「智也が浜咲だったら」   作:高尾のり子

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第25話

 

 

 自宅にいたノエルは病院からの急な電話を受けて困惑していた。

「……ま……ママに……知らせないと……えっと、……ママのケータイ…」

 外出しているエリーズに伝えるため、電話をかける。

「……………ママ……出て…」

 呼び出し音は鳴っているけれど、受話されない。一分後に再びかけ直したけれど、受話されなかった。

「どうしよう…………、……………病院に行かないと……でも、ノエル一人じゃ……。…………お姉ちゃんに…」

 ノエルは三上家の電話番号を探す。電話台の近くにメモがあった。

「よかった」

 見つけた番号へかけてみる。すぐに鷹乃が受話してくれた。

(もしもし、三上です)

「お姉ちゃんいますかっ?!」

(ええ、いるわよ。どうかしたの?)

 挨拶もなく姉を求めるノエルの切迫した声に鷹乃が異変を感じて問いかけてくれる。

「パパが大変なのっ! お姉ちゃんに知らせないと!」

(わかったわ。すぐ、替わるわね。落ちついて)

「うんっ」

 ノエルが待つこと30秒でクロエが電話に出てくれた。

(もしもし)

「お姉ちゃんっ! 大変なの!」

(………。私は、もうあなたのお姉ちゃんは辞めたの)

「ぇ…?」

(三上クロエだと思ってちょうだい。………あなたとは他人)

(クロエ、小さな子にまで、そーゆーことを言わないの)

 そばにいるらしい鷹乃の声も聞こえてくる。

(何か困っているのよ、ちゃんと聞いてあげなさい)

(……はい、ママ)

「え? ママ、そこにいるの?」

(いいえ、エリーズさんはいないわ。いるのは私のママだけ)

「え? え? どう…なって……日本語の意味が…、Queset-ce que vous avez dit?」

(Je deteste ca.)

「Qu……Queset-ce que vous avez dit? Jentends mal.」

(Je deteste ca.Ne me telephonez plus.)

「………」

(……)

(クロエ、何を話してるの?)

 そばで聴いている鷹乃がフランス語の会話が理解できず問いかけると、ノエルが「何を言ったの?」と問うのに「あなたが嫌い」と答えて、さらに「二度と電話しないで」と言い加えたクロエは困っている妹を、より困惑させたとは答えにくいので誤魔化す。

(よく、わからないの)

(私に替わって)

(はい、ママ)

(もしもし、ノエルちゃん? 落ちついて。日本語、話せるよね?)

「うん、話せる」

(何があったの? パパとママは?)

「パパが病院に運ばれたって! ママはいないの! 電話しても通じなくて!)

 聞いてくれそうな鷹乃へ、ノエルは矢継ぎ早に伝えた。その切迫した様子で鷹乃も事態の緊急を知る。

(病院に……それで容態は?)

「わからないの! 外で倒れたって!」

(わかったわ。すぐに、そっちへ行くから待っていなさい)

「鷹乃お姉さん……、ありがとうっ!」

 頼もしい鷹乃の声に、七歳の幼女は強く励まされて泣きそうだった気持ちを落ちつかせることができた。言葉通り、すぐに鷹乃とクロエ、それに智也まで駆けつけてくれた。嘉神川家からは四人でタクシーに乗って病院へ向かう。

「…パパ……どうか、無事でいて。神さま……お願いします」

「大丈夫よ、きっと大丈夫」

 とくに根拠は無いけれど鷹乃は幼女を励ますために楽観的なことを言った。クロエは来る気は無かったのに連れてこられたので押し黙って車窓から外を見ている。タクシーが病院に着いた。

「オレが受付で訊いてくる。三人は待ってろ」

「ええ、お願い」

 すぐに智也が病室を教えてもらい、戻ってくる。

「七階の集中治療室だそうだ」

「七階ね」

 鷹乃はノエルの手を引いてエレベーターへ向かったけれど、クロエは動かない。

「私は、ここにいます」

「クロエ……ダメよ。来なさい」

「だって、ママ……あの人は、パパじゃないもの」

「クロエ………、……最期かもしれないのよ? お願い、来て」

 ノエルには楽観的なことを言った鷹乃がクロエには最悪の事態を想定して話している。

「あなたに後悔させたくないの。来て」

「でも……、……あの人をママは許せるの?」

 クロエが盗撮のこと言外に含めると、鷹乃は嫌悪感を呼び覚まされたけれど、首を振って答える。

「今は言い争いをする時間もないかもしれないわ。お願い、来て。来なさい、クロエ、あなたの母親として言うわ。いっしょに来なさい」

「………はい……ママ…」

 クロエは手を引かれて渋々エレベーターに乗った。七階の集中治療室は面会謝絶だったけれど、ガラス張りで中を見ることはできた。幸蔵はベッドに寝かされ、いくつもの管やコードに繋がれている。

「パパっ、パパっ!」

「…………」

 クロエは幸蔵の姿と数秒ほど見て、目をそらした。智也がナースステーションで病状を聞いてくる。

「命に別状はないらしい。一時は危なかったが、居合わせた人の救命処置が良くて、今は安定してるって。しばらく意識は戻らないかもしれないしれないけど、死ぬようなことはないって」

