ~、引っぱらないでよぉ~」

 いのりは側頭部の白いものを雪のように払われて困っている。

「もお、どうして、イッシューは、これをイジるかなぁ~」

「はははっ♪」

 一蹴が笑っているのを見ると、果凛の胸が疼いた。

「…………」

 胸が疼き、それから歩くとノーパンだということを、いつもは感じない処にスカートが擦れる感覚で、思い出した。

「……………」

 ぁあぁ……私ってば、二人の前で……ノーパンだよ……もしも、二人が気づいたら……まあ、屋内だから風も吹かないけど……、果凛は余計なことを考えると、股間も疼き、内腿が尿でない液体で濡れるのを感じた。下着を着けていないので濡れ始めると受けるものがない。さすがに、気づかれないうちに帰ることにした。

「私、帰るね。遅くまで、ごめんなさい」

 果凛は二人に手を振って、外へ出ると、いのりが立っていたところを見る。

「…………聴かれてないか…」

 いのりの足跡は歩道から続いていて、最後に立っていた地点の足跡と、続いている足跡へ新たに降り積もった雪の量は変わらない。もしも、長時間、ドアの外で立っていたなら最後の足跡だけ他よりも雪が少ないはずだったけれど、その気配はなく、さらにドア越しで聴こえてくる一蹴の笑い声も小さくて聞き取りにくい。果凛は安心してリムジンへ歩き出した。いのりは果凛の気配が遠ざかると、さすがに小言を言った。

「いくら、お客さんでも二時間も長居されるのはイッシューも大変だね」

「ははは…まあ、ね…、でも、お客様は神様だから」

「………。お客さんがいるうちにカーテン閉めてたの?」

「っ…あ、あ、うん、…まあ、中に居るのが見えると、他にも次々と入って来られると店、閉められないし。いるうちに閉めるんだ。九時になったらさ」

「………最後は花祭先輩だったんだ?」

「うん、まあ」

「いくら、お嬢様でも空気読んでほしいよね。カーテン閉めて二時間経ってるのに……本当に、お疲れ様、イッシュー♪」

 いのりは一蹴の残業を労ってキスをしてくる。

「ちゅ~♪」

 さらにディープキスをしながら抱きついてくるので一蹴は離れる。

「いのり、ここは仕事場だし。………」

 さっき、りかりん………はやまったことしちゃダメって……たしかに、あんな超お嬢様と孤児院出身のオレなんかじゃぁ釣り合わないのはわかってる……だから、事前に……でも、りかりんだってオレとの時間を楽しんでくれてる気がするのに……オレの勘違いか……でも……オレの気持ちはもう決まっていて……それを伝えないのは……それに、14日に会うだけは、会ってくれるって約束してくれた……14日までに、いのりに告げないと……終わりにするって……でも、何て言い出そう…………りかりんに迷惑がかかるから、他に好きな人ができたとは言えないし……、一蹴が考え込んでいると、いのりはドアに鍵をかけた。

「えへっ♪ カーテンで外から見えないし、こうすれば二人っきり♪」

「…そうだけど……」

「イッシューぅ大好きっ♪」

 いのりは可愛らしく微笑むと、ねだってみる。

「ね?」

「ここでは、Hしないからな。仕事場なんだから」

「そうじゃなくて、ならずやさんのエプロン、着てみたい♪ ホントは、ここでイッシューとバイトしたいけど、イッシューがダメっていうからガマンしてるんだよ? エプロンくらい着てみてもいいでしょ?」

