「智也が浜咲だったら」   作:高尾のり子

26 / 27
第26話

 

 

 翌朝、一年生なので授業がある雅と歩は登校して下駄箱で靴を履き替えていた。

「もうすぐに二年生やね。同じクラスになれたらええなぁ」

「そうですね。また、一年、頑張りま…っ」

 雅は靴を落として座り込み、黒いタイツの股間を小水で濡らして身震いした。

「どないしたん?」

 歩が雅の見ているものを見るために振り返って腰を抜かした。

「ひぃっ…」

「あ、藤原さん、木瀬さん、おはよう♪」

 いのりは呪い殺すような目で朝の挨拶をした。

「な……なんや…ねん…」

 歩は小水を漏らしながら這って逃げる。いのりは靴を履き替えながら、一蹴に微笑みかける。

「今日も一日、頑張ろうね」

「…ああ…頑張ろう…」

 一蹴は呪いをかけられた目で応えた。香菜が登校してきて二人に声をかける。

「何を頑張るつもりなのかな♪ 保健室の先生が怒って…っ…」

 いのりと目があった香菜も腰を抜かして半年前にカナタが小水で濡らした場所と同じところに水たまりをつくる。

「ひぃぃっ……」

 香菜が怯えて震えていると、葉夜が現れ、目を閉じたまま、いのりに近づく。

「その目の力、暴走してる」

「え?」

「これを着けて」

 葉夜は小さな箱を差し出して開けた。中には黒のカラーコンタクトレンズが入っていた。

「のん先輩?」

「着けないと日常生活に戻れないよ」

「……はい」

 いのりは渡されたカラーコンタクトレンズを両目に着ける。いのりと葉夜は目を合わせた。

「………のん先輩?」

「………まあ、大丈夫そうだね。………黒い気持ち………どうにも、ならなかった?」

「何を言ってるんですか? のん先輩、イッシューと私は運命の恋人なんですよ。ね、イッシュー」

「…ああ…いのり…愛してる…」

「ほら♪」

「一蹴くん………」

 葉夜は胸の傷痕を押さえた。

「さようなら、一蹴くん、りかりんちゃん」

 葉夜なりの別れをつげ、自由登校なので教室へは行かず、ならずやへ向かった。ならずやで葉夜が静流と開店準備をしていると、扉と深歩が魚力の軽トラで配達に来た。

「ちわーぁ、魚力でーす♪」

 深歩が挨拶する。

「ピーース♪」

 葉夜が応えて、シーフード系の材料を受け取った。扉と葉夜の目が合う。

「………」

「………」

 リナが絡んだ子供の頃の事故について二人は何も言葉を交わすことなく視線だけを交えて別れる。扉は軽トラを無免許で走らせた。

「深歩、次はどこだ?」

「キュービックカフェさんは充電日だから、次は澄空の福々亭に……あ、ウワサをすれば、テンチョーさん。デートかな?」

 深歩は前方を走っているバイクに一太郎が乗っているのを見つけた。エリーズが運転するフランス製のバイクの後席に乗って、エリーズの腰につかまっている。

「あの野郎、女のケツに乗って。ダセェ」

 扉はバイク乗りとして女性の後席に乗る一太郎を鼻で笑った。それでもエリーズの運転技術には一目をおく。

「ほぉ…」

 大出力のフランス製バイクを人馬一体に操っている。ほとんど新品に見えるバイクを乗りこなしている技術は扉を感心させた。

「あの女、やるなぁ」

「踏切だよ、歩行者に気をつけて」

 深歩は前方の狭い踏切で注意を促す。タイミング悪く昨日は全線運休だったシカ電が通過するようで、エリーズと一太郎のバイク、それに相摩望が歩行者として列車の通過を待っている。

「ちっ…」

 意味もなく舌打ちした扉は軽トラを止めてギアをニュートラルにしようとしたけれど、義足が普段通りに動いてくれず、ペダル操作を過った。

 うぉおんっ!

 軽トラが呻りをあげて前進する。

「くっ…」

 扉は慌てて止めようとしたけれど、アクセルとブレーキを間違えてしまった。

「ヤバい…」

「きゃあぁ?! 前にっ?!」

 深歩は乗っている軽トラが前方のバイクと歩行者を線路に押し出すのを見て悲鳴をあげた。軽トラもバイクに乗り上げて線路上で横転する。

「ぐっ……義足が…」

 普段通りに動いてくれなかった義足について扉は、いのりにナイフを突き立てられたことを思い出した。あのとき、重要な部品に傷が入っていたのかもしれない。

「……あの女の……呪いか……」

 扉は迫り来る列車をフロントガラス越しに見ながら、運命と世界を呪った。

 

 

 

 いのりは自由登校ではないので授業を受け、ようやく休み時間になって一蹴の席に近づく。

「いのりちゃんのナゾナゾタイ~ィ…」

 授業中に一生懸命考えていたナゾナゾを一蹴に試すけれど、すぐに休み時間は残り少なくなる。

「イッシューの隣だったら、いいのに……」

 いのりは三学期始めの席替えで一蹴の隣席になった勅使河原早絵の席を羨ましく思った。

「早絵ちゃん、席、替わってくれないかな?」

「………冗談、お断り」

 早絵とは二学期に不仲になったままだった上、早絵の後席は交際中の天野なので交替してくれるはずがなかった。いのりは残念に思いつつ、いいことを思いついた。

「ふにゅっ♪」

 柔らかいカラーコンタクトレンズを指で外して呪い殺すような目を解放する。

「………」

 あんまり力を込めると漏らされて汚いから軽く……じーーっ……、いのりは早絵と軽く目を合わせた。

「ひぃっ…」

 早絵は青ざめて身震いしたけれど、腰を抜かしたり、床に小水で水たまりをつくったりせず、いのりを恐れるだけだった。

「早絵ちゃん、席を替わって」

「うんっ! 替わる! 替わります!」

 早絵はブルブルと震えながら席を立った。そのお尻が濡れていて、立ち上がったイスも小水で汚れていた。

「……濡れてる……力を入れすぎがのかなぁ……加減が難しいよ…」

 カナタや正午のように女子の小水を聖水とは思えないので、いのりは呪い殺すような目を低出力で放射して早絵が失禁しないように加減したつもりだったけれど、軽く漏らされてしまった。

「……汚い…」

 ハンカチで拭いて座ろうという気にもなれない。いのりはフラフラと腰を抜かしそうな足取りで席を替わろうとしている早絵に命じる。

「早絵ちゃん、イスも交換して」

「はいっ!」

「あと、床にも滴が垂れてるよ。拭いて」

「はいっ!」

 早絵は言われるまま実行してくれるけれど、さすがに天野が見かねて怒った。

「おいっ、陵! ひどいじゃないか。早絵、泣いてるだろ!」

「ふにゅっ♪」

 いのりは両眼ではなく片目だけカラーコンタクトレンズを指で外して呪い殺すような目を解放する。

「天野くん、黙って座ってようね」

「っ…あ、…ああ……座ってる…」

 天野は青ざめて席に座った。チャイムが鳴り、つばめが授業のために入ってきた。

「…そろそろ学期末テストの…」

 つばめはまじめに授業を始めている。いのりは小声で一蹴に話しかけた。

「机よせて。教科書、忘れたフリするから」

「…ああ…」

 いのりと一蹴は机を合わせて中央に国語の教科書を置いた。これで、つばめから下半身は見えにくくなる。

「触りっこしよ♪」

「…ああ…」

 いのりはズボンのチャックを開けて一蹴の男根に触れ、一蹴はスカートのチャックを開けて手を滑り込ませて、いのりのクリトリスをまさぐる。

「…んっ…んぅ…いいよ、イッシュー…ハァっ…ハァっ…」

 いのりは感じてきて上半身も淋しくなった。

「キスして」

「…ああ…」

 一蹴がキスに応じると、つばめは冷たい視線で二人を睨んだ。注意すると生徒たちが騒いで逆効果になると思い、視線だけで授業中のキスを見咎めたけれど、いのりは気にしない。