「パパ……良かった……」

「……………」

 ノエルとクロエは病状を聞いて安心したけれど、クロエは幸蔵に背を向けた。

「………死ねばよかったのよ」

「クロエ………」

 鷹乃が言葉を失っていると、ノエルが姉を睨みつけた。睨みつける、その目に涙が浮かび、ぽろぽろと零れる。

「どうしてっ?! どうして、そんなこと言うの?!」

「……………………………嫌いだからよ」

「っ……、でもっ! お姉ちゃんはパパと、ずっといっしょに暮らしてたのにっ?! ノエルとママは嫌いでもっ! どうして、パパまで嫌いなのっ?!」

「…………嫌いなものは嫌いなのよ」

「……っ……っ……っ……そんなお姉ちゃんっ、大っ嫌いっ!! わあああぁあぁっ!」

 大声を上げてノエルが泣き出したので看護婦たちが近づいてくる。いたたまれなくなったクロエは妹にも背を向けてエレベーターへ向かう。鷹乃が追ってきた。

「いくら何でも、あんな小さい子に酷なことを言うのは…」

「どうしてっ?! あの子の味方をするのっ?! 私のママは鷹乃さんでしょっ?! あんな子っ関係ないっ!」

「クロエ………ええ、そうね……私が悪かったわ。私は、あなたの味方よ」

 今は落ちつかせるために反論を控えた鷹乃は震えているクロエの手を握った。ノエルのことは智也がついているようなので、エレベーターへ乗ろうとして、自動ドアが開いてエリーズと出くわした。

「っ…」

「クロエ? 来ていたの。お父さんは? どうなの? さっき、会社から電話があって…あ、ノエルも来てるのね」

「…………………………」

 こんなときに……私より遅いなんて………、クロエは黙ってエリーズの横を通り過ぎるとエレベーターに乗り、扉を閉じる。閉まっていく扉の向こうからエリーズが何か言いたげな視線を送ってくる。クロエは目を合わせずに告げる。

「……Au revoir」

 さようなら、と実の母親に言った。降り始めたエレベーターの中で、鷹乃がクロエの肩を抱いた。

「…………」

「…………。智也を待って、家に帰りましょう」

「うん……ママ…」

 静かにクロエは泣いた。

 

 

 

 翌日、午前中にモデルとしての仕事を終えた音緒は都内のデパートから、携帯電話で正午へ連絡を取る。

「もしもし、正午くん?」

(ああ、音緒ちゃん、どうしたの?)

「明日、ヒマかなぁって」

(たぶんヒマだよ、卒業式まで何も予定ないし)

「じゃあ、どこかで会わない?」

(いいよ。どこがいい?)

「う~ん……また、あとで決めてメールするね」

(オッケー♪)

「じゃ」

 音緒は電話を切ってからタメ息をつく。

「もぉ~……明日は2月14日なんだぞ。この日に女の子から誘われるシチュを、もっと理解しようよ。………それとも、理解してて、私が緊張しないように、さらっと約束してくれたのかなぁ……ないない♪ あの人、鈍いだけだし」

 テンションがあがっている音緒は独り言を零しながらデパートのバレンタイン特設会場を歩いて回る。高級なチョコレートから義理チョコまでそろっている会場を物色して考え込む。

「う~ん……手作りする時間が……夕方も歌のレッスンあるし……やっぱり、手作りは諦めて買いで済ませるしかないかなぁ。となると、なるべく高いのでないと、義理だと思われるかも…」

 音緒は一番高そうなコーナーへ行って店員に声をかける。

「これを二つください。一つはプレゼント包装して。もう一つは、そのままでいいです」

「はい、かしこまりました」

 すぐに店員は音緒の言ったようにしてくれる。音緒は包装してもらわなかった方のチョコレートを開けて、食べてみた。

「………うん、………美味しい……これで決まり。あとは仕事関係の義理チョコを…」

 正午に送るチョコレートを念のために試食してから、義理チョコを探しに行こうとして果凛を見つけた。同じ事務所に所属しているので、この最寄りデパートで出会うのは自然なことだった。

「KARINさん」

「あ、NEOちゃん」

 果凛が呼ばれて、音緒を呼び返すと周囲の客が何人か振り返った。明らかにKARINと聴いて振り返った人数より、NEOの方が多い。サインを求められると収拾がつかなくなるので、とりあえず果凛と二人で特設会場を離れた。

「ごめんね、NEOちゃん、とっさに呼んじゃって」

「いえ、私が悪いんです。先に呼んだから」

 私が悪いんです♪ 人気あるから♪ 音緒は持っている買い物袋に果凛の視線が落ちてくるのを感じて、あえて隠さないようにする。

「NEOちゃんもチョコを買いに?」

「はい」

「本命はいるのかな?」

「いませんよ。全部義理です。KARINさんは?」

「私もよ」

 お互いに同僚に本当のことを言わない二人は探り合いをするメリットもないので、すぐに別れて買い物を続けた。

 

 

 

 鷹乃とクロエは三上家で手作りのチョコレートを用意していた。送ることが目的というよりは作る楽しみを二人で共有しているのだった。

「完成ね」

「はい♪」

 できあがったチョコレートは全部で五つ、智也以外に渡す相手は決まっていないけれど、材料があった分だけ作っていた。

「これは智也に。で、これはクロエに」

「これはママに。これは智也パパに」

 お互いに送り合って二つ、智也に二つ、あと一つの行方は決まっていない。鷹乃は履歴書を熱心に書いている智也に声をかける。

「智也、三つ食べる?」

「甘い物は苦手なんだ。肉がよかった」

「あら、そう。じゃあ、来年はチョコレート入りのすき焼きにしてあげるわ」

「うげっ……そういえば、ノエルちゃんにやれよ。あいつ、チョコ大好きっ子だろ。すき焼きに入れても美味しく食べるかもよ」

「そうね……ノエルちゃんはチョコレート、大好きよね……」

 鷹乃が大きくもなく小さくもない声で言っても、クロエは聴こえなかったことにしている。親子の縁は切ったとしても、できれば姉妹の縁は切ってほしくないと思っているものの、それを強制することはできない。鷹乃は余ったチョコレートを簡単に包装して冷蔵庫に入れ、あえて話題を変える。

「智也、履歴書は、できた?」

「まあまあ」

「花祭さん、ちゃんと約束を守ってくれたのね」

「うむ、持つべきものは友人と金だな♪」

 朝一番にジイヤから電話をもらい、就職先を紹介してもらった智也は履歴書の記入にミスがないか入念にチェックする。

「よし」

「面接は何時なの?」

「明後日の17時だってさ。たぶん、向こうも急な面接だからオレ一人だけ、仕事の合間にって感じになるんだろ。りかりんの紹介だから99%合格だろうけど、遅刻はNGだし今夜は早く寝よう♪」