「……まあ、いいけど……」

「やった♪ じゃ、着てくるね。ロッカー室、ここ?」

「あ、うん。のんちゃんのエプロンなら、壁にかかってると思うから」

「覗いちゃダメだよ?」

「覗かないからっ」

「えへっ♪」

 いのりがロッカー室に入り、しばらくして出てくる。

「じゃ~~ん♪ どう? 似合う?」

「まあ、似合ってるよ。誰にでも合うエプロンだし」

「ぶ~っ……でも♪ ほら?」

 いのりがクルリと回転すると、裸エプロンだった。

「って、おい?!」

「似合う?」

「……ここ……仕事場だって……言ってるのに……。まあ、鍵もカーテンも閉まってるけどさ……。ヌシも朝までは……」

 文句を言いながらも、普段は葉夜が着ていて、昨日から静流も着ることになった見慣れたエプロンでも、いのりの見慣れた裸体であっても、ならずや店内という初めての環境と状況設定に一蹴の男根は機敏に反応してしまった。飽き飽きしていたはずの裸体に隆々と勃ち、ズボンを押し上げている。当然、いのりも一蹴の勃起に気づいた。

「えへへっ♪ いのりちゃんとイッシューのエロエロタイ~ィ…」

「……。ゴムないし」

「持ってるよ♪」

 いのりはコンドームを見せて微笑む。

「でも、無しもいいよね。イッシューとの子供、欲しいし」

「いのり………オレら、まだ、高校一年なんだぞ」

「三年生になったら、無しでしようね?」

「しないから!」

「ぶ~っ……、ふにゅっ♪」

「おぐっ?!」

 一蹴は勃起した男根を超絶技巧的な手つきで刺激され、ならずや店内での性行為におよんだ。三回の性交を終えて、二人が店を出た頃には白銀の世界になっていた。

「わあぁぁ♪」

「キレイだな」

「また、来週も来るね。月曜日、イッシューが閉店当番なら、手伝うから♪」

「……。ダメだって……」

 ダメだよ、いのり……月曜は秘密のお茶会の日……それに、次の月曜までにオレは………君と……、一蹴は無邪気に雪と戯れてはしゃいでいる恋人を見ると、罪悪感で胸が疼いた。

 

 

 

 翌日、ならずやで二日目の勤務になる静流は、遅刻してきた葉夜がロッカー室に入ったまま出てこないので様子を見に行った。

「のんちゃん、どうしたの?」

「………。静流さん、替えのエプロンって、あるかな?」

「あるんじゃないかしら。そーゆーことは、私よりテンチョーに訊いてみて。……どうしたの? 何か、怒ってる? 顔が…」

「ううん、静流さんには怒ってないよ」

「……? 早く着替えてきてねぇ」

 静流がフロアへ戻ると、葉夜は汚れたエプロンを洗濯機へ投げ入れる前に、秘密を観察する。

「……………この髪は……、…この匂い……」

 いのりの髪と果凛の髪は一目でわかるほど違う。庶民的な匂いと、最高級の香水の香りの違いもわかりやすかった。葉夜は遅刻した罰としてトイレ掃除を命じられて、汚物入れを交換すると、果凛の濡れた下着も見つけた。