「腋、舐めて」

 いのりは性感帯を攻めて欲しくなり、制服のボタンを外して腋を見せる。一蹴が従って舌を這わせる。

「あぅん…いい…」

「陵さんっ!」

 つばめが教卓を叩いた。キスだけなら黙っていられたけれど、さすがに授業中に半裸になって恋人に腋を舐めさせている女生徒を教師として注意する。

「何をやっているの?! いい加減にしなさい!」

「ふにゅっ♪」

 いのりは片目だけコンタクトレンズを外すと、言い放つ。

「私とイッシューを邪魔しないで!」

「ひぃっ…」

 つばめは腰を抜かしてスカートを小水で濡らした。

「あれ? 漏らした………片目なのに……言葉が強くてもダメなのかなぁ……」

「…ぅぅっ…ぅぅっ…やめて……お父さん……私に……入ってこないで…」

 つばめは古い虐待の記憶を喚起されて苦しんでいる。

「うーーん……トラウマがある人は記憶を………。とりあえず、先生、授業は続けてください」

「はっ…はひっ…」

 つばめは逆らうことなく震えながら授業を続ける。いのりは一蹴との行為を再開しようとしたけれど、さすがにクラスメートたちが騒ぎ始めた。つばめは濡れたスカートのまま泣きながら授業を再開している。いのりも半裸なので目立っている。

「あんまり騒がれても……でも、昨日のシカ電みたいになると……」

 いのりは警察沙汰になったことを反省していたので教壇に立ってクラスメート全員の注目を集めると優しく微笑んだ。

「いのりちゃんの絶対順守タイ~ィ…」

 あいかわらず、恥ずかしいので語尾は弱くなる。いのりは片目だけコンタクトレンズを外して命じる。

「みんな、普通に授業を受けて。騒がないの。いいかな?」

「「「「「「はいっ」」」」」」

 誰も漏らさず、ほどよく命令に従わせることができた。

「イッシューは、こっちに来て」

「…ああ…」

「続き、ここで、しよ」

 いのりは教卓に座った。

「こっちの腋も舐めて」

「…ああ…」

「んぅっ…いい…脱がせて、裸に…」

「…ああ…」

 一蹴は呪いのかかった目になってから自主性を失ってしまったので、いのりが愛撫も細々と指示して要求していく。いのりは教卓の上で一蹴に脱がされ裸になった。

「…ハァっ…ハァっ…」

 いのりは授業中の教室で全裸にされた状況に強く興奮して股間を熱く濡らして息を乱れさせた。つばめは授業を続けている。クラスメートたちも前を見ている。その教卓で裸になった興奮だけで絶頂を迎えそうだった。

「…ハァっ…イッシューっ…お尻の穴、舐めて…」

「…ああ…」

 一蹴が肛門に舌を這わせてくると、いのりは快感のあまり潮吹きした。

「ハァぁぁぁっ…」

 いのりの潮が最前列の生徒の顔へかかる。

「ハァっ…ハァっ…イッシュー、勃起して、おまんこに射精して、もちろん、ゴム無しで♪」

「…ああ…」

 一蹴も教卓にあがって、いのりと合体する。

「あぁぁぁっ…いいぃぃっ……ほら、みんな…ハァっ…ハァっ…見て…いのりちゃんとイッシューは二人で一つだよ♪ ハァっ…ハァっ…神さまが決めたカップルなのっ! ハァっ…ハァっ…邪魔したら、神の力で呪い殺すからね♪」

 いのりは世界を手に入れる力をもったけれど、一蹴との性生活さえ手に入れれば満足だった。

 

 

 

 放課後、クロエは中学の生徒会の仕事を終え、帰宅して宿題を片付けてから、鷹乃と夕食を作り始めていた。鷹乃と会話しながら料理をするのが、一日のうちで一番楽しい時間だった。

「そういえば、クロエ、三年生を送る会は、うまくいきそう?」

「はい、ちょっと予算が足りなかったけど、なんとかなりそう。智也パパの悪知恵のおかげで」

「それは過程と結果を聞いておかないと心配ね。どうやったの?」

「うちの学校の予算でおさまらなかったから、他の中学に頼ってみて。他校の生徒会との交流を利用して、澄空の中学の一年生で私が困っていたら、自分の学校では予算が余ってるから使ってくれって」

「それは……予算の流用になるから問題になるわよ?」

「それで、智也パパに悪知恵をかりて、その学校の生徒会で多めに物品を購入してもらって、余った分を安く私の学校で引き受ける形をとったの」

「オレ様は賢いだろう♪」

 智也がテレビを見ながら笑った。鷹乃が冷ややかにタメ息をつく。

「多めにねぇ」

「悪いとは思ったけど、その子が自分のミスで多めに注文したってことにしてくれて、とても助かったの。広告費まで賛助してくれて」

「広告費?」

「送る会のパンフレットの最後に企業広告を入れる欄をつくって。あ、これも智也パパの悪知恵なのだけど…」

「それは悪知恵じゃないぞ。まともな広告収入だ」

 智也はテレビをつけたまま、つまみ食いに来て、揚げたての唐揚げを頬ばった。

「熱っ!」

「バカね。もう少し待ってなさい」

「はひっはふっ…」

 口を火傷した智也は冷蔵庫から氷を出して口に入れている。クロエが話を続けた。

「それで、その助けてくれた子の家はサングレイス澄空ってマンションを経営していたから、そこの入居広告を入れてもらって広告費をくれたの。……そこまでしなくても、いっそ、私が払おうかと思ったのに…」

「あ~っ…熱かった。それは反則だって。な、鷹乃」

「そうね。智也の悪知恵も反則すれすれだけれど、生徒会役員が足りない予算をかぶってしまうのは完全に反則ね。たまたま、クロエがお金に余裕があるからできるけれど、そうでない子が役員になったとき、とても困るわ。そーゆーことを考えておかないとね」

「はい。………でも、あの子には悪いことしちゃった」

「そいつ、男か?」

「はい」

「じゃ、いいんじゃね」

「どうして?」

「そーゆーものだって♪」

 智也が意味ありげに笑っていると、テレビが地方ニュースを流した。

(…今日午前10時頃、千羽谷市内の芦鹿島電鉄の踏切で、軽トラックとバイク、歩行者がからむ列車事故がありました…)

「腹減ったぁ。早く喰いてぇ」

「もう少しよ」

(…この事故で死亡したのは、踏切待ちをしていた相摩望さん、バイクに乗っていた田中一太郎さん、アメレール・エリーズさんの三名です。軽トラックに乗っていた飛田扉さんと荷嶋深歩さんは重傷で病院に搬送されたとのことです。事故の原因は停車していた軽トラックが突然に前進し、踏切待ちをしていた相摩さんとバイクに乗った二人を線路上に押し出したためで、神奈川県警では運転していた飛田扉容疑者の回復を待って詳しい事情を訊くとともに、無免許運転および…)

 ニュースが耳に入ったクロエは皿をテーブルに置いてテレビを注視する。

「………」

 アメレール……エリーズ……あの人の旧姓……でも、どうして、嘉神川エリーズじゃなくて……同姓同名のフランス人なんて、そうそう日本には……しかも、千羽谷市内…………あ、国際運転免許証を更新せずに持っていて………それで遺留品から警察が断定して…、クロエは旧姓で流れた理由を、ほぼ正確に見抜いた。

(…飛田扉容疑者は数年前にもバイク事故を起こしており警察では悪質な無免許運転を繰り返し…)

「………」

「クロエ、できたわよ。食べましょう」

「はーい」

 もう関係ないわ、あの人が、どこで、どんな風に死んでいようと……、そうよ、結婚前の名前で流れてちょうどいいわ、そーゆー人生だったのよ……、クロエは母親の死を知っても、ほとんど動揺しなかった。鷹乃は知らない名前ばかりの交通事故のニュースなど耳に入っていない、智也も新しい就職先には関係ない田中一太郎の名前に反応しなかった。

「「「いただきます」」」

 だから、クロエは三人で楽しく夕食を食べた。

 

 

 

 翌々日の2月18日、月曜の朝から正午は千羽谷大学に通うために借りたワンルームマンションに音緒を連れ込んでいた。音緒もモデルの仕事だと、学校に報告して欠席している。