「どれだけ寝坊しても午後5時の面接に遅れるなんてありえないでしょ」

「オレは前に起きたら夕方だったこと、あるぞ」

「自慢げに言わないの」

 鷹乃と智也が言い合いしているのを見て、クロエは幸せな気分だった。ずっと、ここで、こうして暮らしていきたい。入院したまま、まだ意識の戻らない幸蔵のことも、顔を見たくもないエリーズのことも、ケンカしたノエルのことも関係ない。クロエは完成したチョコを囓る。甘くて幸せな味がした。

 

 

 

 翌日、とうとう2月14日を迎えた一蹴は別れを告げるタイミングを見つけるのに苦労していた。

「答えは、板チョコ♪ イタチ横だから」

「はは…」

「じゃあ、次の問題ね。いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」

 いのりは無邪気にヴァレンタインデーのデートを楽しんでいる。どのタイミングで別れ話を言い出そうか、そもそも果凛に告白する期限として2月14日を選んだけれど、別れを告げるタイミングとしては、この上なく最悪な日付だったと自分でも後悔している。

「イッシュー?」

「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」

「……何か悩み事でもあるの?」

「いや、何でもない」

 別に……いのりが嫌いってわけじゃない……ただ、りかりんのことを好きになったから……でも、何て言おう………別れてくれ……だけじゃ、ダメかな……りかりんはKARINもあるから迷惑をかけられないし………りかりんのことは隠して………じゃあ、いのりのことを嫌いになったから、別れてくれ、とか? いや、別に嫌いじゃぁないし……なら、好きじゃないから……とか……いのりとオレって、いつのまにか、いのりの方から近づいてきて、気がついたら付き合ってたけど、オレは別に、それほど、好きってわけじゃ……、一蹴は思い悩みながら公園を歩いている。

「イッシュー?」

「………」

 いのりの声が耳に入らなかった一蹴は公園の噴水近くで音緒が正午にチョコレートを渡しているのを見るとはなしに見ていた。

「……そうだよなぁ…」

 今日は告白の日であって、別れの日じゃないよなぁ……でも、いのりとハッキリしないで、りかりんに告白なんてできないし………いのり……泣くかなぁ……せめて、人気のないところにしよう……あの教会とか……ああ、でも、あそこは、いのりと初エッチしたところだから……、一蹴が悩み続けていると、いのりが提案する。

「ね、あの教会に行こうよ。あそこで、チョコを渡したい♪ 雰囲気あるし」

「………、行こうか」

 仕方ない………チョコを渡されるタイミングで、受け取れないって言おう……最悪のタイミングだけど、もともと、オレが悪いんだ………いのりにしたら最悪なことに変わりないから……付き合っておいて、エッチまでしたのに、好きじゃないなんて……でも、こうなったら言うしかない……いのりのこと、好きだった時期もあるけど……最初から好きじゃなかった、って……あ、そういえば、このセリフ、いのりから借りた少女漫画にあったよな、うん、これでいこう、決めた、一蹴はセリフが決まったので教会へ向かった。

「イッシュー……雨が降りそうだね」

「…ああ、…」

 真冬の空が厚い雲に覆われている。教会に着く頃には、ぽつぽつと雨が降ってきた。

「降ってきちゃったね。外で渡したかったけど……中もいいよね♪ ね、祭壇のところで結婚式みたいに渡したい。ダメ?」

「………ダメ……かな」

「え~……じゃあ、おっぱいに挟んで渡してほしい?」

「……もっと……ダメダメ……」

「う~ん……せっかく二人で迎える初めてのヴァレンタインなんだよ。なにか、記念になるような…」

「……」

 言うっ、言うぞっ、いのりと最期にするっ、言うっ、一蹴が決断した。

「いのりっ!」

「ひゃいっ? ……び、びっくりした急に大声出して、どうしたの?!」

「オレを殴ってくれっ!」

「ぇ………、そーゆープレイするの? ……試しても、いいけど、力加減が難しそう。私、ピアノやってたから手の力、けっこう強いよ?」

 いのりが手を振り上げて叩こうとしてくるので一蹴は逃げる。

「ち、違う! そーゆー意味じゃなくて!」

「えっと……じゃあ、何で叩くの? 鞭とか、ないし……あ、私の髪? これでパシっと♪」

 いのりが軽く首を回すと、長い髪が鞭のように空気を切った。当たったら、かなり痛そうだった。

「違うって! だから、そーゆー意味じゃないんだ!」

「じゃあ、どうするの?」

「何もしない! もう、いのりとはエッチしないんだ!」

「ぇ………イッシュー……体調悪いの?」

「違う! そーゆー意味でもなくて! もう、いのりとは別れるんだ!!」

「……………………イッシュー?」

「悪いけど、もう終わりにしてくれ。別れたいんだ」

「……………放置プレイ?」

 いのりも言われた意味がわかっていて、認めたくないので、あえて話をそらしたけれど、一蹴は言い出した別れ話を勢いにのって続ける。

「いのりとオレは、別れるんだ。二人、別々の道を行こう」

「……でも……」

 いのりも一蹴が本気で別れ話を切り出していることに気づいて、青ざめた。

「ごめん。いのり、もう付き合えない」

「……イッシュー……」

 いのりは震え始めた手でチョコレートを一蹴に向ける。受け取ってほしいと想いを込めて作ったチョコレートを差し出した。

「これは受け取れないよ。ごめん」

「……………」

 いのりはチョコレートを差し出したまま、小さな子供がするように首をイヤイヤと横に振った。受け取ってほしいと、さらに一蹴へ向け続ける。一蹴は胸に痛みと罪悪感を覚えたけれど、非情に徹する。