「これは…………、どうなったのかな? ………どっちと? ……両方? ……秘密が多すぎて……。でも、エプロンくんは怒ってるよね?」

 自分の怒りを擬人化した洗濯機で回っているエプロンに見立てて、葉夜は静流の目を盗みつつ、スパイスを調合する。

「できた♪ 一蹴くん、まだかなぁ」

 赤黒い怪しげな秘密の物体を作り上げて一蹴を待つこと30分、ターゲットを確認するとミッションを始める。

「一蹴くん! ピーーーースっ♪」

「あ、のんちゃん、ピース♪」

「昨日ね、のんのエプロンくんに何かした?」

「ぇ……っと………」

 一蹴の顔に後ろめたいと描かれる。

「ご……ごめん、ちょっと、コーヒーかけちゃって」

「コーヒー? あの白い汚れが?」

「っ…、…み…ミルクも……かけっちゃって…ごめん」

「ふーーんっ……。こんなに長い髪は、どうして、のんのエプロンに着いてたのかな? かなァ?」

「っ………、……ど、……どうしてかな?」

「ねぇ、一蹴くん、これ食べてみて」

 葉夜がスプーンにのせた赤黒い物体を差し出すと、一蹴は真っ青になった。

「ま、待って! ち、違うんだ! 誤解だよ、誤解!」

「そっか。のんの誤解なのかな~……じゃあ、これは?」

 葉夜は果凛の下着を見せた。

「……それは……何? のんちゃん?」

「これは、これ」

「………って、これ、女物の……」

「あれ? そーゆー反応なんだ……そっか……、これが誰のか、知らないんだ?」

「知らないよ。………のんちゃんの?」

「ううん、違うよ」

 葉夜は高級なレースの下着をゴミ箱に入れた。

「落とし物かな。じゃ、一蹴くん、これ食べて♪」

「ぇ………でも……その……」

「ヌシと静流さんには黙ってるね♪」

「ぅっ………。……し、……死なないよね? 秘密の死因とかに、ならない?」

「混ぜる前は、どれも食べられる物だったよ。コオロギも入ってないし」

「……………」

「夕べ、ここで…」

「食べます!」

「うんっ♪」

 葉夜が赤黒い物体を食べさせると、一蹴は呻きながら倒れる。いつまでのロッカー室から戻ってこない二人を見に来た静流があきれる。

「この店、よく今日までもっていたわね」

「ピーーースっ♪ 静流が立て直してね」

「ええ、ビシバシ行くわよ」

「ゆっくりバリバリ~♪」

 葉夜と静流が働き始め、激しいダメージを受けて倒れた一蹴は起きあがるまで無給の休憩扱いということになり、店に客が入り始めると幸蔵が来店してきた。

「…ええ…ええ…はい…お願いします…では…」

 幸蔵はケータイで話ながら静流に人差し指を立てて見せた。

「お一人様ですね。カウンターとテーブル、どちらが、よろしいですか?」

「テーブルを頼む」

 幸蔵はテーブルに座るとメニューを見ることもなくカバンを出して書類を拡げている。喫茶店で仕事をする男性は、たまにいるので静流は気にしない。

「ご注文は?」

「コーヒーを」

「はい、コーヒーですね。少々お待ちください」

 オーダーも予想通りだった。すぐにコーヒーを淹れて幸蔵の前に置こうとしたけれど、書類でテーブルが埋まっているので、かなり隅に伝票といっしょに置く。

「ご注文のコーヒーです」

「ああ…、ありがと…」

 生返事をした幸蔵は書類を凝視している。かなり疲れた様子だったので静流は心配になったけれど、他人のことなので関わるのはやめる。しばらくして幸蔵のケータイが鳴った。喫茶店内での通話はマナー違反だったけれど、幸蔵は考え至っていないようで受話した。

「もしもし…」

(嘉神川幸蔵さんですか?)

 クロエの声だった。

「……ああ……ワタシだ…」

(三上クロエです)

「………」

(さきほど振込は確認しました。あとは調査を命じたところとやらへの写真の処分を確実にお願いします)

「それも連絡した」

(では、以上です。ごきげんよう)

 他人行儀な冷たい声が一方的に電話を切った。

「……………」

 クロエ…………ワシが……間違っていたのか……どこから……間違って……それに合計で四億も……限界だった五億に比べれば、まだ、マシだが……それでも急な出費で……会社が傾くのは必至だ………こんなことが原因で代々続いた嘉神川食品が倒れることになったら、ワシは…………とにかく、売上をあげて……ああ、頭が痛い……胃も痛む……、幸蔵は深い苦悩に浸っている。静流は不穏は気配を感じたけれど、声をかけるのは憚られた。幸蔵は胸ポケットからエリーズとノエルの写真を出した。クリスマスに撮影した家族写真だった。