「へぇぇ…キレイな部屋ですね」

「まあねン♪」

「でも、実家は的射にあるんですよね。すぐ近くなのに一人暮らしさせてくれるなんて、正午さんの親、実は超お金持ちだったり?」

「そんなことないよ。ごく普通だって」

「ふーん…」

 謙遜かなぁ……少なくとも、ごく普通の家庭は絶対に実家から通学させる距離だと思うけど……親子仲が悪いって雰囲気はないし、やっぱり無自覚なだけで、そこそこのお金持ちなんだろうなぁ………私って一応モデルからアイドルになって成功してるし、これからも成功するつもりだけど、結婚っていう保険もあった方がいいし……あ、使いやすそうなキッチン♪ やっぱり贅沢すぎっ、一階の集合玄関もコントロールロックだからNEOとして出入りするのも問題少ないし、彼氏にするには、ちょうどいいかな♪ 音緒は部屋を見て、当面の彼氏を決めた。

 

 

 

 一週間後、音緒は処女を捧げた相手の寝顔を見つめる。

「…………」

 気持ちよかったァ……セックスが、こんなに気持ちいいものだったなんて…………イく、って感覚が最高っ………正午くんが起きたら、もう一回……てへへっ♪ 音緒は初体験を済ませた満足感に浸りながらココアを淹れる。その香りで正午が起きた。

「…ん~……」

 この匂い………カナタ……じゃない、そうだ、音緒ちゃんと………、正午は名前を呼び間違えそうになって脳を揺すった。

「あ、正午くん、起きた?」

「ああ」

 正午は返事をしながらココアを淹れている音緒の背中を抱いて、首筋にキスをする。

「やんっ♪ くすぐったいよ、正午くん」

「音緒ちゃんが可愛いから、したくなるんだ♪」

「もぉ♪」

 音緒は背筋にもキスをされ、そのキスが少しずつくだってきて、お尻にキスをされると股間が熱くなるのを自覚した。

「正午くんのエッチ♪」

 気持ちいい……くすぐったくて恥ずかしいけど……すごく気持ちいい……でも、正午くんの部屋に出入りするときは、週刊誌に気をつけなきゃ………KARINも仕事をドタキャンしたかと思ったら病気療養とかで無期限休止とか……うちの事務所、これからはNEOメインで行くって言われたし………インモラル・インパクトも評判あがってきてるし………ここで正午くんとの関係を激写されちゃうわけにはいかないもん……、音緒は二度目のセックスを終えてから正午の部屋を出る。

「また来てよ、音緒ちゃん」

「うん」

「駅まで送るよ」

「ううん、見送りはいいよ。他に行くとこ、あるから」

「そっか。どこ、行くの?」

「秘密♪」

「たはっ♪」

「女の子には秘密があった方が魅力的でしょ? じゃ、またね」

 音緒はウインクを一つ放って、正午のマンションを出ると、病院へ向かった。その途中の公園でカナタに出会った。

「あ、KANATAさん」

「ハーイ♪ NEOちゃん」

 カナタはウイーンから帰国したばかりで左手に土産袋を持っていた。音緒には読めないドイツ語で何か書かれている関税証明書が張ってあるので、いかにも海外から戻ってきたという雰囲気がする。

「どこかに旅行してたんですか?」

「まあねン♪」

「……。誰かにお土産?」

「うん、ショーゴに。あいつ、淋しくしてたろうし、本場ベルギーのチョコレートを分けてやろうと思ってね」

「ふーーん…」

 チョコって……、ヴァレンタイン、とっくに終わってるのに……クスっ♪ 何も知らないんだぁ……正午くんも人が悪いなぁ……そりゃ、私と付き合うこと、他人には言わないでって芸能人的に口止めをお願いしてあるけど、KANATAさんにくらい、そっけない態度を取るとかしてあげないと期待させちゃう分、可哀想なのに………ヨリを戻したいからって未練がましくチョコを用意して、素直に14日の当日に渡せなくて、今になって持ってくるなんて傑作ぅ……でも、本場ベルギーのチョコかぁ……それは気になるなぁ……正午くんに送るなら、今度、部屋に行ったとき、残ってたらネダってみよっかなぁ……って、いくら正午くんが鈍感だって言っても、他の女の子にもらったチョコをほいほいテーブルに置いておいたりしないよね……あ、でも、義理だと思ってもらったら無防備においとくかも……近いうちに、また、会いに行こっ♪ 音緒はカナタと別れると、少し遅くなったのでタクシーを拾って病院に向かう。交通事故に遭った深歩の病室を見舞うのは、これで三回目になる。

「…………」

 音緒は事故以来意識を取り戻さない妹の姿を無表情に見つめた。

「……………………」

 ひどい事故………脚は生まれつきだから仕方ないけど……せっかく私に似て可愛い顔に生まれてきたのに………顔の半分が、ひどい傷に……いっそ、意識が戻らない方が幸せかもしれない………私だったら耐えられないよ………、音緒は妹に背中を向けると、扉の病室も覗いた。用もなく、会いたくもないけれど、意識を取り戻したなら、文句の一つも言ってやりたいし、謝罪くらい聞いておきたい、けれど、音緒は扉に会えなかった。

「そうですか、警察病院に……。ありがとうございます」

 教えてくれた看護師に礼を言った音緒は病院を出る。

「……深歩………、運の悪い子………生まれつきかな……。でも、私は、深歩の分も頑張るよ。さしあたって、KANATA、あれをキッチリしておいてもらわないと♪ けど、逆恨みされて私と正午くんのことネットとかに流されても困るし……うーーん……どうしよっかなァ」

 音緒は色々と悩みながら自宅に帰った。

 

 

 

 三日後、クロエは嘉神川家の門前に立っていた。

「……………………これで最後に……」

 長く家出しているけれど、ろくな荷物を持ち出していない。これから恒久的に三上家で暮らすことを考えると、持ち出さなくてはいけない物品や衣類があった。

「新しく買うのも、もったいないってママが言うし……仕方ないわね……」

 覚悟を決めてクロエはチャイムを鳴らしたけれど、誰も出てこない。

「………誰もいない。なら、好都合よ」

 この件で鷹乃や智也の手を煩わせたくなかったクロエは一人で来ていたけれど、運良くノエルはいないようで誰にも会わずに事を成就できそうで少し気持ちが軽くなった。合い鍵で解錠して中に入る。玄関に立つと、リビングからテレビの音が聴こえてきた。

「…………誰か、いる……ノエル、それとも……」

 あの人は事故で死んだはず…………父も…いえ、父ではない、あの男も退院しているならテレビなんか見てないで、すぐに会社へ……じゃあ、誰? クロエは警戒心を刺激されて身を硬くしながら静かにリビングに入った。

「ぁ……」

「………」

 ノエルがいた。

「………」

「………」

 ノエルはリビングのソファに寝転がってテレビを見ている。テーブルにはチョコレートの包み紙が山積みになっていた。ノエルはクロエが入ってきたのに、気づいていないのか、それとも気づいていて無視しているのか、微動だにしない。

「………」

「……………」

 いるならいると……チャイムを鳴らしたのに………それにしても、ろくに食事も……あ、そうよ、あの人が死んだから、誰も食事を作らないから、こんなものばかり食べて……せめて少しは野菜を………いえ、もう、どうでもいいわ、この子は私の妹ではないもの……この子も、そう思っているから私を無視している、なら、それでいい、そーゆーことよ、クロエはリビングを横切って二階へあがり、自室に入って荷物をまとめ始める。

「ふーっ……これで、あらかた。……思ったより大変だったわ……」

 中学二年生まで生活してきた空間から、二度と戻らないことを前提に荷物を持ち出すとなると、かなりの作業と時間を要していた。なんとか、トランク一つに絞り込み、あとは諦める。

「どうせ、この服も着られないし……」

 もうサイズが合わなくなって着られないとわかっていても、お気に入りの衣服と別れるのには女性として断ちがたい愛着を感じてしまい、余計に時間がかかる。着られるサイズのものだけを選んでも、かなりの量がある。