「さようなら、いのり」

「………どうして……なの?」

「最初から好きじゃなかった」

「っ……」

 用意していた一蹴の言葉を聞いて、いのりは衝撃を受けた。チョコレートが床に落ちて砕ける。一蹴が何気なく用意したセリフで、いのりは強いショックを受け、愕然としている。

「…………最初から……」

 いのりにとっての最初は一蹴がリナを選んだことだった。その最初から自分は選ばれなかった。最初から好きじゃなかった、その事実を言葉にして告げられると、いのりは動けなくなった。

「…………………………………………」

「さようなら。ごめん」

 もっと、しつこく粘られるかと覚悟していた一蹴は意外なほど、いのりがショックを受けたのを心配に思いつつも、立ち去ることにした。もう自分は彼女に優しくする資格はない、そう考えて教会をあとにする。走って丘を降りると、時刻を確かめる。

「もう四時か……りかりん…」

 古い恋人に別れを告げた後は、新しい希望に向かって前進する。一蹴はメールを果凛へ送った。

(登波離橋で待ってる)

 それだけ送信して、登波離橋まで走った。

「ハァ…ハァ…ハァ…りかりん…ハァ…待たせて……ごめ…ハァ…」

「走って来たの?」

 移動方法がリムジンである果凛は先に到着して待っていた。

「ハァ…ハァ…」

「大丈夫?」

「平気だよ。それより、聞いてほしいことがあるんだ」

「……。どんなこと?」

 どんな話か、予想はついているので果凛の心臓が高鳴ってくる。

「りかりん、いや、果凛……好きだッ!」

「っ……一蹴くん……」

 驚きはしなかったけれど、驚く演技をした果凛は困惑した表情を浮かべる。

「ダメだよ、君には、いのりさんが…」

「いのりとは別れてきた」

「…そんな………」

 それも当然に想定していたけれど、果凛は急な展開に翻弄されるヒロインを演じて立ち振る舞う。

「私が……悪いんだね……一蹴くんに気を持たせるようなことを……」

「果凛は悪くないよ。悪いのはオレだ。でも、君が好きだっ。果凛っ!」

 名前を呼んだついでに抱きしめる。抱かれて果凛は身体の力を抜いた。

「…ずるいよ……こんなことされたら……断れない……」

「果凛っ」

「一蹴くん……」

 果凛が一蹴の顔を見つめると、一蹴はキスをしてくる。やや想定より早い展開に果凛は少し迷ったけれど、目を閉じた。

「……」

 もお……早いよ……いきなりキスまで決めようなんて……さすが、童貞じゃないだけあるわね……まあ、いいわ……今日は2月14日……いい記念日だし…、果凛はファーストキスを味わいながら、想い出に残るヴァレンタインデーになったことを喜んだ。

 

 

 

 いのりは深夜まで教会にいた。

「………」

 真夜中になっても冷え切った心と身体で一人きり教会建築の装飾品の一部であるかのように立ちつくしていた。

「……………………」

 イッシュー…………イッシュー…………私はイッシューを幸せにしないと……いけないのに…………イッシューと別れたら……………………イッシュー…………どうして……イッシュー………リナちゃん……のこと…………………想い出した? ………忘れてたはずなのに………それとも……誰かが……、いのりは昇ってきた朝日を浴びても温まらない心と身体を動かした。

「確かめないと…………」

 いのりの目は輝く太陽をうけてさえ暗い闇の色になっていた。ゆっくりと凍りついた手でケータイを出すとカナタにかける。

(もしもし? こんな朝早くに…)

 早朝の着信で寝ぼけたまま、相手を確かめずにカナタが応答している。

(今、何時だと思って…)

「イッシューに話した?」

(ひっ?!)

 いのりの呪い殺すような声を聞いてカナタは悲鳴をあげて声を震わせた。

「イッシューに話した?」

(ひぃっ…ひぃい…)

「答えないなら行くよ」

 リナの墓前で叩きのめしてから何ヶ月か姿を見なかったのに、今年に入って街で見かけるようになったカナタを疑ったけれど、反応から可能性は低い思われる。

「リナちゃんのこと、イッシューに話した? 話してない?」

(ひぃ…ひゃっい…ひぁぁい…)

(コラっ! カナタ、オレのベッドに、おしっこするなよ。母さんに文句言われるのオレなんだぞ)

 別れたはずの男とヨリを戻したようで声が響いてくる。電話の向こうのカナタは恐怖に震えて失禁しているようだった。

「話した? 話してない?」

(ひゃぃいい…ひああぃぃ…)

(カナタ、大丈夫か? 顔、真っ青だぞ。呪いの電話でも受けたのか。着信あると死ぬようなヤツ)

「ないのね?」

(ひあぁいっ)

 はっきりとした日本語ではなかったけれど、どうやら話していないと判断して、いのりは電話を切った。

「なら、あの男……、……探さないと」

 扉のケータイ番号は知らない。もともと怪しい商売をしている上に身元も不確かなので固定した番号さえ持っていないかもしれない。

「探し出して……」

 いのりは早朝の街を歩き回って、扉がいそうなところを巡り、魚力の前で仕入れを手伝っている姿を見つけた。

「深歩っ、そっちを押さえてくれ!」

「こうかなっ?」

 深歩に不法露店や麻薬の密売を辞めるように諭され、将来は夫婦で花屋と魚屋をやろうと誓った扉はまじめに働いていた。いのりは呪い殺すような目で扉に迫る。

「イッシューに話した?」

「っ……」

 声をかけられた扉は持っていたトロ箱を落として青ざめる。

「イッシューに話した?」

「ひぃっ…」

「…………話したよね?」

 いのりは疑いを濃くして呪い殺すような目に力が入る。ろくに返答もできず扉は腰を抜かして失禁したけれど、深歩が車イスで二人の間に滑り込んできた。扉を守るように、いのりに対峙する。

「何のようなの? 今、仕事中だよ」

「………あなたには関係ない」

「っ……」

 いのりの目で見られると深歩も身震いして青ざめたけれど、もともと車イスなので腰を抜かしたりはしない。扉を守るために勇気を振り絞って、いのりの目を睨む。

「帰って」

「………」

 いのりは黙って呪い殺すような目で深歩を見つめる。

「…か……帰って…」

 ほとんど動くことのない深歩の膝が震え、キュロットスカートが小水で濡れ、車イスの座面に水たまりをつくった。それでも深歩は扉を守るために抵抗をやめない。魚屋の奥から、力丸紗代里が作業の遅い二人を見に来た。

「何やってるなのですか? ひぃっ…」

 いのりが視線を紗代里へ移すと、金縛りにあったように止まり、中学の制服を小水で濡らして座り込み、そのまま気絶してしまった。

「帰って!」

 いのりの呪い殺すような目から、わずかに解放された深歩は手近にあったアジを投げつけた。

 パシっ!