「……………………」

 せめて、エリーズとノエルだけは幸せに………いや、だが、クロエのことも……見守って……クロエ……すまない……ワシが間違っていた……タカノさんの写真のことは誤解なんだ……いや、あれを見たこと自体が罪か…………甘んじて3億は払った……だから、せめて許してくれないか……愚かな父を……愚かでも……父だと思って………それとも、もっと、もっと限界まで、あと1億を払って、本当の限界まで誠意をみせたと……そうなれば、クロエもワシを許して……だが、嘉神川食品の社長としては……それに、ノエルの将来も考えてやらねば……もしも、嘉神川食品が破産したら、クロエはノエルだけでも助けてやってくれるだろうか…………だが、クロエにとってノエルは七年も知りもしなかった妹で……ノエルの存在自体がクロエの怒りの一因でもあった……黙っていたことが……深くクロエを傷つけて………もうダメだ……やはり、クロエはワシを許してくれない……ならば、せめてノエルだけでも幸せに……そのためにも会社を……そうだ……売上をあげるのに田原のようにCMをっ! ノエルの可愛らしさをもってすれば、あのNEOのシリーズ化しているCMを凌駕して……いや…ダメだ……エリーズが娘を商売道具に使うのかといって反対するだろう……ダメだ……ダメ……ダメだ……それにCMを撮るのに、いくらかかるか……安くあげても2000万は要るだろう……今は先行投資して回収を待つ余裕はないんだ……それに、月末には社員の給料も……今月は28日しかなくて売上はさがるのに基本給は定額を………社員のリストラ………いや、士気が下がる……悪循環だ……それに採用予定だった三上君は……どうなるだろう……やはり、来ないか……来てもワシも扱いに困るし……彼は優秀だったのに、そうだ、この、ならずや、ここも彼が新規に営業してくれた店………彼がいたら我が社も……いや、そう思ったのが間違いで……あ、そういえば、彼の二月分のバイト代……これも、ちゃんと払わなければクロエに軽蔑される……そうなると、内定の取り消しについても、ある程度の金額を……だが、取り消しと公式に書面したわけじゃ……ああ……頭が痛い……ぐっ…ぐう……痛い……頭が割れそうだ……ぐぅぅぅうぅぅうぅううぅ……、幸蔵は前のめりに倒れ、腕が当たってコーヒーを落とした。

 ガチャン!

 カップの割れる音が響いて周囲が注目する。幸蔵は倒れたまま、呻いている。

「ぅうぅぅうぅ…」

「お客様っ?!」

 静流が駆けよった。

「お客様っ?! どうなさいました?!」

 静流が呼びかけても幸蔵は蒼白な顔で呻くばかりで答えてくれない。静流の豊かな胸が顔にあたっているのに幸蔵は脂汗を流して苦しんでいる。

「ぐうぅいぅっ…」

「ど…どうし……どうし…、ど、ど…ど?!」

 昨日から店長代理として働き始めたばかりで経験の浅い静流が急なことにパニックになりかけている。葉夜が叫んだ。

「救急車を呼んで!」

「きゅっ…きゅっ…」

「のんが呼ぶから! 一蹴くん、静流さんに、その人を揺すらないように言って!」

 葉夜は店の電話を取って119番する。

「もしもしっ!」

(火事ですか? 救急ですか?)

「救急ですっ! 喫茶店内で壮年の男性が急に倒れました! 激しい痛みを訴えて、こちらの呼びかけに応答してくれません!」

 電波なことは一切言わずに、一秒でも早く、救急車が到着するように適切な情報を伝える。静流が悲鳴をあげた。

「ぃ、息が止まってるのっ!!」

「静流さん、替わって! 外で救急車を待って誘導して!」

 静流に替わって葉夜が幸蔵をみると、意識が無くなり息が止まりかけている。それでも幸蔵の手にはエリーズとノエルの写真が握られていた。

「……お父さん…」

 この写真に写る妻子の父親だと思うと、葉夜の胸が強く痛んだ。胸の傷痕が灼熱するように激しく痛む。幼いノエルの笑顔が、子供の頃に交通事故で父を亡くした自分と重なってしまう。

「しっかりっ! 死んじゃダメっ! 頑張って!」

 葉夜は泣きそうになった自分も叱責して、幸蔵に息を吹き込んで人工呼吸を始める。救急車が到着するまでの7分間、汗だくになって人工呼吸と心臓マッサージを続けた。

 

 

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