「………もったいないけど……でも、あの子が着るかもしれないし……」

 残しておけば再利用されるかもしれない。

「でも……さっきの様子じゃあ、無理かも……まあ、好きなように新しいものを買ってもらえばいいのよ。私には関係ないこと」

 クロエはお気に入りだった衣服をクローゼットへ戻して、ようやくトランクを閉めた。

「ふーっ……」

 タメ息をついて三時間以上もかかった作業を終了すると、喉が渇いていることに気づいた。

「最後にお茶の一杯くらいいただいてもいいわよね」

 クロエはトランクを持って一階へ降りると、キッチンで冷蔵庫を開けた。

「………何もない…」

 冷蔵庫の中は何もなかった。残っているのは、ワサビやカラシなどの調味料くらいで、バターやマヨネーズさえ無い。

「……………もしかして……この子が……」

 クロエはリビングの方を見る。ノエルは三時間前と同じ姿勢でテレビを見ていた。まるで身じろぎしていない。よく見ると頬がこけて、二週間前に見たときとは比べものにならないほど痩せている。

「………………」

 テーブルの上に山積されているのはチョコレートの包み紙だけではなく、マヨネーズやバターの容器も空になって転がっている。リンゴの芯なども転がっているけれど、種の部分ぎりぎりまで食べられている。塩は残っているけれど、砂糖は無くなっている。すでに家の中には食材といえるものは一つも残っていなかった。

「…………」

 あの人が死んで……あの男も入院したまま……この子、買い物にも行かず………いえ、お金の出し方も知らないのかも……まだ、7歳………もしかして、この子、あの人が死んだことさえ知らないのかも………あの小さなニュースを聞き逃していたら、私だって知らなかった………、クロエは胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

「っ………でも、私には関係ないことよ」

 クロエは食器棚からコップを出して、水道水を一杯飲むと、コップを洗って食器棚に戻した。

「…………。じゃ、さようなら」

 クロエはトランクを持ってリビングを横切る。すでに室内は暗いのに、ノエルは電灯もつけていない。テレビの明かりだけがリビングを照らしているので、その前を横切るとノエルが身じろぎした。

「………ママ?」

「………違うわ……」

「……帰って……きて………くれ………」

 ノエルは起きあがる体力がないようで弱々しく手を伸ばして微笑みかけてくる。

「…おかえり……なさ……」

「……違う」

「ごめ……なさい……お腹すいて……」

「…………………」

「……ごめ……」

 ママ……お腹すいて……ママン……違う? ……ママじゃ…………お姉ちゃん? ……帰って…………きて……くれ……、ノエルは虚ろな瞳で姉を見上げたまま、乾いた唇を動かそうとしたけれど、もう声を出す力も残っていなかった。

「……ぉ……ね………ちゃ……」

「違うわ。………、今日、この家を出て行くの。言ったでしょ、もう、あなたのお姉ちゃんじゃないの。いえ、そうだったことは、かつて一度もないわ。たまたま遺伝子を提供した人たちが同じだっただけ、家族じゃないわ。だから、ここに。家の鍵をおいていくわね。もう二度と、私はここに入らない。他人よ」

「……………………」

「さようなら。永遠に」

「……………………………」

 ノエルは遠くなっていく意識の中で、姉の冷たい瞳と置かれた合い鍵を見ていた。クロエは返事をしないノエルに背中を向けると、トランクを持って家を出る。オートロックなので合い鍵を持たずに出ると、もう二度と入れない。

「……………………」

 あの子……あのままだと……………誰も………でも……私には関係ない……、クロエは閉まっていく扉を見ながら、やはり助けた方がよいのではないかと何度も迷ったけれど、結局は手を出さなかった。

「………」

 もう閉まってしまった扉は二度と開けることはできない。クロエはトランクを持つと背中を向けた。

「ここは私の家じゃないもの」

 まっすぐ三上家へ帰る。

「ただいま」

「おかえり。遅かったわね」

「おかえり。ホント遅かったな。やっぱ、手伝った方がよかったんじゃないか?」

「智也パパに見られたくない物も、女の子にはいっぱいあるの♪」

 あえて明るい声で答えたクロエは重いトランクを二階まであげてくれる智也に礼を言って、キッチンで食事の用意をしている鷹乃を手伝う。もう完成しかけていたハンバーグの仕上げをして皿を並べる。

「クロエ、冷蔵庫にサラダを冷やしてあるから出してちょうだい」

「はい、ママ」

 クロエは冷蔵庫をあけてサラダを探す。すぐにアボガドと海老のサラダを見つけた。クロエの好物だった。

「やった♪ ママ、ありがとう」

「私も好きだもの。並べてちょうだい」

「はい。…ぁ…」

 クロエは冷蔵庫からサラダボールを出そうとしてアルミホイールで包まれたチョコレートを引っかけた。落ちそうになるチョコレートをサラダボールで押し戻した。ヴァレンタインに作った手作りチョコレートだったけれど、まだ残っているのを忘れていた。

「……」

「クロエ、どうしたの?」

「ううん、何でも」

 クロエはサラダボールをテーブルに置いて、皿を並べる。夕食の用意が整い、三人が食卓についた。

「「「いただきます」」」

 夕食を始め、智也はシャンパンを開けた。

「りかりんから紹介してもらった会社、さっき内定もらったんだ♪」

「花祭さんにはお礼を言わないといけないわね」

「ああ。内定連絡もらって速攻で電話したけど、出てくれなかったしな。あんま学校でも見ないから忙しいのかもな」

 智也は自分と鷹乃のグラスにシャンパンを注いでから、クロエのグラスにはノンアルコールの子供用シャンパンを開けて注ぐ。

「お前は子供だからノンアルコールな」

「私が子供なのは認めるけど、智也パパも未成年じゃなかった?」

「オレと鷹乃は結婚して成人擬制されてるから法的には成人として扱われるんだ♪」

「智也、成人擬制されてもタバコやアルコールが禁止されていることには適応されないのよ」

「うぐっ……細かいことを、いつのまに法律書を読んだんだ……」

「知らないと智也のウソを見抜けないからよ」

 鷹乃は肩をすくめてからクロエに告げる。

「この話はクロエの気持ち次第になるけれど、私と智也は法律上結婚しているから、養子をとることもできるの。この意味が、わかる?」

「……ママ……?」

「ずっと、私たちといっしょにいてもいいのよ。あなたは自由、きちんと戸籍まで移動させるのも自由、そーゆーことは放置しておくのも自由、ちょっと年齢が近すぎるけれど、法律上は同い年でも誕生日が一日でも遅ければ養子にできるの」

「養子………」

「すぐに答えを、なんて言わないわ。かくいう私も叔父夫婦に育てられたけれど、結婚するまでは寿々奈姓だったもの。クロエが三上クロエを本当に名のりたいなら、そーゆー手続きをすれば、そのようになるし、学校では嘉神川クロエでもいいなら、放置しておけばいいのよ。私も卒業式まで先生たちに黙っているつもりだもの。クロエが、このことに結論を出すのも五年先でも十年先でもいいの。ただ、そーゆー方法があることと、その方法を取ることに私も智也も覚悟をしたわ。それを伝えておきたいの」

「……ママ……」

「言ってしまうとね、私も叔父夫婦のもとで育てられながら、養子になるという話がでないことに、ちょっぴり宙ぶらりんな感じもあったの。もちろん、養子になりたかったわけじゃないけれど、もしかしたら、叔父夫婦は私を養子にしたい気持ちがあったけれど、私に言い出せなかっただけかもしれないって。でも、逆に養子にするところまでの覚悟があって私を育ててくれたわけじゃなく、父にも母にも捨てられた可哀想な姪を事の流れで育てているだけなのかも、とも……つまりね、言葉にしておかないと伝わらないことってあるから、それは、ちゃんと言葉にしておきたいの。だからね、言うわ。私も智也もクロエが望むなら養子縁組する覚悟があるわ。ゆっくり考えておいて、クロエのしたいようにしましょう」

「………はい、ママ。ありがとうございます」

「さ、話が長くなってしまったけれど、乾杯しましょう。とりあえず智也の就職内定に」

「愛しき娘に♪」

「バカな夫に」

 鷹乃と智也がグラスを鳴らした。クロエも二人とグラスを鳴らして一口、飲んだ。甘ったるいノンアルコールのシャンパンは美味しくなかった。

「………」

「本物はダメだぞ。せめて高校生になるまで」

「…………わかってるわ」

 クロエはグラスを置いて、ハンバーグをナイフで切った。ほどよく焼けたハンバーグから肉汁が滴り、美味しそうな匂いがする。智也もグラスを干してから、ハンバーグを頬ばった。