 いのりは顔に向かって投げつけられたアジを首を回して髪先で払いのけた。いのりの髪は意志をもった鞭のように蠢いている。

「私、あなたを呪う」

「っ…」

 強烈な呪い殺すような目を受けた深歩は失神して車イスの上で、ぐったりと弛緩する。いのりは車イスの影で震えている扉に迫った。

「よくもリナちゃんのことを話してイッシューを」

「ひぃっ! ちっ…違っ…は…話してなっ…いっ…いい……ないい…」

 ガタガタと震えながら扉は否定している。その様子は真実味があった。

「話してない……なら、どうして、イッシューは私と別れるなんて……」

「別れ……そ、そうか。そういうことか……へっ、へへ…」

 震えながら扉は嗤った。

「全部、あの女だ。あの女がオレたちの全部を奪った。リナも、金も、なにもかも、へへっ、へ、世界ってなぁ不平等にできてやがるぜ」

「………わかるように話して」

 いのりが睨むと扉は震えながら、子供の頃の事故のことを独自に調べ、そもそもの原因が果凛の密告にあったこと、さらに、最近になって果凛と一蹴が何度も会っていたことも話した。

「ってな、わけだ。………なぁ、オレは悔しいっ! なんで、あいつなんだ?! あの女はリナを殺した女だっ! 許せねぇ! なのに、あの女はガードが堅くて手出しできねぇ! とんでもねぇ金持ちだ! けどよ、いのりっ! お前の力なら、あいつを! あいつを! 頼むっ! リナの仇をとってくれ!」

「……………………私……あの人を……呪う……」

 いのりは呪い殺す目になって、ならずやに向かう。呪い殺す目のまま、千羽谷の商店街を歩いていると、自由登校なので学校へ行かずキュービックカフェでアルバイトするつもりの海が不幸にも、いのりと出会った。

「ひぃっ…」

 海は悲鳴をあげて歩道に座り込み、小水でスカートを濡らした。それを見た姉が嗤う。

「クスっ…海、どうしたの? こんなとこで高三にもなって、おもらしなんかして、通りがかりの変質者にイタズラされちゃうよ?」

 意地悪くクスクスと嗤った月岡陽も震えている妹が見たものを見る。

「ひぃぃっ…」

 陽は悲鳴をあげて歩道に座り込み、小水でスカートを濡らした。それを見た有沢りかのが嗤う。

「フフのフ♪ 月岡姉妹が漏らしてる。大ニュースなのだ」

 りかのも意地悪くクスクスと嗤ったけれど、姉妹が見たものを見る。

「ひぃぃぃっ…」

 りかのは悲鳴をあげてゴッシクロリーター調のスカートを小水で濡らし、そのまま座り込む。

「…熱っ…パパ……熱いよ…おしおき熱いの……ヤダよ…」

 りかのは父親からタバコを押しつけられた痕を押さえて啜り泣きはじめた。陽も震えながら身体を小さくして抱いている。

「…ぃ…ぃや……やめて……私に……イタズラしないで…」

 じわじわと拡がった三人の水たまりが合流している。いのりは三人に目もくれず、ならずやへ向かい続ける。

「……花祭………果凛………」

 呪詛の声を漏らしながら、いのりは店舗前を掃除している葉夜に近づいた。

「花祭…果凛……どこにいる?」

「っ…」

 葉夜はビクリと身震いした。いのりの目を見ているだけでガクガクと膝が震え、腰が抜けそうになるけれど、葉夜はホウキを杖に立ち続けた。

「ピーィ…ス…?」

 こんな……黒い気持ち………こんなにも黒い気持ちが………真っ黒な気が……なんて、とてつもない気………でも…………私にも黒い気持ちはある……それを同調させれば………、葉夜は胸に手をあて、いのりを見返した。

「……どうして……りかりんちゃんに……?」

「呪うから」

「………そーゆー……理由なら………教え、られない……」

「あなたも」

 いのりが呪い殺す目に力を込める。

「………」

「……っ……っ……」

 葉夜の震えが激しくなり、立っている内腿に漏らした小水が流れをつくっていく。とうとう耐えられなくなり、葉夜もアスファルトに座り込んだ。いのりは葉夜を跨いで店内へ入った。

「いらっしゃい♪ あら、いのりちゃ…」

 静流が失禁して気絶した。

「花祭……果凛……どこに……」

 いのりは店内を探すけれど、いたのは詩音だけだった。詩音はイスに座って紅茶を飲んでいる。

「騒々しいですね。せっかくの朝を……」

「…………」

 いのりと詩音の目が合う。

「……………」

「…………」

 詩音は飲んでいたティーカップをソーサーへ戻した。

「……、静流さんに何をしたのですか?」

「…………」

 いのりは答えない。詩音は座ったまま、いのりは踵を返して店を出て行く。

「……ここにいないなら……シカ電で……」

 いのりの姿が駅の方向へ消えると、香菜がトイレから出てきた。

「お待たせしました」

「……香菜……」

「はい?」

「着替えを買ってきてもらえますか」

「え?」

「スカートを濡らしてしまいました」

「……………」

 香菜が見ると、詩音の座っているイスから小水が滴りおち、スカートや靴下が濡れている。

「っ、ご、ごめんなさい! 私が先にトイレを使ったからっ! ごめんなさい! ガマンしてらっしゃるように見えなくて!」

「違いますよ、これは……」

「詩音お姉様…?」

「高等な動物は激しい恐怖を感じると失禁するのです。……でも、恥ずかしいので早く着替えをお願いできますか?」

「は、はいっ。……でも、お姉様を怖がらせたって、いったい?」

「あれは……たぶん……悪魔か、………邪神、……そういった類のものでしょう」

 詩音はハンカチを拡げて濡れたスカートを隠した。

 