「美味い。鷹乃の料理は宇宙一だ♪」

「智也の味覚を満足させるだけなら、ともかく、全宇宙の知的生命体に一番をもらうのは無理でしょうね」

 鷹乃もサラダを食べながら智也と会話する。クロエはナイフで切ったハンバーグを見つめているばかりで、口にしようとしない。

「どうしたの? クロエ」

「…え……ううん……何でも…」

「くくっ♪ 嫌いな物が入ってないか、チェック中なんだろ。ハンバーグにピーマンを刻んで入れ込むのはトラップの基本だからな」

「そんなことしないわ。クロエが挑戦したい気持ちになるまで黙って入れたりしないわよ。顔色が悪いわね。お腹でも痛いの?」

「ううん……平気…」

 クロエは心配をかけないようにハンバーグをフォークで刺して口に運ぼうとしたけれど、その手が止まる。

「…………」

「「…………」」

 鷹乃だけでなく冗談を言っていた智也も心配してクロエを見てくる。クロエは止まっていた手を無理に動かして口にハンバーグを押し込んだ。

「……………」

 美味しくない、美味しいはずなのに、美味しいと想えない。クロエは飲み込むことができずに、吐きそうになって口元を両手で押さえた。

「ぅぅ……」

「クロエっ?!」

「大丈夫か?!」

 鷹乃と智也が心配してくれる。

「…ぅっ…くっ…」

 クロエは無理に飲み込みながら涙を流した。

「クロエ……どうしたの?」

「だって…………あの子は……今頃…」

 あの子は……一人で………何も食べられないで……たった一人で……あのままじゃ餓えて死んで……、クロエは食卓から離れて冷蔵庫を開けた。

「あの子を助けないと!」

 それだけ言ってクロエは冷蔵庫から手作りのチョコレートを出すと玄関を飛び出した。走って嘉神川家に向かう。

「ハァっハァっハァっ…っ…鍵が…」

 家には着いたけれど、鍵がない。

「ここならっ!」

 クロエは手頃な庭石を取ると、玄関ドアのガラス部分を割った。割ったところから手を入れて鍵を開ける。ガラスで腕を切ったことにも、警報装置が鳴っているのにもかまわず、中へ入ってリビングに辿り着いた。

「ハァハァっ、ノエルっ!」

 呼びかけても妹は答えてくれない。ソファの上で目を閉じている。死んでいるのか、眠っているのか、わからないほど生気のない顔だった。

「ノエルっ、起きて!」

 抱きあげると、驚くほど軽い。

「目を開けて、ノエルっ! ほら、あなたの好きなチョコレートっ」

 ノエルは目を開けない。身体も冷たい。けれど、呼吸はしている。心臓も動いていた。

「ノエル、ほら」

 クロエは小さく割ったチョコレートをノエルの口に含ませた。乾いた唇の奥へ入るとチョコレートが溶けて、甘さが拡がった。

「……チョ………コ……」

「ノエルっ!」

「…………」

 ノエルは目を開けて姉を見上げた。

「…ぉ………ちゃ……」

 かすかに妹は応えてくれた。

「ノエル……よかった。生きていてくれて……」

 クロエは妹を抱きしめて、むせび泣いた。ノエルの冷たい頬に熱い涙が降ってくる。

「……お姉ちゃん……来てくれて……ありがと…う…」

「ノエル……ほら、もっと食べて」

 クロエがチョコレートを差し出すと、ノエルは嬉しそうに泣いた。

 

 

 

 翌日の3月1日、音緒は手料理とセックスを満喫して眠ってしまった正午を見つめ、それから正午のケータイを勝手に触る。

「いつもながらロックもかけてない開けっぴろげの真っ昼間バカ……まあ、それも魅力の一つではあるけど。私をアイドル扱いしないで、普通に接してくれるし」

 音緒は正午のケータイからカナタへメールを送る。

(今から会いたい)

 すぐに返信がきた。

(ショーゴから誘ってくるなんて珍しいね)

(そーゆー気分だから。会える?)

(どこで?)

(マンションの部屋で待ってる)

(すぐ行くね)

「……ふふ…」

 ほくそ笑んだ音緒はカナタを待つ。誘われたカナタは、すぐに一階のエントランスからチャイムを鳴らしてきた。音緒はインターフォンを操作して鍵を開けてやる。

「さてと♪ どんな顔するか、見物ね」

 全裸だった音緒はバスローブを羽織って玄関に向かう。エレベーターの音が聞こえ、ドアがノックされる。

「はいはい」

 音緒がドアを開けると、カナタがいた。

「っ………NEOちゃ…ん?」

 てっきり正午が開けてくれると思っていたカナタは不意打ちされ、激しく動揺する。顔が青ざめ、唇が震えた。対照的に音緒は余裕をもって挨拶する。

「あら、KANATAさん」

「どう…し…て…?」

 カナタが喉につかえた動揺した声で問うと、音緒は微笑して答える。

「その質問は~ァ、どうして、ここに私がいるのか、それとも、どうして、あなたが呼ばれたのか? どっちを聞きたい? それとも両方? 両方にしよっか」

「…NEOちゃ…」

「おりょりょ♪」

 いい顔してるよ、負け犬の顔、そりゃ、そうだよね、勝てないよね今や売れっ子の私と、とっくに一般人になってる自分とじゃ、格が違いすぎて勝負にもならないし、正午くんが、どっちを選ぶかなんてわかりきったことだもん、音緒はバスローブの襟を艶っぽい仕草で整えた。

「答え♪ どうして私が、ここにいるのか。それは正午と特別な関係だから。どうして、あなたが呼ばれたのか、正午がはっきりさせないから、私が呼んだの。正午は言いにくいみたいだから、これで」

 音緒は正午のケータイを見せた。そして、勝手にカナタの電話番号とメールアドレスを消去していく。

「っ…、…ぁ…アタシを…」

「うん、ごめんね。もう正午には会いに来ないで」

 可哀想だけど、ネットで私のことを流したり荒らしたりする気力もなくなるくらい傷ついてもらうね、KANATAちゃん、音緒は気迫を込めてカナタを睨む。

「………」

「……ぅぅ…」

 睨まれたカナタは怯えて後退った。

「もう帰っていいよ」

「……で…でも……ショーゴに…」

「去り際って、あるよね? 今なら正午にとって、いい想い出の女の子に変われるかもしれないよ。でも、これ以上、しつこくすると後味の悪い、うざい女だった、って思われるかな」

「……そんな…」

「あなたは負けたの。それとも、これ以上、みじめな思いしたいの?」

「…アタシの……負け……」

 カナタが負けと告げられて、大きなショックを受けた。額の古傷が痛み始め、カナタは膝から力が抜けて玄関の土間に尻もちをついて座り込んだ。

「アタシの……負け……、また、ショーゴを……盗られ…」

「うん、そう。だから、二度と現れないで。それに、私や正午の邪魔をしたりしたら、……わかるよね? 今の私の力をもってすれば、あなたなんて簡単に破滅させられるの。余計なことを世間に流したりしたら、即、死刑」

「っ………」

 カナタは音緒に睨まれて、いのりの記憶を想起して身震いする。いのりの目を思い出すと身体が震え、失禁してしまう。

 しょわぁぁ…

 いのりの視線を浴びたときほどの勢いはないけれど、カナタはショートパンツの股間に染みをつくり、ゆっくり染みが拡がって小水が衣服から漏れ出てくると、土間に小さな水たまりを産んだ。

「ひぅ…ぅぅ…」

「クスっ…」

 ぷっ、笑えるっ! なに、この子、ビビリすぎて、おもらししてるの? ぶるぶる震えて、そんなに私が怖い? モデルやってた頃は私に先輩風ふかして偉そうなこと言ってたくせに……こうなると、ホントみじめねぇ~、まあ、しょうがないかな、あなたには今の私は絶対に超えられない壁みたいに見えるでしょ、仕事でも負けて、恋でも負けて、負けて負けて、泣いて、おもらしして、終わってるね、あなたの物語は、ここで終わり、このみじめで悲しい結末がKANATAストーリーの終幕なの、私NEOのサクセスストーリーのプロローグにもならない小話、その程度の存在、クスクスっ…、音緒は大声をあげて笑いそうになり、正午を起こしてしまわないよう笑いを噛み殺してカナタを睨み続けながら、自分のケータイを出してカナタを撮影する。

 カシャっ♪

 玄関で小便の水たまりに座り込んで泣いている姿を撮した音緒は不敵に微笑んだ。

「もしも、私と正午のことをネットに流したりしたら、この写真も流してあげる。売れなかった素人モデルの陰湿な嫉妬と、その末路ってね」

 音緒は玄関のドアをあけて泣いているカナタを摘み出す。玄関前で座り込んで泣かれても面倒なのでエレベーターに乗せ、一階に降りて、ゴミ置き場に着くと、突き飛ばして生ゴミの山にカナタを放り込む。

「生ゴミは、ちゃんと水切りしないとね。ホント、いい様ね」

「ぅぅっ…ぅっぅ…」

 ゴミの中で泣いているカナタは何を反論する気力もない。音緒は追い打ちでカナタの頬を平手打ちした。

 パシっ!