 

 

 澄空学園も三年生は自由登校になっていたけれど、もう同級生に会えるのも、残りわずかなので彩花と唯笑、巴は昼前まで教室で会話を楽しみ、シカ電に乗って帰宅している。巴がカバンを荷台へ放りあげた。

「澄空駅から乗るのも、あと何回かな」

「トトちゃんは卒業したら演劇だけするの?」

「う~ん……まあ、バイトしてもいいけど。ルッサクとか♪ もう一回、イナを取り戻してみるなんてね」

「やめときなさいよ。ドロドロのグチャグチャになるよ」

「わかってるって。ヒッキーは賢いよね、トミーとのドロドロをやらないあたり」

「ヒッキー言うな」

 平和な会話をしていた彩花たちの前に、隣の車両から女子大生の星月織姫が逃げ込んできた。

「ひぃっ…ひぃぃいっ…」

 今は治っている雛岸いずみに刺された傷痕をおさえ、震えながらスカートを小水で濡らして這ってくる。

「あの人……」

 彩花は自分たちが二年生の頃に転入してきた織姫を知っていた。知り合いではなく一方的に彩花が転校前の事件が噂になっていたので知っていただけだった。織姫の怯えようは尋常ではなく何か事件があったとしか思えない様子だった。

「唯笑ちゃん、こっち来て」

「彩ちゃ……向こうの車両………人が倒れて……いっぱい…」

 唯笑が隣の車両を指し、巴が見る。

「ひぃっ…」

 巴が悲鳴をあげ、内腿を小水で濡らしていく。

 しょわぁぁぁあぁ…

「トト?!」

「…ひぃ……ぃぃ…」

「トト、どうしたの?!」

 巴は怯えきっていて彩花に応えない。彩花は織姫だけでなく巴まで失禁したことで危機感を覚えた。

「唯笑ちゃんっ! 息をしないで! ハンカチで口を覆って!」

 看護師を志望している彩花は列車内で次々と人が倒れる状況に6年前のオウム真理教による毒ガステロを想起して唯笑の口にハンカチをあてようとしたけれど、遅かった。

「彩ちゃ………ぉ、…お化け……出た……」

 じゅ~~ぅわあぁぁ…

 座り込んでいた唯笑のショーツから小水が溢れて拡がる。

「唯笑ちゃん……幻覚を見て……、諦めないで息を止めて!」

 毒ガスによる効果だと思った彩花は非常停止ボタンを探してシカ電を停めて窓から脱出することを考えたけれど、隣の車両から禍々しい気配を感じて、振り返ってしまった。

「っ…………悪魔……」

 じょっ…じょじょっ…じょわああぁぁ…

 いのりと目が合ってしまった彩花は温かくショーツの中で渦を巻く小水を感じることもなく気絶した。

 

 

 

 智也は自宅でテレビを見ながら履歴書を入れた封筒をチェックして、鷹乃がアイロンをあててくれたカッターシャツを着る。

「さてと」

「ネクタイを忘れてるわよ」

「あ、そっか」

 鷹乃が渡してくれたネクタイを締めていると、テレビが緊急ニュースを流した。

(…ただいま入った情報によりますと芦鹿島電鉄…)

「お、シカ電がニュースに…」

(…車内で次々と人が倒れ、病院に搬送されたとのことです。神奈川県警では毒ガスによるテロを想定し、警察庁と自衛隊に応援を求め…)

「怖いわね。すぐ近く……」

「唯笑っ?!」

 智也はテレビ映像に映った担架に乗せられて救急車に運び込まれる唯笑の姿を見つけて叫んだ。

「そんな……まさか…」

「でも、澄空の制服だったわ…」

 鷹乃も見ていた。

(…病院に運び込まれた方の氏名です。判明している分のみ、順不同で読み上げます。星月織姫さん、早蕨美海さん、今坂唯笑さん、安藤…)

「唯笑っ!!」

(…相摩希さん、飛世巴さん、桧月彩花さん、柏崎…)

「彩花っ!!」

 智也は叫んで家を飛び出した。

「智也っ?! どこの病院か、わかってるの?! クロエは家にいて!」

 鷹乃も追いかけていく。クロエも心配なので戸締まりをして追いかけた。智也はニュースで流れた駅に近い病院を走り回り、三軒目にして彩花たちを見つけた。教えてもらった病室へ駆け込む。

「彩花っ! 唯笑っ!」

「あ、トモちゃん」

 ベッドにいた唯笑の元気そうな声で智也は足がもつれて転んだ。

「痛たぁぁ…」

「トモちゃん、大丈夫?」

 唯笑は病院の寝間着を着ているけれど、とくに目立った負傷はなかった。

「唯笑……お前こそ、大丈夫なのか?」

「うん」

「……、彩花は?」

「あっち」

「智也。お見舞い、ご苦労さん♪」

 彩花も元気そうだった。

「な……なんだよ……オレは、てっきり…」

「死んでるかと思った?」

 彩花が肩をすくめて笑った。

「彩花……何があったんだ? 毒ガスは?」

「さあ? 気がついたら、ここいてね。ね、唯笑ちゃん」

「唯笑も覚えてないの」

「思い出そうとすると……」

 彩花がシカ電内での記憶を振り返ると、青ざめて身震いした。

「ダメ……すっごい怖いことがあった気がするけど、何も思い出せないの…」

「彩花……」

 智也が青ざめている彩花の手を握った。

「心配かけて、ごめんね。智也」

「バカ野郎、そんなこと………ホントに大丈夫なのか?」

 智也は彩花の顔を見つめる。頬の赤み、その吐息、どれも生きている証だった。

「唯笑は、どうだ? ホントに大丈夫か?」

「うんっ♪」

 唯笑の顔色も確かめ、肩に触れ、無事だった嬉しさで抱きしめようとして智也は二人が大人用オムツをしていることに気づいた。

「お前ら……オムツしてるのか? クスっ…」

「トモちゃんのバカっ! 笑うなんてひどいよ!」

「バカ智也っ! ぃ、医療上、必要な処置なのよ! バカっ!」

 唯笑も彩花も真っ赤になって智也を叩くけれど、叩いているうちに抱き合っていた。

「彩花……唯笑……無事でよかったな」

「「うん」」

 三人が抱き合って涙ぐみながら無事だったことに感謝していると、遅れて駆けつけた鷹乃とクロエが病室に入ってきた。智也が慌てて二人から離れる。

「たッ…鷹乃、こ、これは…その…」

「……」

 鷹乃は無表情に三人を見つめた後、微笑した。

「無事のようね」

「あ、ああ…、……………」

「ママ、怒らないの?」

 智也に代わってクロエが問うと、鷹乃は唯笑の涙を拭いた。

「そうね。この人たちは兄弟みたいなものだから、今の場合は怒るところじゃないの」

「鷹乃………」

「ニュースを見るなり飛び出して、面接のことなんて考えもしなかったでしょ?」

「っ、そうだ! 面接!」

 智也は病室の時計を見る。すでに17時を過ぎていた。

「うぎゃぁぁぁぁ…確実だった就職口があぁ…」

 智也が床に崩れて呻いた。

「トモちゃん、唯笑たちのせいで…」

「智也、どこの会社だったの?」

「りかりんに紹介してもらった不動産会社だったんだァァ…」

「ごめん……私たちのせいだね……」

「諦めるのは、まだ、早いでしょ」

「鷹乃、今から行っても無駄だ………。たとえ、光速の120%で移動しようとも……完全に遅刻だ。遅刻して合格するわけない」

「大丈夫よ、今は芦鹿島電鉄の全線がストップしてるのよ。バスもタクシーも満員で交通機関はマヒ状態、こんなときの遅刻くらい認めてくれるわよ」

「……………そうか。そうなのか?」

「あなた、ちゃんとした理由で遅刻したことないでしょう? 寝坊とか、忘れてたとか、そーゆーのばかり」

「は…はははっ…」

 力なく笑った智也は面接を受ける会社まで自分の脚で走ることになった。

 

 

 

 花祭家の邸宅は、たった一人の侵入者によって壊滅的な打撃を受けていた。いつも余裕を持て余して振る舞っている花祭香憐は一人娘を守るために屋敷の奥へと逃げ込み、果凛をワイン倉庫へ押し込んだ。

「ハァっハァっ、ここにっ、ハァハァっ隠れてっ」

「ママはっ?! ママもっ!」

「………」

 香憐は娘を守るためにオトリになるつもりだったけれど、遅かった。背後に邪気を感じて振り返ると、いのりがいた。

「っ?!」

 香憐は赤いドレスを失禁した尿で汚しながら腰を抜かして崩れたけれど、ワイン倉庫への扉を背中で守る。いのりは邪魔そうに香憐を見つめた。

「…………」

「呪う」

「っ……」

 香憐が意識を失って昏倒する。いのりは最後の扉を開けた。

「見つけた」

「ひっ……」

 果凛は息を飲み、尿を漏らした。ガタガタと震えて逃げることもできない。

「呪う。呪い殺す」

「ひぃぃっ…」

 果凛は震えながら祖父の形見である指輪を握った。かつて祖父には霊感があり、花祭家や周囲の人間を何度も不幸から救ったという、その力は果凛が持つ指輪に残っていると信じている。

「それは……」

 いのりは歩みを止め、果凛が持っている指輪を注視する。何かしら聖なる力を感じた。

「………」

「お祖父様っ、たっ、助けてっ!」

 孫娘の祈りが通じたのか、指輪が輝き始める。いのりは眩しそうに目を細めたけれど、呪い殺す目で指輪を睨んだ。

「ふにゅっ♪」

「ひぃぃっ?!」

 果凛の手の中で指輪はグニャリと曲がり、輝きを失った。

「いのりちゃんのなぞなぞタイ~ィ…」

「ひっ…ひぃぃっ…」

「なぜ、花祭果凛は呪い殺されるのでしょう? 1リナちゃんの仇。2イッシューを誑かした罪。3生まれてきたことが間違い」

「ひぃぃっ…ひぃぃいいっ…」

 果凛は恐ろしさの余り口も利けず答えられない。いのりは冷たく嗤った。

「正解は全部♪」

「ひぃっ…イヤっ…ひあぁっ…」

「……………」

 いのりは真顔になって果凛を呪い殺す目で見つめる。

「ひぃっ! ひぃぃいい!」

「……………………」

「ひぃいっ! ひっ…ひぃっ…ひいぃ…」

 果凛は目をそらすこともできず、いのりの視線を浴び、痙攣したように震えると、動かなくなった。悲鳴をあげすぎたせいか、唇が割れて血が流れ、瞳は光を失い、呪い殺された目になり、何も見なくなった。血の混じった尿が股間から溢れ、床に拡がり、その血溜まりに崩れる。

「……あぅ………ぅあ………」

「…………」

 いのりは心を呪い殺した果凛を見下ろす。生きる屍となった果凛は倒れたまま、言葉になっていない赤子のような声を漏らしている。

「……………終わった」

 いのりは立ち去ろうと背中を向けたけれど、果凛のケータイが鳴った。振り返って着信表示を見ると「一蹴くん」だった。

「………………………」

 受話しないでいると、今度はメールが着信する。いのりはメールを開いた。

(明後日はマリンランドでいいかな? あんまり近場で目立つとこはKARIN的にダメだったりする?)