「いっそ、自殺とかすればいいよ。あなたの物語は、ここで終わりなの。でも、シカ電に飛び込むのは迷惑だからやめてね。川とか海がいいよ。この時季なら冷たいから、すーっと気持ちよく死ねるかも。失敗した人生なんて、あとの残りは負けを味わうだけの、みじめな時間なんだから、いっそリセットしちゃえば? ね? 可哀想なKANATAちゃん♪ さようなら、バーイ♪」

 音緒は心底楽しそうにマンションへ戻っていく。残されたカナタは泣き震えた。

「ぅぅっ…ぅうぅぅっ…、ほ……ほたるぅ…ぅぅ…」

 泣きながら、ほたるの呼び、立ち上がると空港に向かった。空港でウイーン行きの当日チケットを買って、ビジネスクラス以上しか入れないラウンジで啜り泣いていると、もう常連になっているカナタを心配してくれた添乗員たちが汚れた衣服を取り替えてくれ、出発までの時間にシャワーも浴びさせてくれた。それでも泣きながら飛行機に乗ってフランクフルトを経由してウイーンに辿り着くと、ほたるの部屋に入る。

「ほたるぅ……ぅぅ…」

「カナタちゃん、どうしたの?」

「ううっ…ぅううっ…」

「また、いのりちゃんに…」

「ううっ…うううっ…」

 首を横に振ったカナタはケンカに負けた幼稚園児のように音緒のことを報告した。

「そっか。それは悲しいね。でも、正午くんの口からは何も聞いてないんだよね」

 あのバカ………フタマタは許したけど、サンマタを許したわけじゃないってこと脳に焼き付けなかったから……それに、ネオとかいう子………私のカナタを泣かせて……いのりちゃんのことは私たちに非があったけど、その子に遠慮する理由はないよね、ひさびさに、ほわちゃんパンチ……ううん、ここは隠し奥義の、ほわちゃんビンタで、とっちめてあげないと、正午くんには、ほわちゃんパンチと………、ほたるは帰国の準備を始めた。

 

 

 

 翌々日の3月3日、ほたるは一人で正午のマンションを訪ねる。一階のエントランスからチャイムを鳴らした。すぐに、正午の声が聞こえてくる。

(開けたよ。どうぞ)

「……」

 この明るい声……あいかわらずの真っ昼間バカ……もしかして、カナタちゃんがネオにされたこと、気づいてもいないのかな……っていうか、正午くんの親も親だよ、千羽谷大学なんて、完全に通学圏内なのに、こんな豪華なマンション借りて息子を住ませるなんて……親子そろって何を考えてるのか……脳を調律してもらった方がいいんじゃないかな……、ほたるは実家から一万キロ以上離れた大学に通う身として、実家から高校よりも近い二駅しか離れていない大学へ通う正午が一人暮らししていることに呆れつつ、エレベーターに乗って正午の部屋の前に着いた。ノックすると、すぐに正午がドアを開けてくれた。

「ほたる、久しぶり♪」

「……」

 ほたるは抱きしめられて、ほわちゃんパンチの繰り出すタイミングを延期した。とりあえず、正午と部屋の様子を見る。引っ越したばかりの部屋は整っている。正午はウイーンから戻ってきたことを素直に喜んでいる。

「………」

「ほたる? 難しい顔して、どうかした? 向こうの学校で何かあった?」

「向こうは順調なんだけど……こっちがね」

 さらに部屋の中を観察する。食器棚に正午の趣味ともカナタの趣味とも違うマグカップを見つけた。他にもカナタとは違う色の髪がベッドに落ちているのも見つける。

「………」

 隠す気もないと………ってことは、このバカ、リアルにサンマタを認めてもらえると思って……、ほたるは怒りよりも憐れみを胸に抱いた。どうして、この男の脳は、これほど脳天気なのだろう、神は危機感や洞察力を、せめて自己欺瞞力の一万分の一ほど与えなかったのか、と。

「正午くん、単刀直入に訊くけど、ほたるとカナタちゃん以外の女の子とエッチしてる?」

「え…? ……あ、……うん、……まあ…」

「………」

 あっさり認めたよ……まあ、私も悪いんだけどね、付き合い始めた頃にエリちゃんとのセフレ行為とか認めちゃったし……、ほたるは正午を殴る気力を無くした。

「正午くん、よく覚えておいてね。ほたるとカナタちゃん以外とエッチするなら、ほたるたちと別れてからにして」

「…ほたる……」

「で、どうするの? ほたるとカナタちゃんから別れる?」

「………」

 正午の脳内で天秤が動く。ほたるとカナタの二人と、音緒一人のどちらが重いか、天秤は、すぐに答えを出した。

「別れない」

「そ♪ なら、今日までの浮気は許してあげる。その代わり、はっきりネオって子に、ほたるたちのこと教えるからね。それと、カナタちゃんがされたことの仕返しもするし。あと、他に浮気相手いる?」

「いないいない! エリーズにも会ってないし! 海ちゃんとも何でもないから!」

「………」

 言わなければ追求しないのに、ホントバカだね……、ほたるはタメ息をつく。

「たはーっ……エリちゃんは、おいておいて、ウミって誰?」

「ぃ…行きつけの喫茶店でバイトしてる子で……浜咲学園らしくて………でも、ちょっと喋ったりするくらいで、ぜんぜん何もない! その喫茶店も最近なぜか閉店しっぱなしだから!」

「………」

 閉店してなかったら行きつけにしたまま、そのうちにってことね……ウミ……浜咲学園でウミって……月岡海? ほたるはカマをかけてみる。

「月岡さんとはデートくらいしたの?」

「してないって! ホント話すだけだから!」

「ケータイ番号は?」

「……あるけど……ほたるがイヤなら消すよ」

「あるんだ………」

 ほたるは少し考え込み、カナタのために可能性は全て排除することにした。

「正午くん、月岡さんに会いたいって呼び出して。ここに」

「え…? でも、海ちゃん、この部屋知らないし」

「ふーん♪」

 まだ部屋までは呼んでないと……ホント正直でよろしい、とりあえずネオの前に月岡さんに釘を刺しておかないとね、ほたるはスカートを着たまま、下着を脱いでノーパンになる。そして、スカートの裾をめくって正午に股間を見せた。

「したい?」

「イエス・マイ・プリンセス!」

 すぐに正午が勃起して床に膝をついて、うやうやしく陰部に顔を近づける。ほたるは正午の頭を押さえた。

「まだ、おあずけ♪ 浮気してた罰」

「……もうしません」

「おあずけ♪」

「………犬から狼になりそうっす」

「とりあえず、月岡さんに会いたいって連絡して」

「………何て言って?」

「会いたい、すぐに、で」

「…………海ちゃんに何か言うの?」

「ちょっと話があるの。あ、でも、ほたるがいることは、その電話のときは言わないで。わかった?」

「わかった」

 正午は言われたとおり、ケータイで海に連絡を取る。

「もしもし、海ちゃん? オレオレ♪」

(加賀くん?)

「ちょっといい?」

(うーーんっ……今、ちょっと立て込んでるの。ホントにちょっとならいいけど?)

「海ちゃんに会いたいんだ」

(……それって、……どういう意味…?)

「えっと………それは、その…」

 正午は、ほたるに助言を求めるけれど、股間を見せてくれるだけで助言がくれない。ほたるは片手でスカートをあげたまま、可愛らしく片目をつぶって人差し指を唇に当てている。正午は脳を絞った。

「と、とにかく会いたいんだ! 今すぐ! 頼む!」

(今すぐって…………)

 電話の向こうで海が困っている。

「頼むよ、海ちゃん!」

(……今日は大事な……、………じゃあ、少しだけ……会ってもいいけど、千羽谷大学のサークル棟まで来てくれる?)

「あれ? 海ちゃんも千羽谷大学に行くの? ってか、すでに何か活動やってるの?」

(うん、まあ……大学には行かないけど、ちょっとバンドにだけ参加してるの。加賀くんは入学するんだよね。サークル棟、わかる?)

「たぶんね。………」

 答えつつ、ほたるに視線を送る。ほたるは頷いた。

「じゃ、すぐにサークル棟に行くから」

(少しだけだよ、会えるの)

「わかった」

 正午は電話を切った。

「海ちゃんに会って、どうしようっての?」

「同じ大学に行くんだね? 月岡さんと」

「違うって言ってたじゃん。バンドだけだって」

「ふーん……、ま、とりあえず、会っておきたいの」

 ほたるは脱いだ下着を正午のポケットに入れて、正午と腕をからめる。

「さ、案内して」

「………いいけど、海ちゃんとは、ホントに何でもないから……」

「案内して」

「わかったよ」

 二人で部屋を出てエレベーターに乗ると、ほたるはブラジャーも上着を着たまま脱いで、正午に渡した。

「キスして」

「了解♪」

 何も考えずに正午は愛らしい唇に吸いついた。さらにノーブラになった胸を触り、股間へも手を伸ばす。けれど、すぐにエレベーターが一階に着いて扉が開いた。二人で道路に出る。

「大学まで、どのくらいなの?」

「歩くと10分かな」

「じゃあ、10分、ほたるに指を入れたまま、歩いて♪」

「前? 後ろ?」

「両方♪」

 ほたるは両手でスカートを全開にあげる。通行人や学生たちがギョッとしているけれど、ほたるも正午も気にしない。すでに、ほたるはウイーンでの生活が中心になっているので、日本でのことは旅の恥はかき捨て的に思えるし、正午は何も考えていない。ほたるは四月から四年間も正午が通う大学の通学路をスカートをあげたまま、正午に膣と肛門に指を挿入させたまま、ゆっくりと歩く。警察官やパトカーが通りがかったらスカートをおろそうと思っていたけれど、運良く警邏とは遭遇せず、正午の部屋から大学まで痴態を晒したまま歩き通した。

「ハァ…ハァ…」

「ほたる、すげぇ濡れてる♪」

「正午くんとは久しぶりだもんね。ハァ…」

 ほたるの股間から溢れた愛液は内腿をつたい、足首まで濡らしている。カナタはウイーンと日本を行き来するけれど、ほたると正午の二人が会う機会は少ない。ほたるは本来的には異性愛者なので、カナタとの行為よりも正午の男根が恋しいことがあるけれど、それは絶対に言わないでいる。さらに大学構内までスカートをあげて正午に愛撫させたまま入り、サークル棟に着いた。大学は春休みだったけれど、サークル活動をしている正午の先輩たちは、ほたると正午の顔をしばらく忘れないはずで、正午は入学しても大学内で恋人ができる可能性は、ほぼ排除された。

「さてと♪」

 ほたるはスカートを整えて、海が待っているという軽音楽系の部室に正午と入る。中では海と市井清孝、佐々俊一、羽根秀巳の四人がバンドの練習をしていた。ほたると正午が入室すると、演奏が止まり静かになる。

「加賀くん……? 一人じゃなかったの……?」

「えっと……」

 何も考えていなかった正午は海の問いに答えを用意できない。ほたるの顔を見る。

「で、どうすればいいんだよ? ほたる」

「うん、一応、断っておこうと思って。二度も盗まれるのは、御免だから」

 ほたるは海を睨んだ。

「あのね、月岡さん。ほたると正午くん、付き合ってるから変な気は起こさないでね」

「っ…、……白河さん…」

 海が反応に困りつつも、いわれのない疑いに抗議する。

「何を勘違いしてるのか、知らないけど。私と加賀くんは何でもないから」

「何でもない相手にケータイ番号教えたり、急に会いたいって言われてOKしないよ。よっぽど軽い女の子じゃない限り。それに、月岡さんには前科あるでしょ? 私から金賞を盗んだ」

「っ! ………違うっ……あれはっ…」

 海は顔を蒼白にして声をつまらせた。何年も前、まだ海がピアノに取り組んでいた頃に、審査員のミスから、ほたるが選ばれるはずだったコンクールの金賞が過って海に授与されたことがあった。それもキッカケになって海はピアノを辞めている。この地区でピアノに取り組む限り、ほたるが出場する大会で金賞を獲れた者は他にいない。ほたるとしても連戦連勝、常勝不敗の記録に傷がついた想い出であり、二人は同じ浜咲学園に通いながらも入学以来言葉を交わしたことは一度もなかった。けれど、お互い相手の顔と氏名は覚えているという間柄だった。ほたるは冷たい表情を作った。

「わかった? もう盗まないでね。ニセ金賞の月岡さん」

「っ………」

 海が鞭打たれたように身震いすると、清孝が海の背中を支え、俊一が海の肩に手を置いて、ほたるを睨む。

「何なんだよ、てめぇは?」

「ただの嫉妬しやすい女の子だから、どうぞ気にしないでください。……ふーん、月岡さん、キーボード担当なんだ。あの後、ピアノは辞めたみたいだけど?」

 ほたるは海の古傷をえぐりながら、キーボードに触る。あまりに勝手な態度に俊一が怒鳴ろうとしたけれど、清孝が先に声を上げた。

「加賀…正午、って、あの加賀正午か? 的射北中のエースだった。リバウンドの貴公子、速攻の加賀」

「あ~……まあ、そーゆーアダ名で呼ばれたこともあったけど。トトは加賀百万点とか言ってくれてたけどさ。ちなみに的射北中は途中で藍ヶ丘第二中学に吸収合併されてるし、オレは高校でバスケを辞めたから。で、誰っすか?」

「ボクは市井清孝、これでもバスケットボールで、それなりの成績は残したつもりなんだけど……知らない?」

「すいません……」

「そっか。そうだろうね。全国優勝した加賀君とはレベルが違うから……」

 清孝は淋しそうに昔のことを思いやった。ほたるは話が別の方向に逸れかけているので目的を果たすため、キーボードの設定を変更してクラッシックモードにすると、海を押しのけて鍵盤を弾いた。さっきまでの電子的な音ではなく、古典的なピアノの音が響く。

「ほたるから、また盗むつもりなら呪うよ?」

 ほたるは呪いをこめてキーボードを弾く。愛や夢、恋をこめても魔法のように人の心を揺さぶる演奏は、呪いをこめても強力だった。国内で金賞、さらにウイーンで修行しているピアノの音色に呪いがこめられると、聴いている者全員に死にたくなるような気持ちを与え、とくに海は両手にいっぱいの絶望感を受けた。

「「「「「……………………」」」」」

 海も清孝も俊一も秀巳も、そして正午も暗い気持ちになって黙り込む。ほたるが演奏を終えても拍手は起こらず、後味の悪い静けさだけが残る。その静寂を破ったのは廊下から扉をノックする音だった。