「………………」

 明らかにデートの計画を問うメールだった。さらにメールが届く。

(話したいんだけど、電話は無理かな? 忙しい? 疲れてるなら遠慮するよ。って、そーゆー風に言っても果凛は疲れてても電話してくれるよな。それはナシ、ホントに疲れてるなら疲れてるって、オレには本当のことを言ってくれよ。待ってる、けど、疲れてるなら遠慮する。ホントに。じゃ)

「……………………………………」

 付き合い始めたばかりの新鮮味がある長文のメールで、いのりの記憶にある限り、いのりのケータイに、これほどの長文が届いたことはない。相手を慮った一蹴の温かい心を感じるメールだった。

「……………………………………」

 いのりは果凛のケータイを操作して、返信メールを打つ。

(私のこと、愛してる?)

 送信すると2秒で返ってきた。

(愛してる。ずっと、一生)

「………私も愛してるよ、イッシュー」

 いのりは花祭家を出ながら、さらにメールを打つ。

(今から会いたい)

(今から?)

(今から)

(どこで会おうか?)

(私が行くね)

(行くって。まさか、オレの部屋?)

(もちろん)

(ちょっと、待ってよ。準備できてないし!)

(行くね)

(せめて30分! 片付けさせて!)

 いのりは夜道を微笑みながら一蹴のアパートを目指して歩く。ゆっくり30分かけて歩いて到着すると、一蹴の部屋は明るく電灯がついていて、中にはバタバタと動いている人影が見える。

(着いたよ)

 いのりはメールを打ってから階段を昇る。カン、カン、と金属の階段を昇る音が響くと室内の一蹴が慌てる声が聴こえてくる。

「うわぁあっ! もう来ちゃったよぉ!」

 まだ、掃除が終わっていない一蹴はラストスパートをかけてバタバタと動いている。いのりはドアをノックした。

「………」

(ま、待って! 今、開けるから。でも、片付いてないから…)

 一蹴は寒空の下に新しい恋人を待たせることなくドアを開ける。

「っ?!」

 てっきり果凛の笑顔がそこにあると想って開けたのに、いのりの呪い殺すような目があったので一蹴は驚きのあまり心臓が数秒ほど止まった。

「っ…ぃ…ぃの…? な…なんで…」

「お待たせ、イッシュー♪」

「ひぃっ…」

 一蹴は身震いしてズボンを濡らして腰を抜かした。

「ふふ♪ イッシュー、お待ちかねだね。先走り液が、こんなに」

 いのりは愛おしそうに温かく濡れた一蹴のズボンを撫でて、脱がそうとする。一蹴は怪物から逃げるように古い恋人から逃げる。

「ひっ! ひぃいっ!」

 思うように動かない脚を引きずって部屋の奥へと逃げる。いのりは日常的な動作でドアを閉めて靴を脱いだ。

「なッ…なんで……ひぃのりが…ひっ…」

「ただいま」

 いのりは帰るべき家に帰ってきたという挨拶をして奥に進む。部屋の奥に片付ける途中だったダンボール箱を見つけた。箱には、いのりの所有物であるCDやブラシ、漫画や歯ブラシなどが集められている。いのりに返すために用意されている気配だったけれど、丁寧に梱包されているというよりは30分で掻き集めて乱雑に投げ入れたという風情だった。

「イッシュー………、どうして、私の……」

「だ……だって……お前とは……別れ…」

「どうして、そんなこと言うの? さっき、愛してる、ずっと一生って送ってくれたのに」

「っ! それ、果凛のケータイ……なんで…」

 いのりが果凛のケータイを持っていることに気づいたけれど、いのりはケータイをゴミ箱へ投げ入れた。

「イッシュー♪ ご飯にする? 私にする?」

「ひぃっ!」

 一蹴は狭い室内で逃げようとしたけれど、すぐに追いつめられる。いのりが呪い殺すような目を向けた。

「どうして逃げるの?」

「っ…お……お前とは……別れっ…」

「…………」

 いのりが呪い殺す目で一蹴を見つめる。

「ひぃぃっ……」

「おかしいよ、イッシュー。あ、そっか。想い出さないから、いけないんだ。飛田さんの言った通りにした方が正解なのかな」

 いのりは呪い殺すような目で、優しく微笑んだ。

「あのね、イッシュー。私はイッシューを幸せにしないといけないの。義務があるの。そしてね、イッシュー、イッシューにも私を幸せにする責任があるの」

「な……なにを言って…?」

「想い出して、リナちゃんのことを」

「リナ………リナ………」

「ほら、この傷痕」

 いのりは一蹴の額にある傷痕を優しく舐めた。

「リナちゃんのこと、想い出して、つばさちゃんのこと、そして、私のこと」

「……リナ………つばさちゃ………」

「イッシューは守れなかった。病院をリナちゃんと逃げ出したのに、花祭のせいで追いかけられて事故に遭った。でも、リナちゃんは死んでない。つばさちゃんとして、私といっしょに、イッシューのそばにいるの。想い出して、つばさちゃんのこと、私のこと。だから、イッシューは事故に遭わせてしまったリナちゃんの分も私を愛さないといけない責任があるの。二人で幸せになる義務があるの。ずっと、一生、永遠に、神さまが決めたこと、だから、私は花祭にも勝った。あの魔女にも、魔女は死んで、天使のつばさのつばさちゃんと、魔法が解けたイッシューは二人、幸せになるの。ハッピーエンドだよ、イッシュー♪」

「…………」

 一蹴の目が呪いをかけられた目になった。

「……ボクが……守れなかった……リナ………つばさちゃん……、いのり………」

「ずっと、いっしょにいようね、イッシュー」

 いのりは呪い殺すような目のまま、呪いをかけた一蹴にキスをした。

 

 

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