「失礼。ここで、よかったのかな?」

 音楽ディレクターの綾部健太が入室してくる。

「ユアさんかな?」

「ぇ…ええ! はい、すいません。ユアです」

 清孝が反応して健太に答えた。健太は名刺を清孝に渡すと、手近なパイプイスに座った。

「じゃ、さっそく一曲やってもらえるかな?」

「…ええ。……海ちゃん、やれる?」

「海、大丈夫か?」

 清孝と俊一に心配されて虚脱状態だった海は青ざめた表情で頷いた。

「……うん……」

「?」

 ほたるは状況がわからないので、とりあえずキーボードから離れる。秀巳がドラムを軽く叩いて全員のテンションをあげようとしたけれど、あまり効果はなかった。俊一がギターをかき鳴らし、清孝がベースでリズムを作ると、海も気持ちを奮い立たせて歌いながらキーボードを弾く。その様子で、ほたるは健太が音楽関係の仕事をしている人間で今日がバンドのデビューをかけた試聴の日であることに気づいた。

「ふーん……月岡さん、キーボードだけじゃなくて、歌もやるんだ……」

「可愛いな、海ちゃん」

「……」

 ほたるは正午の足を踏んでおく。

「うぐっ……。けど、なんか元気ないな。どうかしたのかな?」

「………………」

 さきほどまでのやり取りを見ていたのに理由がわからない正午に何か言う気力が無くなって、ほたるは足をのけた。一曲の演奏が終わり、健太が乾いた拍手を送る。

「うん、まあ、やりたいことは伝わってくる、ていうか。まあ、また、連絡するよ」

 明らかに不合格という態度で健太は立ち上がって退室していく。清孝や俊一たちは落胆を隠して海を心配しつつ、ほたるを俊一が睨んだ。

「シラカワとか言ったなっ?」

「……。まあねン♪」

 ほたるは自分が憎まれ役を演じている自覚があるので、あえて憎らしく応える。けれど、予想外に退室しかけていた健太が振り返った。

「シラカワ……ほたるさん、ですか?」

「え? はい、そうですけど?」

「やぁ、やはり、白河さんでしたか。すると、さきほどのピアノの音色も?」

「はい、まあ」

「もう一度、聴かせてもらえませんか。あなたの演奏、夏のコンクールは素晴らしかったと審査員をしていた友人から聞いていて。私自身は他の仕事があって聴きに行けず、とても残念だったのです。あの後、やはりウイーンへ?」

「はい。今は春休みで」

 ほたるは少し迷ったけれど、健太の要望に応えて演奏することにした。

「キーボードのタッチは軽いから、うまく弾けないかもしれませんけど……あ、あと、イスを…」

 立ったまま演奏することに慣れていないので、ほたるはイスを借りてキーボードに向かう。深呼吸して気持ちを入れ替え、とりあえず愛をこめて弾く。ほたるとしては満足のいく演奏ではなかったけれど、健太は熱い拍手を送ってくれた。

「素晴らしぃ! ブラボーっ!」

「どうも」

 ほたるはスカートの裾をつまんで西洋式の礼をする。裾の長いドレスではなく、ノーパンだったことも忘れていたので、一瞬だけ濡れた陰部まで見せてしまったけれど、まさかノーパンだとは考えもしない健太や清孝たちは目の錯覚だと思うことにする。ほたるは当初の目的である正午との関係をアピールすることを思い出して、演奏を終えたピアニストとして正午に近づき、キスをした。

「彼は白河さんの恋人ですか?」

「秘密ですよ♪」

「はははっ、お若いですね。羨ましい」

「それじゃ、私たちは失礼します。月岡さん、バンドデビューしたら応援するね」

 ほたるが正午の手を引いて立ち去ろうとすると、健太が引き止める。

「待ってください。白河さんの演奏、ぜひ、CDにさせていただきたい!」

「ほたるのピアノをCDに? ………でも……」

 ほたるは急な申し出に難色を示した。

「でも……まだ、自分では完成してるとは思えないから、それをCDという形にしてしまうのは……ウイーンにいけば、私より上手いピアニストも……」

「だが、日本の女子高生で、それもコンクールで敵無しの看板があれば、……その、まあ、正直なところ、売れる、というのが我々の重要な観点なので……18歳の少女が奏でる心の光、みたいなコンセプトで売り出せば、かなりの売上になりますから」

「そーゆー不純な動機は……ほたるとしては……。それに、もう女子高生じゃないですし」

「日本の学校制度なら卒業式はまだでしょう。女子高生と銘打って売り出しても、それほど問題にはならない上に、18歳は18歳です。たとえ、白河さんより完成したピアニストがいるとしても、その方が30歳なら、30歳なのですよ。18歳で、これだけの演奏ができるということが、大切なのです」

「う~~ん………」

「ぜひ、お願いします」

「でも~……」

「ぜひっ! ………。彼氏さんがいることは世間には秘密にしておきますから♪ ねっ!」

「大人的ですねぇ……別に、ほたるはアイドルじゃないから、公表されても困らないしぃ。むしろ、公表された方が…」

 ネオ対策には……あ、でも、あの子、けっこうな芸能人になってるって話だから、そーゆー子と対決するのに、CDの話があるのは、悪くないかも、ほたるのCDが売れて彼氏がいるってことになれば、あの子はアイドル的な立場から公表されたくないから表立って争えないし……、よしっ! ほたるは決めた。

「わかりました。でも、日本にいられるのは短期間なので、すぐに録音でもいいですか? 曲も今までにマスターしてる分だけで、新しいのは無しって条件で」

「はいっ、けっこうです! 明日にでも録りましょう!」

 健太は名刺を渡し、ほたるの気が変わらないうちにケータイ番号も交換する。

「では、明日の10時に、ご自宅へ迎えにいきますね」

「久しぶりに帰国してるから、家には帰らないんです♪ 正午くんのとこに泊まるから♪」

「は、はははははっ。では、彼氏さんのところへ」

「できたら、10時じゃなくて、12時でいいですか? 久しぶりだもん、夜更かししちゃうと思うから♪」

「いやぁ、のろけられましたか。ははははっ。では、12時に。あまり、お疲れにならない程度にしてくださいよ。白河さんも彼氏さんも♪」

 健太は中年らしい笑顔で「この後も仕事があるので」と言って退室していった。ほたるも立ち去ろうとして、海からの視線に気づいた。海は青ざめた顔をして震え、今にも泣き出しそうな目で、ほたるを見ている。喉の奥から湧いてくる嗚咽を必死に飲み込んでいた。

「…っ……っ……っ……」

「…………」

 そっか……ホントは、月岡さんたちのデビューの話に来たのに………ほたるのせいで演奏ボロボロになって………逆に、ほたるのCDのことなんか決まっちゃって………昔の金賞のことだって、別に月岡さんが悪いわけじゃなくって審査員のミスだったから……月岡さん、ぶるぶる震えて……まるで、ほたるのことが怖いみたい……すごく、みじめで可哀相……月岡さんには今の私は絶対に超えられない壁みたいに見えるのかも………ピアノでも負けて、せっかく始めたバンドでも私に横取りされて…………………ごめん、ごめんね、……でも、カナタちゃんのためだから遠慮はできないの……ごめんなさい……、ほたるは心の中だけで謝り、冷たい笑顔をつくってクスクスと嗤った。負け犬を嗤う憎らしい勝ち組の少女として冷笑すると、海は耐えられなくなって涙を零した。これだけ大きな傷をつけておけば、ほたるを憎んで大学内で正午とのことがウワサになるはずという計算で憎悪をあおり、ほたるは敗者に背を向けた。

「さ、行こ♪ 正午くん」

「あ、うん。でも……海ちゃん、なんか泣いてるし…」

「………。あのね………。誰にでも優しいのは正午くんの小さな長所だけど、最大の短所だよ」

「え? それって、どういう意味?」

「……あとで、ゆっくり教えてあげるけど、簡単に言うと、これから、ほたるとエッチしに帰ることと、月岡さんに優しくすること、どっちを正午くんが選ぶか、って問題と。月岡さんが、正午くんに優しくされたいか、それとも、ここに三人もいる男の子の、誰かに優しくされたいか、って問題。でもって、三人もいて誰も月岡さんに優しくする気がないのか、って問題がからむの。わかる?」

「……一問目だけなら」

「そうだね、正午くんの中に答えがあるのは、一問目だけだね。でも、ほら」

 ほたるが示すと、すでに海の左右に清孝と俊一がいて、ほたるたちを睨んでいる。さすがの正午も答えを悟った。

「帰ろうか」

「それが正解」

 ほたるたちが立ち去った後、海は悲鳴のような大声をあげて号泣した。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。